終章 “黒”の鎮魂歌
一体何日が経ったろうか。きっと出発してから一か月は経っている。
あの日から、時間はどうでもよくなった。ただただ、今組手の相手をしている少女のことを考えている。彼女の顔に、かつてあった喜びはなかった。
本当に強くなった。そう思う。今だって、俺の攻撃に対して突っ込んでくるのではなく、後退しつつさばいている。だからといって、けして攻撃性がなくなったのではない。こうやって少し大ぶりに上段に回し蹴りを放てば、勢いを流してからのカウンターを狙ってくる。鋭く、最短を進む拳。それを手でそらし、掠る程度に抑える。チッという音が耳につく。
拳打と蹴撃の音が、何かの音楽のように真昼の山々の間に響く。太陽に照らされた赤茶色の壁に挟まれて、俺とファスの輪舞は続く。そこに終止符を打つのは、時間という薄情ものだ。
「時間だ。そろそろ移動するぞ」
「わかった」
間合いを離して口にする一言で、ファスの動きも止まる。その応答の声はひどく冷たい。
構えを解いた彼女は、さっさとリュックを取り上げて出発の準備を済ませる。俺のリュックも含めて、その荷物は軽くなっていた。いよいよライツに近づき、シルルの者であると悟られるような装備を持ち運べなくなったからだ。俺の携帯食料もすでにない。ファスの黒魔の肉だけは、細かく砕いてボトルに隠してある。
当然のことながら、俺もファスも丸腰だ。すっかりぼろぼろになったファスのワンピースからのぞく足に、もはや黒いベルトは締められていないし、そこにささる両刃のナイフもなかった。
「今日にもライツに入る。組手もこれが最後だ。くれぐれも目立つなよ」
「わかってる」
聞きなれてしまった不機嫌な声が聞こえる。
その声を聴いてつい頭へと伸ばしてしまった右手がファスに掴まれるのも、もう何度目か。
「いらない」
「……そうか」
突き返された俺の手をなんとなく眺める。その手は、ファスの小さな手より小さく見えた。
「早く、いこ」
「そうだな」
俺とファスは歩き始めた。隣を歩いているはずのファスを、ずっと遠くに感じながら。
山々に囲まれ、それを自然の防壁とするライツに入国するには、当然山をある程度登る必要がある。走れば一瞬の距離も、ライツ兵に見つかることを考えれば歩くしかない。
遠くからは連続する銃声が小さく聞こえ、まばらな砲声が空気を震わす。高い場所を選んで双眼鏡で様子を伺えば、黒魔の集団と機械の骨格に身を包んだ集団とが交戦していた。よくは見えないが、あれでも氷山の一角らしいのがわかった。二人で接触するには、恐ろしいほどの大軍だ。こちらに黒魔が来ないことに感謝せざるをえなかった。
俺とファスは言葉を交わすことなく歩き、日が傾くころには目の前に下り坂が見えていた。
「そこの二人、止まれ」
耳の痛くなるような高い音の後、機械特有の響きをもって言葉が届いたのは、そんな時だった。指示通りにおとなしくしていれば、前方から幌のついた小型トラックのような車両が静かなエンジン音とともにやってくる。赤茶色の迷彩のかかったその車両の助手席の窓が下がり、一人の兵士が顔をのぞかせる。
彼は特に装備をきっちりとしているわけでもなく、俺たちのものとは違った赤茶色のBDUを着ている。威嚇のつもりか、窓からはアサルトライフルの銃床だけを窓から出していた。
「避難民か」
「そうなんです。隠れていた場所が襲われてしまって」
無駄にあった時間で考えた言い訳は、するすると口から滑り出る。ファスの表情が一瞬強張る。それを見た俺の心には、これで信憑性が強まるという打算と、出処の良くわからない痛みの二つの感情が生まれた。
「ほかに誰かいるのか」
「いえ、私たち以外には、誰も……」
ファスがきゅっと俺の袖を引く。その意味も分からないほど愚鈍ではないが、ここでそれに反応してしまうわけにもいかず、結局俺はファスから見ての愚物になってしまう。
「娘を守るのが精いっぱいで」
「……そうか。大変だったな」
勝手に何かしらを察した兵士は、俺たちに車に乗り込むよう促す。黒魔との戦闘に明け暮れる彼らは、対人の警戒能力を衰退させたらしかった。
幌の張られた荷台には、ふちに沿うように座席が取り付けられていた。お世辞にも座り心地がいいとは言えないが、軍のものにしてはいい方だろう。対して揺れもせず、車は発進する。
ファスは車に乗るのは初めてのようで、流れてゆく景色に視線を奪われていた。風が彼女の白髪を弄び、日光に煌めかせている。
少しすると、隣り合って座っていた俺とファスに、小窓を開けて助手席の男が話しかけてくる。
「お前たち、ついてるぞ」
「どうされたんですか?」
「ちょうど居住区に空き家があってな。お前たちはそこを使っていいそうだ」
「それは助かります」
行動の拠点となる場所が確保できるのは僥倖だった。きっと戦死者か何かの住んでいた家だろう。
「少しの金はやるから、それで当座はしのいでくれ。明後日にでも役所に行けば、適当に仕事を斡旋してくれるさ」
「そこまでしていただけるのですか」
「逆にそこまでしてやんなけりゃ、金もないお前たちは野垂死んじまうだろう」
「そうでした」
ニヒルに笑いながら言う彼に、愛想笑いで返事をする。
そこまでとは言ったものの、彼の発言は予想の範疇を出なかった。きっとシルルでも同じ対応をする。とりあえず、人畜無害で少し抜けた男を演じてやったに過ぎない。
「なにはともあれ、疲れたろう。親子水入らず、ゆっくり休むといいさ」
「ありがとうございます」
彼はそれだけ言って小窓を閉めた。親子ですらない俺たちに、彼の言葉が生きることはなかった。
そのまま車に身を任せていると、ファスの固定されていた視線がわずかに動いた。行く手に人工物の群れが現れたのだ。
コンクリートの灰色で埋め尽くされた街並みは几帳面に整えられていて、豆腐のような建物が立ち並んでいる。間には時折赤さびを身にまとった煙突がにょきにょきと地面から突き出していた。一面を覆うその景色の中央部では、唯一建築物と堂々と名乗れそうな、威厳に満ちた建物がある。おそらくあれが政治の中枢で、周りが居住区なのだろう。
小窓をたたいて、助手席の男を呼ぶ。
「あそこが居住区なのですか?」
「そうだ」
「ここは鉱業が盛んと聞いたのですが……」
「よく知ってるな。その通りだ」
俺の質問に驚きを見せる兵士。黒魔襲撃前からここは鉱業地帯ではあったが、学校で少し習う、そんな程度の知名度しかなかった。だから知識レベルが黒魔襲撃前と同じであるはずの避難民がそれを知っていることに驚いたのだろう。
