3 明るい世界

「俺の交通手段は、歩くか自転車か、電車しかないんだよね」


 照れも気負いもなくあっけらかんと笑う海君は、私を最寄りの駅まで先導して歩いた。


「やっぱり高校生なんでしょ?」


 笑い含みの私の問いかけには、肩を竦めてみせるだけ。

 どうやら答えるつもりはないらしい。

 その表情からは、何の答えも読み取れなかった。

 

(まぁ、いいっか……)


 それでも別にかまわなかった。


(どうせ今日だけだもんね。その後は、もう会うこともないんだから……)


 気づいてみれば、まるで自分に牽制するかのように、私は何度も心の中でくり返している。

 

(ええっと……海に行くには……)


 駅の構内に掲げられた路線図を見上げながら、私が考えているうちに、海君はさっさと切符を買っている。


「え? ええ?」


 二人ぶんの切符をひらひらと振りながら、もう改札に向かっている。


「こっちだよ真実さん」


 ふり向きもしないで、私に声だけをかけるその背中を、慌てて追いかけた。

 

 ホームで待っていた電車にためらいもなく乗りこむと、海君は真っ直ぐに窓際の席へ向かう。

 すぐに腰を下ろして、

「どうぞ」

 自分の隣の席を指差す。

 離れて座るのもなんだか不自然な気がして、私は言われるまま彼の隣に腰を下ろす。

 間髪入れずに、ホームに発車のベルが鳴り響いた。

 ――ジリリリリリリ

 電車が動き出した瞬間、私は思わず感嘆のため息をついた。

 

(すごい。なんてそつがないんだろ。私ひとりじゃ、とてもこうはいかない)


 窓の外のだんだん早くなる景色を、黙ったまま見つめている海君の横顔を、チラッと見てみた。

 

 私はどちらかというと、テキパキと物事がこなせないタイプで、よくぼーっとしていると言われる。


『真美はしょうがないな』


 周りにいる人にはいつも世話ばかりかけている。

 小さな頃は二つ年上の兄のあとを追いかけていたし、一人暮らしを始めてからも、なんだかんだと愛梨に助けてもらった。

 

 そして、幸哉。

 なんでも自分の思いどおりに私を動かそうとする幸哉の行動は、もとは私のこの性格が原因だ。

 自分では何もできない。

 あなたがいないとどうしようもない。

 私の頼りなさを幸哉がそう解釈して、私のためにとやってくれていたことが次第にエスカレートしていった。

 始まりはそうだったのかもしれない。

 

(だけど……でも……)


 一瞬頭に浮かんだ好意的な解釈を、打ち消すように、私は激しく首を振る。


(自分の思いどおりにならないと、殴る。蹴る。そんな権利は幸哉にだってない。いくら、最初は私のためだったとしても……)


 ともすれば情に流されそうになる感情を、必死に理性で押し止める。

 真剣に、自分の中へと意識が向かっていくと、知らず知らずに俯かずにいられなかった。

 膝に額がつきそうなほど、深く体を折り曲げて俯いた私の頭に、その時、海君が乱暴に赤いキャップを被せた。


「何?」


 驚いてふり仰ぐと、

「貸してあげる」

 静かな声が返ってくる。

 帽子の跡がついた自分の髪をかき上げながら、私のほうを見ようともしない、わざとぶっきらぼうな言い方に、素直な言葉が零れ出た。


「……ありがと……」

 

 私の気持ちが落ちこみそうだったのを、感じ取ってくれたのかもしれない。

 窓の外を眺めている横顔からは、やっぱり何を考えているのかはわからないが、そういえば私の顔には、昨日の傷もまだ残ったままだった。


(傷を隠せるように……してくれたの?)


 適当にのっけられたキャップを目深に被り直した。

 なんだか胸が熱くなった。

 

(生意気。年下のくせに、気が利きすぎ……)


 本心ではない悪態を心の中で呟く。

 でもそうでもしていないと熱いものがこみ上げてきそうだった。

 私のことなんてまるで眼中にないように、窓の外の景色に目を向けている年下の少年に、泣かされてしまうなんてなんだか悔しい。


(しかも今日だけ……今日だけしか一緒にいない相手なのに……)


 だからこそなんのしがらみもなく、一番素のままの自分が、ひょっこりと顔を出してしまうのかもしれない。

 そんな自分がまた悔しくて、なのにどこか嬉しくもあって、私はキャップのつばの下で、一人で小さく苦笑しっぱなしだった。

 

(それにしても、キャップの似あう格好してきて良かった……デニムのスカートなんて、何年かぶりだけど……別に変じゃないよね?)


