2.足止めの日々

 諒に宣言したとおり、私はその日から『HEAVEN準備室』に行かなかくなった。

 もちろん貴人にも会っていない。

 

 諒以外にはほとんど話しかけて来る人もいない教室で、一人ぼっちでお弁当を食べるのは寂しすぎて、これまでは時々中庭で食べたりもしていたけど、そこだと貴人と会う可能性が高いから、足を運ばなくなった。

 2組の前はなるべく早足で移動する。

 誰がどこで見ているかわからないから、どんなことを言われるかわからないから――。

 

 わかってはいるつもりでも、自分の意に反してそんな行動を続けることは辛かった。

 時折、うららがふらりと教室にやって来ては、「今日は琴美とお弁当食べる……」と諒の席を乗っ取って、私とお昼を共にする。

 

 他のクラスの生徒がA組に入って来ることなんてほとんどない中、なんのためらいもなく私のところへやって来るうららは、別の意味で大注目されていたけど、そんなことはまったく眼中にない自然体の態度に、私の心もずいぶん軽くなった。

(うららはすごいな……!)

 

 そんなふうにさり気なく私を気にかけてくれたのは、うららばかりではない。

 普段は第一校舎にだって足を踏み入れないと断言していた夏姫も、「琴美! 教科書借して!」とか、「今日は絶対当てられる日なのに、この問題がさっぱりわかんない!」とか理由をつけては、しょっちゅう私の様子を見に来た。

 



 放課後。

 一人で家に帰ろうと自転車を押して歩いていると、校門の前で可憐さんが待っていたりする。

 

「一緒に帰ろ……琴美ちゃん……」

 みんなの優しさが嬉しかった。

 

 けれど噂が流れ出してから一週間が経った今も、繭香も美千瑠ちゃんも、まだ学校には来ていない。

 

 私だってかろうじて登校はしているけれど、『HEAVEN準備室』には顔を出せないし、貴人に割り振ってもらった仕事だって、まだ全然手をつけていないに等しい。

 

 せっかくみんなで一丸となって票固めに動き出そうとしていた時だったのに、その矢先の悪意ある噂――。

(こんなのって嫌だ……!)

 

 裏工作や、情報操作なんて大嫌い。

 曲がったことが許せなくて不当な扱いを受けることだって我慢ならない私にしては、本当によく耐えていると思う。

 

 全ては仲間のため。

 そう思うからこそ耐えることができる。

 我慢するべき時は、我慢するしかないと学んだのだから、今はじっと辛抱の時だ。

 

(人の噂も七十五日って言うし……って! 七十五日も待ってたら選挙戦が終わっちゃうじゃないのよ!)

 私の焦りをよそに、噂は思いの他、早い期間で沈静化しつつあった。

 

 諒によれば、体育系の運動部に顔が効いて男子の友達も多い剛毅や玲二君が、細かく訂正して回ってくれたおかげらしい。

 そしてなぜか貴人の噂と前後するようにして、もの凄い速さで広まった、某教師と某生徒の交際の噂に、みんなの興味があっという間に移ってしまったからだという。

 

 噂の出所は、学校側が何度閉鎖してもすぐにまた立ち上がって来る、謎の学校裏サイト。

「俺……正直あいつだけは敵にまわしたくない……!」

 

 真剣な面持ちで呟く諒に、私も大慌てで同意した。

「私だって!」

 

 それが誰なんだと諒は決して名指しでは告げなかったが、私の頭の中ではすでに、薄い眼鏡越しに見たビー玉のような茶色い瞳が、この上なく冷たく微笑んでいる。

 目なんか一切向けなくても、もの凄いスピードでキーボードを叩いていたあの入力速度。

 きっとサイトの立ち上げぐらい彼の手にかかればお手のものだろう。

 

 もともとが天使のような美少年だからこそ、冷たい顔で無情なことを言い放つ時の姿には、さあっと血の気が引く思いがする。

(私は仲間だよね……? だから大丈夫なんだよね? 智史君……!)

