9:上様と姫

 三兄弟との連絡先の交換を終えて、私は食器を洗っていた。

 つい会話が弾んで長居してしまったけど、これが終わったら帰らなきゃね。もう八時半だもの。

 そんなことを考えていると、漣里くんがやってきた。

 冷蔵庫を開けている。

 コーヒー飲んだばかりだけど、まだ何か飲むのかな?

 そう思って振り返らずにいたけれど、彼は食器棚からコップを取ろうとしない。

 そればかりか、小さな音がする。

 たとえるなら、野菜をちぎるような音。

「……何してるの?」

 私はタオルで手を拭きつつ振り返った。

 漣里くんは牛乳パックの底を切って作ったお皿にキャベツやニンジンといった野菜を並べている。

 これはもしや、小動物の餌?

「ハムスターの餌作り」

「ハムスター飼ってたの!?」

 私は驚愕した。

「何。そんなに驚くこと?」

「うん! いつか飼ってみたいって思ってたの!」

 ハムスターといえば可愛らしい小動物の代名詞。

 特に『ロボロフスキー』という最も小さな種類のハムスターは、動物図鑑で一目惚れした。

 ロボロフスキーには驚くべきことに、眉毛がある。

 正確には目の上の白い毛が眉毛っぽく見えるだけなんだけど、それがとっても可愛い。

「どんな種類? ゴールデン? ジャンガリアン?」

 思わず両手を握り、前のめりになって尋ねる。

「食いつくな……興味があるなら見に来る? 俺の部屋」

「えっ。いいの? お邪魔して。あれだったらハムスターだけ連れてきてもらっても……」

「別にいいよ。この前、あんたの部屋にも入らせてもらったし。散らかってても良かったら」

「うん。それはもちろん! ノープロブレム!」

「じゃあついてきて」

 私は漣里くんの先導に従って二階に向かった。

 男の子の部屋に入るのは初めてで、どきどきしてしまう。

 漣里くんが扉を開けると、心地良い冷気が頬に触れた。

 ハムスターがいるためか、常時エアコンを稼働させているようだ。

「お邪魔します……」

 散らかっていると言われたけど、そうでもなかった。

 むしろ片付いているほうだと思う。散らかり具合は私の部屋と同じようなものだった。

 でも、本棚に並べられた本の種類も部屋の匂いも、当たり前だけど、私の部屋とは全然違う。

 壁にはポスターの類はなく、小物も少ない。漣里くんの性格がよく出ている部屋だった。

 部屋の壁際に、ゲージが二つ並べてある。これがハムスターの家だろう。

 漣里くんはその前に跪いた。許可を得て、私も隣に座らせてもらった。

 二匹とも巣箱の中にいるらしく、姿が見えない。

「こっちがジャンガリアンの上様で、こっちがロボロフスキーの姫」

 漣里くんは順番に指差して教えてくれた。漣里くんの前、左のゲージにいるのがジャンガリアン、私の前のゲージにいるのがロボロフスキー。

 ……種類はわかった、けど。

「……上様と姫って、名前?」

 私は目を瞬いた。

「そう。上様も姫もまだお休みになられてるな」

 敬語!?

「ぶふっ」

 漣里くんがゲージを覗き込んで、大真面目な調子で言うものだから、堪えきれずに噴き出す。

「何」

「う、ううん、上様と姫って……あまりにネーミングセンスが可愛すぎて……」

「……変? いやこれ、ひー兄がつけたんだけど」

 多分、響さんは冗談で言ったんだと思うんだけどな?

 漣里くんが本気で受け取ってしまったから、なし崩し的に確定しちゃったんだろうな。

 微笑ましいエピソードに、私の頬も緩んだ。

 漣里くんはまず、上様のケージの二階部分を取り外して、掃除を始めた。

 掃除の音で気づいたらしく、上様が出てきた。

 つぶらな黒い瞳に、艶やかな……いや、張りを失った毛並み。

 動作にも機敏性がない。

 上様はおじいちゃんハムスターなのかもしれない。

 ハムスターって、寿命が短いんだよね。ジャンガリアンは長くても二~三年しか生きられなかったはず。ロボロフスキーはさらに短いらしい。

 でも、たとえおじいちゃんハムスターであっても、可愛いものは可愛い。

「可愛いねぇ」

 ジャンガリアンハムスターの模様はシマリスのようだ。もしくはウリ坊。

「触ってもいい?」

「ああ。寝起きの顔してるからちょうどいい。抵抗もしないだろ」

 漣里くんは両手でそっと上様をすくい上げた。

 ……あ。

 この仕草だけで、漣里くんがどれほど上様を大切に育てているかがわかった。ネットの動画では、平気で首根っこを掴むような飼い主もいたのに。中には虐待としか思えない動画だってあった。

「手ぇ出して」

「はい」

 両手を差し出すと、上様が私の手の上に乗った。小さな鼻がひくひくと動いている。嗅いだことのない匂いに戸惑っているのかもしれない。

「可愛い……」

 私はうっとりと上様を眺めた。上様が動き回るため、急いで手を入れ替えて足場を作り、落ちないように気をつける。

 上様が動きを止めたところを見計らって、私は身体を撫でた。

 ふわふわ!! 柔らかい!!

