農協おくりびと (78)すみません、わたし帰ります
「ウチかて、恵子ちゃんの後見人みたいなもんどす。
けどなぁ、ウチらがどれほど焦ったかて結論を出すのは若い2人どす。
昔から割れ鍋に綴じ蓋。
どんな人にもふさわしい配偶者が、かならず現れるもんどす。
似合いの2人やと思いますえ、松島くんと、恵子ちゃんのお2人は」
「き、君は、2人が結婚することに賛成なのか!。
仏門に生きている尼僧と、トマト農家の後継ぎが、結婚できるはずがないだろう。
生きている世界が360度以上も、違いすぎるんだぜ!」
「360度はオーバーどすな。
別に、何の問題もあらしまへん。恵子ちゃんはまだ23歳どす。
職業が尼僧というだけで、中身は健康な女の子どす。
妊娠能力もちゃんと備えています。
健康な若い者が、恋に落ちるのよくあることどす。
ええんやないどすか先の事は、2人の好きにさせてあげれば・・・)
何事にも動じない妙子を祐三が、おろおろした目で見下ろす。
「心配することはあらへん。
難破してもいずれ船は、陸地に流れ着きます。
熱くなっている2人に、水をかけるわけにはいきまへん。
無理に止めたりしたら、逆に、火に油を注ぐことになりかねません。
大人らしくドンと構えて、2人を見守りましょう」
「そうか、大丈夫なのか、本当に・・・」不本意なまま、祐三が腰を下ろす。
(ウチを信じておくれやすな)妙子が、ニコリと祐三を覗き込む。
「男とおなごの修羅場なら、数えきれんほど見てまいりました。
それから比べれば、恵子ちゃんと松島クンなんか、実に可愛いもんどす。
ええやないどすか、結婚できるのなら。
それがたとえ、現世のこちら側でも、仏門の中でも」
「結婚すれば、あんなことやこんなことをして、妊娠して子をはらむことになる。
いいのかよ。現世を捨てた尼さんが、妊娠して子どもを産んでも?」
「福音書に拠れば聖母マリアは処女懐胎により、イエスを身ごもったとされてます。
けどなぁ。ヨセフと婚約したマリアは、結婚前にイエスを身ごもっているんどすえ。
それが事実なら、マリアは不義姦通罪に値します。
当時のならわし通りなら、マリアは、石打ちの刑に処せられるはずどした。
ヨセフが神を信じ、すべてを受け入れてたから大問題にならんかったのどす。
世界中に信者がいるキリスト教のイエス様かて、そんな風にして、
この世に生まれてきたんどす。
それほどの歴史的な事実から比べれば、日本の尼僧が子供を産むことなど、
はるかに小さな問題どす」
「なるほど。言われてみれば、確かにその通りだ。
だが仏門の中で結婚するのは、それほど容易でないだろう。
寺の住職が結婚するのはあたりまえだが、尼僧の結婚というのは聞いたことがない。
複雑な事情が有るんだろうな、そのあたりには・・・」
「それはそうどすが、」と妙子が口にしかけた時。
恵子が「すみません。帰ります」と、突然立ち上がった。
「ええっ?・・・」驚きの声を上げたのは、マイクを握って告白していた松島ではなく、
そばで見つめていた、ちひろと先輩の2人のほうだ。
すくっと立ちあがった恵子が、呆然としている松島に向かって、
「ごめんなさい)とペコリと頭を下げる。
「お先に帰ります。お姉さん」隣りに坐っている妙子にひとこと詫びてから、
スタスタと、恵子が出口に向かって歩き出す。
(熱い告白の真っ最中だというのに、すいません、帰りますって・・・
いったい何が起こったのかしら・・・)
引き留める間もなく、バタンとドアが鳴り、恵子の姿が廊下に消えていく。
すべてが、あっという間の出来事だ。
何が発生したのか、誰にも理解することが出来ない。
松島の告白を受け止めて、恵子ちゃんが結婚することに同意するだろうと、
誰もがそんな風に信じて疑わなかった。
だが事態は、いきなり急変した。
席を立った恵子は、あっという間にドアの向こう側へ消えていった。
「ということは・・・不発に終わってしまったのかしら。松島クンの告白は・・・」
ポツリとささやいたちひろのひとことに、マイクを握り締めていた松島が、
「そ、そんな馬鹿なぁ・・・」と床へ、ポロリとマイクを落とす。
(79)へつづく
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