2 断ち切る覚悟
愛梨に連絡して、その日は彼女の部屋に泊めてもらうことになった。
「大丈夫……居候の彼氏なんかすぐに追い出すから! いつまでだってここにいなさい!」
携帯の向こうですごい剣幕で叫んでいる愛梨は、「だからあんなに言ったじゃない!」なんて私を責めるような言葉は、決して口にしない。
その優しさが今は心に染みる。
「ありがとう……」
心からのお礼を言って、携帯を切った。
愛梨のおかげで、ほんの少しだけ気持ちが明るくなったような気がする。
でも、ドアの向こうで私を待っている海君の背中を見たら、またすぐに泣きそうな気持ちになった。
海君が私の顔を見てくれない。
それがくり返されるたび、胸の痛みはどんどん大きくなる。
ブランコと滑り台しかない小さな公園に入った海君は、本当にブランコに座ってキーキーと軋む音を立てながら、ゆっくりと漕ぎ始めた。
私ももう一つ並んだブランコに腰かける。
でも、とても漕ぐような気にはなれない。
静かな公園に、海君の座ったブランコの音だけが響いた。
私たち二人の間には、ただ長い長い沈黙だけが続く。
これから海君がどんな話を切り出すつもりなのか。
想像しただけで、心が握り潰されそうだった。
(どうせサヨナラするんなら早いほうがいい。そうじゃないと、私はどんどん海君を好きになってしまう。望めるはずもない夢ばっかり見てしまう。そうなってからじゃ……きっともっと辛くなる……)
自分に言い聞かせるかのように、そんなことばかりを考える。
いつの間にか、深く俯いていた頬を、涙が伝って落ちた。
「泣かないで」
海君がふいにそう言って、ブランコから飛び下りた。
私の傍へとやってくる気配がする。
すぐ目の前で止まる、見慣れたスニーカー。
「泣かないで真実さん」
頭上から降ってくる声は、胸を締めつけられるくらいに優しかった。
私の髪にそっと触れた手が、そのまま頬を撫でるようにして涙をすくい取り、肩の位置まで下りて止まる。
「泣かないでよ、真実さん」
まるで壊れものを扱うかのように、優しく抱き寄せられて、もう涙が止まらなくなった。
「ごめんね、海君……」
何に対して謝っているのか、自分でもよくわからない。
でも――。
「ごめんね……ごめんね……」
涙と一緒にその言葉しか、私の口からは出てこなかった。
「傷つけてごめんね。こんな私でごめんね。海君を好きになってごめんね。迷惑ばっかりかけてごめんね……!」
胸いっぱいに抱えこんでいた気持ちを全部さらけ出すかのように、ただ謝り続ける私を、ぎゅっと抱きしめて海君は囁く。
「謝らないで。謝らないでいいよ真実さん。……真実さんが思ってるほど、俺は優しい人間なんかじゃないよ……!」
しゃくりあげるばかりだった私は、息が止まるような思いで、海君の腕の中から彼の顔を見上げた。
月明かりの中。
確かに海君はいつもとは別人のように、冴え渡った表情をしていた。
「真実さんとあいつの問題に、俺がどうこう言う権利はない。言える立場なんかじゃないってことはわかってる。嫌っていうほどわかってるんだ!」
「海君?」
「それでもどうにかしたい! 真実さんをこんなに傷つける奴がいるんなら……そんな人間、いっそ俺がこの手でどうにかしてしまえばいい! ……さっきからそんなことばっかり考えてる……!」
「海君!!」
息をのんだ私に、海君は実に彼らしくない、形だけの笑い方をした。
「大丈夫だよ。くれぐれも早まったことはするなよって、さっき村岡さんにも釘を刺されたから……」
もう言葉も出てこない。
彼は本当に私のよく知っている海君だろうか。
それとも別の誰かだろうか。
そもそも『海君』という青年は、私が勝手に名づけた、本当には存在しない人物だ。
でも私は知っている。
私の目の前にいるこの彼は、とても太陽の下が似あうこと。
明るく屈託なく笑うこと。
私を見つけ出し、暗闇の中から救ってくれたこと。
――そして誰よりも優しいこと。
私はそんな彼に憧れて――どうしようもなく好きになった。
だから――
(私のせいで、傷つかないで……!)
