3.私にできること2

  貴人のアンケートと、剛毅や玲二君の地道な運動部めぐり。

 それから順平君主催の「このままこの星颯学園を学力偏重主義のままにしておいていいのか?」という、主に5組・6組をターゲットにした怪しげな集会。

 智史君による的確な情報操作などによって、かなりの人数が貴人の支持に入ったようだった。

 

「ハーレム? ……そんな噂、私には関係ないわ」

 噂が盛んだった頃も平気で『HEAVEN準備室』に出入りしていた夏姫も、かなりの数の運動部の女の子たちの票を集めているみたいだし、可憐さんも自分の信奉者達の票の取りまとめにぬかりはない。

 

(みんなが自分のできることをやっている……じゃあ今、私にできることって何だろう?)

 そう思うと、いても立ってもいられなかった。

 

(まだ『HEAVEN準備室』には行けない……クラスでだって浮いたままだ。だから……)

 もうずっと学校を休んだままの美千瑠ちゃんと繭香のことを考える。

 

(二人の様子を見に行くことだったら……私にだってできるよね?)

 私は二人の家を訪ねてみることにした。



 

 放課後。

 剛毅に教えてもらった住所を頼りに、美千瑠ちゃんの家にたどり着いた私は、見果てぬほどにどこまでも続く長い壁を目の前に、途方に暮れていた。

 

(なんっなのよ、これ!)

 本当は大声で叫びたいけれど、心の中だけに止めておく。

 下手に騒ぐと警備員が飛んで来そうなほど、そこは物々しい雰囲気の大邸宅なのだ。

 

(こんなことなら、一人で来るんじゃなかった……可憐さんでも夏姫でも……この際、諒でもいいから誘って来るんだったよ……!)

 

『杉原コーポレーション』という大会社のお嬢様である美千瑠ちゃんの家は、私が想像していた以上の豪邸だった。

 敷地を取り囲む白い塀は、本当にどこまで続いているのだろう。

 ぐるりと周りを歩いて入り口らしい場所を見つけるまでに何十分も経ってしまった。

 

 それだけでも一般市民の私の理解の限度をゆうに超えているのに、「あのー美千瑠さんの学校の友達です」と門のところでインターホンに答えて、監視カメラによる厳しいチェックにパスして、敷地内に入れてもらえるまで数十分。

 それから広い庭を通り抜けて、建物にたどり着くまで、更に数十分。

 

(もう諦めて帰ろうかな……)

 何度目かそう思った時、ようやく玄関と思しき場所に着くことができた。

 なのに応対に出てきた愛想の悪いお手伝いさんが言うことには――。

 

「お嬢様は、今は誰ともお会いになれません」

 

 言い方も表情も実に素っ気ないままに、バタンと大きな音をたてて閉められた玄関扉を、私は呆然と見つめた。

(信じらんない! それならそうと、さっきの門の時点で教えてよ!)

 

 声に出せない思いを心の中だけで叫びながら怒りに震えていると、背後から声をかけられた。

「近藤琴美さん?」

 

 聞き慣れない声でフルネームを呼ばれ、訝しげな顔でふり返ってみると、背後に人が立っていた。

(名前を知ってるくらいだから、ひょっとして知りあいかしら……?)

 

 なんて考えるまでもなく、十六年九ヶ月の記憶のどこを捜しても、絶対に会ったことがないと断言できる。

(こんなにかっこいい男の人! 絶対絶対、会ったことがない!)

 

 すぐにそう言い切れるくらいの、凄い美貌の青年だった。

 スラリとした長身に、隙のない立ち姿。

 黒いスーツにネクタイを締めているのは、この家の使用人なのだろうか。

 鋭い切れ長の目は用心深い色をしているが、私に向けた笑顔は、完璧なまでに柔らかで親しみやすい。

 

(最近、綺麗な男の子や女の子が周りに多くって、いいかげん見慣れたと思ってたけど……これはまた、別格! 大人の魅力ってやつだわ……!)