しくじったかとも思ったが、彼は逆に感心したようであった。それゆえかきっちりと説明してくれる。
「地面から煙突が突き出ているだろう。あれは地下に通じているんだ」
「ということは、あの下に?」
「そうだ。今では兵器開発まで行われ、この国の心臓のようになっている」
誇らしげに彼は語る。彼の言葉通りであれば、俺たちは何としても地下に行く必要があった。
「そこへは、何か許可がないと立ち入れないのですか?」
「興味があるのか?」
「一応、技術者だったので」
「そうか、それだったら行く意味はないだろうな」
彼が言うには、地下に行くのは自由だが、工場内などに入るにはやはり許可がいるそうだ。工場の排熱がこもり、オーブンの中にいるのと変わらないから行くだけ損だそうだ。
「ま、行きたきゃ勝手にしな。そろそろ着くからな」
「そうなんですか?」
「ほら、金と地図だ」
巻かれた状態の紙と地味な巾着が小窓から投げて渡される。紙は地図で、音からして巾着袋には金が入っている様だった。
「着いたら現在位置とお前たちの家を教えてやるから、それまではもう少し待ってくれ」
彼はそう言って再び小窓を閉めてしまう。
その言葉通り、到着はまもなくだった。車から降ろされた俺は、広げた地図をもとに簡単に現在位置に家の位置、ついでに役所の位置を教えてもらう。
仕事を終えた兵士たちは、そそくさと帰っていった。
俺はこの時、彼らに感謝すればよかったのか、はたまた文句の一つでもつけてやるべきなのか。
自分の足で居住区を歩いた俺は出会った。出会ってしまったのだ。
「あなた……?」
「…………薫?」
死んだはずの、あいつに。
◇◆◇
その人は、長くて黒くてきれいな髪を夕日で染めた、女の人だった。切れ長の瞳が印象的で、美人ってこんな人のことを言うんだろうなって、そう思った。だけど、その人の周りの空気はなんだかどんよりしてる気がした。唇は荒れていて、頬が少しこけているからかもしれない。
何で私がここまで見たかって、それは、サギリが見たから。
何もしゃべらないで、ずっと歩いてたサギリが突然止まって、その人を見た。その人もサギリに気づくと、家に入ろうとしていたのをやめてサギリを見てた。
「あなた……?」
「…………薫?」
『あなた』はたぶん、サギリのこと。二人はやっとお互いに呼び合って、でも動かなかった。
サギリは今まで見たことのないくらい驚いてて、カオルって人も驚いてるのかな。サギリじゃないからよくわからないけど、たぶんそう。
「お母さん?」
カオルが入ろうとしていた箱みたいな家の引き戸をあけて、私と同じくらいの女の子が出てきた。その子はカオルを見て、サギリを見て、目と目の間に皺を作った。
「お母さん、誰?」
『お母さん』は聞いたことがあった。確か、お父さんと仲が良くて、一緒に子供を守ってくれる人。きっとあの子はカオルの娘。
そこまで考えたら、カルロの顔が浮かんで、胸のあたりがきゅうっとなった。
ついサギリの服の端っこをつまんじゃったけど、サギリは少し見るだけで何もしてくるれない。何かされても、なんか嫌だけど、サギリはやっぱり嘘吐きだ。
だけど、サギリはもっと嘘吐きだった。
カオルはまるで吐き出すみたいに、口を開いた。
「……お父さんよ」
「え……?」
「あの人はあなたのお父さん、狭霧京よ」
サギリは、私のお父さんじゃなかった。
私とサギリは、カオルの家に入れてもらった。入口のすぐそばには台所とかバスルームの扉があって、奥には二人には少し狭そうな部屋が二つある。私たちはその片方に通された。背の低い机や箪笥がわずかにあるばかりの部屋で、灰色の壁を頼りない蛍光灯の明かりが照らしている。
私とサギリは丸い机について、カオルとその娘に向き合っている。目の前には、カオルが目を伏せながら持ってきた湯呑が、白い煙をふわふわとさせていた。飲もうと思ったけど、暑くて手を引っ込めてしまった。
サギリは難しい顔をして、白湯をすすっていた。誰もしゃべらない。誰も目を合わせない。私にも聞きたいことはないし、いつまで続くんだろうなぁなんて思う。
「……生きてたんだな」
「ええ」
サギリがやっと口を開いた。サギリとは思えないくらいに、声に力がない。その目線も湯呑に吸われている。
「シルルのがライツよりも近いだろう。どうしてここに?」
「あなたに会いに行こうとして、少し遠回りして観光してたんです。だから、避難先はライツしか選べなかったんです」
「そうか」
力のないサギリと違って、カオルの声は平坦だ。その表情からも、私には何もわからない。ちょっと不気味に感じるくらい、何もわからない。
サギリは湯呑に口をつけ、少し啜る。温まった体内の空気をゆっくりと吐き出すように、一息ついていた。
そして、私は初めてサギリの泣くところを見た。
「よかった、本当に良かった……」
まるで恥ずかしいのを隠すみたいに、サギリは片手で顔を覆いながら泣いてた。私には、よかったというサギリがどうして泣くのかわからない。私が泣いたときは、胸にナイフが突き立ったみたいに辛かった。
でも、わからなかったのは私だけじゃないみたいだった。
「何がよ……」
「薫……?」
「何が良かったのよ!」
カオルが爆発した。たまったものが噴き出すみたいに、金切り声が重なる。なんで私たちを守ってくれなかったの、私たちで暮らすのはつらかったのよ、そんなことをずっと言っていた。サギリは最初に頭を殴られたような表情を見せて、そこからはひたすらうなだれて謝ってばかりいる。
私は止めようと思った。サギリはきっと落ち込んでる。嘘吐きなサギリでも、私の、私の……。
「ちょっといい?」
考えていたら、ずっと静かに成り行きを見ていた女の子が、私に声をかけてきた。その手で外を指示している。
「よくない」
「そう、だとしても来て」
女の子は私の腕をとって、外に引っ張っていく。サギリの方を見たけど、何も言われなかった。前に人を傷つけちゃいけないって言われたし、仕方なくされるがままにする。
外に出たころにはカオルの声は少し落ち着いていたけれど、やっぱりドアを閉めても聞こえてきた。もう日も暮れてきた外を歩く人たちが、ちらちらと私たちを見ている。その視線を気にしないで、隣に立った女の子は話しかけてくる。
「あなた、名前は?」
「ファス・シンセシス」
「シンセシス……、そう、シンセシスね」
「苗字がどうかしたの」
刃物みたいな鋭さのある顔が、少し緩んだ気がした。私にはその理由がよくわからない。
