2 私がつけた名前

六時半にセットした目覚ましが鳴るよりも早く起きて、洗面所で顔を洗った。

 昨夜は寝るのが遅くなったし、幸哉が思い切り殴ってくれたおかげで、鏡に映る今日の顔は最悪だ。

 水がしみる頬の傷をそっと撫でながら、

(何やってるんだろう……私)

 と思った。

 

(信じてるわけじゃない、本当に信じてるわけじゃないんだけど……約束したからには、ちゃんと準備だけはしとかないと……ね?)

 

 自分の行動に言い訳しながら、台所に立つ。

 流しの下から出したフライパンをコンロの上に置いて、はたしてこの部屋に、どんな食料が残っていたのかを、冷蔵庫を開けて確認した。

 

(そっか……この間、愛梨が泊まって行ったから、ちょっとした材料くらいなら珍しくあるや……)


 ホッとした。

 使えそうなものを次々と出しながらぼんやりと考える。

 

(大学に入ってすぐの頃は、友達が泊まりに来て、一緒にご飯を食べてくなんてことも、しょっちゅうだったんだけどな……)


 今ではすっかり遠くなってしまったなんでもない平凡な日々が、懐かしく感じられた。


 

 愛梨は入学してすぐにできた友だちだった。

 同じ地方出身ということもあって、よく一緒に遊んだり勉強したりした。

 お互いに彼氏ができて、いつでも二人一緒というわけにはいかなくなってからも、大学では常に行動を共にしていた。

 だから、かなり早い時期に私の傷に気づいて、

『もしかして……?』

 と尋ねたのは、やっぱり愛梨だった。

 

 私は、幸哉のヤキモチが過ぎることと、暴力のことを、あまりおおげさにならないように話した。

 けれど、どちらかというと人情派の愛梨は、かなり激怒した。

 

『そんな奴、さっさと別れなさい!』


 何度、本気で怒られただろう。

 私のためを思って、愛梨はいつも真剣に忠告してくれた。

 

『でも、普段は優しい人なんだよ……それに傍にいないと、やっぱり寂しいから……』


 愛梨の言葉を無視して、ズルズルと幸哉との関係を続けてしまったのは、私の意志の弱さだ。

 次第に大学も休みがちになって、仲の良かった友だちも、一人二人と減っていった。

 そんな中でも、愛梨は、

『今日二限目の講義はほんとおもしろかったー。真実も早く出ておいで』

『あんな男、早く別れちゃいな。また一緒に大学に通おう』

 と、私に連絡をとり続けてくれた。

 必要最低限のことしか書かれていないメッセージは、いつも私の心の支えだった。

 


 その愛梨がこの間、風邪で寝こんだ私を看病しに、ひさしぶりに泊まりに来てくれた。


『絶対絶対、良くなったら学校来るんだよ』


 帰る時、私の両手を握りしめて、くり返してくれた言葉は、愛梨のことを、

『男を連れこんだんだろう』

 と決めつけて、私を二日間自分の部屋から出さなかった幸哉のせいで無駄になってしまったけど、確かに私の心を救ってくれた。

 

「ありがとう、愛梨……」


 あらためて口に出して感謝して、私は彼女が残していった食材を手にした。


 

 一人暮らしを始めるにあたって、家具や電化製品と一緒に、母がいろんな調理器具を揃えてくれていた。

 フライパン一つ取ってみても、それを母と二人で選んだ時のことを思い出す。


(……お母さん)


 今の私の状況で、母を思い出すのは、決して楽なことではない。

 

『お鍋のフタはね、透明のほうが使いやすいんだよ』


 まるで自分のことのように、私の大学入学を喜んでくれた両親に、会わせる顔が今の私にはない。

 実家には昨年の暮れ以来、帰っていない。

 

『たまには、帰っておいで』


 母からのメッセージにも、長い間返事をしていない。

 その事実が、なぜか今日は普段以上に胸に刺さる。


『忙しいんだろうけど、どうしてるのか心配だよ』


 留守電に残された懐かしい声を耳にすると、

(私にはまだ帰る場所があるんじゃないだろうか?)

 と希望を持つこともある。

 でも――。

 

『ゴメン、真実。昨日はどうかしてた。俺が悪かった』


 それと前後して録音されている、私を殴った時とは別人のような幸哉の声を聞くと、いつもふりだしに戻ってしまう。

 弱い私には、弱い幸哉と離れる勇気がない。


(無理だ。帰れない……)


 そして、堂々巡りの地獄の日々は、終わることなく続いていく。


 

(なんだかとってもひさしぶりだ)


 炊飯器でご飯を炊いて、おにぎりを握りながら思った。

 一人暮らしを始めて最初の頃は、こんなふうに自炊していたし、お弁当まで作って、大学に持って行っていた。


『真実の卵焼きおいしいー』


 友達には評判だったし、幸哉にも何度も作ってあげた。

 

『うん、おいしいよ』


 喜んでくれる顔が大好きだった。

 大好きだったはずだった。

 それが、いつからかどこかがズレて、噛みあわなくなって、もうやり直せないところに来ている。

 それがわかっているのに、断ち切ることができない。

 

(私は……まだ、幸哉に何かを期待してるんだろうか?)