 幸哉は、何から何まで私が自分の思いどおりじゃないと、気がすまなかった。

 幸哉の好きな色で幸哉の好きなデザインじゃないと、洋服も気に入らない。

 ちょっと着てみたいと思って買った服を、まだ新品のうちにビリビリに破かれたこともあった。


(本当は、こういうカジュアルな格好が好きだったんだよね……)


 シンプルなシャツにデニムのスカート。

 足にはスニーカー。

 いつもとはまったく違う自分の格好を、改めて点検してみる。

 

 海に行けたらいいなと思って、それにあうようにしてきたつもりだが、今まで幸哉に強要されていた派手でケバケバしい服より、自分らしい気がした。 


(これがきっと分相応……おかげで今日のメイク時間は、いつもの十分の一だったしね……)


 つけようと思って出したはいいいものの、とてもそんな気になれなくて、洗面台に投げ出してきたマスカラやアイシャドウのことを思い出した。

 なんだか笑えた。

 

 ふと気がつくと、いつの間にか窓から私のほうへと向き直っていた海君も、私の顔を見て笑っていた。

 なんだか余裕たっぷりの微笑に、ドキリと胸が鳴る。


「何?」


 そんな自分に焦りを感じながらも、強気な姿勢は崩さず尋ねると、

「うん、今日の真実さんは昨日より可愛いなと思って」

 海君はあっさりと――実にあっさりと言ってのける。

 

 照れる様子など微塵も感じさせない。

 彼が口にする言葉は、どこまでも真っ直ぐで、誇張も飾りもない。

 

 私の顔をじっと見つめる彼の落ち着き払った態度とは対照的に、私のほうは一人で照れて、焦りまくって、

「と、年下のくせに……生意気言わないでよっ!」

 これ以上表情を観察されないようにと、慌てて俯いた。

 

 海君はくくくっと声を殺して笑いながら、私の頭をキャップの上から叩く。

 その思ったよりも大きなてのひらに、またしてもドキリとする。

 そんな自分は、どう考えても自意識過剰だった。


 

 海水浴にはまだほんの少し早い季節、それでも海岸近くの駅で降りる乗客は多かった。

 そのほとんどがカップルか、学生たちのグループ。


(私と海君は、どんなふうに見えるんだろ……?)


 気にしなくてもいいはずのことを気にしながら、自分より頭一つぶん背が高い背中を、小走りで追いかける。

 

「真実さん。荷物、このへんに置いとくね」


 海君は最初っから、私に気を遣うなんてことはなしに、自分の思うがまま行動している。

 自分の乗りたい電車に乗って、降りたい駅で降り、行きたい方向に歩いて、当たり前のようにふり返って私を呼ぶ。

 そんな行動の何もかもが、しっくりと心地良い。

 昨夜出会ったばかりなのが、まるで嘘のようだった。

 私はすっかり安心しきって、なんの迷いもなく終始彼のあとを追いかけている。

 

 自分の意見や考えをしっかりと持っている人。

 行動力のある人。

 迷いのない人。

 そんな人が私はうらやましい。

 自分がそんな人間ではないので、憧れてやまない。

 

(私一人だったら、今日も一日部屋にいて、幸哉のことを思い出して落ちこむばかりだったと思う……)


 迷いなく波うち際へと向かって行く海君の背中に、私は確かに感謝の気持ちを感じていた。

 


「真実さんもおいでよ」


 靴を脱いで、ジーンズの裾をめくりながら、海君が呼ぶから、私はわざと砂浜に座りこんで、頬杖をつきながら首を振る。


「いい。やめとく」


「どうして?」


 太陽を背に、海君が笑った。

 眩しい光が、彼にはなんて似あうんだろう。

 本音を言うと、その姿を見ていたいだけだが、それを口に出すことはためらわれて、

「だって海君、絶対私に水をかけるでしょ?」

 せいいっぱい大人ぶって答えた。

 

 そんな私を、海君は

「ハハハ」

 と声に出して笑ってから、海水を両手にすくい上げた。


「え……? ちょっと待って……! って、もしかしてっ!」


 私が身構えるより先に、

「それは……絶対するね!」

 私に向かって、その水を放ってよこす。

 

 ザンッ

 