「私の名前は狭霧スズ。あなたと一緒にいた男の人の、娘らしいわ」
「そうなの」
サギリと同じ苗字。きっと、それが家族の証。私はシンセシス。サギリとは違う。なんでスズが確認したのか分かった気がして、ちょっと嫌だった。
そんな私をよそに、スズはこっちに向き直って話を続ける。私も向き合った方がいい、そう思ったけど、やっぱりやめた。
「まわりくどいのも面倒だし、単刀直入に聞くわ」
「たんとうちょくにゅう?」
「……そのままずばりってこと。とにかく、あなたはあの人の何なの?」
一瞬呆れた顔をして、でもすぐ引き締めたスズが尋ねてくる。
「私は……」
何だろう。
娘ではない。だって娘はスズだから。友達ではない。だって友達はベネットだから。だとしたら、私に残った居場所はたった一つ。
「私は、ただの、サギリの部下」
そう、私はきっと、サギリの言うことを聞くだけの部下だ。頭ではそう思うのに、両手は反対するように爪を掌に食い込ませていた。
スズはそれに気づかず、むしろ予想外の答えに驚いているみたいだった。でもその驚きもすぐに表情の奥に隠れてしまう。私を問い詰めようとする瞳には、サギリに似た強さがあった。
「部下? 部下って何よ。あの人は何をしてるの?」
「知らない」
「一緒に来たんだから知らないなんてことはないでしょう」
「知らない」
サギリには、私たちの正体を明かすなって言われてる。きっと、娘であるこの子にもそう。
でも本当の理由は、この子にこれ以上あげたくなかったからかもしれない。
「……あなたたち、シルルの軍人でしょう」
「知らない」
だから、言い当てられたときは驚いた。私にはこの子は黒魔みたいに見えた。カルロを奪ったみたいに、私から大切な人を奪う黒魔。
「だって、あの人言ってたでしょ。なんでシルルに来なかったのかって。そんなのシルルにいなきゃ言えないわ」
「知らない」
やめて、やめて。私の中で、私が叫んでる。
「知ってるのよ? シルルには強化兵っていう生身で黒魔と戦える兵隊がいるって」
「知らない」
「強化兵でなきゃ、シルルからライツに来れるわけないわ」
「知らない」
「そうとしか答えないのが、何よりの答えじゃない」
鼻を鳴らして見下す彼女が何を考えているのかわからない。私をいじめて何が楽しいのかわからない。サギリが隠したがってることを掘り出す気持ちがわからない。
「やっぱりね。力もあるのに、あの人は来なかったのね」
初めて、怒りがこもったとわかるその一言。私の導火線に火をつけるには十分だった。
「…………で」
「何よ」
「サギリを悪く言わないで!」
何で声が大きくなったのか、そもそもなんでそんなことを言ったんだっけ。初めてスズに向き合って放ったその一言と同時に、私の手は彼女のくたびれた衣服の襟もとに伸びる。だけどそれは届かない。
「サギリ……?」
そこには、引き戸を開けて出てきたサギリがいた。気づけばサギリとカオルの話声は聞こえなくなっていた。
「ファス、言いつけを忘れたのか?」
狭霧の咎める声は、いつもより落ち着いていた。それが逆に私の胸にこもった熱を吸い上げてしまった。
「ごめんなさい……」
「謝るのは、俺にじゃない」
「…………ごめんなさい」
「別に気にしちゃいないわよ」
実際、スズは掴みかかる私に一切ひるまなかった。それがまた私の手に力を入れさせて、でも私の手を握る狭霧の大きな手が、私に思いとどまらせる。
落ち着いた私をよそに、サギリはスズに話しかける。
「スズか、大きくなったな」
「何年も会わなかったもの」
「すまない」
「そんな四語で、済むようなものじゃないわよ」
「……すまない」
最後の一言は、家に入っていくスズの背中に追いすがっていた。
サギリの話も終わったみたいで、私たちは割り当てられた家に向かった。
その道すがら、サギリはぽつりぽつりと言葉をこぼしていた。
「カオルとスズは死んだと思ってたんだ」
「そうなの」
「俺は逃げたんだ。あいつらのことを忘れて」
「そう」
「力を手にしても勝手に諦めて」
「……」
サギリには、私の返事なんて関係なかった。きっとサギリは、私のためじゃなく、自分のために話してた。
「ねえサギリ」
「……なんだ」
「私がスズと何してたか、気にならないの」
だから、久しぶりに私から声をかけた。久しぶりだけど、サギリに特別なことはないみたいだった。だって返事も、冷たかったから。
「……すまない」
謝られても、私は何に謝られたのかわからない。わかるのは、私がサギリに拒否されたってこと。
私にはもうどうするべきかもわからない。
家に着くと、もうすっかり夜だった。準備をしてくるから、ゆっくり休んでいろ。それだけ言ってサギリはどこかへ行ってしまった。最小限の家具しかない鼠色の小さな家は、私を押しつぶそうとしているようで。心地いいはずの綺麗にした体と服は、逆に私を落ち着かなくさせた。
最近眠りにつきにくくなっていた私には、寝ることなんてとてもできそうになかった。
眠れないままに布団の上で横になって考えるのは、サギリのこと。今の私には、サギリしかないのだから当たり前だ。このままでは、そのサギリにすら捨てられるかもしれないと思うと、布団の中で身を丸めてしまう。
あの時は何も思わなかったけど、もうあそこでの生活は嫌だった。ただ食べて、ただ戦わされて、よくわかんない人に体を調べられる。今と比べて、あの日々はこの家みたいな色をしていたと思う。
ふと、思い出した。一回、サギリが眠れないと言って見張りをしていた私の横に座ってきた。星がキラキラとした夜で、サギリは夜風に当たりたいと言っていた。私も夜風に当たれば、もしかしたら眠れるのかもしれない。
外に出ると、月がおぼろげに光を放っている。不思議なことに、星の光は見えなかった。
ぱらぱらと散らばる明かりのついた家々を頼りに、なんとなく歩いていく。地図はサギリが持って行ってしまったし、私の知っている道は一つしかない。だから、あの家に辿り着くのも不思議はなかった。
ちょうどその家が見えたと思うと、引き戸のところから細く、長く、光の筋が伸びる。筋は少しずつ太くなって、それを陰の中に隠しながら誰かが出てくる。音を立てないよう、ゆっくりと戸を閉めたその人と目が合った。
目を大きく開いたかと思えば、口の端をいやらしく釣り上げてその人は笑う。
「そう、あの人も私を、信頼していなかったのね」
「何のこと?」
「……しらじらしいのね」
