8:おまじないをあなたに
「どうかしたの?」
襖を開けて、隣の居間から葵先輩が顔を覗かせた。
「漣里くんが手を切ったので、消毒させていただきます」
「かすり傷なのに……」
「救急箱とティッシュ、お借りしますね」
私は漣里くんの呟きを黙殺した。葵先輩が笑う。
「どうぞ。漣里は自分の身体に無頓着だから助かるよ。ごめんね、ありがとう」
「いいえ」
葵先輩は微笑を見せた後、襖を閉じた。
さて、治療をしなくちゃ。
私は漣里くんを座らせてから、救急箱の蓋を開けた。
救急箱の中にあった消毒液を右手に取る。
それから、漣里くんの左手の人差し指の下にティッシュをあてがい、上から消毒液をかける。
余計な液をティッシュで拭きとって、怪我に絆創膏を貼る。
「痛いの痛いのとんでけー」
治療が終わった後、私は目を閉じて、漣里くんの左手を包んで唱えた。
「…………」
はっ!
漣里くんが物言いたげな目で私を見ている!
私は赤面しながら、ぱっと手を離した。
「ご、ごめん。子どもっぽかったね。お母さんがいつもやってくれたものだから、つい」
私は照れ笑いを浮かべた。声のトーンを落として、目を伏せる。
「子どもが転んだときとかさ。一人だと転んでも泣かないのに、お母さんが心配して『大丈夫?』って声をかけると、途端に泣き出しちゃうことってあるじゃない?」
「ああ。あるな」
「あれは自分を守ってくれるお母さんの存在に安心して、気が抜けちゃうからだと思うんだよね。このおまじないもそう。痛いの痛いのとんでけーって誰かに言われると、ああ、この人は自分がいま、痛くて苦しいことをわかってくれてるんだなって、安心するんだ。そうしたらどんなに痛くても、苦しくても、その言葉が支えになる。痛みに立ち向かう勇気をくれる」
「…………」
「なので、なんというか、その……気休めにでもなればなーと……思います」
私は徐々に頭を低くしていった。
漣里くんが何も言わないから、恥ずかしい。
幼稚だと思われたかな……痛い奴だって思われたらどうしよう。
上目遣いに様子を窺っても、漣里くんは無表情。
左手の絆創膏を見下ろして、沈黙している。
もう馬鹿にされてもいい。
なんでもいいから、お願いだから何か言ってください……!
「大怪我ならともかく、たかがかすり傷に大げさじゃないか」
沈黙の果てに、漣里くんが呟いた。
そこでやっと私も顔を上げて、言い返すことができた。
「そんなことないよ。『大事は小事より起こる』って、ことわざにもあるでしょう? 小さな傷だって化膿したら大変なことになるんだから。私も小学生のとき、足の傷を放置したことがあるの。そしたら凄いことになったんだよ。赤く腫れてね、透明な液体が滲み出てきて、それから膿が……」
「わかった。俺が悪かった」
具体的な惨状を伝えるよりも前に、漣里くんが私の言葉を遮った。
グロテスクな話を好んで聞きたいと思う人間は、そう多くはないだろう。
漣里くんも例外じゃなかったらしい。
『体験談を通じてわかってもらおう作戦』は成功だ。
「そうだよ」
私は大きく頷いて、救急箱を閉じた。
「自分のことは誰よりも大切にしなきゃダメ。痛いのも苦しいのも、他人はそれを想像して心配することはできても、本当の意味で理解することはできないの。誰も代わってあげられないの。だから、どんな小さな痛みでも、ないがしろにするのは絶対にダメ」
別にこれは、怪我に限ったことじゃない。
身体の傷は見えるから心配することができる。
でも、心の傷は誰にも見えない。辛くても悲しくても気づけない。
自分を労れるのは自分だけなんだ。
「漣里くんが不幸になったら悲しむ人がいるっていうこと、忘れないで」
「…………」
漣里くんが呆けたような顔で私を見た。
大げさな物言いだったかもしれない。でも、それが私の本心だし、紛れもない真実だから撤回はしない。するつもりもない。
漣里くんの視線には気づかないふりをして、汚れたティッシュを丸めてから、彼の手を取り、絆創膏を見る。
内側に血が滲んでいた。
「かすり傷ならこんなふうに血が滲んだりしないよ。痛いでしょ?」
