2.涙

 扉を開けて教室に入った途端、みんな一斉に私をふり返ったような気がした。

 

 一時間目が始まる前のひと時。

 ざわついてはいるけれども、それぞれが自分の席に着いているA組では、空いている窓際の二つの席が妙に目立っていた。

 私と諒は黙って自分たちの席に着いた。

 

「ホームルームで担任から柏木たちに注意があったらしい。だからしばらくは、もう何も言ってこないと思う」

 周囲の人に状況を確認してくれた諒の言葉に促され、私は廊下側の前方の席に座る柏木の背中に目を向けた。

 

 わざわざ半身ふり返って私を見ていた視線を、柏木はわざと逸らしてみせる。

(そんなことでは私は傷つかないんだから!)

 

 唇を噛みしめて俯く私の席の周りを、その時、何人かの人物が取り囲んだ。

「近藤さん、大変だったわね……」

 

 顔を上げてみると、何人かの女の子を従えた斎藤さんだった。

「さすがにあれはやりすぎよねえ」

「女の子として許せないわよねえ」

 

 彼女たちの声を、私はまるで他人のことのように、ぼんやりと聞いていた。

 彼女らは私の前に座る諒をチラチラと気にしながら、しきりに私を持ち上げるようなセリフをくり返す。

「私たちは近藤さんの味方だからね」

 

(この間まで、率先して私を無視してたメンバーのような気がするんだけど……?)

 心の中ではそんなことに思い当っていたが、それは実際どうでも良かったので、水に流すことにした。

 

「どうもありがとう」

 お礼を言った私の態度は、いたく彼女たちのお気に召したようだった。

 

「だいたい勉強しか取り柄のない男って、卑怯っていうか、姑息っていうか……ねえ?」

「そこまでやるかって感じ?」

「そうそう」

 水を得た魚のようにに、彼女たちは活き活きと話しだす。

 その誰もが、私の前のあまり大きくはない背中を、意識しているように見える。

 

「その点、人の痛みがわかる人って素敵よね……」

「そうそう、優しさが大切よね」

 

 明らかに諒に向けられている賞賛の声に、私は思わず、

「ねえ勝浦君。彼女たちみんな、私の味方だって……」

 諒の肩を叩いて、こちらをふり向かせてあげた。

 

「ああ?」

 とてつもなく嫌な顔でふり向いて、私を睨む諒に、それでも女の子たちから、

「キャッ」

 と小さな悲鳴があがる。

 

(ふうっ……後は任せた……)

 ため息をつきながら諒に軽く手を振って、私は立ち上がった。

 

「ごめん……私ちょっとトイレに行ってくるね。なんなら私の席に座ってても構わないから……」

 言って私が背を向けるや否や、彼女たちはたった一つの椅子の取りあいを始める。

 

「ちょっと! 私のよ!」

「いいえ私よ!」

 

「おい!」

 咎めるように呼びかける諒の声に、私は後ろ手に手を振った。

(がんばって! そして私たちの支持者を少しでも増やしておいて!)

 諒の怒りに燃える顔が見えるような気がした。

 

 言ったついでに本当にトイレに行って、水道で手を洗っていた。

 すると――。

 

「琴美ちゃん」

 急に後ろから呼びかけられて、心臓が止まりそうになった。

 

 佳世ちゃんがいつの間にか私の後ろに立っていた。

『何?』と笑ってふり返るだけの元気を、みんなにわけてもらったと思っていたのに。

 自分はもう大丈夫と思っていたのに、体が動かない。

 返事をすることもできない。

 

 佳世ちゃんは、そんな私の背中に向かって、深々と頭を下げた。

「ごめんなさい」

 

『こっちこそゴメン』と笑って返すつもりだったのに、声が出てこない。

 

「ごめんなさい」

 もう一度くり返す佳世ちゃんの声は、今にも消えてなくなってしまいそうだった。

 

 大好きな佳世ちゃんを私が泣かせている。

 そのことがこんなに辛くて苦しいのに、どうして私は平気な顔ができないんだろう。

 どうしていつものように、『私は大丈夫だよ』と笑えないんだろう。

 

 自分で自分がわからなかった。

 どうしようもなかった。

 だから私は思わずその場から逃げ出した。

 

(佳世ちゃんが傷ついたかもしれない! 私が怒ってるって思ったかもしれない!)