 

 呆気に取られて、ただひたすら相手の全身を見つめ続ける私に、その人は怒りもせずにっこりと優雅に微笑む。

「美千瑠お嬢さまからお連れするように言われました。どうぞ、こちらへ……」

 

 クルリと体を反転させ、私をエスコートしようと腕を差し出す一連の動きの、なんと美しいこと。

 

(こんな人に『お嬢さま』って呼ばれて、お世話してもらえるなんて……美千瑠ちゃんが羨ましい!)

 心の中で叫ばずにはいられなかった。

 

「どうぞこちらの通路から」

 と優雅に案内されたわりには、連れて行かれた先は、もの凄い場所だった。

 

 正面入り口と思われる、さっき私がいた場所からは正反対の、こちらも大きな裏口。

 その裏口を通り過ぎて、裏庭へと進んだ更に先の、温室のようなガラス張りの建物。

 その、やっぱりガラス張りのドアの前に立ってから、美貌の青年はもう一度私に、

「どうぞ、こちらから……」

 と指先までピンと伸びた腕で、優雅に指し示した。

 

(本当にこんな所に美千瑠ちゃんが……?)

 疑問に思わずにはいられない。

 

 それでも、正面からは門前払いを食らった身なのだから、この人を信じて進むしかない。

 恐る恐るガラスのドアを開けて中に入ってみると、そこは夢のような世界だった。

 

 上下左右全ての場所に色とりどりの花が咲き乱れる、巨大な空間。

 

 私が一歩を踏み出した入り口からは、奥のほうへと緩やかなカーブを描きながら、レンガの道が続いている。

 右からも左からも花がせり出して、道自体は人が一人やっと通れる位の狭さになってしまっているけれど、そんな事は気にもならなかった。

 

(まるでおとぎの国だわ!)

 ところどころに置かれた小さな椅子や切り株に、本来の目的を忘れて、座りこんでしまいたい。

 

(温室って呼んでいいのかな……?)

 壁だけでなく天井まで完全なガラス張り。

 私の背よりも高い木々が前方にはズラッと並んでいて、まったくと言っていいほど奥のほうは見えなかった。

 

(あの先に、美千瑠ちゃんがいるのかしら?)

 考えた時にちょうど、あの可愛らしいクスクスクスという笑い声が聞こえてきた。

 

(美千瑠ちゃんだ! 本当にここにいた。ひさしぶりだな……もうどれぐらい会ってないだろう……?)

 道を塞ぐように枝垂れている木々の枝をかきわけて、進んだその先で、私は思わず足を止めた。

 

 想像していたよりもずっと広い空間に、花に囲まれた小さなテーブルが置かれ、四つ配置された椅子の正面の席で、美千瑠ちゃんは私に向かって微笑んでいた。

 

 いつもと同じその笑顔にホッとする。

 なんだか心落ち着く場所に、やっと帰って来れたような気持ちになる。

(会いたかった……!)

 

 急いで駆け寄りたかったけれど、でも、美千瑠ちゃんと向かい合うようにしてこちらに背を向けて座っている人物から、私は目が離せなかった。

(まさか……?)

 

 急に胸が苦しくなってくる。

 心臓の音が自分でも聞こえるくらいに、どんどん大きくどんどん早くなっていく。

(どうしよう……泣いちゃいそうだよ……!)

 

 なんと声をかけたらいいのかがわからず、足を踏み出せない私を、その人はゆっくりとふり返った。

「やあ琴美。ひさしぶり……」

 

 本当にひさしぶりに近くで見た、その極上の笑顔に、私は精一杯涙をこらえて、笑い返した。

「うん。久しぶり貴人……」

 

 そんな私たちを見守るように、美千瑠ちゃんもふわっと天使のように微笑んでいた。

 

 顔を見れただけで泣きそうになるなんて、実はかなり重症なのかもしれない。

 

(私って、貴人のことをどう思っているんだろう……?)

 冷静に考えるにはあまりにも相手が凄すぎて、私は考えることをずっとあと回しにしている。

 

 あの大失恋からまだたったの一ヶ月だし、気の迷いかもしれない。

 あんまり優しくされたから、錯覚しているのかもしれない。

 仲間なんだから、好きだと思うのは当たり前だ。

 ――言い訳はいくらでも思いつく。

 

(だから考えない……考えられない……考えたくない……!)