私は顔をしかめて、至近距離で漣里くんを見つめた。
顔が近いけど、いまはときめいている場合じゃない。怪我の心配が先だ。
「痛くない」
「嘘」
「本当。おまじないしてもらったから」
漣里くんは指先に力を入れて、私の手を少しだけ握り返してきた。
まるで、ありがとう、と伝えるかのように。
――あ。
私は目を見開いた。
ほんの少しだけだけど、漣里くんの口元が緩んでる。
笑ってる……。
そうか。
漣里くんは、こんな顔で笑うんだ。
初めて見る笑顔に、胸の奥が疼いたような気がした。
「……そっか。良かった」
気休めでしかないおまじないでも、心配する気持ちが伝わったなら嬉しい。
自然と、私も笑っていた。
漣里くん手作りのカレーは中辛で、私好みだった。
野菜の切り方一つを取っても私が作るものとは違って新鮮だ。
何よりもこの状況が凄い。美形兄弟に囲まれての食事なんて贅沢すぎる。
話し上手な響さんがいるおかげで、話題には事欠かず、興味深い兄弟の昔話も聞くことができた。
総じて、とても楽しい夕食になった。
「カレー、とってもおいしかったです」
食後のコーヒーを準備してもらった私は、上機嫌に言った。
「本日はお招き頂いてありがとうございました。成瀬家の方々にはお世話になってばかりですね。特に漣里くんには色々とお世話になって、どうやって恩返ししたらいいのかわかりません」
「じゃあ身体で払うっていうのはどう?」
ブラックコーヒー片手に、響さんが悪戯っぽく笑った。
か、身体で……!?
落雷を受けたような衝撃が全身を貫く。
モザイク処理された光景が頭の中に浮かんで、私は戦慄した。
対して、葵先輩と漣里くんは無言。
ただひたすら冷たい、軽蔑の眼差しで実の兄を見つめた。
「……いや、止めて、そんな目で見ないで愛する弟たちよ」
響さんが悲しげな顔で、ふるふると頭を振る。
「別にお兄ちゃんは真白ちゃんに18禁指定なことをしろなんて言ってないじゃないか!」
「いま言ったよね?」
葵先輩は聖母のような慈悲深い微笑を浮かべた。
あ、怖い。これは本当に怖い笑顔だ。背筋がぞくっとした。
さすがの響さんも青ざめて震えている。
「今日こそ本気で殴っていいってことだよな。俺もそろそろ永久に黙らせたいと思ってたところなんだ。ちょうどいい」
漣里くんがゆらりと立ち上がった。彼の背後に猛吹雪の幻覚が見える。
「違うって! ちょい待ち、すとーっぷ! 早まるな!」
きゃーと女の子のような悲鳴をあげながら響さんは客間と居間を隔てる襖に背中を押しつけ、漣里くんから距離を取った。
漣里くんは無表情で歩み寄る。
目が本気だ!
「れ、漣里くん、落ち着いて。冗談! きっと冗談だから!」
私も慌てて止めに入った。響さんの前に立ち、両手を振る。
漣里くんの気迫は尋常ではなく、本当に流血沙汰になりかねない。
漣里くんは不満そうながらも止まってくれた。
その隙に、響さんが背後から私の肩を掴んできた。ちょうど私が響さんにセクハラをされて、漣里くんの背後に隠れたときのような状態だ。
「だから、俺が言いたいのはそーゆうことじゃなくて、真白ちゃんが漣里のスイーツ店巡りに付き合うのはどうかと思ったんだよ」
ぽんぽん、と後ろから響さんが私の頭を叩く。
「カップルや女の子しか入れないような店でも、真白ちゃんがいれば入りやすいだろ? ほら、行きたがってたパンケーキ屋があるじゃん。アメリカに本店がある『ストロベリーケーキ』っていう店。あれなんてどう?」
「…………」
漣里くんの表情が微妙に変化した。漣里くんが甘いもの大好きであることはもう確定事項だ。
ストロベリーケーキ。
私も友達と行ったことがあるお店だ。行列のできる人気店としてテレビや雑誌でもよく取り上げられている。
一番の人気はなんといっても、ホイップクリームたっぷりのパンケーキ。
イチゴやバナナ、ブルーベリーなどのフルーツをトッピングした『ミックスフルーツパンケーキ』がお店の看板メニューで、パンケーキの他にもワッフルやクレープなども取り扱っている。