何かをこらえるような声色。なんでかはわからないけど、カオルは怒っているみたいだった。彼女はゆっくりと、こちらに向けて歩き出す。私に用があるわけじゃないはずだけど、後ろには何があったっけ。
「どこ行くの?」
「……知ってるんでしょう?」
私が暇つぶしに聞いたことが、カオルの足を止める。
「知らない」
「じゃあ、あなたは何を?」
「夜風に当たってた」
変なものを見たというように目を点にし、カオルは小さく笑う。
「どうしたの」
「ごめんなさいね。あなたみたいな女の子が言うと、面白くって」
笑いを収めたカオルは、遠くの何かを見やる。私もつられて後ろを向けば、ここの兵士が政治の中枢だと言っていた建物の上で、輪郭のはっきりしない月が浮かんでいた。
「それ、あの人が言ってたことじゃない?」
「サギリのことなら、そう」
「やっぱりね」
初めて見る笑い方だった。楽しそうなのに悲しそうで、寒気のする笑顔。彼女はそれをすぐに引っ込める。
「それじゃ、行くわね」
しっかりとした足取りで、カオルは脇を抜けようとする。
「まって」
よくはわからない。もしかすると、あの笑顔を見たからかもしれない。行かせてはいけないと、強く思った。
「どこ行くの?」
「……どこかしらね」
「ついていっていい」
「駄目よ」
視線が交差する。彼女の目には欠片も怯んだところはなく、毅然としている。
「サギリに、ひどいことするの?」
「……どうして?」
「今日サギリに怒ってたし、さっきもサギリのこと言ってた」
「それで?」
「密告、しにいくんでしょ」
サギリは言っていた。気を付けなければいけないのは密告だって。兵士は平和ボケしているから、逆に私が警戒心を持ちにくい一般人に気を付けろって。
カオルは表情を氷つかせてこっちを見ている。
「この先にあるの、政治の中枢なんでしょ」
「……」
「サギリに、ひどいことしないで」
「……ひどいこと?」
涙が一筋、カオルの頬を流れ落ちる。声にはあざけるような笑い声が混じる。
「ひどいことをしたのは私じゃないわ。京よ」
「サギリが何したの」
その一言で、カオルは眉をきっと吊り上げる。
「何もしなかったのよ! あの人は何もしなかった……」
「何言ってるの」
何もしないのの、何が悪いの? 悪いことをしなかったのとは違うの?
「私は一人で知らない土地に来たのに、あの人はそばにいてくれなかった!」
「よくわからない」
私とサギリは、今日までずっとかけてやっとここに着いた。簡単に言うけど、それはすごく難しいことだ。
「生活が苦しい中で、あの人は、あの人は……!」
最後の方は、涙声になってはっきりとしなかった。
カオルの声に、周囲の家々から人の動く気配、起き出す気配がする。サギリの言いつけを思い出す。あまり目立ってはいけないのだ。だから、確認すべきことを早く確認しなきゃいけない。
「カオル」
「何よ……!」
「あなたは、サギリの、敵?」
カオルははっとして、唇を噛む。少しの逡巡があってから、カオルは今度ははっきりと言った。
「そうよ。娘の、スズのために、私は彼を密告する」
「そう」
きっとこの人は、サギリのとっても大事な人。喧嘩していたけれど、私とサギリだって組手をしていた。喧嘩するほど仲がいいって、カルロも言ってた。だからーー
「残念」
カオルの背後に回り込む。反応する暇も与えず、その膝を折って片腕を首に巻きつけ、もう片方の腕で頭を固定する。私の腕に、カオルの黒ずんだ爪が食い込む。そんな抵抗、意味をなすはずもない。
「さよなら」
小さな音一つで、あっけなくカオルの命は折れた。拘束を緩めれば、重い音とともに彼女の体は倒れる。
私は誰にも見つからない内に、その場を去った。見つからないように、逃げた。
頭の中では、いろいろなものがぐるぐるとしていた。
私は正しかったと私が叫ぶ。サギリの大切なものを壊したと、別の私が叫ぶ。またまた別の私がサギリを護るためだったと言い訳する。そこで新しい私が言った。
『サギリがカルロを見殺しにしたのと、何が違うの?』
サギリもきっとこんな気持ちだった。私を護りたくて、でもそのためには私の好きなカルロまでは守れなくて。サギリは強いから、もう少し苦しくなかったかもしれないけど、多分一緒。
そんなサギリに、私はなんて言ったんだっけ。
思い出すと、とっても怖かった。今度は、私が言われる番だと思った。
サギリが私を怒る。もう組手もしてもらえない。頭を撫でてくれることもない。私と話してもくれない。私を護ってくれない。
サギリが私を、嫌いになっちゃう。
だから私は必死に逃げた。見つからないように。サギリにだけは、知られないように。
◇◆◇
久々の布団の中、俺は朝を迎えた。夜に一仕事終えた後でも、長年の習慣は俺をたたき起こしてくれる。
起き抜けに茶でも入れよう。この家は薫の家と同じ間取りになっていて、部屋を出て台所へ向かうと、ちょうどファスの部屋が見えた。布団をかぶって寝ているファスの顔は見えないが、小さな寝息に合わせて布団の山が上下していた。わずかに頬の緩むのを感じながら、茶を淹れる。
布団をたたんで隅に寄せ、狭い部屋にくつろぐスペースを確保する。部屋の真ん中に胡坐をかいて座る。床は硬いし、部屋は狭いし、壁は打ちっぱなしのコンクリート。それでも、久しぶりの平穏だった。
温かいお茶に心を温め一息ついていると、隣の部屋から小さな足音が聞こえてくる。
「起きたか、ファス」
「……おはよう」
部屋の出入り口に立ったのは、昨日と変わらないファスだ。無意識のうちに、ため息が湯呑に落ちた。
「サギリ……」
「何だ?」
ファスの方から話しかけてくるのは、最近では珍しい。表情を伺うが、そこにいつもと違う点はなかった。
「何でもない」
「……そうか」
何かあったのは間違いない。でなければ、いきなり話しかけてくるはずもない。根掘り葉掘り聞きたい欲を、恐怖心が押さえつけているのだ。
俺は話題をそらすため、布団の脇に置いておいた衣服に手を伸ばす。二着のツナギが置いてあるのだが、そのうちのサイズの小さいものをファスに放ってやる。
「なにこれ」
「下の兵器工廠の工員の服だ。身分証までは用意できなかったが、これがあればとりあえずは中を歩きやすいだろう」
「いつ行くの?」
「今日だ。明日には仕事が紹介されるらしいからな。一日自由に使えるこの日に、工廠の中は確認しておきたい」
「わかった」
ファスは渡したツナギを、なぜか両腕で強く胸に抱き留め、自室へと去っていった。
着替えを終えた俺たちは、朝食を軽く済ませて出発する。居住区から地下へ向かう人ごみに紛れるためだ。