 私はまるで駄々っ子のように、心の中でいつまでも首を横にふり続けていた。

 

 美千瑠ちゃんの隣の椅子に腰を下ろした私は、ここまで案内してくれた男の人に淹れてもらった紅茶を、静かに口へ運ぶ。

 

 ごちゃごちゃになってしまっている私の心を、スーッと楽にしてくれるような不思議な味だった。

 思わず手にしたカップを見つめる。

 

「ふふっ……蒼衣の紅茶は美味しいでしょ、琴美ちゃん……」

 美千瑠ちゃんがとても嬉しそうに笑う。

 

(蒼衣さんっていうんだ……)

 私に向かって深々と頭を下げた、美千瑠ちゃんの隣に立つその人を、私は改めて見上げた。

 

(本当にかっこいい人だなぁ……何をやっても絵になる!)

 そして、その蒼衣さんから、私の前に座る貴人へと視線を移す。

 

(貴人もあれぐらいの年齢になる頃には、もっともっとかっこ良くなってるんだろうな……)

 私の視線に気が付いた貴人が、(何?)と眉を上げてみせるので、私は懸命に首を横に振る。

 

 それから改めて美千瑠ちゃんに向き直った。

「本当に美味しいよ……」

 

 まるで自分が褒められたかのように、美千瑠ちゃんは嬉しそうに笑う。

「そうでしょ?」

 

「恐れ入ります」

 小さく呟いて私に向かって頭を下げ、ちらりと美千瑠ちゃんを見下ろした蒼衣さんは、とても優しい目をしていた。

 

(この二人って、ひょっとして……)

 私の心の声が聞こえたかのように、貴人が私に向かって片目を瞑ってみせる。

 

(そうか。そうなんだ……)

 納得したと頷く私に、貴人はまた眩暈がするほどの笑顔で、笑いかけてきた。

 

(そんな顔で笑わないでよ……)

 大好きなはずの貴人の笑顔も、あまりにもひさしぶりで、刺激が強すぎる。

 

 美千瑠ちゃんと蒼衣さんの幸せムードと相まって、温室の中は汗ばむほどに暑かった。

 

 美千瑠ちゃんが学校に行けるように、いざとなったらご両親に直談判でも、と乗りこんできた私の決意はどうやら遅かったようだった。

 

「明日からまた学校に行けるようになったから」

 美千瑠ちゃんはニッコリ笑いながら、私に告げる。

 

(それってもしかして……?)

 黙ったまま貴人にチラリと目を向けると、美千瑠ちゃんが嬉しそうに何度も頷く。

 

「そう!貴人が話をしてくれたの……!」

 そうなのかとすっかり肩の力が抜けた。

 

(先を越されちゃったな……でも、いかにも貴人らしい……!)

 気負いを削がれて、ため息半ば、感心半ばの私に美千瑠ちゃんがふわっと笑う。

 

「でもきっと、琴美ちゃんも来てくれると思ってた……」

「私が……? えっ、どうして?」

 思いがけない言葉に驚く私に、美千瑠ちゃんは可愛らしく小首を傾げて、考えるそぶりをする。

 

「うーん……」

 しばらく考えこんだ末に出てこきた言葉は――。

 

「なんとなく」

 思わず、素敵な白テーブルのガラス天板に、おでこをぶつけてしまいそうになった。

 

(なんとなく……! なんとなくって……!)

