3 何も語らないのは

 狭いベッドの上で、肩を寄せあうようにして座って、

「海君、いつから外に居たの?」

「真実さんと別れてからそのままずっと」

 なんて話をしたのを覚えている。

 

 あまりにも近すぎる海君との距離。

 思いがけない返事にも、真っ直ぐに私を見つめてくる瞳にも、いろんな感情が入り混じっているように感じるから、どうしようもなく鼓動が速くなる。

 

「それってストーカーみたいだよ……?」

 緊張するばかりの自分をごまかそうと、わざとふざけて言ってみたのに、大真面目な顔で、

「ある意味、俺はそうだよ」

 と返された。

 

 かえって胸のドキドキが大きくなって、息が止まってしまいそうだった。

(これからいったいどうしたらいいの? どうするって……ど……どうしよう?)

 動揺が激しくなるにつれ、心臓のほうも、もう今にもパンクしそうになっていく。

 その時の私は、確かにそんな状態だったのに――。

 

 サイレンを鳴らしながらやってきたパトカーに、幸哉がそのまま連行されてしまったのかどうかさえ、実は私は覚えていない。

 海君に寄りかかるように座って、息をひそめながら、幸哉が叩き続けるドアの音を聞いているうちに、どうやら眠ってしまったらしかった。

 


 翌朝目が覚めた時には、しっかりとベッドに横になって寝ていて、部屋には海君の姿も、外には幸哉の姿もなかった。

 

(す、すごいよ……私……)

 自分でもかなりびっくりしたし、呆れた。

 

 とにかくいつものように朝食を食べて、バイトにでかける準備をして、家を出る。

(海君……ひょっとしたら今日は来てくれないんじゃないかな……?)

 

 予想に反して、彼はいつもの時間にいつもの場所で待っていてくれた。

  けれど嬉しい気持ちいっぱいで駆け寄った私の姿を見て、少し眠そうな目をパチパチと瞬かせながら、

「真実さん、すごすぎるよ……」

 いつになく大きなため息と共に迎えてくれた。

 

 海君の話によると、私は警察が着くと同時に軽やかな寝息を立て始め、そのあと彼がいくら呼んでも揺さぶっても、ピクリとも起きなかったらしい。

 おかげで駆けつけてくれた警察の人には事情の説明ができず、私はあとで改めて、警察署に行かなければならなくなった。

 

「俺も少し質問されたけど、詳しいことはわかんないし……正直困った……」

 少々うつむき加減のまま、ポツリポツリと昨夜の状況を語ってくれた海君に、私は慌てて頭を下げた。

「ごめんなさい! 前の晩あんまりよく眠れなかったから……だから……海君が来てくれて……それで安心しちゃった……のかな? ……ほんとごめんなさい!」

 言ってて自分でも恥ずかしくなる。

 

「うん。いいよ」

 表情がよく見えないままの海君の耳も、ほんのりと赤くなっている。

 でも上目遣いにしばらくの間見ていても、珍しく目をあわせてくれない。

「…………?」

 不思議に思って尋ねようかとした時、ふいに海君が口を開いた。

 

「いいけど……俺……しばらくは立ち直れそうにない……」

「え?」

 見るからにガックリと肩を落としてみせてから、海君は顔を上げた。

 真っ直ぐな瞳が、少し怒ったように、拗ねたように、私に問いかける。

 

「だって……真実さんが本当に俺を好きだったら、まさかあの状況では眠れないでしょ? 俺なんて、心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張してたのに……」

 私は慌てて、手も顔も必死に横に振った。

 

「私だって! 私だって同じだったよ!」

 けれど海君にはまったく信じてもらえない。

 

「いいや。俺が思う『好き』と、真実さんの『好き』は、同じじゃないんだよ……あーくそっ。俺ってほんと馬鹿みたいだ……!」

 いくら私が「違う」と言っても、海君にはまるで通じなかった。

 

「私だってドキドキしてたよ!」

「…………」

「ほんとだってば!」

「…………」

 

 あまりにも話を聞いてもらえないその状況に、自分が悪いにも関わらず、思わず腹が立った。

「もういいっ!」

 感情のままに怒って歩き出し、二、三歩進んだところで、自然と足が止まる。

 朝の清々しい空気の中でこだまするように、以前海君が言っていた言葉が、ふいに耳の奥に蘇った。

 

『俺は追いかけないよ』

 

 途端に不安になって、私は慌ててふり返った。

 ほんのついさっきまで私の心のほとんどを支配していたはずの怒りなんて、完全にどこかに消え去っていた。

 ただ心配で心配でたまらなかった。

 

 思ったとおり――海君はやっぱり私を追いかけず、まださっきの場所に佇んでいる。

 どうやら本当に、追いかけるつもりはないらしい。

 けれど目があった瞬間に、彼が一瞬見せた表情は、深い安堵の表情だったように感じた。

 私が立ち止まってふり返ることを、彼も望んでくれていたように感じた。

 

(じゃあいったいどうして……追いかけないの?)