 心の中では大きく後悔しているのに、走り出した私の足は、止まってはくれない。

 

(もう平気だと思ってた……平気なはずだった……でも、佳世ちゃんの顔が見れない。どうすればいいのかわからない……)

 私はいつもの自分の逃げ場所へ急いだ。

 非常扉の向こうの階段に駆けこんで、膝に手をついて、大きく息をくり返す。

 

 バーンと大きな音を立てて扉が閉まるのを背後に聞きながら、崩れ落ちるように座りこんだ。

(どうしたらいいんだろう? どうすれば、また笑えるようになるんだろう?)

 

 鉄の階段の踊り場に突っ伏すようにして、拳を叩きつけた時、ギィッと非常扉の開く音がした。

 

 

「感情を押し殺したってダメだ」

 心に染み入るような優しい声が、私の頭上から降ってくる。

 

「無かったことにしようとしたってダメだよ。悲しい時にはちゃんと悲しまないと、思いを終えることはできないよ……そこから新しい何かは生まれてはこないよ……?」

 

 一言一言、私に言い聞かすように話してくれる人が誰なのか、顔を上げないでも私にはわかる。

 いつだって彼が、私に手をさし伸べてくれた。

 いつだって彼が、私を立ち上がらせてくれたんだから――。

 

「貴人……!」

 私はまた顔を上げることができた。

 

 初めて会った時のように、貴人は極上の笑顔で私に手をさし出していた。

 私は、その手をもう一度つかもうと、必死で自分の手を伸ばす。

 貴人の後ろに見える空が、とっても青かった。

(空……?)

 

 一瞬私の頭を繭香の顔が過ぎった。

 自分の部屋のベッドの上に座って、空を見上げていた繭香の横顔。

『どうして空を見ていたのか』――私に投げかけられた繭香の質問。

 

 繭香は、『空を見上げずには、いられない時が自分にもある』と言った。

 繭香を理解するのに、繭香を動かすのに、その答えがどうしても必要なのに。

 いくら考えても、思いつかなかったその答えが、今ならわかりそうな気がした。

 どうして私は、いつも空を見ていたのか――。 

              

(たとえば空を飛ぶように、今の状況から逃げ出したいから? 自由が欲しいから?)

 私はゆっくりと思考を巡らす。

 

(そんなことじゃない……そんな複雑なことじゃない……きっと……もっと単純なことだ……)

 私がいつも空を見上げていたのは、それは――。

 

「俯いたら涙が零れそうだから……?」

 声に出して、自分自身に問いかけた。

 

(そうだ……! いつだって泣きたくなった時に、私は空を見上げていた……空を見上げて、涙が零れそうになるのを我慢していたんだ!)

 これまで我慢したたくさんの胸の痛みが、青い空に重なるように浮かんでは消えていった。

 

「我慢じゃ前には進めない……全てを思い出にはできないんだよ……」

 貴人が私を真剣に見つめていた。

 さし出そうとして途中で止めていた私の手を、貴人のほうから取ってくれる。

 

「俺は……琴美はいつも泣きそうな顔をしていると思ってた……」

 膝をついて私と目の高さを合わせてくれる。

 それから、一言一言確かめるように話してくれる。

 

「繭香は『つまらなそうな顔』って言ってたけど……俺には空を見ている琴美は『泣き出したいのを我慢している顔』に見えた……違う?」

 

 私はしっかりと頷いた。

「違わない……」

 

(確かにそうだ……! 下を向いたら涙が零れそうだったから、私はいつも空を見上げていたんだ!)