碁盤の目のような道を歩く人々は、俺たちも含めて誰も彼も同じような白っぽいツナギを着ていた。違うのは、右腕の肩のあたりに縫い付けられたワッペンだけだ。アルファベットをかたどった簡素なもので、どうやらその人の勤める工場の区別に使われている様だった。隣のファスの肩を見ればわかるが、俺たちのツナギには『X』のものがついている。ちょうど出てきたところを襲ったから、これは最大の工廠のもので間違いない。
昇降機に辿り着くころには、げんなりするほどに人が集まっていた。
はぐれないようにと、ファスの手を取る。手を取ってからしまったと思ったが、不思議と最初に少し手を引くような動きが感じられただけで、振り払われることもなかった。だからと言って握り返されたわけでもないのだが、俺はさっきよりは軽い気持ちですし詰めの昇降機に乗り込んだ。
鉄の床に鉄骨の手すりの無骨な昇降機を、長いシャフトは駆動音をその体内で大きく響かせて迎えていた。むわっとした熱気が、下から吹き付けてくる。
やがて見えてきたのは、天井に張り巡らされた無数のパイプ。色味も相まって、それらはまるで血管のように張り巡らされていた。続いて見えるのは、やはり角ばったコンクリート製の建物の群れ。居住区とは違って、その大きさは用途などによって様々だ。
悲鳴を上げて停止する昇降機から、人が一斉に降りていく。人の波に流されるままに、俺とファスも降りた。
つないだままの手を振りほどくことで、ファスは俺の注意を引く。指さす先では、同じワッペンの人々が群れの中でもひときわ大きい建物に吸い込まれていた。
「ファス、俺たちは侵入するんだ。正面から行けるはずないだろう」
「じゃあ、どうするの」
「こっちだ」
俺たちは一旦その工廠から離れ、回り込む。出たのは、周りを囲む鉄柵の中で、唯一警備の目のない場所だ。敵対勢力として人間がほとんどおらず、唯一の候補であるシルルもほとんど侵入できない現状では、警備もおろそかになっていたのだ。
軽く二メートルは越えている先の尖った柵は、肝心の強化兵を想定していない。俺たちはそれを軽々と飛び越え、柵の内へ侵入を果たす。正面から入るわけにもゆかず、搬入口から工廠へともぐりこんだ。
目に入ったのは蛇のようにのたうつベルトコンベヤーと、それによりそう機械の腕や人々。溶接やなんやらの音が騒がしくこだましている。さまざまな形の鉄塊がその道を通るうちに形を得て、最終的に人間大の機械人形が出来上がっていた。つるりとした銀色の肢体。卵のような頭部には、真ん中に一つの丸いカメラが埋め込まれている。
俺はこのようなものを知らなかった。ライツの兵士と言えば、ここに来る途中で遠目に見た機械化歩兵である。このような鈍く光る兵士を、俺は知らない。
「おい、何してる」
「……! すいません」
つい目を奪われてしまった。警備兵ではないが、仕切り役らしい男が声をかけてくる。
「早く持ち場に戻れ」
「わかりました」
持ち場など知らないが、とりあえず、こいつの注意を俺たちから外さないことには仕方がない。適当な方向へ歩き出すが、ファスは俺についてこない。
歩を戻して耳打ちする。
「おい、何やってる」
「……」
ファスは返事をしない。何か機嫌を損ねたかという考えが頭をよぎる。
--しかし、その甘い考えは打ち砕かれた。
距離があり、さらに俺が障害物になっているから、あの男にはきっと見えていない。けれども、耳打ちをしようと顔を寄せた俺にはしっかりと見えていた。
ファスの首筋を這い上がる、おぞましい黒が。
反射的にファスの肩を掴み、体をこちらに向かせる。
「ファス、何してる!」
「なにって……」
「めいれい」
前にも聞いた、忌まわしい言葉。あの時はわからなかったが、ファスの瞳はいつも以上に無機質だ。
「おい、何やってんだ」
後ろから、男の声がする。ファスの瞳が妖しく光る。
「くそっ……!」
肩に置いた手に力を込めた時には手遅れだった。姿勢を低くすることで拘束から逃れたファスが、ステップの音を騒音に加えつつ横をすり抜ける。
「避けろ!」
叫びはするが、普通の人間で対応できるはずもない。太い首に白くか細い腕が伸びる。彼の喉から苦しみの声が漏れる。男の目は、目前の少女への恐怖でかっと見開かれている。
その目に映るのは、真っ黒な少女。
駆け寄る俺。服を突き破り伸びる二本の腕。ついに足の浮く男。彼の心臓を、ファスの腕は貫いた。あばらを砕き、肉を突き破る音が耳に入った。彼の命を示す赤い液体が、口元から零れ落ちる。
「ファスッ!」
首を狙って手刀を放つ。しかしそれは死体に阻まれてしまう。腕を抜くついでに、ファスがこちらに投げてよこしたのだ。覆いかぶさるそれを払いのけた時には、ファスの姿はすでにない。死体の地面に倒れるどさりという音が、悲鳴の嵐の始まりを告げた。
鉄くずが鮮血とともに空を舞う。死体とはまた異なる、重たい転倒の音が連続する。無機物の流れていた花道に、死のにおいをまとった有機物が追加されていく。
止めなくては。追いかけてはいくものの、人混みが俺の行く手を阻む。狂乱の中の人々は、俺をもみくちゃにしていく。
人の波をかき分けつつ、俺の頭は思考を重ねる。
前回はセーフティがあった。カルロの時は油断があった。今回は前者も、おそらくは後者もない。俺に彼女を止めることができるのか。止められたとして、彼女は無傷でいられるのか。
答えをまとめる余裕などなかった。ついに俺はファスの前に出る。
すでに工場の設備は破壊され尽くしていた。ファスの周りには動くものなどない。機械であれ人であれ、すべては残骸だ。
ファスの瞳は俺を捉えているが、それは獲物の一部として、後ろで未だ外に出られていない工員たちの一部としてにすぎない。
「ファス、もうやめろ」
「……」
ファスはその手についた血を払うことで返事とする。
「命令と言ったが、破壊活動は可能であれば、ということだったはずだ。もう兵もやってくるだろう。十分だ」
「ううん、まだ」
表情一つ変えないままファスは答える。それとは対照的に、ファスの黒く染まった細腕が何かを求めるようにこちらに延ばされ、しかしすぐに引っ込められる。その仕草の意味は、俺にはわからなった。
「邪魔をするなら、倒す」
その一言が、開戦の合図だった。
ファスはベルトコンベアーも踏み越えて、俺との距離を詰める。軽やかな着地音。同時に両の細腕の二段突きが繰り出される。顔と腹とに打ち分けられたそれを払った俺を、残った二本の腕の追撃が襲う。
--避けきれない……!
