4 希望の灯火
それから毎日、海君は朝になると私のアパートの前に現れた。
長い足を持て余すように、ガードレールに腰掛けて待っていて、部屋から出てきた私を見つけると、
「送るよ」
と、それはそれは嬉しそうに笑う。
初めて会ったあの夜のように、隣にピッタリ寄り添って歩いて、バイト先のファミレスまで送ってくれた。
バイトが終わる頃、また夕方、店の前で待っていて、今度は私のアパートまでの道のりを一緒に帰ってくれる。
歩きながらたわいもないおしゃべりをして、冗談を言って笑いあって、それで家の前まで来たら、
「じゃあ、また明日」
と帰って行く。
毎日がそのくり返し。
帰り際の小さな約束がある限り、彼はきっと明日も来てくれるのだろう。
当たり前のようにくり返される、ひどく当たり前ではない行動。
(どうして来てくれるの? 何のために? 何を考えているの?)
わからないことだらけで、私は何から尋ねていいのか迷う。
それに、たとえ尋ねたとしても、答えが返ってこないだろうと思っている。
「学校は? 行かなくていいの?」
あいかわらず自分に関する質問には、海君は曖昧な笑いを浮かべるだけで、答えようとはしない。
今更、「本当の名前は?」とも聞けなくて、私は彼の事を『海君』と呼び続けている。
でも、それで良かった。
ただ一緒に歩くだけで楽しかった。
いろんな話をするだけでワクワクした。
たったこれだけのことで毎日が楽しくて、夢みたいで、だからそのぶん、私は本当は怖くてたまらなかった。
(こんな毎日がずっと続くわけない。私はそんなことを望めるような人間じゃない)
誰よりも自分自身が、そのことをよくわかっていた。
「真実。いるんだろ? 入るぞ」
まだ夜明け前。
大きな怒鳴り声と、ガチャガチャと騒がしい物音で、私は深い眠りから無理やりに叩き起こされた。
体はすぐには動いてくれなかったけれど、
(幸哉だ!)
頭は一瞬で冴えた。
合鍵を使って幸哉が、私の部屋に勝手に入ってきたところだった。
急いでパジャマの胸をかきあわせて、ベッドの上に座り直す。
重苦しい空気をまとって私に歩み寄って来る幸哉が、とても怒っている様子が、暗闇に近い中でもわかるような気がした。
「お前最近、高校生ぐらいの若い男と一緒にいるんだってな」
(やっぱり……!)
全身から血の気が引く思いがする。
(絶対に、海君を傷つけるようなことになったらいけない! 私が守らないといけない!)
今まで抱いたこともないような強い決意が、私に力をくれた。
「あの子は……そんなんじゃない!」
自分でも信じられないくらい強くて冷静な声が出た。
私の静かな迫力に、幸哉も強く言わないほうがいいと感じたらしくて、
「それなら別にいいんだけどさ……」
らしくもなく口ごもる。
(まずは上手くいった……!)
ホッと胸を撫で下ろすような気持ちになりながらも、内心、私は落ちこんでいた。
今まで私を四六時中見張っていた幸哉にしては、実際、乗りこんできたのは遅いくらいだったかもしれない。
どこから聞きつけたのか。
それとも本当は自分自身の目で見たのか。
どちらにしても、こうなった以上は今までのようにはいかない。
(もう、海君には会わないほうがいい……)
それは思っていたよりも、胸に痛い決意だった。
でも仕方がない。
海君を巻きこむわけにはいかない。
胸の痛みをこらえながら、視線に力をこめ、じっと見つめ続ける私から、
「じゃあ、金貸してくれよ」
幸哉は逃げるように視線を床に落として呟いた。
話の矛先が変わったことに少しホッとして、私は立ち上がり、幸哉に背を向け、財布の入ったバッグに手を伸ばす。
その途端、後ろから羽交い絞めにするように抱きすくめられた。
「真実、俺を裏切るなよ」
暗い情念のこもった小さな呻き声に、私は返事をしない。
その代わりに懸命に手を伸ばして、財布の中からお金を抜き取った。
「はい。今はこれだけしかないわ」
幸哉の顔の前へと、後ろ手にお金を突きつけて、ようやく腕から開放された。
前に怪我した左腕がズキズキと痛む。
「サンキュ」
幸哉はさっさと踵を返して、来た時と同じようにわざと大きな音で扉を閉め、カンカンカンと階段の音を響かせて帰っていく。
(必要なのは私? それともお金?)
聞くのも虚しい質問を心の中で何度もくり返しながら、私は幸哉に触れられた体を自分の腕で抱きしめて床に座りこんだ。
古傷がまた開いたのか、左腕から血が流れ落ちてきて、床に染みを作る。
(嫌だ)
今までは、そんなに強く感じたことのなかった嫌悪感が、心の底から湧いてきた。
(あんな奴に触られた私は嫌だ!)
どうしてそう感じるようになったのか。
その答えは考えなくてもわかっている。
(こんな私じゃ、海君に会えないよ……!)
彼はたぶん待っている。
いつもと同じように、朝になったら私を待って、あのいつものガードレールに腰かけている。
(海君。海君。海君!)
