3.ほしかった答え

「じゃあ……俺はここで待ってるから……!」

 繭香の家の前に着いた途端、貴人はそう言って、私の手を離した。

 

「えっ? いつになるかわからないよ?」

 焦る私に、貴人は

「それでも待ってる」

 と笑う。

 

 私は頷いて、貴人に背を向けた。

 その視線を頼もしく背中に感じながら、

「ありがとう、貴人」

 と小さく呟いた。

 

 聞こえるはずないくらい、小さな小さな声だったのに、貴人は

「どういたしまして」

 と返事をくれる。

 

(貴人が居てくれてよかった! 本当に良かった!)

 今度は声には出さず、心の中だけで、一人呟いた。



 

 いつものように、チャイムを押した後、勝手に玄関の扉を開けて二階へ上がってきた私を、繭香は驚きの顔で向かえた。

 

「こ、琴美!? なんだ? ……どうして? 学校は?」

 聞かれて初めて私は、自分が学校をサボってしまったことに気がついた。

 しかも、貴人まで巻きこんで――。

 

 だけど(まあ、いいか)なんて思えてしまう自分がいる。

 それよりも大切なこことが世の中にはあるんだと、断言できる自分がいる。

 

 授業よりも大切なものなんて――二ヶ月前の私が聞いたら、「有り得ない!」と叫びそうなものだ。

 だけど今の私は違う。

「それは確かに存在する」と胸を張って答えられる自分が嬉しい。

 

「繭香……ねえ、私わかったよ……」

 ここまで全力で走ってきて、まだ少し整っていない息を大きく深呼吸して整えながら、私は繭香に告げた。

 

 繭香はいかにも訝しげな表情で、私のことをじっと見ている。

「いつも空を見上げていた理由」

 呟いた私の顔を、繭香はハッとしたように見直した。

 

「辛いことがあって、悲しいことがあって、泣いてしまいそうな時、私は空を見ていた。俯くと涙が零れてしまいそうだから見上げてた……繭香は? 繭香は違う……?」

 

 繭香はひどく真剣な表情で、私の言葉を受け止めた。

 そしてそのまま無言で考えこむ。

 しばらくしてようやく、重い口を開いた。

 

「違わない……私も悲しい時、空を見上げる。琴美の言う通り……それは泣かないためなのかもしれない……」

 繭香の肯定に力を得て、私は力強く頷いた。

 

「繭香……私ね……いつも泣かなかった……誰の前でも、弱い自分を曝け出すのは嫌だから。強くなりたいから。でも……!」

 話しながらだんだん涙が浮かんできた。

 あんなに泣いたのに、涙というのはどうやら本当に、なくならないものらしい。

 

「思いっきり泣くのは、気持ちに区切りをつけるのに、きっと大切なことだったんだよ……」

 零れ落ちる涙を、私はもう拭おうともしなかった。

 

 涙で滲んでよく見えない繭香の顔を、しっかり見据えようと努力しながら、私は話し続ける。

「どんなに悲しかったのか。どんなに辛かったのか。誰かにちゃんと聞いてもらって、思いっ切り泣いて……そうすることって、そこからもう一度立ち上がるのに、とっても大切なことだったんだよ……私、初めて知った……!」

 

 繭香がベッドから下りて、まるでうららのようにギュッと私を抱きしめた。

 いや。

 私の肩に額を当てるようにして、しがみついた。

 

「うん……うん……」

 声にならない声で返事しながら、何度も頷く。

 

 私は泣きながら、繭香の小さな体を抱きしめた。

「繭香……もし話してもいいと思うんだったら、私に話してみて……繭香が苦しんでること、辛いこと……誰かに聞いてもらうだけで、ずいぶん楽になるから……一人で悩んだりしなくていいんだから!」

 

 繭香は消え入りそうなほど小さな声で

「ありがとう。琴美……」

 ただそれだけを涙声で呟いた。



 

 それから私たちは、たくさんの話をした。

 

 繭香の病気のこと。

 未来への不安。

 お互いに対する思い。

 自分に対する憤り。

 

 お互いが不安に思っていること、辛いと思っていることを全て曝け出してみたら、ずいぶんと重なる部分が多いんだと気がついた。

 

 もちろん、繭香には繭香にしかわからない悩みがあるし、私には私にしかわからない痛みがある。

 でもそれを聞いてくれる誰かがいて、いっしょに泣ける誰かがいるというのは、こんなに救われることなんだと、私たちは初めて知った。

 

「人前で泣いたのなんて初めてだ……!」

 ひとしきり感情のままに話しあった後、ちょっと不満そうに繭香が言った。

 

(私だってそうだよ!)