「もういい?」

「うん」

 ひとしきり堪能した後、上様を漣里くんの手に渡す。

 漣里くんは人差し指と親指で上様の頬をつまむように撫でてから、ケージに戻した。私が構っている間に掃除は終わっていて、新しい餌も用意されている。

 上様は身体を撫でつける仕草をした後、餌の元へ歩いていった。

「……こいつもう、生まれて二年半になる。立派なじいちゃんハムスターだ」

 餌を食べている上様を見て、漣里くんが呟いた。

「いつ寿命で死んでもおかしくないんだけど、できれば長生きしてほしい」

「うん……そうだね」

「十年くらい生きればいいのに。十年でも、二十年でも」

「……よぼよぼのおじいちゃんのまま長生きしちゃうかもよ?」

「いいよ。それで」

 漣里くんは即答した。

「生きていてくれさえすればいい」

「……」

 真摯な言葉に、私は恥じ入ることしかできなかった。

 漣里くんはじっと、祈るような真剣な表情で上様を見つめている。

 漣里くんの愛情は、本物だ。

 それなのに茶化すようなことを言って、私はなんて馬鹿なんだろう……。

「……まあ、無理だろうけどさ」

 漣里くんは俯いた私を気遣うようにそう言って、上様のケージを横に置いた。

 今度は姫のケージを手元に移動させる。

 その振動で起きたのか、今度は巣箱から姫が出てきた。

 栗色の体毛に、真っ白い眉毛。お腹の毛は上様と同じく白い。

 小さい。上様の半分くらいしか体積がない。

 手のひらに余裕で収まるサイズだ。まだ子どもなのは明白だった。

「あああああああ」

 私は感動に打ち震えた。

 二頭身! 二頭身だ!

 なにこの世界中の可愛いを詰め込んだような生き物は……!