 今やっと、大切なことがわかった気がした。

 

「だから気になった。いつまでも傷ついたままなんじゃないかって心配だった……」

 貴人の優しい声が心に染みる。

 

「貴人……ありがとう……」

 私は長い呪縛から開放されたように、深く息を吐いた。

 フッと全身の力が抜けたような気がした。

 

(そうだね……無理をするのはもうやめよう……)

 やっとその思いを、素直に自分自身で受け止めることができた。

 

 実際、もう限界だった。

 自分の心の中にいっぱいにためこんだ感情が、自分でもうコントロールできなくなっている。

 

(このままでは笑えない……きっと誰かを傷つけずにはいられない……)

 だから私は、心のままに俯いた。

 もうずっと長いこと、心の奥に押しこんでいたいろんな感情が、一気にドッと沸いてきて、あっという間に涙が、次から次へと私の頬を流れ落ちた。

 

「貴人……私悲しかった。なくすはずないと信じてたものをなくして……ほんとに悲しかった……」

「うん」

 突然泣き始めた私に驚きもせず、貴人は腕を伸ばして私を抱きしめてくれた。

 

 私はそのまま貴人の胸に体を預けて、子どものように泣きじゃくった。

「大好きな佳世ちゃんが……いつのまにか渉の近くにいてショックだった……」

「うん」

 

 貴人は優しく私の頭を撫でる。

「全然好きじゃないって思ってたクラスメートだったけど……無視されたらやっぱり辛かった……」

「うん」

 

 貴人は腕に力をこめて、息もできないくらいに強く私を抱きしめてくれる。

「大丈夫って思いながらも……やっぱり辛かったんだよ!」

 

 しばらくの間、私は大声を上げて思いっきり泣き続けた。

 自分でも(こんなに涙って出るものなんだ!)と感心するくらい泣き続けた。

 

 貴人はその間中、ずっと私を抱きしめていてくれた。



 

 感情に任せてしばらくの間は、そのことをなんとも思わなかったんだけど、泣くだけ泣いて、我に返って、少しずつ冷静になってきたら、

(どうしよう)

 と急に焦りがこみ上げてきた。

 

 ついつい勢いで、貴人の優しさに甘えてしまったけれど、

(私、なんてことしちゃったの!)

 と慌てずにはいられない。

 

(相手は貴人だよ? まちがいなく学園一の人気者で、我が校のアイドルとも言える貴人だよ?)

 自分が貴人をどう思っているのかは、自分でもわからないと本人に言ったばかりなのに――。

 

(どんな顔してこれから顔をあわせればいいのよ!)

 そう心の中で叫びながら見上げた貴人の顔は、不思議なくらい私の良く知っている顔だった。

 

 ようやく顔を上げた私に

「何?」

 と眩しいほどに笑いかける。

 

 その笑顔に元気をもらった。

(大丈夫だ……私と貴人の関係は何も変わっていない……!)

 

 それは貴人の優しさかもしれない。

 私はそれに甘えているだけかもしれないけれど――。

 

「ごめん貴人……これもなかったことにしてくれる……?」

 両手をあわせる私に、貴人は眉を片方上げて、

「了解!」

 と笑ってくれた。

 

 私たちはお互いを抱きしめていた腕をそっと離して、顔を見あわせて笑った。

 笑いながら、私は彼に問いかける。

 

「実は……図々しいついでに……もう一つお願いがあるんだけど……?」

 貴人はいつもの、『何でもどうぞ』というような顔で私を見ている。

 

「私を繭香のところに連れて行ってくれる?」

 私のお願いに、貴人は悪戯っ子のように笑った。

 

「今から?」

 いつもと変わらないその態度が嬉しかった。

 今この瞬間から、私たちはまたいつもの関係に戻れる。

 そんな確信がある。

 だから――。

 

「そう、今から!」

 さっきまであんなに大泣きしていたのに、私はもう心から笑うことができた。

 

 貴人は見惚れるほどに艶やかに、笑い返してくれる。

「OK!」

 

 そして貴人は、私の手を引いてそのまま非常階段を駆け下りた。

 初めて貴人に手を引かれて走ったあの日のように、私は必死で彼の走りについていった。

 

 ずいぶんひさしぶりに、本当に無理じゃなくごまかしじゃなく、晴れ晴れとした気分だった。

 今ならきっと、もうずっと長いこと私を待っていてくれた繭香を、きっと喜ばせられるような答えが、できるような気がした。

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