 救いを求めるように視線を向けた貴人は、――ダメだ。

 すでに肩を揺すって大笑いを始めている。

 

(ああなっちゃった貴人って、しばらく役に立たないんだよね……)

 なんとも酷いことを心の中で考えながら、私は美千瑠ちゃんの幸せそうな顔を見上げた。

 

「それで……もう大丈夫なの? 生徒会役員の候補としての活動を、今後も認めてもらえるの?」

 

 私の質問に、美千瑠ちゃんはしっかりと頷いた。

 でもその大きな瞳は今まで見たこともないほど悲しそうだった。

「もともと……高校卒業までは私の好きにしていいって、お父様との約束だから……」

 

 そして、その悲しみをふり払うかのように、美千瑠ちゃんはわざわざ明るく笑う。

「でも……後々恥になるようなことだけはするなって念を押されたわ……貴人と直接お会いになったから、噂がデタラメなことはよくわかったって、仰って下さったけど……」

 笑顔のはずがいつの間にか、最後には神妙な顔になってしまっている。

 

(そうか……)

 これでひとまず問題の一つは片づいたわけだけれど、どうも心に引っかからずにはいられなかった。

 

 美千瑠ちゃんの口調からすると、どうやら高校を卒業したらもう美千瑠ちゃんに自由はないようだ。

 それがどういうことなのか、具体的にはわからないけれど、なんだか切なかった。

 

(そうか……美千瑠ちゃんと一緒に活動できるのも、短い時間なんだな……)

 そして美千瑠ちゃんと同じように、高校卒業した後まで一緒にいることはできないとあらかじめわかっている貴人を、そっと見つめる。

 

 私達の『HEAVEN』は始まる前から、終わりの時が約束されている。

(その後はみんな、それぞれの道を歩いていく……)

 

 だけど――だからこそ――みんなで一つのことにがんばれる時間を、私は絶対手に入れたいと思った。

(だから……! どうか……どうか! 私たちの『HEAVEN』が無事発足できますように!)

 今日もまた、心から祈らずにはいられなかった。



 

「それじゃあ。明日学校で……!」

 美千瑠ちゃんと約束をして、蒼衣さんに見送られ、大きな杉原邸をあとにすることになったところで、私はハッと気がついた。

 

(ひょっとしなくても、貴人と二人で帰るの?)

 誰にともなく尋ねずにはいられない。

 その状況って、緊張のあまり、並んで歩きながら右手と右足が一緒に前に出てしまいそうなくらいだ。

 

 焦ってしまって、ついつい思ってもいないことを口走ってしまう。

「やっぱりマズいんじゃないかな……例の噂もあるし、私と貴人と二人きりっていうのは……あっ、別に変な意味はないんだけどね……?」

 

 慌てて言い訳を付け足す私を、貴人はいつものように笑って見ている。

「それは、もうそろそろいいんじゃないかな……? きっとみんな忘れてるよ……それとも何? 俺と噂になるのは嫌?」

 

 私は顔から火が出るような思いで、「そんなことはない!」と叫びたかった。

 でもできなかった。

 その瞬間ふいに、フッと繭香の顔が頭に浮かんだから――。

 

 その途端に、舞い上がっていた気持ちが、急降下していく。

「からかわないでよ」

 自分でも思ってもみないほど、冷たい声が出た。

 

「ごめん」

 私のそっけない態度に、貴人も自然と声のトーンを下げる。

 

 何も話さないまま、そのまま二人で並んで、私たちは歩き続けた。

 出会った時から感じていた、そばにいるだけでの居心地の良さを、まるでどこかに忘れて来てしまったかのようだった。

 

(こんなことが言いたかったんじゃないのに……また一緒にいれるようになったら、話したいって思ってたことが、たくさんたくさんあったのに……)

 悲しくって涙が出そうだった。

 

「繭香が……」

 ふいに貴人の口からその名前が出てきて、ドキリとする。

 

「だいぶ調子が良くなったのに、学校には行かないって言うんだ。あんなに行きたくて入った学校なのに……」

 その言葉が、私には胸に刺さって痛かった。

 

(私は、「こんな所来るんじゃなかった」って何度も何度も言ってた……それも渉を相手に……)

 悪い事をしていたと思う。

 渉に対しても。繭香みたいに行きたくても学校に行けない人に対しても。

 

 人の気持ちに疎い、鈍感な私だから、足りない所だらけだけど、それでも繭香――それから貴人――の役に少しでもたてたらいいなと思った。

「ねえ貴人……私、繭香の家にも行ってもいいかな……?」

 

 私の問いかけに、貴人は前を向いたままゆっくりと頷く。

「うん。そうしてもらえると嬉しいな……」

 

 私もゆっくりと頷き返す。

(これで少しは貴人の役にたてる……!)