 尋ねてみればすぐに答えがもらえるかもしれない単純な疑問なのに、私はなぜかそれを海君に訊くことができない。

 

 勘。

 嫌な予感。

 私の本能にも近いものが、意識のずっと奥のほうから、ストップをかけてくる。

 

(いい。何も知らなくてもいい……そばにいてくれれば、それでいい……)

 自分にとって今何が一番大切なのか。自分自身がよくわかっていた。

 

「警察に行くんでしょ? 俺も一緒に行くよ。心配だから」

 固まってしまった私にゆっくりと近づいてきて、海君はまるで何もなかったかのように、私の右手を取る。

 

 まるで当たり前のように、自分の手が彼の手の中に収まって、私はホッと息をついた。

(うん。やっぱり無理だ……変な意地を張って海君を失うなんて……私にはできない……)

 降参して、素直に口を開いた。

「うん。ありがとう。でも、警察に行く前に、寄りたい所があるの……」

 

 私の言葉に、海君はさらりと柔らかな髪を揺らして、首を捻る。

「何?」と問いかけるような視線に、私は昨日決意したことを伝えた。

 

「バイト先に行って、話をしなくちゃ……大学に通うから、もう辞めますって……」

 海君の顔がパアッと明るく輝く。

 

「じゃあ真実さん……本当に大学に戻るんだ?」

「うん」

 誇らしくって、私は胸を張った。

 何もかもを諦めかけていた自分が、今、新しい一歩を踏み出そうとしている。

 それが、たまらなく嬉しかった。

 

 でも、もとはといえば――全ては海君のおかげなのだ。

 彼とであったから、私は、(まだやり直せるかも?)と思った。

 彼の隣に並んでいたいから、(変わりたい!)と思った。

(いくら感謝しても、しきれない……!)

 

 見上げてみた海君の顔は、心から嬉しそうな笑顔で私を見下ろしていて、また少し、いつもより大人びて見えた。

 

(いたずら好きの少年。かと思うと、時々とっても大人。嘘のない人。でも秘密はいっぱい。私をいつも助けてくれる。私の大好きな人。)

 上目遣いにその笑顔を見上げながら、私はその時初めて、

(海君って本当はどんな人なんだろう?)

 と思った。

 

 私が実際に見て、聞いて、触れている海君のことはよく知っている。

 でもその他のことは、何一つわからない。

 

「海君って、本当はいくつなの?」

 思わず口をついて出てしまった言葉に、並んで歩いていた彼が歩みを止めて、私のほうに向き直った。

 

(しまった!)

 なぜだかそんなことも聞いてはいけなかったような気がして、心の中で息をのんだ。

 

 海君はゆっくりと私に腕を伸ばす。

「なんでそんなことが知りたいのかな、この人は?」

 私と繋いだ左手じゃなく右手で、私の鼻を軽くつまんだその顔は、別に怒った様子ではなかった。

 ホッとすると同時に、ちょっと強気になる。

「別に。ただ思っただけ」

 

(ほら、やっぱりちゃんと答えてはくれない……)

 それは最初からわかっていた。

 海君は私に何も教えてくれない。

 名前も、年も、普段は何をしているのかも。

 どこに住んでいるのかさえも。

 

(別に、そんなこと、知らなくてもいい。こうして隣にいてくれるだけでいい……)

 自分に言い聞かせるようにそう思ってはみても、いつもどこかに、釈然としない気分が残っているのも嘘ではない。

 

「それじゃあ、真実さんは? 何歳なの?」

 考えこんでいた私に、海君がふいに問いかけた。

 面白そうに笑って、私の反応を見ているその目が、

(女の人は自分の年なんて答えないでしょ?)

 と言っているような気がして、私はついつい、「負けるものか!」と思ってしまった。

 

「私は二十歳。九月になったら、誕生日が来て二十一歳!」

 ごまかしも隠しもせず、ハッキリと答えてやった。

(どんなもんだ。参ったか)

 妙に勝ち誇った気持ちで見上げた海君の顔は、思っていた以上に動揺していた。

 私から視線を逸らして、右手で前髪をかき上げ、そのままギュッと目を閉じる。

 

「え、何? どうしたの?」

 自分から言っておいて、私はとても不安になった。

「もしかして、ものすごい年の差だった……?」

 ドキドキしながら顔色を探る私に、海君はやっと目を開いて、視線を向けてくれる。

 

「いや、そうでもないよ」

 私の顔を改めて、正面から見つめ直す。

 

「でも、二十歳かあ……」

 その声に少し非難の色を感じて、私はまたムッとした。

 

「悪い?」

 まるで挑むかのように強い口調で言い返すと、海君は小さく笑う。

 急にいつものように曇りのない笑顔になって、

「いや悪くないよ」

 と、とても魅力的に笑ってくれた。

 

 けれど次の瞬間には、その笑顔が見事なまでにひっこんで、キリッと真剣この上ない顔に変貌する。

「でも、絶対俺の家には連れていかない、と今決めた!」

 