 大声で同意しようとした時、私はハッと、ほんのついさっき貴人の胸で思いっきり泣いた自分を思い出した。

 

 嘘のつけない私は思わず、

「うっ……!」

 と言葉に詰まる。

 

 繭香はすかさず、その、人の心を見通すような大きな瞳を私に向けた。

「何だ? まだ何か、言い足りないことがあるんじゃないのか?」

 問い詰めるように私を見つめる。

 

(ひえええっ! こ、これだけは言えない!)

 慌てて目を逸らす私に、繭香はますます詰め寄る。

 

「何だ? 言ってみろ? 楽になるぞ?」

 食い下がる繭香に私は両手を合わせて、深々と頭を下げた。

 

「お願い! そればっかりは許してっ!」

「いいから! 私に話してみろ!」

 それでも無理にと私に迫る繭香は、完全にこの件を面白がっていた。

 

(いつか……自分でもこの気持ちが何なのかハッキリとわかったら、繭香に一番に話す……だから、今は勘弁して!)

 心の中で私は叫び続けていた。

 

 

 しばらして、手を繋ぎながら家から出てきた私たちを見て、貴人は満面の笑みになった。

「良かった! 二人ともスッキリしたみたいだね」

 貴人の言葉に、私と繭香は各々頷いた。

 

「私も今から学校に行く。すぐに準備して来るから待っていろ」

 繭香がそう言い残して家に入って行くと、貴人は改めて私に深々と頭を下げた。

 

「ありがとう。琴美」

 私はビックリして飛び上がった。

 

「そんな! 私のほうこそ、貴人に感謝しないといけないことだらけなのに……!」

 慌てる私に、貴人は見惚れるほどにニッコリと笑う。

 

「そんなことはないよ……俺じゃダメだった……きっといつまで粘っても、繭香の本音は引き出せなかった。繭香は俺には絶対弱みを見せない。でも琴美ならと思った。繭香が自分に似ていると言った琴美なら、繭香の本音に近づけると思った。だから琴美に任せたんだけど……どう? 俺の選択は正しかったかな?」

 

 私はやっぱり、せいいっぱいの感謝をこめて、貴人に頭を下げた。

「うん。正しかったよ……ありがとう、貴人……!」

 

 貴人の声が、意味深にクスリと笑うのが聞こえた。

「そんなに感謝されたら、実は自分の下心もあったって、言えなくなっちゃうな……」

 

 下を向いている私には貴人の顔が見えないから、どこまでが冗談なのか見当がつかない。

 けれどそんな言葉も、今は素直に嬉しいと思える自分が嬉しかった。



 

「待たせたな」

 玄関のドアが開く音がして、制服姿の繭香が現れた。

 私よりほんの少し小さいだけのその姿を、まるで母親のような気分で見つめる。

 ふと顔を上げると、隣に父親のような顔をした貴人が立っていて、思わず私は笑ってしまった。

 

「何を笑っているのかは、聞かなくてもわかる気がするが……実際、今一番笑える顔をしているのは琴美だからな!」

 繭香は私に向かって、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。

 

(そうだった! 思いっきり二回も泣いちゃったんだった!)

 私は慌てて、両手で自分の顔を覆った。

 

 指の隙間から貴人の顔を見上げると、

「琴美はいつでも可愛いよ……」

 と笑われる。

 

(それはフォローよね! どう考えても……優しい貴人のフォローよね!)

 そう理解した私はクルリと回れ右をして、二人に背を向けた。

 

「私……やっぱり一度家に帰る」

 途端に、繭香に腕を掴まれた。

 

「私を着替えさせておいて何を言う! 学校に行くぞ!」

 その声が、顔が、面白がっているとしか思えない。

 

「いいや、やっぱり」

「いいからいいから」

 とお互いの手を引き合う私たちを見て、遂に貴人が肩を揺すって大笑いを始めた。

 

(こうなっちゃった貴人はどうしようもない!)

 私と繭香は顔を見あわせた。

 

「じゃあ行こうか」

 覚悟を決めた私は、さっさと学校に向かって歩き出す。

 私は隣を歩く繭香に近づいて、そっと彼女と手を繋いだ。

 

「さすがにこれは気持ち悪くないか……?」

 大きな瞳を眇める繭香に、私は胸を張る。

 

「そんなことないよ! だって私達は同志だもん……手を繋ぐと二倍にも三倍にも勇気が大きくなるんだよ?」

 私の言葉に、繭香がフッと笑みを零す。

 

「二倍、三倍か……それはいいな!」

 繭香のほうから、私の手を強く握り返してくれる。

 その温かさが、嬉しかった。

 

「おーい……二人とも、待ってくれよー……!」

 やっと笑いが収まったらしい貴人も一緒に、私たちは並んで歩いて学校へ帰った。

 これからはどんなことにも顔を上げていられるような、そんなありがたい気分だった。

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