 祈るような気持ちで、私は心の中でその名を叫んだ。

 

 噂に疎い私の耳にも、少しずつではあるが、「やっぱり、生徒会長は芳村がいいよな」という声がちらほらと聞こえ始める。

 その頃には貴人の指示率は、かなりの数値にまで回復していた。

 

 もともとの貴人支持者は「芳村君かっこいいー!」と叫んでいた女子が大半だったが、ここにきて男子からの声もかなり聞こえてくる。

 

(そういえば貴人……自分は秘密行動なんて言ってたけど……何をやってるんだか、もうみんなには話したかな? 私も聞きたかったな……)



 

 一人取り残されたような自分の環境を悔しく思いながら、何気なく窓の外に目を向けた昼休み。

 私はその答えを、おそらく見つけた。

 

 体育館へと続く渡り廊下がちょうど運動場からの帰り道と重なる場所に、貴人が立っていた。

 向こうからこっちに気づく距離ではないこと。

 ここから見ていても貴人を見ているなんて断定できないことを確認してから、私は改めてカーテンの陰に隠れて彼を盗み見た。

 

(ああ……なんだかもうずいぶん長く会ってないような気がするな……)

 貴人の髪はもともと少し色素が薄い。

 その綺麗な髪が、夏が近い太陽に照らされて、キラキラと輝いている。

 髪の下ではきっとあの魅力的な瞳が、今日もニコニコと笑っているんだろう。

 表情まで見えるような距離ではないけれど、私にはなんだかわかる気がした。

 

(きっとまた笑ってる……!)

 考えただけで、思わずつられて私の頬まで緩む。

 そうしながら「これでいったい何度目だろう?」と首を傾げる。

 

 初めて出会った時から――ううん、「あれが、噂の芳村君」と、こんなふうに遠くから見ていた時から――私は何度も、貴人に笑顔を引き出してもらった。

 貴人の笑顔を見ていると、自然に自分も笑顔になることができた。

 

 それがどういうことなのか、私にはよくわからないけど、またすぐ近くで一緒に笑える日が一日も早く来るといいと、心から思う。

 

 貴人は運動場から教室へ、中庭から運動場へ、いろんな方向に向かって歩いていく人たちに、片っ端から声をかけていた。

 何かを手渡し、手を振って見送る。

 

 貴人の姿を見て、自分から駆け寄って来る人もいた。

 そういう人たちは、貴人に何かを手渡して去って行く。

 貴人は受け取った何かを、首から下げた箱の中に大切そうに入れる。

  

 ――そう。貴人は首から箱を下げているのだ。

 よく、「募金お願いしまーす」と街頭で頭を下げている人たちが、持っているようなあの箱を。

 

(いったいなんだろう……?)

 以前のように『HEAVEN準備室』に顔を出していたなら、絶対に知っていたはずの答え。

 それがわからないと思うとたまらなく悔しい。

 

(変な噂さえ流れなければ、私だって今頃みんなと……貴人と一緒に……!)

 悔し紛れにカーテンの陰から教室の前方で取り巻き連中と談笑している柏木を睨んでいたら、いつの間にか背後に立っていた諒に、意地悪く囁かれた。

 

「お前、ものすごい顔してるぞ」

 途端、ドキリと心臓が跳ねる。

 

「うるさいわね! 余計なお世話なのよ!」とこれまでだったら大声で言い返すところだが、なぜか声が出ない。この間非常階段で、思いっきり泣くのにつきあってもらった時から、諒を前にすると私はなんだか調子が狂いっぱなしだった。

 

 思わず殴りつけたくなるような意地悪な顔と、なんでも話したくなるような意外に優しい顔。

 ――諒のまったく違う二つの顔に気づいてしまったからかもしれない。

 

(今までもずっとそうだったの? それとも……?)