 

 それだけのことがこんなに嬉しいんだから、そろそろはっきりさせないといけないのかもしれない。

 私は少し緊張しながら問いかけた。

「ねえ、繭香は貴人のこと……」

 

 でもその先が続かない。

 貴人はそれだけでもうわかったと言わんばかりに、さっさと返事を始めた。

 

「うん。どう思ってるのかな……小さな頃から、『私の家来』とはよく言ってたけれど……」

 ニッコリと花が綻ぶように笑う。

 それは私の予想した答えではなかったけれど、私にとっては、それでじゅうぶんだった。

 

(そっか……やっぱり好きなのかもな……たとえ本人に尋ねてみても、絶対にそんなこと認めやしないだろうけど……)

 ちょっと笑いながら足を早めた私は、自分とは正反対に急に足を止めてしまった貴人をふり返った。

 

「貴人……?」

 貴人は俯いて何かを考えているふうだったけれど、すぐに顔を上げて、真っ直ぐに私を見た。

 今まで見たこともないような真剣な眼差しに、なんだか胸がえぐられるような気がする。

 

「琴美……今日昼休み、窓から俺を見てた?」

 まさか貴人が気づいていたとは思いもしなかったので、私は驚いて頷いた。

 

 次の瞬間、

(あれ? ここは、「そんな事ないよ」って嘘をついたほうが良かったのかしら……?)

 とも思ったけれど、こんな時でもやっぱり私は嘘が嫌いだった。

 

「うん。見てた」

 改めて返事をした私に向かって、貴人は一歩ずつ近づいて来る。

 

「諒と一緒だった?」

 貴人はとっても真っ直ぐな目をしていた。

 彼が何を言いたいのかはよくをわからないけれど、私も真剣に向き合わなければならないと強く思った。

 

「うん」

 正直に頷く私に、貴人が尋ねる。

 

「諒のことが好き……?」

 貴人は私のすぐ近くまで来ていた。

 その瞳に私の姿が映っているのが見えるほどに。

 

 だから私は、嘘もごまかしも嫌いな心のままに、

「わからない」

 と答えた。

 

 本当にわからない。

 以前思っていたような悪いイメージはすっかりなくなって、諒は私の心のすぐ近くにいる。

 困った時に助けてくれる。

 私のことをわかってくれる。

 

 でも諒に対する自分の思いを、何と言ったらいいのか。

 私には正直わからない。

 

 貴人は私の目をのぞきこむように首を傾げて、

「じゃあ、俺は?」

 と呟いた。

 

 低くて静かな声だった。

 私はこんな貴人を知らない。

 その質問の意味する所を、頭では想像できても、心ではまるで理解できない。

 

(そんなはずない……そんなはずないよね……?)

 私は懸命に首を振った。

 

「わからない」

 その返答には瞬間的に、自分でも『嘘』だと思った。

 

 けれど貴人が、張り詰めていた糸が切れたように長いため息を吐いて、いつものように笑った瞬間、なぜだか(良かった!)と思ってしまった。

 

「ごめん琴美……今の全部忘れて……」

 ニッコリと笑われた瞬間、本当にホッとした。

 

 でも心の中では、後悔の思いでいっぱいだった。

 ――私は初めて貴人に嘘をついた。

 

 その瞬間、『嘘のつけない琴美』と貴人が嬉しそうに呼んでくれる私ではなくなってしまった。

 そのことがたまらなく悲しい。

 

(なんだか、私が私じゃなくなっていく……これって確かに覚えがある……こんな思いはもう二度としたくないって、思ってたはずなのに……!)

 

 ぎこちなく並んで歩きながら、私たちはそれからもいろんな話をしたけれど、その内容のほとんどが、私の頭には入ってこなかった。

 ただ心の中に繭香の顔が浮かんで消えなかった。

 

 今、たまらなく繭香に会いたかった。

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