4 かすかな不安
バイト先のファミレスへ行って、近々辞めることの承諾を貰ってから、私たちはそのまま警察署へと向かった。
大学へも続いている大通り。
通い慣れた道のはずなのに、どこかが、何かが違う。
故郷から出て、すでに二年以上を過ごした場所なのに、海君と手を繋いで歩く街は、まるで知らない街のようだった。
いつもは車の窓から見るともなくぼんやりと見ていた景色が、鮮やかな色彩を伴って、ゆっくりと私の目に飛びここんでくる。
「ふーん。こんなところにこんなお店があったんだ……」
「あっ、知らない道を発見! こっちのほうが近道じゃない?」
目に映る全てが新鮮で、珍しくて、新しい街に引っ越して来たような気さえする。
のんびりとあたりに視線を配りながら、
「ああ、楽しい」
なんて思わず口に出して言ってしまったから、海君に笑われた。
「真実さん。今からどこに行くのか、本当にわかってる?」
おかしくてたまらないというようなその顔に、
(……はっ! そうだった! 今、私たち警察署に向かってるんだった!)
ようやく本来の目的を思い出して、バツが悪くなった。
私は首を縮める。
「別に自分が悪いことをしたわけじゃないのにね……どうして『警察』って聞いただけで、こんなにドキドキするんだろうね?」
苦笑交じりで呟いた言葉に、
「え? 真実さんは悪いことしてるじゃない。いつも未成年者を連れまわしてるでしょ?」
海君はキョトンと目を見開いて私の顔を見た。
「ええっ? これって……犯罪なの!?」
ビックリして、思わず繋いだ手を海君の手ごと目の高さまで持ち上げる。
そんな私を見て、海君はたまらずふき出した。
「ハハッ。そんなわけないじゃん。いくらなんでも、犯罪になるほどには若くないよ、俺。……それに今の見た目から言ったら、真実さんのほうがずっと若くて、かえって俺のほうが犯罪者みたいじゃない……?」
肩を揺すって大笑いしながらも、海君は余裕たっぷりにそんなことを言う。
私はムスッとむくれた。
繋いだ手をふり解いて、彼はもうこの場所に置いていくことにする。
「待って、真実さん。俺も行くから」
笑いながら声だけかけたって、待ってなんかやらない。
(もう! いっつもいっつも、海君は私をからかってばかり……!)
簡単にひっかかってしまう自分が悪いのだが、悔しいものだから、前を見てズンズンと歩き続ける。
頑なに彼に向け続ける無言の背中が、私の静かな抗議だった。
でも、それがなんの意味もないことを、私はよくわかっている。
「俺は追いかけない」と海君が宣言している以上、私がいくら怒って先に行ってしまっても、それは海君にとってはなんの牽制にもならない。
それどころか、ひょっとしたら私たちの別れの原因にも成りかねない。
そんな危険を冒してまで、私が一人で先に行くことに意味はない。
それは私だってわかっている。
わかってはいるけれど――
(じゃあこの悔しさはどうすればいいわけ?)
誰にともなく、心の中で尋ねずにはいられない。
残念なことに、私は心優しい天使なんかじゃない。
それどころか、ボーッとしているわりにはすぐにカッとなりがちだから、そんな自分をなんとか落ち着かせるのに、しょっちゅう苦労している。
努力している。
けれどやっぱりまだまだだ。
上手く感情のコントロールができる大人になる日は、本当に来るんだろうか。
(でも……だけど……)
そんな自分の短所と戦ってでも、大切にしたい想いを、私は今胸に抱えている。
どんなものとでも秤にかけることはできない――それほど大切な、かけがえのない想い。
だからやっぱり立ち止まる。
彼のことをふり返る。
そうすればきっと、またいつものように一緒に歩くことができるはずだ。
(本当はわかってる……待っていればゆっくりと追いついてきてくれることも。私の短気を責めもしないで、当たり前のようにまた手を繋いでくれることも。だから私はそんな海君の優しさに甘えて、こんなふうにわがままな行動だってできるんだ……)
ふり返って見てみた海君は、本当にいつものようにさっきの場所に立ち尽くしていた。
微動だにせず立っていた。
だけど――。
「海君?」
思わず大きな声で呼びかけずにはいられないくらい、彼の様子はおかしかった。
まるでいつもどおりではなかった。
ギュッと眉根を寄せて目を閉じ、空を仰ぐように上を向いている。
もともと色白な顔はますます色を失って、透きとおりそうなほどに蒼白だった。
私は我を忘れて、今歩いたぶんの距離を急いで駆け戻った。
「どうしたの、海君? 大丈夫?」
すっかり慌てきった私の声に、「大丈夫」と答えるように、彼はかろうじて右手をほんの少しだけ持ち上げる。
