農協おくりびと (77)君のためなら出家してもいい
「愛は、お互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである、
とフランスの作家、サン=テグジュペリは語っている。
恵子ちゃん。この恋がどうしても叶わないというのなら、僕にも考えがある。
結婚できないというのなら、僕はトマト農家を継ぐことを諦める。
君と同じ世界に住むために僕は、出家をしてもかまわない!」
マイクを握りしめた松島が、出家してもかまわないとハッキリ言いきった。
恵子を見つめる松島の眼に、いままでにない気迫が籠っている。
どうやら、冗談ではなさそうだ。
しかし。それを聞いた祐三が、真っ先に顔色を変えた。
「おいおい。サン=テグジュペリが飛び出してきたぞ。
そのうえ恋が叶わないのなら、出家するとまで言い切りやがった。
いったいどうなっているんだ、あいつの頭の中は。
あの野郎。愛のバラードなんか、最初から歌うつもりはなかったんだろう」
「そうどすなぁ。出家すると、たったいま、はっきり言い切りましたなぁ。
恵子ちゃんも文学が好きどすですが、松島クンもなかなかの文学通どす。
恋する2人にとって、共通点が多いという事はええことどす。
共通の話題、共通の趣味は、2人が永くつづくための高いポイントどす。
ますます応援したくなりましたなぁ、あの2人を。うふふ」
「おいおい、呑気なことを言うなよ。
放っておけば松島のやつは現世を捨てて、仏門の中で恵子ちゃんと一緒に暮らしかねない。
そんな事になってみろ。俺は松島のオヤジに合わす顔がない。
世俗を捨てたはずの女が、そんなふしだらなことでも良いのかよ」
「聞き捨てなりまへんなぁ。
ウチらは尼寺で、静かに暮らしていたんどす。
是非にと、合コンの世界へ引っ張り出してきたんは、あんたたちやろ。
2人の交際がうまくいきはじめたら、不味いことになるからやめろと言うのは、
いまさら気の毒すぎるやないどすか。
乗り掛かった舟どす。
岸へたどり着くまで静かに見守ってあげるのが、ウチら大人の役割どす。
祐三はん。いいかげんで覚悟を決めて、腹をくくったらどうどすか」
(心配あらへん、なんとかなりますから)と妙子が笑う。
曲はすでにイントロ部分を終えて、歌詞の部分に突入している。
だが松島に、唄うつもりは一切ないようだ。
それどころか、いきなり爆弾発言と言える言葉が、松島の口から飛び出してきた。
マイクを握った松島が、恵子の瞳をまっすぐ見つめている。
「ひと目見た時から、君が僕の「運命の人」だと、はっきり理解した。
ぼくらは、出会うべきして出会ったんだ。
君に向かって走り始めた僕のこころは、誰にも止めることができない。
本気で僕は、出家する!」
マイクを握り締めている松島の指が、かすかに震えている。
このまま勢いに乗り、どこまでも告白が続きそうな気配がただよっている。
血走った眼が、まっすぐ恵子を見つめたままだ。
まばたきひとつしないその眼には、いままで見せたことのない熱い光が宿っている。
(おい。またまた出家すると言いやがったぞ、あの野郎!。
酔っぱらったまま、勢いに乗って、どうしても尼僧に結婚を迫るつもりなのか、松島のやつは。
やばい展開になって来たぞ。このままじゃ必ず、みんながまずいことになる)
そろそろ止めたほうがいいな、このままじゃ大事件が勃発すると祐三が、
ソファーから腰を浮かせる。
立ち上がりかけた祐三を、「まぁまぁ」と妙子がうしろから抱き留める。
「ええやないどすか、止めんでも。せっかく始まった愛の告白どす。
青春真っ盛りの2人やないどすか。
ウチかて、そんな風に殿方から愛を告白されたら、胸がドキドキ震えます。
この先どうなるかは、お2人が決めればええことどす。
ええ大人としてはウチらは、黙って、なりゆきを見守りましょう。
それが、ウチと祐三はんの役目どすさかい」
「見守るのはかまわん。だが尼僧は戒律のために、結婚できない立場にいるはずだ。
無理難題を言っている奴を、野放しにするわけにはいかん。
火傷するまえに、適当なところで止めてやるのがいい大人たちの責任だろう?」
「あの雰囲気から見ると、そうでもないようですなぁ。恵子ちゃんも。
ちゃんと告白を受け止めているんやと思います。
あの顔は、まんざらでおへん。
いいじゃないどすか、この先で若い2人がどうなろうと。
ウチらは黙って、なりゆきを見つめてあげましょ、それだけでええだけのことどす)
「冷静な女だな、君は。
願いが叶わなければ、出家すると言い出しているんだぞ、松島の奴は。
放っておくわけにはいかないだろう、松島の後見人役の俺さまとしては!」
(78)へつづく
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