 考えれば考えるだけわからなくなるので、私はもう考えないことにしている。

 

 諒に言わせれば「他人に興味がない」私じゃ、相手がどんな人物なのか本当のところを見極めるなんてもともと無理に違いない。

 考えてみてもまちがいだらけに違いない。

 

 だから諒を前にどうしたらいいのかわからない今のこの感情も、私には何と呼んだらいいのかわからない。

 しょうがないので、考えることを放棄したままにしている。

 

「なな、なによ!」

 跳ねる胸を懸命に落ち着かせながら、今できるせいいっぱいの抵抗を試みる。

 

 それからおもむろに、ちょうど知りたかったことだけを、諒に尋ねた。

「ねえ……あそこで貴人が何をしてるのか、知ってる?」

 

 諒は私が指差した先にいる貴人を見て、「ああ」と目を細めて笑った。

 貴人に負けないくらいの自信に満ちた嬉しそうな笑顔に、思わず見惚れそうになる。

 そんな自分に、私は大慌てで首を振る。

(な、なんで諒になんか!)

 

 激しく反発する気持ちと、素直に「いい顔で笑うな」と思う気持ち。

 相反する二つの思いがもし上手く融合したなら少しはすっきりするだろうに、まだそうはいきそうにない。

 そんな私の心の葛藤など知る由もなく、諒は貴人の方を見ながら、もう一度ニコリと笑う。

 

「あれは俺もいい手だと思う。『もしもあなたが生徒会長になったら、どんなことをしたいですか』ってみんなにアンケートを取ってるんだ……貴人いわく『俺はあくまでもみんなの代表として、みんなの夢を叶えたいだけなんだから』だってさ……」

「へえ……」

 

 カーテンから手を放した私は諒の隣に立ち、もう一度ちゃんと貴人の姿を見てみた。

 特に貴人のほうから声をかけなくても、彼の周りには自然と人が集まってくる。

 その一人一人としっかりと向き合って話をしながら、誰もが引き込まれずにはいられないあの笑顔で――やっぱり笑ってる。

 

「具体的に今みんなが望んでることもわかるし……俺たちのこれからの活動にも役立つ。自分が直接動けば顔だって覚えてもらえるから、一石三鳥だななんて笑ってたよ……まったく凄いよあいつは……!」

 

 話すうちにどんどん自分だって笑顔になっていってることに、諒は気がついているんだろうか。

 貴人の話をする諒の顔は、深い信頼感に満ちていた。

 

「俺ってさ……ほんとついてないんだよな……高校受験は熱を出して本命の私立を受け損なったし……公立はどうせ行くはずないって思ってたから、適当にずいぶんランク下げてたし……ここに入学してからも、俺だったらもっと良いところに行けたはずなのにって、そんなことばっか思ってた……だから高校生活なんて全然面白く無かった……!」

 

 まるでどこかで聞いたような話だと思った。

 私は思わず諒の顔をまじまじと見上げてしまう。

 諒は真っ直ぐに窓の外の貴人の姿を見ながら、晴れやかに笑っている。

 

「だから貴人が一緒に生徒会をやろうって言ってきた時、どうして俺を誘ったのかわからなかった……」

 そこで意味ありげに言葉を区切った諒は、私に視線を向けてきた。

 

 自分が貴人に手を引かれて走った時のことを思い出し、私はしっかりと諒に頷き返す。

「私も! どうしてだろうって思った!」

 

 諒も私に頷き、それからもう一度窓に両手をついて、遠くの貴人の姿に目を向け直した。

「きっと貴人にはわかるんだよ……この学校で居場所のない人間がさ……だからきっと、居場所をくれたんだ……」

 

 私ももう一度、窓の外の貴人を見る。

 あいかわらずの笑顔で、沢山の人に囲まれていた。

 きっと諒の言うとおりなのだと、私もそう思う。

 だから――。

 

「あいつは凄いよ……」

 呟く諒に、今度は私も間髪入れずに同意した。

 

「うん……私もそう思う……」

 思いがけず同意を得られたことに、ちょっと照れたように笑う諒の顔を見ながら、

(ああ……私と諒って、こんなにも似たもの同士だったんだ……)

 と、やっとわかった気がした。

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