一つ目を何とかかわし、次の一撃を両腕をがっちりと閉じて受け止める。ぼろぼろの工廠に衝撃音が響いた。骨までしびれる重い一撃。後ろに跳んで衝撃を逃しても、そのダメージは少なくない。
武装もない今、長引くだけ手数の劣る俺が不利だ。余裕のできた頭が冷静な判断を下す。
床を蹴り、前に跳ぶ。ちょうどいい場所にあった残骸を蹴り飛ばし、ファスの視界を奪う。彼女がそれを払いのけるころには、俺はもう間合いに入っていた。
一回転とともに、右の裏拳を叩き込む。頭をかがめて避けるファス。ここまでは織り込み済み、左の掌底で顎を狙う。聴覚が攻撃の当たったことを伝える。しかし、掌に伝わる手ごたえは硬い顎を揺らした際のそれではない。ファスは左手で受けていた。このままでは、反撃に移られる。咄嗟に繰り出した膝蹴りを頭をそらして避け、そのままバック転を重ねて距離を離される。
頬をあたたかな血が伝う。バック転のついでに放たれた変則的な蹴りが、頬を擦って傷をつけていた。正面に構えるファスには傷一つついていない。
俺はなぜか、笑っていた。
俺はファスへ何度となく向かっていき、何度となくいなされる。組手では互角であったのに、腕が二本増えただけで俺の不利が大きくなってしまった。最初に戦った時は、それでも俺のが強かったというのに。
昨日の時とは違う、殺気のこもった旋律を奏でる拳と拳。時折、俺の赤が飛んで二人の舞を彩っていく。
腕が爪に裂かれた。気にならない。
頬に拳が擦れた。気にならない。
いなしきれなかった拳が腹にささる。気にならない。
殺し合いをする俺たちは、なぜか楽しそうに笑っていた。ファスは無邪気に遊ぶ子供のように笑い、俺はその姿を見て笑っていた。
そんな楽しいひと時に終わりを告げるのは、軍という名の無粋者。俺の背後で、大量の軍靴がせわしなく声をあげる。聞きなれた金属音が、銃が構えられたことを教えてくれる。
きっと今にも銃が放たれる。俺がどけば、ファスが撃たれてしまう。それを考えれば、目の前に迫る黒魔の爪なんて、好みに受けて構わない。
そう、思った。
「撃てぇ!」
前方から肩への衝撃が走り、遅れて後ろから小さな衝撃が降り注ぐ。
肩が熱い。焼けるようだ。声が出ない。中で爪が動くのが感じられる。不快さすら感じない。背中も熱い。灼熱がぽつぽつと全身を包む。命がこぼれる。意識がかすむ。身体から、力が、抜ける。
崩れる自分の体重でゆっくりと爪を肩から抜きながら、作りかけの赤い池に身を横たえる。低くなった視界に、ファスがへたりと膝をつくのが分かった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
ファスの声には温かさがあった。弱さがあった。
「わたし、わたし……!」
広がる赤の上に透明な雫が落ちた。
後ろからは銃声が聞こえるが、ファスには効果がないようだ。ぼんやりとした頭で、俺のしたことは無駄だったのだと自嘲する。
俺の血は広がり続けるのに、ファスの涙はもう落ちては来ない。
「……私、サギリの近くにいても壊しちゃう」
ファスはゆっくりと立ち上がる。
そんなことはない。こんな傷すぐに治る。お前は何も壊していない。
そう伝えたい心に、体は従ってくれない。首を回してその顔を伺おうにも、それすらも叶わない。
「さよなら、サギリ……」
そんな泣きそうな声をするな。壊したくないなら壊すな。俺を踏み越えていくんじゃあ、ない。
闇に包まれていく俺の意識に届く銃声が、どんどんと小さくなる。ポケットで何かが震える感覚。それを最後に、俺の意識は落ちた。
◇◆◇
俺の意識が浮上する。すこしずつ全身に俺が満ちていって、霞んだ視界が焦点を結ぶ。
周囲にはファスの暴走の痕跡だけが残っている。強化兵手術ゆえの生命力と回復力が、かろうじて動けるだけの力を回復させていた。振り向いた背後には、兵士の死体が散らかされている。殴り殺された死体、爪に裂かれた死体、鉄塊に潰された死体。バリエーションは様々でも、どれも赤黒い色で周囲を染めていた。
そこに這って近づき、比較的原型の残った突撃銃を杖にして立ち上がる。家まで帰れば、薬がある。
ぼろ雑巾みたいな体をずりずりと杖で引っ張るように歩く。外に出ても、俺を心配するものこそあれ、疑う者はいない。おせっかいな一部の人間を払いのけて歩いていると、意識を失う前にあった感覚を思い出す。
ポケットに入っていたのは、ベネットからもらった通信機だ。電源を付けると、表示された白い枠にメッセージがあると伝える文章があった。再生すると、映し出されるのは久々の友人の顔。
「よう、狭霧。久々だってのに、相変わらずつれないな」
端末から聞こえる声は、息が上がっている。どこかはわからないが森の中を走っているらしい。
「ちょっと、取り込み中でな。手短に済ませる」
ベネットは、通信機を持っていないほうの手で何かの書類を映してくる。揺れる画面では文字までは読めない。しかし、そこに載っている顔写真には見覚えがあった。
「ちょいと特殊なルートがあってな。見てわかるかもしれないが、これはセイン生科研謹製のファスちゃんレポートだ」
疲労の見える顔でおどけて笑うベネット。彼の画面の先の状況はおそらくそのレポートが原因だろう。
「本当はもっと早く連絡したかったんだが、逆に良かったかもな。ま、それは後で話そう」
遠くから怒号が聞こえ、銃声がそれを追う。ベネットはおわっとなんて言いながら、右に左に動きに変化を付け始めていた。
「じゃ、こういうことだから手短に」
ベネットの顔が真剣に話すときのものに変わる。どう考えてもファスのことが話される。俺は食い入るように画面を見ていた。いつの間にか、俺の足は止まっている。