「え?」

 語気荒く告げられた言葉の意味がよくわからなくて、思わず間抜けな声が出てしまう。

 

「どうして?」

 改めて聞き直した私に向かって、海君は珍しくちょっと困った顔をする。

 理由は言いたくないような。

 私にも聞いて欲しくないような。

 そんな顔。

 

 いつもの余裕たっぷりの笑顔とはまるで違っていて、その顔はなんだかかなり彼の年相応に見えた。

「どうして?」

 いつまでも答えてくれないから、もう一押し尋ねてみる。

 

 海君は渋々と口を尖らせながら口を開いた。

「兄貴と同じ年なんだよ……だから、ぜえったいに! 会わせない!」

 ますます強い口調で宣言されて、思わず口がポカンと開いた。

「それは……いったいどういう意味に取ったらいいのかな……?」

 

 よけいにわけがわからなくなって、首を捻るばかりの私に、海君はとうとう諦めたみたいに大きく息を吐いた。

「真実さんに、兄貴のほうがいいなんて言われたら、俺、今以上に、もう絶対に立ち直れないよ! ……だから絶対に、絶対に兄貴にだけは会わせない!」

 

 ため息まじりなわりには、妙にハッキリとしたその決意表明に、私は唖然とするしかなかった。

「な……なに言ってるの海君……?……」

 

 また私をからかおうとしているのかと、しばらく見つめてみても、海君の表情はいつまでも真剣そのものだ。

「海君……?」

 その表情の中に、少しふてくされたような色があって、それがたまらなく可愛かった。

 年下のくせにいつも余裕たっぷりの海君が、「絶対! 絶対」と何度もくり返すのが、なんだかおかしかった。

 私の少し尖がっていた気持ちなんて、いつの間にかスーッとどこかへ消えてしまう。

 

「そんなことあるわけないじゃない! 大丈夫だよ……!」

 嬉しくてつい笑わずにいられない私に、グッと顔を近づけて、海君は真剣な瞳で問う。

「兄貴、俺とソックリだよ。きっと、何年後かの俺の姿そのものだよ……?」

 急に目の前に現れた海君の顔にドキドキして、私は息が止まりそうだった。

 

 決して彼が言うように、「そうか。海君にそっくりなのか……」なんて、彼のお兄さんに興味を持ったわけではない。

 それなのに海君は、真っ赤になって絶句してしまった私の顔を見て、

「ほらね」

 とため息を吐くのだ。

 

「ち、違う!『ほらね』じゃないわよ! 全然そんなんじゃないもの!」

 慌てて抗議の声を上げる私に向かって、海君はもう一度、

「絶対に会わせない!」

 とくり返した。

 

 有り得るはずのないことに、ひとりで心配して。

 怒って。

 むくれたように前を見たまま歩き続ける海君は――なんだか可愛い。

 ううん、愛しくてたまらない。

 

 繋いだ私の手はそのまま――放さずに、彼の手の中でしっかりと握られたままだから――余計にそう思う。

「海君」

「うん?」

 私のほうをふり返らずに、言葉だけで返事したその背中に、それでも私はそっと笑いかけた。

「私が好きなのは海君だよ」

 

 あまりにもストレート過ぎただろうか。

 ちょっと驚いたように海君は立ち止まる。

 

 でも大切な言葉は、そう何度も言ってあげない。

 その代わり、繋いだ手にギュッと力をこめる。

「本当だよ」の思いをこめて握りしめる。

 

 負けないくらいの強さが、彼から返ってきた。

 何も言わずにふり返った綺麗な瞳が、静かに私を見下ろしていた――大事なものを見つめるみたいに、ただ優しく。

 

 だから嬉しくなる。

 どんな言葉を貰うよりも、ずっとずっと嬉しくなる。

 

 その時、柔らかい、明るい色の海君の髪をかき乱すように、温かい南風が私達の間を吹き抜けていった。

 

 その風に乗って、なんだか彼から、意外な匂いがしたと私は思った。

 

(薬……消毒薬? ……病院の匂い……?)

 私を見つめる海君の笑顔からは、何もうかがい知れない。

 

 いつもの道。

 いつもの時間。

 いつも一緒の大好きな人。

 

 それは、私にとって本当に大切なものだったから、あらゆる非日常的な事は、今の私の頭の中では、あっという間に排除されてしまう。

 

 ただこの時を嬉しいと思い、楽しいと思う心が今は一番大切。

 だから、心に沸いた小さな疑問は、すぐに消えてしまう。

 

(ううん……きっとなんでもない……)

 海君と並んで手を繋いで歩けること――それがその時の私の幸せの全てだった。



 

 刹那の幸せに溺れる者を、どこかで見張ってくれている冷静な目があるのなら、ぜひ迂闊な私に声をかけてほしかった。

 肩を叩いて気づかせてほしかった。

 

 何も見えない。

 何も考えたくないほどの幸せが、どんなに危険なものなのか。

 どんなに危ういものなのか。

 

 自分ではわからないその愚かさを――誰でもいいからこの時教えてほしかった。

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