4.空を見上げる理由

「美千瑠……学校に来たんだな……」

 

 朝一番。

 教室に入って窓際の一番後ろの席に着くなり、諒が私をふり返った。

 

「昨日のお前ってば、いかにも『大層な決心をしました』って顔だったもんな……行ったんだろ? 美千瑠の家に……」

 尋ねられたままに思わず頷いたけれど、結局一歩遅くて、自分は何もできなかったことを思い出した。

 慌てて首を横に振る。

「違う! えっと……違わないけど違うのよ!」

 

 諒は困惑した顔で私を見返す。

 そしてひさしぶりにしみじみと、

「お前って……やっぱ馬鹿だろ」

 と呟いた。

 

 条件反射で、思わず諒の頭を殴りつけてしまってから、

(こんなのひさしぶりだ)

 とおかしくなった。

 

 思えば中学の頃からずっと、『気に入らないヤツだ』と諒のことを思っていた。

 顔をあわせれば喧嘩ばかりだった。

 その諒とこんなに親しくなるなんて――二ヶ月前の私が聞いたら卒倒してしまいそうだ。

 

 二人とも『HEAVEN』に誘われて、仲間になって、それからいろんなことがあって、私は今まで気がついていなかった諒の違う顔を知った。

(いつも私を庇ってくれる……かなり私と似ている……)

 

 だから今度は逆に、どんどんわからなくなる。

 自分が諒をどう思っているのか。

 諒は私にとってどういう存在なのか。

 

 昨日、貴人に「諒が好き?」と聞かれて、「わからない」と答えた。

 それがありのままの私の思いだ。

 本当にわからない。

 ――自分が相手をどう思っているのかなんて、私にはなかなかわからない。

 

 わからないばっかりに妙に意識していた諒と、ひさしぶりに真正面から向きあった気がした。

 

「痛っ! お前……人の頭を簡単に殴るなよ! ……だいたいA組では俺に関わらないんじゃなかったのかよ……!」

 非難がましく私を見る諒の目は、本当はあまり怒っていなくて、それどころかなぜだか少し嬉しそうで、私もちょっぴり嬉しくなる。

 

「うるさいわねー。そっちが話しかけてきたんでしょ!」

 憎まれ口をききながら、ひさしぶりに諒の顔をきちんと見たと思った。

 

「ああ、ああ、そうかよ。じゃあ、もう後ろは向かないよ!」

 背を向けた諒の背中が、本気で怒ってるわけじゃないここともわかってる。

 

 だから、こんなのがいいと思った。

 いつでもすぐ近くで競いあいながら、助けあいながら、たまには喧嘩もしながら。

 諒とはこんなふうがいいと、自分勝手に思う。

 

 傷つくのはもう嫌だから、自分でもよくわからない微妙な思いは、もうこれ以上探らないままでいいと思った。



 

 その日の放課後。

 授業が終わるのももどかしく、私はB組の教室に顔を出した。

 

 私に気づいて走ってきた貴人は、まるっきりいつもの貴人だ。

 思わず昨日のことは夢だったんじゃないかと思う。

 ひょっとしたら、そうであったほうが良いという私の気持ちに、貴人があわせてくれているだけかもしれないけれど――。

 

「はい。これが繭香の住所だよ」

 貴人が渡してくれたメモを、私は大事にポケットにしまった。

 

「本当に一緒に行かなくていいの?」

 笑う貴人に私も笑い返す。

 

「いいの。だって……女の子同士秘密の話もあるかもしれないでしょ?」

 私の言葉に、貴人はパチリと片目をつむってみせる。

 

「だったらそれはきっと、俺の悪口だね」

 笑う貴人につられるように、私も笑った。

 

「そうかもしれないわね」

 それが私の願いであっても、貴人の望みであっても、昨日の会話はやっぱりなかったことにしたほうがいい。

 だってそのほうが――ほら――こんなに自然に笑える。

 なくしかけていた私の大好きな場所が、帰ってくる気がする。

 

 よくばりな私は、できればいつまでも、その気持ちのいい場所から出たくなかった。



 

 繭香の家は、普通の二階建ての一軒家だった。

 昨日は美千瑠ちゃんの家で度肝を抜かれた私は、ひとまずホッと胸を撫で下ろす。

 

 門に付けられた『藤枝』という表札の下の、インターホンをそっと鳴らした。

 でも、しばらく待っても応答はない。

 

(もう一度押してみようかな……?)