「いいか。ファスちゃんには融合能力がある。食べることでそいつの特性を何か一つ奪うんだ。まぁ、鮮度がないとダメらしいが」
俺は思い出す。ファスが死後まもない黒魔の肉を食ったのは、最初の任務を食ったあの時。特に何か能力を得たとは思えない。
一体、何を奪ったのか。
「黒魔には、互いに連絡を取り合うための器官が存在するんだ。ここははっきり書いてあったわけでないが、俺の推測ではそれを利用して黒魔を指揮する個体がいるはずだ」
ベネットが何を言いたいのか、手に取るようにわかる。結論は聞くまでもない。
「つまりだ。ファスが黒魔を食った場合、ファスが黒魔に支配される可能性がある」
ベネットの言葉は重く心にのしかかる。その場に足をとどめていられなくなって、俺は倒れるように歩き始める。
「もう一つ、ついさっき、黒魔の大攻勢が始まった」
あまりにできすぎている。何者かの作為を感じずにはいられなかった。
思考の海に沈みかけた俺に、ベネットの言葉が届く。
「だからもう、帰ってくるな」
そこで、通信は終わっていた。
ベネットの言いたいことはよくわかる。黒魔の攻勢の強い状況でファスが帰れば、ファスが戦場に駆り出される可能性は十分すぎるほどにあった。それはつまり、ファスが黒魔を食う可能性が増えることになる。ファスは戦闘の選択肢として、食うことを選択しうるのだから。
俺は何も言わなくなった黒い機械を強く握る。握らずにはいられなかった。
昇降機は動いておらず、仕方なく階段を登ってゆき、やっとのことで地上へ出る。俺がそのまま放置されていたことで予想はついていたが、あまり気絶の時間が長くなかったことが太陽の位置からわかった。遠くの山から、黒煙が立ち上っているのが見えている。
俺はもはや理由を考えるのもおっくうで、ただただ家を目指す。幸運なことに、そう距離はなかった。半ば倒れるようにして引き戸を開ける。
「お帰りなさい」
そこにいたのは、スズだった。俺の部屋の真ん中で、きっちりと正座をしていた。
昨日はあまり言葉を交わす機会がなかったが、もはや俺の知っていたスズではないのは明白だ。若い頃の薫に似ているその顔には、薫とは違った意志の強さが見て取れる。
「どうして、ここにいる」
「貴方こそ、どうしてそんな体で生きているの?」
血まみれの俺を視界に入れた彼女は、わずかに眉を動かすのみでそう返して見せる。
「ちょっと特殊でな」
「何かしてあげた方がいいのかしら」
「そうだな、そこのリュックでも取ってくれ」
彼女の言葉には、壁を感じた。玄関に座り込む俺の横までリュックを持ってきてはくれるのだが、その態度はどこまでもよそよそしい。
俺はバッグの中から強化兵用の特効薬の瓶を取り出し、喉に絡みつくそれを一息に飲み干す。すぐに身体の各所がポカポカとしてきて、急速な再生が始まったのが実感として分かった。ついつい漏れる安堵の吐息に、スズの声が重なる。
「お母さんが、死んだわ」
儚い音が響いた。
手から滑り落ちた瓶の残骸がまき散らされている。光を反射するひとかけらを見てようやく、自分が瓶を取り落としたことに気づいた。
「なぜだ」
「さぁ、首の骨を折られて、家の前に捨てられていたわ」
感情の死んでしまったようなスズの顔が、それを事実だと伝える。
「お母さんが最期に何をしようとしていたか、知りたい?」
「……」
聞きたかった。けれど、聞いてはいけない気がした。なぜスズがわざわざここへ来ていたのか、その理由がそこにあるような気がした。
「貴方を、密告しようとしていたのよ」
「……そうか」
衝撃を受ける以前に、納得してしまった。
それだけのことをやった。それだけの傷を彼女に与えた。昨日の再会で痛切に理解した、唯一にして最大のこと。
「俺を、疑っているのか」
「違うわ。だって、私は見たもの」
「あの子が、首を折るところを」
「――ッ!」
予想外の答えに、呼吸を忘れる。誰がなんて聞くまでもない。ファスだ。ファスがやったのだ。
「どうして」
「決まってるでしょ。あなたを護るためよ」
「俺を……護るため……?」
今のファスが、言いつけを破って、俺のために人を殺した? おそらくはその疑問は顔にまで出ていたのだろう。瓶の破片を片付けに立ち上がるスズの視線には、嘲りとも哀れみともとれる色があった。
「そうよ」
「何故、そう言える」
「だってあの子は、お母さんが貴方の敵かを確認して、殺したのよ」
「……そうか」
頭に浮かぶのは、ファスのこぼした涙。記憶の中の涙は不思議と熱を持っていて、俺の心に火をつけた。
隣では壊れたガラスの触れ合う軽い音が聞こえていた。
「あの山の煙が何か、知っているか?」
「風の噂では、内地に入り込んでいた黒魔に襲撃されたそうよ」
「そうか」
ふらつく身体に檄を入れて、立ち上がろうと試みる。
きっとファスはシルルに来る。ファスが何者かに操られたとすれば、その目的はライツの人型兵器の破壊。今の戦力だけならばライツが黒魔領侵攻に踏み切れないことを考えれば、あの兵器の破壊はライツを一時無視できるようになったことを意味する。だからこそのシルルへの大攻勢。
何故シルルを狙うのか。理由は単純、シルルの戦略的価値は食料だ。シルルをつぶせば、ライツは食料不足で勝手につぶれる。つまり、大攻勢は黒魔にとって最終決戦たり得るもの。
ならば、ファスという戦力はそこに投入されるのではないか。
動かぬ体に反し、頭はよく回った。
「待ちなさい。その体でどこへ行くの?」
「ファスのところだ」
「……そう」
集めた破片を捨てつつ、スズは呟く。
