第7難 でぃふぃかると・ぷろぶれむ
昨日の”初登校日”は忙しい一日だった。私が疫病神だと知っていてもなお近寄って来れる勇気のある、それでいて野次馬根じょ……好奇心旺盛なクラスメートたちから家の火事のことを休み時間ごとに聞かれ、それをそれとなくかわしつつ空いた時間で(ほのかちゃん経由で)プリントをくださった各教科担任の先生へのお礼参り。授業中も一瞬も気が抜けず、汐里ちゃんがくれたノートを見ながら一週間の遅れを取り戻そうと必死だったし、放課後は放課後で担任の
そんなこんなで、人生で一番声帯を酷使したんじゃないかっていうくらい人と話して、肉体的にも精神的にも疲れていた私は、市村さんの車で帰って、ご飯を食べさせられて、シャワーをサッと済ませてそのまま寝てしまった。
そして今日、登校日二日目は昨日とはちょっと変わって、話を聞きに来たのは火事の話を又聞きした他クラスの野次馬たち。げんなりした私を見かねたほのかちゃんが野次馬の男子の一人に掴みかかって一触即発の空気になったけれど、運良く通りかかった五木先生が仲裁してくれたおかげで事なきを得た。
その後も、ほのかちゃんが私に近寄ってくる生徒に片っ端から凄んだおかげで、徐々に平穏な休み時間を取り戻していった。ちなみに汐里ちゃんが『騎士ってよりかは忠犬だね』って笑ってからは、ほのかちゃんの怒りは汐里ちゃんに向けられた。
友だちのおかげで休み時間は昨日よりはゆっくり過ごせるようになったんだけど、授業中は相変わらず忙しかった。一週間分の遅れはそう簡単には取り戻せない。昨日は勉強しないで寝ちゃったから、今日からは家に帰ったらちゃんと勉強しよう。
宣言通り、学校が終わって家に帰るとまず勉強を始めた。秋人さんには、勉強をするから、最低限の用事以外には一人にしてもらえるように頼んだ。
次の日も、その次の日も同じようなサイクルで、学校に行って、勉強して、帰って、勉強して。まだ生まれて十七年しか生きていないけど、この状況は人生の中でけっこう上位に食い込むくらい辛い。でも、みんなが支えてくれた分、頑張らなくちゃ。
*
「ふぅ……」
今日も、学校から帰ってきてすぐに自分の部屋に籠もって勉強に専念していた。秋人さんは大学に行っているらしく、まだ帰ってきていない。
とりあえず、最初はまだ好きな部類の英語から手を付けてみた。汐里ちゃんのノートのおかげで文法がスッと頭に入ってくる。英単語は手を動かすしかないから、とにかく紙にペンを走らせる。今日のところは、教科書のチャプターの区切りのいいところに落ち着いたので英語は終了。
次は数学……一番苦手な教科。これだけは毎日やっているのだけど、とにかくヤバイ。昨日まで数列を復習していて、汐里ちゃんノートのおかげでなんとか人並みの点数は取れそうかなって気はしているのだけど、問題は次だ。汐里ちゃんノートをとりあえず開いてみたけど……分からないところが分からない。なんかよく分からない曲線がうねってるし、limってどちら様ですか。お察しの通り、微分・積分にぶち当たっているのだけど、まず微分がよく分かってないから当然積分も顔面から転んでいる。
汐里ちゃんのノートを見て、まず”傾き”とやらを求めようとしているんだけど、もう定規とか分度器使っちゃダメですかね。そういうことじゃないですね、はい。
問題とただただにらめっこが続いて、やる気も気力もなくなってきたところで、誰かが扉を二回ノックした。
「はーい……」
「コマリ様、ただ今戻りました」
秋人さんだ。座っているのも疲れたから、今日は私の方からドアを開けに行った。
「コマリ様、今日もお勉強をしていたのですか」
「はい……」
返事を返す元気もなくて、それしか出てこなかった。
「どうですか、お勉強はちゃんと進められていますか?」
「えっと、それは……」
全然出来てないっていうのは恥ずかしすぎるから、なんとかごまかそうと思ったのだけど、そんな私の様子を知ってか知らずか秋人さんが『失礼します』と部屋の中に踏み込んだ。
「あ、ちょっと……!」
もう遅かった。秋人さんは机の上に置いてあった一番見られたくないプリントを真っ先に拾い上げた。
「…………これは微分ですね。解答欄が真っ白ではないですか」
「うぐっ……それは、まだ手を付けたばかりなので……」
この期に及んで、まだ私の心は認めようとはしなかった。
「ほぅ、こんな問題、朝飯前だと」
「そ、そうですね……」
ここまで人に支えてもらっておいて、全然できない自分が恥ずかしい。
「では、一問でいいので解いてみてください」
「にゃんですと……」
「主人の学力を知り勉学のケアをすることも、執事の務めですから」