手の跡がつくほどに自分の両肩を握りしめて、私は胸が痛んで仕方がなかった。
朝食を食べる時間を犠牲にしてシャワーを浴びた。
服を脱ぐと、古い傷痕だらけの体があらわになって、自分でもいたたまれなくなる。
幸哉に抱きしめられた感触を洗い流すかのように、私は力を入れて体をこすった。
「真実さん……今日は朝からなんだかいい匂いだね……」
思ったとおり。
いつもの時間にいつもの場所で私を待っていた海君は、開口一番そう言った。
なるべく動揺を悟られないように、
「うん、朝からシャワーを浴びたから」
答えた私から気まずそうに目を逸らして、彼は首まで真っ赤になる。
(いつもは余裕たっぷりなのに、こんな顔もするんだね……)
思わず笑顔になれた自分に心の中でホッとしながら、それでも今朝何があったのか、やっぱり彼には知られたくないと思った。
私が息を吐くことができる、唯一の大切な時間。
できれば失いたくなかった。
だけどこのままではいられない。
だからせいいっぱい、いつもどおり元気なフリをして、
「何を想像してんの、エッチ」
と海君の背中を叩いた。
(傷つけることは絶対にできない。だからサヨナラするしかないんだ)
私の心はとうに決まっている。
考えるまでもなく決まっている。
真っ赤になって俯いていた海君が、その時、私の手を掴んで顔を上げた。
「どうしたの?」
あまりにも真剣な眼差しに、ドキドキする。
手首を掴んでいる大きな手にドキドキする。
その動揺を悟られないように、せいいっぱい普通に笑ったつもりだったのに、海君は、うめくように低い声で、
「真実さん、何かあった?」
と呟いた。
私の心臓はドキリと飛び跳ねたけれど、
「どうして? 何もないよ」
と普通に答えた。
答えたつもりだった。
でも、できなかった。
海君の真剣な瞳に見つめられると、嘘を吐くことが、とてつもない罪のように思える。
そんな罪を犯したら、もう二度とこの人とは会えなくなるんじゃないかと思える。
そのほうがいいに決まってるのに。
彼のためにはきっと、もう会わないほうがいいのに、
(そんなの嫌だよ)
自分の心を抑えられない。
ポタポタポタ
と大粒の涙が私の頬を伝って落ちた。
海君は、苦しそうに綺麗な瞳を細めて、
「ゴメン」
と言った。
返事をしたいのに口を開くことができない。
もし今、口を開いたら、彼に甘えてしまいそうだった。
縋りついてしまいそうだった。
何も言わず首を横に振った私に、海君はもう一度、
「ゴメン」
とくり返した。
そして乱暴に私を引き寄せて、息もできないくらいに抱きしめた。
「海君」
涙声の私に、
「ゴメン」
海君は何度もくり返す。
自然と胸に顔を埋める形になって、そこからそっと見上げると、眩暈がするくらいに近い距離から、彼の真剣な顔が私を見下ろしていた。
「ゴメン、真実さん。許して」
海君が謝っているのが今の状況のことだったら、それは私が心のどこかで望んでいたことだ。
海君が謝る必要はない。
そうじゃなくて、私が朝からシャワーを浴びた理由を察してしまったことだったら、それは私の、自分でもどうしようもない現実だ。
やっぱり海君が謝ることじゃない。
(気にしなくてもいいんだよ)
の思いをこめて、私はそっと彼の背中に腕をこまわした。
温かい体を抱きしめ返す。
この上なく幸せな気持ちだった。
彼がいったい何者なのか。
私にはわからない。
それと同じように、今何を考えているのかも、本当のところはわからない。
わからないから自分で考えるしかないけれど、こんな時はいくら考えてみても、自分に都合のいい解釈しかできない。
期待を持つだけ持って、裏切られることは辛い。
辛い目には散々あってきたと思っても、海君に裏切られるのは、きっと耐えようのない辛さだ。
(だから私は考えない。海君が私をどう思っているのかなんて……知りたくない)
彼を抱きしめる腕の強さに反して、私の心は首を横に振り続けていた。
「海君」
胸に顔を埋めたまま、そっと名前を呼んだ。
海君は私の頭に頬を寄せたまま、
「嫌だ」
と言った。
何のことを言っているのかと不思議に思って、頭を上げようとする私を、海君は決して放すまいと、抱きしめる腕に力を入れる。
「海君?」
「だから嫌だ」
また間髪入れずに返されて、少しムッとする。
「何が嫌なの?」
海君はますます強く、私の頭に自分の頬を押しつけた。
「真実さんが言おうとしていることの答え。俺は嫌だから」
「海君……」
また涙が零れそうになった。
このままじゃいけないとわかっている。
幸哉ときちんと話もできない私じゃ、海君のそばにいたって迷惑になるだけだ。
私と一緒にいても、海君には何もいいことはない。
それどころか、幸哉が何をするかわからない。
だから――
(もう会わない)
そう決心して、今日は出てきた。
その決心がわかったとでもいうのだろうか。
そしてそれを、
「自分は嫌だ」
と言ってくれているのだろうか。
「でも……」
不安をぬぐいきれず、口ごもる私に、
「俺は、俺のやりたいようにする。明日も明後日もその次も、真実さんに会いに来る」
海君がくれた言葉は、どんな谷底に突き落とされても、たった一つそれさえ残っていればいいと思える、希望の灯火のようだった。
初夏の爽やかな朝の風の中、私の心の中に、その小さな灯火が確かに点った。
儚げで頼りない光ながらも、懸命に新しい世界を照らしだそうとしていた。
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