 餌の催促なのか、姫がゲージの側面を登って、張り付いた。老体の上様と違って、姫は活発だ。

 毛並みにも艶がある。お腹の毛は真っ白だった。

「かわいいー」

「あ」

 つい人差し指を伸ばしてしまった私は、姫のカウンター攻撃を喰らった。

 具体的には、思いっきり噛まれた。

 ホッチキスに挟まれたような鋭い痛みが走り、脊髄反射の勢いで人差し指を引っ込める。

「……痛い……」

 姫は上様と違ってつれない……。

 噛まれた箇所を見るけれど、血は出ていなかった。流血沙汰にはならなくて良かった。

 でもやっぱり、ちょっと痛い。

「……個体にもよるけど、ロボロフスキーは基本的に観賞用だから。不用意に触らないほうがいい。俺も何度か噛まれた」

「そうなんだ……」

 姫はその名の通り、おいそれと触れて良い方ではないようだ。

 痛みを和らげるべく、人差し指の中間あたりを揉んでいると、漣里くんが急に私の右手首を掴んだ。

 何事かと思っているうちに、漣里くんは左手で私の手を包み、一言。

「痛いの飛んでけ」

「…………」

 私は唖然とした。

 さっき似たようなことを私もしたけれど、するのとされるのでは全然違う。

 私の手を包む感触や、彼の体温を意識して、どぎまぎしてしまった。

 こ、これは、完全な不意打ちだ。

 頬がかあっと熱くなる。

「飛んでった?」

 漣里くんが手を離して、じっと私を見つめる。

 真剣な瞳に、ますます動揺が酷くなった。

「……う、うん、飛んできました」

 私はこくこくと頷いた。

 ……おまじないの効果というよりは、衝撃で痛みが吹き飛んじゃったよ。

 まさか漣里くんにおまじないを返されるとは予想外だ。

「え、えっと、本当に可愛いねぇ。見てるだけで癒されるね!」

 このままだと心臓がどうにかなってしまいそうだったから、私は急いで話題を変え、ケージの中の姫を見た。

 姫は回転車を回している。餌の要求のつもりだろうか。

「ああ」

 漣里くんの肯定には、わずかに自慢そうな響きがあった。

 感情の色をあまり表さない漣里くんには珍しいことだ。溺愛ぶりがよくわかる。

 ハムスターよりも漣里くんのほうが可愛いかも、なんて思ったのは私だけの秘密。

 そのとき、扉がノックされる音がして、間髪入れずに開いた。ノックの意味が全くない。

 驚いてそちらを見ると、響さんが携帯を構えていた。

「なんだ、二人で部屋にこもってるから、エロいことしてるのかなって期待したのに」

 響さんは残念そうに言って、携帯を下ろした。

「多分、兄貴が期待するようなことは今後一切ない」

 氷のような冷たい声音で、漣里くんが一刀両断した。



 翌日、日曜日の夜。

「夏休みなのにこっちに来ないの?」

 お風呂上りの私はタオルを首に引っ掛けた状態で、自室のベッドに座り、お母さんと電話していた。

「行かないよ。というか、行けない。ずーっとバイトだもん」

「お父さん寂しがってるわよ。お小遣いあげるから、顔くらい見せなさいよ。まさかお盆もそっちで過ごすつもり?」

「うん。お盆もバイト。みーこのお姉さんが紹介してくれた郊外のアミューズメントパークで働くんだ。好条件のバイトでねー時給が千円で、交通費も支給してくれるの! 面接してくれたスタッフさんも優しそうだったよ。子どももたくさん来るみたいだし、いまから楽しみなんだー」

 私はベッドの枕元に置いてあるハート型のクッションを抱えた。

「だから帰るのは無理。いまさら辞めるなんて言ったら大迷惑じゃない。スタッフさんや、何よりみーこのお姉さんに申し訳ないよ」

「あんたはいつからそんなバイト魔になっちゃったの……そんなにそこがいいわけ?」

「もちろん。せっかく頑張って入った高校だよ? 卒業までここにいたい。友達と離れたくないし、それに……」

 頭の中に浮かんだのは、三兄弟の顔だった。

 ……あれ?

 葵先輩と漣里くんは同じ高校生だけど、これまで全く接点などなかった。

 交流を始めたのは夏休みに入ってから。それほど長い付き合いでもないのに、何で真っ先に顔が浮かんだんだろう。

 特に漣里くんは、普段の仏頂面ではなく、指を手当てしたときの笑顔を思い出してしまった。

 な、な、何考えてるの。

 私は手で団扇を作り、ぱたぱたと熱くなった頬を扇いだ。

「それに、何よ? なんかあったの?」

「う、ううん! なんでもないよ!?」

 私は大慌てで否定した。

「と、とにかく、夏休みは帰れませんので。冬休みはさすがに帰るから」

「そう。残念ねぇ」

「じゃ、そういうことで!」

 私は電話を切って、ふーっとため息をついた。

 机の上に置いてある卓上カレンダーが目に入る。

 明日の月曜日には赤い丸がついていた。

 ついでにその五日後、土曜日には花丸がついている。

 これは地元で花火大会があるためだった。

 友達は彼氏と見に行くらしいし、誰かと一緒に行く予定があるわけでもないけれど……一人で屋台を見て回るのも気楽で良いし。

 ……寂しくないもの。うん。

 気を取り直して、私は携帯を取り上げた。

 メール画面を開く。あて先は漣里くん。

『こんばんは。確認だけど、明日の午後2時、さくらば公園の噴水の前で大丈夫ですか?』

 彼にメールを送るのは二回目――一回目はアパートまで送ってもらった後のお礼メール――だけど、やっぱり緊張してしまう。

 言葉遣いが変だったり、失礼にあたらないことを確かめてから、送信。

 ……送ったら返事が来るまでそわそわしてしまう。

 携帯を握ったまま、十分ほどテレビを見ていると、メールの着信音が鳴った。

「!」

 即座にメール画面を開いて確認。

『大丈夫。楽しみにしてる』

 絵文字も顔文字もない、そっけない文章が彼らしい。

 でも。

 楽しみにしてる、という一文が、私の心臓を跳ねさせた。

 これは私も気合を入れなくちゃいけない。

 ただ彼女役を演じるだけで、本当にデートするわけじゃないけど、それでも、楽しみにされているなら私も全力で応えるのが礼儀というもの。

 漣里くんは私の恩人だもの。

 一緒にいて恥ずかしいと思われるような女子になりたくない。

「……あ、明日、何着ていこう」

 ――私はこの後、恐らくデートを目前に控えた女子の共通の悩みであろう服の選定に、一時間ほど頭を痛ませることになる。

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