 指を伸ばしかけた時、庭に面した二階の左の窓から繭香が顔を出した。

 

「今は誰もいないから……勝手に入っていい……」

 思ったより元気そうな顔にひと安心して、私は頷いた。

 

「そのまま二階に上がって構わないから……」

 繭香に言われるまま、玄関を入って、階段を上る。

 

 さっき繭香が顔を出したらしい部屋に見当をつけて、コンコンとノックすると、

「どうぞ」

 と返事が聞こえた。

 

 ドアを開けると、繭香は窓際に置かれたベッドの上に、パジャマ姿で座っていた。

「ま、繭香……やっぱり具合が……!」

 

 慌てる私に、繭香は唇の両端を吊り上げるような、あのいつもの笑みを向ける。

「いや、大丈夫……ただ面倒臭いから着替えてないだけだ……!」

 

 私はホッと胸を撫で下ろした。

「なあんだ、良かった……」

 

 近くの椅子に腰かけるように、繭香は視線だけで私に指示を出す。

 そうしながら、

「でも数日間は本当に寝こんでたんだ……しんどい思いもしたから……もう、学校には行かない……」

 私が口を挟む暇もないくらい、一気に話してしまった。

 

「繭香……」

 なんと言っていいのかわからない。

 だって繭香は、すでに自分の中で答えを出してしまっている。

 

 私はふと、昨日の貴人の困りきった顔を思い出した。

(少しでも貴人と繭香の役にたてるなら……)と思った気持ちは嘘じゃない。

 でも、私にいったい何ができるんだろう。

 

「『HEAVEN』は……? どうするの?」

 苦し紛れの質問に、繭香は窓の外に顔を向けて、

「やめる」

 と短く言い切った。

 

「もしも……あの噂のことを気にしてるんだったら……」

 繭香はあいかわらず私の言葉を最後まで待たない。

 途中で先回りして、

「そんなことじゃない」

 とさっさと否定してしまう。

 

 どうしようもないと思った。

 私の言葉に、繭香が動かされるなんてことがあるだろうか。

 

 でも、重大な使命を負ってきたんだという気負いが、なんとか私を奮い立たせる。

 

「じゃあ、どうして?」

 繭香のほうから説明してもらおうという私の作戦は、

「琴美には分からない」

 の一言で玉砕される。

 

(もうっ! ……どうしたらいいんだろう?)

 途方にくれて俯く私に、窓の外に顔を向けたままの繭香は呟いた。

 

「琴美はいつも何を見てた?」

 突然繭香のほうから話しかけてもらえて、ホッとしながらも、その言葉の意味がわからず私はとまどう。

 

 うかがうように繭香のほうを見て、彼女がさっきまでより少し顔を上に向けていることに気づいた。

(ひょっとして窓の外……? 窓の外に私がいつも見上げていたもの……?)

 

 直感的に閃いた。

「あっ! 空だ!」

 私は自然に呟いていた。

 

 繭香は頷いて、大きな瞳を私に向ける。

 初めて会った時から私が憧れた、意志の強そうな、曇りの無いまなざし。

 

「そう。教室の窓から、非常階段から、琴美がいつもそうしていたように、私も空を見たくなる時がある……そうせずにはいられない時がある……だから、私と琴美は似ているのかと思った……」

 繭香が私のそんな姿を知っていたなんて、ビックリした。

 

 私はじっくりと考える。

 息が詰まりそうな教室の窓から。

 一人になれる非常階段から。

 私がいつも空を見ていたのはなぜだったんだろう――。

 

 その理由を、繭香は今、きっと私に気づいてほしいのに。

 わかってほしいんだろうに。

 自分がなぜそうするのか、これまで考えたこことさえない私には、わかってあげるこことができない。

 

 悔しかった。

 歯痒かった。

 繭香は私に期待してくれているのに、私はそれに応えることができない。

 

(会いに行ったら力になれるかもなんて……私ってなんて思い上がっていたんだろう!)

 私には何もできない。

 繭香の望むことを、わかってあげられない。

 その思いは、絶望的だった。

 

「琴美にはわからない」

 悲しそうに私を見つめ、もう一度くり返されるセリフに、申し訳ない思いで俯くことしか、私はできなかった。



 

 繭香の家をあとにして、重たい足を引きずりながら家へと帰るその途中。

 道の向こうの公園の前に、彼はいた。

 

 本当はこんな気持ちで私が出てくることを、予想していてくれたのかもしれない。

 だって、私にとって彼はそういう人だから。

 ――いつも落ちこんだ時に手を引いて立ち上がらせてくれる人。

 

 気持ちはこんなに嬉しいのに、その笑顔を見ることが、今は苦しいのはなぜだろう。

 彼のためにがんばろうと思ったことが、果たせなかったからだろうか。

 それとも――。

 

「今日はありがとう」

 貴人の言葉に、並んで歩きながら私は首を横に振った。

 

「結局何もできなかったから……」

「そんなこことはないよ」

 俯く私を励ますように、貴人は優しく笑う。

 

 貴人の笑顔はどうしてこんなに心に染みるんだろう。

 どうしようもない私を救い上げてくれるんだろう。

 ――だから甘えたくなる。

 自分に失望してばかりの私は、ついつい貴人の側にいたいと思ってしまう。

 

(でも……)