 幸いにも海水は、私の肩をかすめて、砂へと吸いこまれていったけど、

「うーみー君!」

 不意をつかれた私は、抗議の声を上げると同時に、腰を下ろしていた砂浜から立ち上がった。


「なにするのよ! もうっ!」


 急いでスニーカーを脱ぎ捨てて、波うち際へ向かう私に、

「あははっ! ゴメンゴメン!」

 言葉とは裏腹に、彼は第二波、第三波を放ってよこす。


「この悪ガキ!」


 ついに走り出し、応戦し始めた私に、海君はそれでも笑いながら水をかけた。

 何度も何度も、知らない人から見たらおかしいのかと思うくらい、私たちはふざけあって、水をかけあって、大笑いしながらずぶ濡れになった。


 

「……ちょっと休憩」


 水のかけあいの真っ最中に突然そう言うと、海君は本当に砂浜にゴロンと横になる。

 かなりずぶ濡れのままだったから、

「えっ? 砂がついちゃうよ?」

 慌てて忠告したのに、

「いいよ……それより疲れた……」

 腕を目のあたりに押し当てて、まるで太陽から顔を隠すようにして、肩で大きく息をくり返す。

 

(……仕方ないな)


 隣に腰を下ろして、

「おい、運動不足だぞ! 若者!」

 私は笑った。


「……本当に」


 笑い声で答えた海君の顔は、彼の腕に隠れてよく見えなかった。

 でも、口元のあたりが笑みを作っていたから、私はそのまま軽口を続ける。

 

「まだまだこんなもんじゃ、私には勝てないわよ……!」


 海君が腕をずらして、目を細めて私を見上げた。

 眩しいくらいの笑顔の中で、綺麗な瞳が、キラリと光る。


「そうだね。あーあ、真実さん、小さくて痩せっぽちのクセに、パワフルなんだもんなー」


「小さいは余計です……!」


 魅力的な笑顔にわざとしかめ面をしてみせてから、私はさっきまで二人で駆け回っていた波うち際へと視線を向けた。

 

 寄せては返す白波。

 それは私にとって、決して縁遠い存在ではない。


「私は港町で育ったから……海には慣れてるの。海風や海水って、思ったより体力消耗するんだよ……」


 小さな頃、いろんな大人たちから聞かされた海の話。

 それを、さも自分の言葉のように語っている私。

 そんな自分がなんだか照れ臭い。

 

 海君は砂浜からゆっくりと起き上がって、私の隣に座り直し、私が見ている方向に、同じように視線を向けた。

 どこまでも続く水平線。

 青い空と白い雲。

 夏がすぐそこまで来ている。

 

「そっか。いつも遠くから見てるだけじゃ、そこまでわかんなかったな……」


 独り言のような呟きに、私はびっくりして彼の横顔を見つめた。


「えっ? ひょっとして、海に来たの初めてだった?」


 そんな人が果たしているのだろうか――よく考えなくても、自分の質問の滑稽さは、誰よりも自分が一番よくわかっていたが、

「……いいや、何度も来てるよ」

 海君は呆れもせずに、波間に視線を向けたまま小さく笑った。

 

 少し声のトーンを変えて、

「ただ俺が一番多く見ていた景色の中では、海は遠くにほんの少しだけ見えるものだったからさ……」

 彼が呟いた謎かけのような言葉を、私はゆっくりと考察する。


(家の窓とか教室の窓とか、そんなところから遠くに海が見えたってこと……?)


 首を捻り始めた私に、海君はフッと笑いを漏らす。


「……ゴメン。まあ要するに、こんなに楽しいのは初めてってことだよ」


 急に真正面から顔をのぞきこまれて、そんなふうに言われると、なんだか照れてしまう。

 私は俯いて、砂をてのひらですくい上げ、指の隙間からサラサラと落とした。


 海君も同じように砂をつかんで、

「真実さんは、海のそばで育ったから海が好きなんだね」

 もう一度笑う。


 彼の大きな手の、長い指の間から砂が落ちていく様子に、思わず見惚れそうになっていた私は、そんな自分を追い払うように、

「うん、大好き」

 大袈裟に笑って答えて、もう一度顔を上げた。

 

 目があった途端に、海君の綺麗な瞳が、またキラッと光った。


「何が?」


 年下とは思えない、落ち着いた響きのある声で、彼は余裕たっぷりに私に問いかける。


「何がって……だから……海だよ?」


 疑いもせずに即座にそう答えた瞬間、自分を見下ろす笑顔の、本当の意図にやっと気がついた。

 大慌てしてしまう。


「そそそうじゃなくてっ! いや、そうなんだけどっ!」

 