 そう思った時、携帯が鳴った。

 呼び出し音のあと、留守番電話に接続される。

 聞こえてきたのは――予想どおり幸哉の声だった。

 

「真実。俺だけど……」


 それだけ言って切れてすぐ、また携帯が鳴り始める。

 表記された名前は、やっぱり幸哉。

 仕方なく私はそれを手に取った。

 

「……もしもし」


 まだそれだけしか口にしないうちに、どこか怯えたような低い声は、性急に問いかけてくる。


「今どこにいる? そばに誰かいるのか?」


 思わずため息が漏れた。


「家だよ……すぐに取ろうとしたんだけど、まにあわなくて留守電になっちゃっただけ……」


 電話の向こうで、幸哉もため息を吐いたのが聞こえた。


「……そうか」


 私の言葉を信じているのか、いないのか。

 とりあえず今日は怒りだすつもりはないようだ。

 

「昨日は悪かったな」


 いつもの決り文句に、

(また始まった)

 冷めた思いで耳を傾けていると、カーテン越しに窓の向こうに、チラリと赤い色が見えた。

 すぐさま窓に駆け寄って、通りの向こうのガードレールを見下ろしてみる。

 そこに確かに彼はいた。

 

 細身のジーンズに、白いパーカー。

 深く被った赤いキャップのせいで顔は良く見えないけれど、細い顎のラインと、キャップから出ている明るい色の少しくせがかった髪が、確かに昨夜の彼のものだった。

 

(本当に来たんだ!)


 どうしてこんなに嬉しいんだろう。

 携帯の向こうの幸哉の不機嫌な声も耳に入らない。

 

「真実。ちゃんと聞いてるのか?」


 気分の変化を気づかれないように、

「うん聞いてる」

 平静を装いながら、急いで、出来上がっていたお弁当を包んだ。

 

「また、俺の部屋に来いよな」


 その言葉には、あえて返事をしないで、

「でも、しばらくはバイトをがんばらないと……」

 と答えた。

 

 自分のせいで私がバイトの一つを首になったことと、今月はもうかなり厳しくなってきた生活費のことを、幸哉もとっさに考えたらしい。


「そうか」


 いつになくあっさりと引き下がった。

 

 私は洗面所へと急ぎ足で向かいながら、パジャマを脱ぐ。


「じゃあ、もう切るね」


 なるべくぶっきらぼうに聞こえないように気をつけたはずなのに、

「ああ」

 幸哉は傷ついたような声を出す。

 ここでいつもは、つい優しい言葉をかけてしまって、すぐにまた幸哉のアパートへ帰ることになってしまうのだが、今日はそのまま電話を切った。

 

(変に思われなかったかな?)


 ちょっと不安になったが、迷っている時間なんてなかった。


(あんなところで待たせてたら、そのほうが問題になっちゃうよ……!)


 急いで服を着て、私は飛び出すように家を出た。


 

 彼は私の姿を見つけるなり、道の向こうからニッコリ笑って手を振った。


(昨夜、暗い中でも思ったんだけど……明るいところで見るとやっぱり……なんて眩しい笑顔なんだろう)


 その笑顔が私に向けられているというのが、どう考えても信じられない。

 

「おっ?……本当に来てくれるとは思わなかった……」


 弾みをつけてガードレールから降り立ちながら、彼が放った言葉に、

「こっちこそ。まさか本当に来るとは思わなかった」

 負けじと言い返す。

 

 キラリと、茶色っぽい目を輝かせながら、

「だって、約束したでしょ?」

 彼は私の顔を真っ直ぐに見つめて、あっさりと言い切った。

 

『約束は必ず守らなくちゃ!』


 そんなことが本気で言えてしまうくらいの綺麗な瞳。

 本当にうらやましいくらいの輝き。

 その瞳に映る私ぐらい、今までの自分とは別人のようでいいと思った。

 

「うん……そうだよね」


 気恥ずかしく思いながらも素直に頷いてみると、すぐさま笑顔で、

「うん」

 と頷き返される。

 くすぐったいくらいの気持ち良さだった。


 

 もうずいぶん長いこと、いつまでも止まないどしゃぶりの雨の中を歩いているようだった。

 出口は見えない。

 終わりはない。

 このまま永遠に。

 

 昨夜までの私は、確かにそんな絶望の中に生きていた。

 なのに今日は、爽やかな朝の風を頬に感じながら、初夏の晴天の下で笑っている。

 まるで今までもずっとそうだったかのように――不自然なほど自然に。

 

 自分でも信じられないくらいの急変化。

 なのになぜだろう。

 昨夜からにわかに弾み始めた気持ちは、時が経つに連れどんどん加速していく。


 