 私は空を見上げる。

 私と同じように空を見ていた繭香を思い出す。

 ――そしていつも繭香が貴人の傍にいた姿を。

 

(私がこの場所に、いていいはずないんだ……)

 その思いが、ずっと私の心を捉えて放さない。

 

「繭香はなんて言ってた?」

 ふいに貴人に尋ねられて、私は視線を空から地面へと移す。

 

「琴美にはわからないって……」

 ありのままに答えながら、胸が痛んだ。

 

「そうか」

 呟いた貴人は突然足を止めた。

 そして繭香の家があった方向をふり返る。

「繭香はいじっぱりだから……かなりのへそ曲がりだから……それはきっと、琴美にこそわかって欲しいということだよ……」

 

「……そうなの?」

 驚いて見上げた貴人の顔は、笑っていなかった。

 こちらの胸が痛くなるような切ない顔だった。

 

「琴美になら、きっとわかるよ。繭香が本当に伝えたいこと。もともと、琴美を見つけたのは繭香なんだから……」

 公園に入って、二人で並んでベンチに座りながら、貴人が私にいろんなことを話してくれた。

    

 肩が触れるぐらいの距離は、心臓には悪いけれど、お互いの顔が見えないから、今はちょうどいい。

 今はまだ、向きあって平気な顔なんて、私にはできそうにもない。

 

「『あの子はいつもつまらなそうな顔をしている。私と似ている』って……ずいぶん前、琴美を見て、繭香がそう言ったんだ……」

 貴人の言葉に私は思わず苦笑した。

 

「どんなにいつもひどい顔してたんだろう、私……」

 貴人もつられたように笑った。

 

「でも……繭香はそんな琴美が気になって仕方がない感じだったよ……?」

 その言葉を聞いて、私はなんだか嬉しくなった。

 

「友達になりたいのかなと思った……だから、俺が琴美のことを調べて、『HEAVEN』に誘って、少しお膳立てしてやった……って言ったら怒る?」

 私は黙ったまま首を横に振った。

 

「じゃあもう一つ。中学時代はほとんど学校に行けなかった繭香に居場所を作ってやりたくて、俺は『HEAVEN』を作ろうって決めた……って言ったら、幻滅する?」

 私はもう一度首を横に振る。

 

「良かった。琴美がわかってくれるならそれでいい。あとは誰に何を言われても大丈夫……」

 貴人は本当に嬉しそうに、満足そうに笑った。

 

(私なんて、そんな価値のある人間じゃないのに……! 貴人みたいになんでもできる。人のためにがんばれる人に、そんなふうに言ってもらえるほどの人間じゃないのに……!)

 

 嬉しかった。

 誰のどんな言葉より嬉しかった。

 ――例えその人が、他の誰かのために頑張っているのだとしても。

 だから――。

 

「わかった。私、諦めない。明日もまた繭香のところに行ってみる……!」

 私だって貴人のために、何かをしてあげたいと思うのは当たり前だ。

 ひょっとしたら貴人が言うように、私がまた来るのを待ってくれているのかもしれない繭香と、もっとわかりあいたい、もっと近づきたいと思うのも当然だ。

 

 だから私は自然と笑って言えた。

「私も繭香と出会えて嬉しかった。最初に話をした時からずっと楽しかった。私は繭香と……もっといろんな話ができると思う!」

 貴人の顔をしっかりと見つめて、約束できる。

 

「ありがとう」

 微笑む貴人の精一杯の気持ちを、受け止めることができた。



 

 次の日も、その次の日も、私は繭香の家に通った。

 

 繭香は、私のくだらない雑談にはちょっと笑ったりしながら応じてくれる。

 でも、「学校に行こうよ」という言葉にだけは、頑なにNOを言い続けた。

 

「皆待ってるよ?」

「私も寂しいし……」

「家に一人でいたって退屈でしょ?」

 なんと言ってみても、首を横に振るばかり。

 

 あまりにもつれない態度に、こらえ性のない私は、ついつい、

「来ないんだったら、繭香のこの部屋を『HEAVEN準備室』にするわよ!」

 と叫んでしまい、冷たい顔で「出て行け」と言い渡されてしまった。

 

(こんなんじゃ、全然上手くいかないよ……)

 頭を抱えながら繭香の家を出て来る私を、貴人は毎日、近くの公園で待っていてくれる。

 

 いつの間にか、繭香の家からの帰り道、貴人が送ってくれるのが、日課になっていた。

 実は貴人の家は繭香の家のすぐ近くだと知って、

「悪いからいいよ」

 と何度も断ったのだが、

「いいからいいから、俺が心配だから」

 とあの笑顔で押し切られてしまった。

 

 正直、(二人きりで大丈夫かな?)と思ったけれど、私と貴人の微妙な距離は、縮まることも開くこともないまま、まるで今までどおりを保っている。

 

 そのことが、嬉しいよりも、悲しいよりも、ホッとした。

 それが今の私の、一番正直な心境だった。

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