スイーツ好きには堪らないお店だ。
「俺も葵も甘いもの苦手だから、アホみたいな量のクリーム見ただけで胸焼けしそうだったけど。漣里は行きたいんじゃねえの? 真白ちゃんがいたらカップルを装って堂々と店に入れるよ? ケーキバイキングだっていけるよ? 食べ放題よ?」
「…………」
漣里くんは棒立ちで突っ立っている――ように見えて、右手が硬く握り締められていた。彼の頭の中では理性とスイーツが天秤にかけられていることだろう。
私は内心で微笑みながら尋ねた。
「漣里くん、興味があるなら一緒に行かない? 私もゴールデンウィークに行ったきりだし、ちょうど行きたかったんだ。月曜日はバイトが休みなんだけど、予定がなかったらどうかな?」
「大丈夫だろ、漣里友達いねえし」
「兄さん」
余計な一言を葵先輩がたしなめた。
「……でも」
漣里くんはどこか不安そうな声をあげた。
「もし学校の奴と鉢合わせしたら、本当に付き合ってると思われかねない。俺の悪評は知ってるだろ。あんたまで誤解されて、悪く言われるのは……」
「それは全然気にしない」
私は漣里くんの言葉に自分のそれを被せた。
「そもそも漣里くんは悪いことなんてしてないじゃない。一人の人間を助けたんだもの。堂々と胸を張ってればいい」
漣里くんが負い目を感じる必要は、本来どこにもないんだ。
好き勝手に噂している人は、真相や漣里くんの人となりなんてどうでもいいと思ってる。そういう人は一時的に友達同士で盛り上がる話題として楽しめればいいんだもの。
そんな人たちのために、漣里くんが遠慮することなんてない。
漣里くんが心配してくれるのは嬉しいけど、そんな心配はご無用!
「わかる人にだけわかってればいいって、漣里くんが言った言葉だよ。私は他人が何を言おうと気にしない。私は私がしたいようにする」
私は胸を張って宣言した。
「だから、漣里くんも自分の気持ちに正直に、好きなことをしたらいい。行きたいなら行こう? 食べたことがあるから言えるよ? あそこのホイップクリームは絶品です!」
びしっと親指を立ててみせる。
漣里くんは面食らったように目を瞬いた。葵先輩もきょとんとした顔をしている。
「というわけで、行きませんか?」
私は首を傾げた。
「…………」
漣里くんは逡巡するように、視線をさまよわせた。
「行って来なよ漣里。せっかく真白ちゃんが誘ってくれてるんだから」
葵先輩が微笑して、漣里くんを促した。
「い……」
「い?」
「……行く」
漣里くんがそっぽ向いて言った。
照れているのか、頬が赤くなっている。
「うん、行こう」
私は頷いて笑った。
「じゃあ打ち合わせのためにも連絡先交換したら? 俺も真白ちゃんの連絡先知りたーい」
「わ」
背後から抱きしめられて、私は慌てた。
右肩を見れば、響さんがにこにこしながら私を見ている。ちょっと顔を寄せられたらキスされてしまいそうな至近距離に、心拍数が乱れた。
響さんはスキンシップが多くて困る。ここまで積極的な男性を私は知らない。というか、あなたにはGカップのマリちゃんがいるんじゃないんですか? 他の女子にこんなことしていいんですか!?
「ああああの……」
目を回していると、漣里くんに腕を引っ張られ、背後に匿われた。
……え。
予想外の行動に、胸におかしな脈が生まれる。
「気安く触るな。今度こいつに抱きついたら問答無用で殴る」
漣里くんは低めの声で警告した。
「そんな怒んなくてもいいじゃん。スキンシップも親密度を上げるための大事な手段だよ?」
「黙れ。とにかく触るな」
漣里くんの周囲の空気がぴりぴりと帯電している。
「はーい」
怒られているというのに、響さんは悪びれもせず肩を竦めた。のみならず、背後に隠れている私にウィンクしてくる。
本当に懲りない人だ……。
もう苦笑するしかない。
でも。
目の前にある背中を意識する。
いまも漣里くんが防波堤になって守ってくれている事実が、嬉しかった。
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