「どこに行こうか? どこに行きたい?」


 隠し切れない喜色をごまかすかのように、口早に問いかけると、

「真実さんは?」

 ちょっと悪戯っぽい色を浮かべた笑顔が、問い返してくる。

 

「どうして私の名前……?」


 目を見開く私に、彼はニヤリと笑い、大事に胸に抱えこんでいたバッグにすっと指を向けた。

 

『一年一組 白川真実』

 

 大きくマジックペンで書いてあるのを発見して、顔から火が出るような思いがする。

 そう、それは私が小学生の頃から愛用しているバッグだった。

 

「こ、これは、違うのよ。ううん、違わないんだけど! ……他にお弁当箱が入りそうなのがなくって……!」


 懸命に事情を説明する私には、一切お構いなしで、彼はお腹を抱えて大笑いし始める。

 

「ハハハハ」


(ひょっとして笑い上戸……?)


 少々怒りまじりに考えずにはいられないくらい、彼の笑いは止まらなかった。

 

(あぁ恥ずかしい! ……情けない! だけどそれにしたって……)

 

 なかなか収まりそうにない大笑い。

 

(……いくらなんでも失礼じゃない? ……もうっ!)


 けれど涙を浮かべて大笑いしている顔は、本当に屈託がなくって、うらやましいくらいに綺麗で、だから口に出して露骨に非難することは、なんだかためらわれた。

 

「ごめん、ごめん……ごめんなさい」


 涙を拭きながらようやく笑い止んだ彼を、軽く睨むくらいで許してあげ、私はささやかな反撃を試みる。


「……じゃあ、あなたの名前は?」


 簡単に答えが返ってくるとばかり思っていたのに、折り曲げていた体をスッと伸ばして、前髪をかき上げながら私の顔を見つめた彼は、なんとも感情が読み取れない不思議な表情へと、笑顔を微妙に変化させた。

 

「うーん、そうだなぁ……真実さんの好きに呼んでかまわないよ……」


(なにそれ?)


 心の中では、かなり驚いていた。


(何か……わけあり?)


 この上なく動揺していた。

 けれど、世間に慣れた年上ぶって、せいいっぱい意地を張って、

「それじゃあ」

 と、何でもないフリをした。

 

(どうせ今日一日遊ぶだけだもんね……名前なんて知らなくてもいいっか……)

 という思いと、

(絶対に私のほうが年上なんだから、ここで舐められるわけにはいかない!)

 という意地が交錯する。

 

 私の思惑なんてどうでもいいことのように、彼は真っ直ぐにこちらを見つめながら、私が次に口を開くのをじっと待っている。


『さあ、どんな名前をつける?』


 とでも言いたげな、いたずらっ子のような、そのくせ妙に余裕を感じさせる不思議なまなざし。

 少々ムッとしながらも、綺麗な瞳が、初夏の太陽を反射して眩しいくらいに煌く様子に見惚れた。

 

 ――ふいに、その瞳の深い色に懐かしい風景が重なる。

 本当はいつでも、私の心から離れないあの海。

 だから――。

 

「……うみ君って呼んでいいかな? ちなみに私が行きたい場所も、海だけど……」


 思わず口をついて出てしまってから、恥ずかしくなった。


(やっぱり『海』なんて、人の名前としてはおかしいよね……?)


 内心ヒヤヒヤしながら、上目遣いで見上げた彼の顔は、予想以上に驚きに満ちていた。

 呆気に取られたようにちょっと開いた口元。

 いっぱいに見開かれた瞳。

 

(え? なに? ……私、そんなに驚くほど変なこと言った?)


 どうしてそれほど驚かれているのか、逆に驚くような反応だった。

 

「……どうしたの?」


 不安に思って尋ねてみると、

「絶対無理だと思ってたのに……すごいな……けっこういいせん行ってる」

 彼は感心したように息をつき、次の瞬間、私に子供のような満面の笑顔を向けてきた。


「うん、今までで一番かも。真美さんすごい!」


 褒められると悪い気はしない。

 しかもこんなに真っ直ぐに賛辞を向けられるのならば、なおさら。

 

(ふーん、『海』が惜しいんだ……いったいどんな名前?)


 首を傾げて、そのまま考えこみそうになった私のバッグを、海君がすばやく取り上げた。

 そのまま、前に立って歩き始める。


「荷物持つよ」


(へぇ……けっこう男らしい……子供なのに)


 さっさと歩き去ってしまいそうな背中を慌てて追いかけ、隣を歩きながら笑い含みに横顔を見上げる。

 

 ――でも真っ直ぐに前を見ているその横顔は、私が思っていたよりも、ずっと大人だった。

 

「何?」


 キラリと輝く綺麗な瞳で、見つめ返されると、思わずドキリとしてしまう。


「ううん……なんでもない」


 私は急いで首を振り、彼から視線を逸らした。

 さっきまで彼が見ていた進行方向に、顔を向け直す。

 そんな自分が、なんだかおかしかった。


(変なの……)


 どうにもおかしかった。

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