「ねえ、どうかしたの?」
胸が詰まるような思いで問いかけながら、私は海君の様子を何度も何度も確かめた。
目を開けることも、口を聞くこともできないようで、ただ大きく肩で息をくり返している。
こめかみを伝って大粒の汗が、次から次へと流れ落ちてくる。
あまりにも血色の悪い唇。
急にどうしたのか。
彼にいったい何が起きたのか。
まるでわからない。
「海君! ねえ、大丈夫?」
叫ぶように名前を呼びながら、私が彼の両腕を掴んだ瞬間、彼がその腕を返すようにして、私を抱きしめた。
背中までしっかりと包みこむようにまわされたその腕が、いつもと同じように力強い。
彼の胸の中に抱えこまれて、
「……海君?」
困惑したように顔を上げた私を、海君は眩暈がするほど近くから真っ直ぐに見下ろした。
いたずらっぽく輝く、私の大好きな綺麗な瞳。
その瞳がみるみる微笑みを帯びていく。
「なっなに? ……まさか……! 騙したわねっ!」
こぶしをふり上げようとした私は、身動きさえできなかった。
海君はクククッと喉の奥で笑いながら、右手で私の頭を自分の胸に押しつける。
「ひどいっ! もうっ!」
力一杯その胸を押し返そうとするのに、びくとも動かない。
海君は全然私を放してくれない。
「ゴメンね、真実さん……でも言ったでしょ? 俺を置いていったらダメだよ……」
私の髪に頬をつけるようにして呟かれる海君の声は、彼の体を通して伝わってきて、いつもよりずっと近くに聞こえた。
だからその言葉の意味も、いつもよりもっともっと大きな意味を持って、私の心に響く。
(そうだね……どちらかが手を放したら、そこでもう私たちの関係は終わりになるんだもんね……一緒にいたいって想いの他は、二人を結びつけるものは何もないんだもんね……)
私の耳に直接、かなり速い速度で海君の鼓動が聞こえてくる。
そのドキドキの原因が、私の今のこの胸の痛みと、同じならいいなと思った。
二人で手を繋いで同じ道を、まだまだ歩き続けたいという思いからならいいと思った。
「うん……私こそ……ごめんなさい……」
素直に謝ると、海君は安心したかのように大きく息を吐く。
長い長い呼吸を、ゆっくりと何度もくり返す。
けれどなかなか落ち着かない彼の心音。
私はさっきの鬼気迫るような海君の表情を思い出して、小さく笑った。
「それにしても……凄い演技力だったよ海君。私すっかり騙されるところだった……」
「そうでしょ?」
海君はすました声で返事する。
私は少し緩んだ彼の腕の中から抜け出して、ゆっくりと顔を見上げ、「そうだよ、本当にビックリした」と笑おうとした。
彼の上手な仮病を一緒に笑いあおうとした。
それなのに――。
私を見下ろしている海君を何気なく見上げたら、言葉が止まってしまった。
(海君?)
喉が貼りついてしまったかのように、上手く言葉が出てこない。
海君は私を見下ろして、せいいっぱいいつものように笑っているけれど、その顔色も表情も、さっきと変わらずとても調子が悪いように見えた。
(演技……だったんだよね?)
不安にかられる私に、その無理のある笑顔が、パチリと片目をつむってみせる。
「真実さんは騙されやすいから、気をつけないとダメだね」
余裕の声音で言われた言葉は、茶目っ気たっぷりで、実にいつもの彼らしかった。
その瞬間、条件反射のように思わずムッと口を尖らしてしまう私の中では、胸に湧いた疑問など二の次になってしまう。
「それを海君が言う?」
「ハハハッ。それはそうだね……!」
肩を揺すって大声で笑いだした海君は、いつの間にかもう普段どおりの彼だった。
私の右手を大きな左手で掴むと、さっきまで歩いていた方向へ向かって、さっさと歩き出す。
「せっかく一緒にいるんだからさ。こうしてるほうがいいでしょ?」
私の大好きな屈託のない笑顔でそんなふうに尋ねられたら、私にはもう、頷くしかない。
なんて単純なんだろう。
なんて簡単なんだろう。
(海君もきっと、そう思ってるんだろうな……)
ため息まじりに考えながら、彼に手を引かれて、私は警察署までの道を歩いた。
本当にさっきまでの不安や疑問をすっかり忘れてしまっていた。
何が本当で、何が嘘か。
何が優しさで、何が偽りか。
気づくこともなく、考えることもないような人間だったら、いつだって悩まず、傷つかず生きていけるのに。
でもそれが、引き替えに誰かを傷つけることになるのなら、
大切なものを失うことになるのなら、
私は絶対にそんな生き方は望まない。
全てを知りたい。本物を見抜く目を手に入れたい。
――ただそれだけを願う。
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