 海君はすぐに、

「ハハハハッ」

 と肩を揺すって大笑いを始める。

 

 彼が私の反応を面白がって、わざと言っているのはよくわかる。

 わかるのに――どうしてこう見事にひっかかってしまうんだろう。


「ああああ、何でこんな名前つけちゃったんだろう!」


 両手で頭を抱えながらぼやく私に、

「……光栄です」

 海君がポンと肩を叩いた。

 

 そしてそのまま立ち上がり、荷物を置きっぱなしにしていたあたりに向かって、砂浜を戻り始める。

 その思ったより大きな背中を見送りながら、私は彼が触れた左肩を、なんとなく右手で握りしめた。

 感覚や意識がその場所に集中しすぎて、熱いようにさえ感じた。


(そんなはずない。……本当に笑っちゃうくらい気にし過ぎだ……)


 苦笑交じりにそう思った時、

 ズキリ

 左腕が痛んだ。

 

(……そうだった。昨日、幸哉にやられた傷があったんだった……)


 唇をかみ締めるようにそう思った瞬間、意識が急速に現実に引き戻される。

 傷が見えないように今日は長袖の服を着てきたけど、

(そう……状況は何も変わってない……私は幸哉から離れられない)

 今まで当然だと思っていたことが、今日はやけに胸に痛い。

 幸哉の存在を、今日だけは忘れていられても、明日からはまた、幸哉に支配された、幸哉に怯える毎日に戻る。


(……嫌だな)


 急にそう感じるようになったのはなぜだろう――少し自由に行動できたからか。

 それとも、別の理由からか。

 少し考えれば、その答えはすぐに出てくるのに、私は考えることを拒否する。


(どうせ何も変わらない……)


 諦めることは簡単だ。

 少なくとも、今の状況をどうにか良くしようと努力するよりは簡単だ。

 自分の膝小僧におでこをくっつけるようにして、膝を抱えて俯いてしまった私を、遠くから海君が呼ぶ。


「真実さーん、お弁当食べようよー。俺、それが楽しみなんだからさー」

 

 初めて聞いたその時から、海君の声は、私を落ち着かなくさせる。

 なんだか胸がザワザワする。

 じっとしていられないくらい心に響くのに、耳に心地良い。

 

 返事もせず、そんなことを考えていたから、

「真美さん?」

 もう一度、呼ばれた。

 

 ふり返って、目を細めて見てみたら、夏の太陽にも負けないくらいの眩しい笑顔が、やっぱり私に向かって微笑んでいた。

 

(いつまでも見ていたい……)


 涙が浮かんできそうなその思いが、正直私の本音だった。

 だけど手を伸ばせば届きそうなその笑顔は、自分には遥かに遠いものなんだということも、私は痛いくらいに自覚していた。


 

 浜辺にビニールシートを敷いて、その上に二人で並んで座った。

 絵に描いたような『ピクニック』の図に、海君はとても満足そうだ。

 

「いいよーこれだよ、これ」


 上機嫌を体いっぱいで表現するように、大きく伸びをしながら青空を見上げるから、私もつられたように空を見る。

 白い大きな雲がいくつも浮かんでいた。

 

「夏の空っていいよね。すっごく気持ち良くって、ずーっと見ていたいくらいだ。でもこうして見ていると、意味もなく泣きたくなってきちゃうんだよな……」

 

 独り言ともつかないその言葉に、思わず小さく息をのんだ。

 子供の頃から私がこっそりいつも思っていたことを、自分じゃない人の口から聞かされて、かなりドキリとした。


(どうして……? 海君?)


 声に出さず視線だけで問いかけると、海君がやっぱり声には出さず瞳だけで返事する。


(……何? 真実さん……?)

 

 胸が苦しくなる。

 こんなことが嬉しくてなんになるというのだろう。

 

(今日だけだよ……一緒にいるのは今日だけ……)


 感情を抑止するための心の声も、時間が経つに連れどんどん頼りなくなってきている。


 いろんな思いをふり払うかのように、私は首を横に振って、作ってきたお弁当の包みを開いた。

 蓋を取って、

「はい、どうぞ」

 海君にさし出すと、

「おおおっ!」

 歓声が上がる。


 内心ホッとしながらも、表面上は少し偉そうに、

「心して食べなさい」

 胸を張ってみせた。

 

 笑いながら手を伸ばした海君の表情が、すぐにもっと嬉しそうに輝きだすから、私はもっともっと嬉しくなる。


「美味しい……美味しいよ、真実さん。うん、天才!」


 決して嘘はつかないだろうと思えるその瞳で、言ってもらえると、

(お世辞だよね?)

