農協おくりびと (73)悲しみは、あとからやって来る
午後1時過ぎ。
老農の葬儀が、終わりに近づいていく。
スタッフの最後の仕事は、斎場から出ていく霊柩車を見送ることだ。
柩の蓋を閉じる直前。長老が、老農の顔を覗き込む。
「俺もすぐ逝くから、向こうで待っていてくれ」と、しんみりとささやいた。
そのひとことが、ちひろの耳から離れない。
霊柩車を見送る方法に、決まりは無い。
合掌か、もしくは礼拝して見送る。それが一般的だ。
自衛官や警察官、消防官などの場合は敬礼で見送られることもある。
霊柩車の見送りに立ち会うたび。
ちひろは決まってあるひとつの光景を、頭の中に鮮明に思い出す。
YouTubeで見た、見送りの光景だ。
撮影された場所は、ニュージーランドのパーマストン。
首都ウェリントンから、200キロあまり北へ行った学生の街だ。
この街で30年間。物理と数学を教えていた高校の先生が、お別れのため、
霊柩車に乗って母校を訪れる。
このとき。校庭に集まっていた千人ちかい男子生徒たちが、
一斉に「ハカ」を踊りだす。
「ハカ(Haka)」は、ニュージーランドの先住民族・マオリ族の戦士たちが
戦いの前におこなう伝統の民族舞踊だ。
力を誇示し、相手を威嚇するために踊るといわれている。
有名な「ハカ」に、ラグビー・ニュージランド代表チーム「オールブラックス」が
試合の前に舞うものがある。
ハカを踊り終えた男子生徒たちが、霊柩車のために道をあける。
霊柩車を見送るたび。あの日の映像が、ちひろの脳裏によみがえる。
日本に、ハカのような風習は無い。
静かに、遠ざかっていく霊柩車を見送る・・・それが日本の習わしだ。
気がつくと霊柩車が、ウインカーを出しながら最初の角を曲がるところだった。
曲がり角に、長老と消防の制服を着た独身3人衆が、背筋を伸ばして立っている。
霊柩車が通り過ぎていく瞬間。長老が深々と頭を下げた。
独身3人衆も、消防式の敬礼を送る。
少し離れた場所に立っていた祐三が、霊柩車が次の角を曲がって消えるまで、
じっといつまでも頭をさげていた。
悲しみは、霊柩車を見送ったあとから湧き出してくる。
じわじわと、もの悲しい思いが胸の中へひろがっていく。
役目を終え事務室へ戻る途中、ちひろはいつもそんな哀しみを胸に抱く。
哀しみの波紋は、胸から全身へ時間とともに広がっていく。
そんなちひろを、「あんたは、いつまで経っても情に溺れ過ぎ。」
と、先輩女子が笑う。
「葬儀のたびにいちいち泣いていたら、涙がいくらあっても足りなくなる!」
といつものようにちひろの背中を叩く。
「だからお前さんは不感症なんだ。心がひからびている乾燥女め!」
制服姿の祐三が、そんな2人の背後を通り過ぎていく。
祐三は数年前に、地域消防を退官している。
しかし何かあるたび、団長だった祐三は制服姿で現場へやって来る。
いまだに消防のつながりを断ち切れない男。それが祐三という男だ。
独身3人衆も祐三の事を敬意をこめて「分団長どの」と呼ぶ。
本物の分団長は、別にいる。
だが祐三が制服姿であらわれるかぎり、いつまでたっても「分団長どの」と、
消防団員たちから呼ばれている。
祐三はいまも特別な象徴として、分団員たちから愛されている。
「本日は、お疲れ様でした。
事故もなく、警備も無事に、すべて終了しました」
報告を済ませた祐三が、戻って来る。
立ち話をしているちひろと先輩女子のもとへ、祐三の靴音が近づいてくる。
スタスタと歩いてきた祐三が「許可はもらった」と、2人の前に立つ。
「本日、午後6時。いつものカラオケ店にて3回目の合コンをひらく。
許可はたったいま、所長からもらってきた。
2人とも時間厳守にて、いつものカラオケ屋へ顔を出す様に。
命令は以上だ。じゃ、お疲れ様さん!」
祐三からいきなり、合コン参加命令がやってきた。
これでは、葬儀後の哀しみに浸っている余裕は、微塵もなさそうだ・・・
(74)へつづく
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