上手いこと秋人さんに言いくるめられ、椅子をひかれ、机に向かう。視線を落とすと、何度読んでも分からなかった問題がさっきと同じ顔をしてニヤニヤとこっちを見ている。
「コマリ様、手が止まっていらっしゃいますね」
「うるさいです」
問題文を三周したけれど、何をすればいいのかさっぱり分からない。
「………………ごめんなさい、全然分からないです」
「最初から素直にそう言えばいいものを……その年で、余計な意地など張らない方がいいですよ」
秋人さんはまるで単純な私の気持ちなんか最初から分かっていたかのように、言葉を続けた。
「あなたはまだ幼い。あなたが今持ち得ている知識なんて小指の先ほどのもので、まだ知らないことは星の数ほどあります。全知全能な人間などこの世には存在しませんから、知らないこと、分からないことがあるのは当然ですし、それを恥じる必要などまったくありません。ですので、意地を張って一人で悩むなど、はっきり言って時間の無駄です。あなたにはまだ知るべきことが山のようにあります。使えるものは使って、早く前に進んでしまいましょう。もちろん、この私を使ってもよろしいのですよ」
心がすうっと軽くなった。秋人さんはどうしてこうも簡単に、私の心を動かすのだろう。
「秋人さん……あの……!」
「コマリ様、感謝の言葉なら、説明のあとでいくらでも言わせてあげますから、今は勉強に集中しましょう」
「……分かりました!」
今度こそ意地を張るのはやめた。秋人さんは『それでいい』って二つ頷くと、腰をかがめて問題を覗き込んだ。
「まず、微分とはある点での、接線の傾きを意味します。または変化の割合とも言いますね。そこは理解しておられますか?」
「えっと、アレですよね、xの増加量分のyの増加量のやつ……?」
「疑問形なところに不安は残りますが、正解です」
秋人さんは更に姿勢を低くし、まっさらなルーズリーフを一枚手元に用意し、サラサラとU字状の曲線のグラフを書いた。
「では、コマリ様、このy=f(x)グラフの中にどこでもいいので地点aを決めてください」
「分かりまし……た」
何気なく横を向くと、秋人さんの横顔が予想以上に近くにあることにいまさら気がついた。なぜだか急に心臓がバクバクいいだしたけれど、今はそんなこと気にしている場合じゃない。勉強に集中しなくては。秋人さんに言われたとおりにグラフの右下の方に点aを書き込んだ。
「aを決めたら、次はbを決めます」
点bは秋人さんがグラフの右上の方に書き込んだ。
「この点aの座標が(a,f(a))で、bの方が(b,f(b))という座標だとすると、変化の割合の式はどのように書けるでしょうか」
さっき秋人さんが近いということに気がついてから、緊張しっぱなしだけれども、なんとか分かる範囲だったからグラフの下に『b-a分のf(b)-f(a)』を書いた。
「そうです、まずは大丈夫そうですね。次に、この点bをこの点aに近づけるという作業をします……この作業が微分で――」
…………近い近い近い近い。点aと点bのごとく近い。秋人さんは説明するのに集中してて、身体がどんどん私に近寄ってきていることに気がついていないみたいだ。秋人さんがせっかく教えてくれてるのに、全然説明が頭に入ってこない。途中までは、すごく分かりやすかったはずなのに、秋人さんの腕が、吐息が、香りが私にそっと触れる度に、私の集中力がどこかへ飛んでいってしまう。
「……マリ様、聞いていますか」
「へあっ! ご、ごめんなさい!」
しまった。秋人さんがせっかく教えてくれているのにボーッとしてしまった。
「私の説明を無視してまで何か考え事ですか。さぞかし大事な考え事なのでしょうね」
「いや、えっと」
秋人さんを怒らせてしまったけど、それよりもその大事な考え事が秋人さんのことだなんて、天地がひっくり返っても言えない。
「コマリ様……どうしました、顔が真っ赤でいらっしゃいますが」
顔が赤い!? どうしよう、秋人さんにバレちゃった!?
「あの、これはちがくて……そういうのじゃなくて……!」
秋人さんが私の額に優しく触れた。あれ、秋人さんの手って、こんなに冷たかったっけ。温度差のせいで、余計に秋人さんという存在を感じてしまう。顔中に熱が集まってきて、どんどん火照っていく。
「これは……コマリ様、熱があるじゃないですか……!」
「いや、そういうワケではなくて……え、熱ですか?」
あれ? 言われてみれば、なんか熱いかも――――
「コマリ様っ――!」
そこから先は、よく覚えていなかった。
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