 と思いつつも、つい頬が緩んでしまう。

 

「じゃ、もっと食べなさい。ほらこれも」


 にこにこしながら、海君の取り皿に料理をどんどん載っけていく私の姿は、

(……お姉さんを通り越して、これじゃお母さんだよ……)

 自分でも苦笑せずにいられなかった。

 

 本当に無邪気な顔で、「美味しい」と海君は笑ってくれる。

 それが嬉しかった。

 嬉しくてたまらなかった。

 だから、自分が食べるのもそっちのけで、彼の世話を焼いていたんだけど、

「真実さんも食べないとなくなっちゃうよ?」

 笑いながらそう言われて始めて、お弁当箱の中身がかなり少なくなっていたことに気がついた。

 自分のぶんにあんなに作ってきた大好物の卵焼きが、もう全然ない。

 

「ああっ! 卵焼き全部食べたわねっ!」


 年上の威厳も何もあったものじゃない非難の声に、海君はクスッと笑って、

「はい、じゃあ、これどうぞ」

 と、自分が今食べようとしていた卵焼きをさし出す。

 

(ちょっと大人気なかったかな?)


 恥ずかしく思いつつも、今更ひっこみがつかなくて、

「ありがとう」

 と受け取った私に、海君はその綺麗な瞳にいたずらっぽい色を浮かべて、ニヤッと笑った。

 

「俺の食べかけだけどね」

 

 途端、大人のふりも吹き飛んで、私はカーッと頭に血がのぼった。


(それぐらいどうってことないわよ! 全然大丈夫よ!)


 口に出すと余計に意識しているみたいで、心の中だけで必死にくり返す。

 でもいくらごまかそうとしても、どんどん顔が赤くなっていくのが自分でわかる。

 

(嫌だもう、こんなの……ものすごく意識してるみたいだよ)


 実際、海君もそう思ったのかもしれない。

 その証拠に、私につられたように赤くなって、

「ゴメン」

 とそっぽを向いてしまった。

 

 なんとも言えない空気に、心のどこかがチクリと痛む。


(これじゃあ、中学生の初デートみたいだよ)

 

 懐かしいような、恥ずかしいような感覚に焦りを感じながら、私は

「海君」

 と彼を呼んだ。

 

(このままじゃ、なんだか間が悪いよ)


 年上の自分が何とかしなくちゃと呼びかけたつもりだったのに、ゆっくりとふり返った彼の横顔に、思わず目を奪われた。

 照れたようなさっきまでの顔とはうって変わって、長めの前髪の向こうから私を見つめていた瞳は、ひどく大人っぽい表情をしていた。

 思わずドキリと胸が高鳴って、そんな自分を抑えるのに、必死になる。


(なんだかふり回されっぱなしだ)


 苦笑まじりにそう思った時、

「真実さん、明日も会いに行っていいかな?」

 真っ直ぐな瞳で私の目を見て、海君が尋ねた。

 

 その真摯な声と、言葉の意味にどうしようもなく胸が痛んで、私は俯いた。


(それは……どうだろう? ここでこうしていることさえ、いつ幸哉にバレないとも限らないし。バイトにも行かなくちゃだし。だいいちもう一度会う理由なんて、私たちの間には何もないよ……)

 

 いろんな言い訳が頭の中を駆け巡って、口を開こうとした時、

「俺は、真実さんに会いたい」

 海君の率直な言葉が、私の心にストンと入ってきた。

 思わず俯いていた顔を上げて、彼の顔を見上げる。

 さっきからずっと変わらない、真剣な表情。

 

 その顔を見ていたら、いつの間にか、

「うん、私も海君に会いたい」

 自分の意思とは裏腹に、私の口もそう答えていた。


 

 一緒にいたいからいる。

 会いたいから会う。

 

 そんな当たり前のことに、どうして人は理由をつけたがるんだろう。

 見栄とか建前とか同情とか恐怖とか、いろんなものを取り去ったあとには、真っ直ぐな気持ちしか残らないはずなのに。

 

 正直な気持ちしか。

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