願うような、祈るような気持ちで、その胸にもう一度顔を埋めた。
誰かを大切にしたいという想いは、祈りによく似ている。
(どうかこの人が幸せになれますように……)
自分のためならば願いもしないようなことも、その人のためならば、願わずにいられない。
代償に自分が不幸になってもかまわない。
そんなことはどうでもいい。
(ただこの人が幸せならば……)
出会ってからずっと、私が海君に感じていた想いは、いつだってそんな――祈りにも似た願いだった。
「でも……真実さんはどんなにひどい目にあっても、あいつを許すんだ。結局、許してしまうんだ……ねぇ、そんなにあいつが好き?」
私を抱きしめたまま、海君は思いもかけないことを言いだす。
驚いて顔を上げた私は、月の光を背中に受けながら、真っ直ぐに私を見つめている海君と目があった。
怒ったような、傷ついたような、初めて見る表情だった。
「……どうして?」
彼が言ったことの意味がわからない。
そんなことがあるはずない。
驚きのあまり目を見開く私を、彼はほんの少し目を細めて見る。
どんな時だって真っ直ぐなその瞳に、一筋の影が落ちる光景が、たまらなく私の胸を灼く。
「私が好きなのは……!」
彼の両腕をしっかりと掴んで、声を荒げて主張しようとした私の声は、同じように大きな海君の声に遮られる。
「俺でしょ! ごめん。わかってる……ちゃんと知っている。でもどこかであいつを許してる真実さんがいる……できることなら、あいつにまともに戻って欲しいと望んでる真実さんがいる……もし本当にそうなったらどうするの……? 俺の傍からいなくなるの……?」
胸にかき抱くように私を抱きしめて、海君は押し殺したような声で呟く。
その声が、言葉が、痛いくらいの腕が、私の胸に刺さった。
「そんなはずないじゃない!」
涙と一緒に溢れだした言葉が、ちゃんと海君に伝わるだろうか。
こんなに傷つけて、こんなに苦しめて、それでも傍にいて欲しいと願わずにはいられない人。
――どうやったらもっと、彼に私の想いを伝えられるのだろう。
自分だけが、あの地獄のような日々から抜けだして幸せになるのは、なんだかズルいことのような気がして、私は幸哉にも幸せになって欲しいと願った。
でもそれは、私の自己満足であり、偽善だ。
幸哉が私を望むかぎり、幸哉の願いは叶わない。
絶対に叶わないのだから――。
(わかっているのに望んだ。願わずにいられなかった。全部私のわがままだね……)
どうしようもない思いに、私は海君の腕の中で、固く目を瞑った。
(私のわがままで、海君を傷つけた……!)
それなのに、まるで誰にも渡さないという意思表示のように、彼は私をきつく抱きしめる。
「もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!」
「海君……!」
どうしよう、涙が止まらない。
「相手を縛りつけて、それで自分のものにする愛し方なんて、俺は絶対に認めない。好きな人を苦しめるようなやり方なんて、そんなのは絶対に愛なんかじゃない!」
小さな叫びのように、私の耳元で囁かれる言葉は、私だけのものだ。
私だけに海君が向けてくれた、これ以上ない強い想いだ。
「俺は許さない。真実さんが許しても……俺は絶対にあいつを許さない!」
一つまちがえれえば彼を奈落の底に突き落としてしまいかねない、それは恐ろしい言葉のはずなのに、嬉しくてたまらない。
泣かずにいられない。
この言葉は、きっと私の一生の宝物になる。
この先もしも一緒に歩けない日が来たとしても、海君が私に与えてくれた最高の贈りものになる。
「ありがとう……私が好きなのは海君だよ。海君だけだよ……」
その胸に頬を押し当てたまま、くり返し伝える言葉に、彼は長い息を吐き、私の髪に頬を押し当てた。
「うん。真実さん」
いつものように優しい調子に戻ったその声が、張り裂けそうだった私の心を、そっと優しく包みこんでくれた。
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