「急ぐの?」
「そうだ」
「だとしても、やっぱり休んで行って」
「どうしてだ」
俺はお前の母親の死を顧みずに出ていく、薄情な父親だ。その言葉は喉の奥にしまい込んだ。
スズは伏せた目の端でこちらを捉え、静かに言った。
「貴方が、お父さんだからよ」
俺の中に、返せる言葉はなかった。
結局一日の休息をとった俺の体は、歩くくらいならこなせるようになっていた。さすがに背中は突っ張るし、肩も動かすには痛みが走る。だが、木箱に入るくらいであれば問題はない。
そう、俺は他の荷物に紛れて木箱に入っている。行先はシルル。鉄道に乗って移動するのだ。
思い返すのはここまで案内してくれた娘の顔。暗闇の中に浮かぶのは助けねばならない娘のこと。
大きな振動が体を揺らした。ついに動き出したのだ。戦場への片道列車が。
◇◆◇
久しぶりの前線基地。そこに人の気配は少なく、向こう側で忙しなく往復しているのであろうトラックに、物資を積みこむ人々の声がする。
ついに戻ってきた。行きとは違って、邪魔もなければ走る必要もない。おそらくは十日ほどでシルルへ到着し、今ここにいる。傷はもうすっかり癒えていた。
俺は基地には入らず、その外周を回っていく。以前は夜に訪れたものだが、太陽があったところで宿舎にさえぎられてしまうのだから、たいして変わらない。たどり着くのは、土を盛っただけの墓の並ぶ場所。
「やっぱり、また戻ってきてしまったな」
誰にともなくつぶやく。
「今回は死人が出たわけじゃないんだ。許してくれ」
俺は部下たちの前を通り過ぎ、抉れた地面を掘り返す。そこから出てきたのは、靴箱のようなサイズの金属の箱。すっかり錆びたそれを開けると、耳障りな音が響く。
「すまないが、俺はまたここに来るかもしれない」
中身を取り出しながら、俺は詫びる。
土に汚れた両手にぶら下がるのは、黒く、大きく、無骨な、二丁の拳銃。かつて一匹の鬼が使った凶器。
俺はもはや背後にただの一瞥もくれず、走り出した。
森を駆け抜ける。人工的に作られたこの森は、昼であっても生の気配が希薄だ。まったく、不気味で仕方がない。不気味なほど、生を待つこの森は哀れだ。
走れば走るほど、戦闘の音が聞こえてくれる。銃声、雄叫び、悲鳴。戦場の気配に、ぴりぴりとした感覚が全身を走る。
やがて、視界が開ける。丘陵では援護射撃をする兵士が列をなす。丘の上に立てば、目前の平野の半分まで黒い濁流が押し寄せている。その一角、黒のなく、かわりに赤の咲き乱れる丸い領域が目に映る。
――考えるより先に、体がそちらに向かっていた。
兵士の壁を押しのけ、その赤い台風の目に対峙する。
その姿は少女。十五歳くらいの身長で、金色の瞳を持つ。その肌はどこまでも黒く染まり、肩からは無数の腕が生えていた。風に揺れるのは、俺と同じ黒髪。
たとえどんなに変わろうと見間違えない、俺の娘がそこに立っていた。
「待たせたな」
彼女は直立不動。温度のない瞳がこちらを見ている。周囲には兵の死骸がとっちらかっていた。
もしかしたらもう、俺の言葉は届かないのかもしれない。けれども俺は、言葉をかけることにした。言葉が届かないのなら、止める手段は殺すしかないのだから。一度意識を奪ったところでどうにもならないのはもうわかっているのだ。
「仕置きの時間だ、ファス」
おそらく待ったわけではないのだろうが、ファスが俺に躍りかかるのはしゃべり終わるのと同時。構えもなく、突っ込んでくる。
「どうした、構えをとれ」
ファスは同時に五、六発の拳を放つ。俺は下がりながら、それらを躱し、そらし、銃弾で迎撃する。足りない手数を銃弾で補い、雨霰のように攻撃を繰り出すファスを抑える。風切音、銃撃音、打撃音がとっかえひっかえに鳴り続ける。
たとえ反撃を食らおうと、ファスは前進をやめない。銃弾が頬を掠った。腕の一本を撃ちぬいた。わき腹を抉った。それでも、前進をやめない。
ファスの表情は凍り付いていて、きっと俺の顔は悲しみに染まっている。
「どうした、一度、下がらないのか」
誰だこいつは。ファスであるが、ファスでない。俺の知ってる、ファスではない。俺の知っていた、ファスだった。
俺の戸惑いとはよそに、戦闘は限界に近づく。
ファスの超攻撃的な姿勢は、結果的には最適解であった。
銃弾だって無限ではない。弾倉を入れ替える隙だって与えてくれない。あばらにはヒビも入った。それでも戦っていられるのは、ファスが後続の黒魔を蹴散らすのに腕を使っているからだ。
だから、いつかこの瞬間が来るとわかっていた。そこにしか俺の勝機がないことも、わかっていた。
今までで最大量の黒魔が一度に押し寄せ、ファスの腕がそいつらの胸を貫く。ファスに残されたのは、左右二本ずつのたった四手。
力強く、決して引かないように、足を踏み出した。
これ以上のチャンスが他にあるか。俺が止めねばきっとファスは新種の黒魔として、非人間として殺される。
もう、俺が殺してやるしかないんだ。
俺の心は、そうがなりたてた。
短く強く息を吐き、ギアを入れる。接近する俺を、右の拳が狙い撃つ。頭を滑らせ、皮一枚でそれを避ける。頭の脇を抜ける拳の音は、ナイフのような切れ味を持っていた。
俺は左手に持っていた拳銃を捨て、腰から抜き放ったナイフでその肘を狙う。手に伝わるのは、硬い感触。ファスは残った右腕を間に噛ませ、骨を使って切断を防いだのだ。
間髪入れず、ファスは斜め上から左腕を振り下ろす。俺は姿勢を下げてその下をすり抜ける。すり抜けざまに放った右手の拳銃が、肘を撃ち抜く。発砲音に耳を苛まれつつ、俺は接近することで最後の一本の腕を封じる。
ーー必殺を確信した。
緑の血を滴らせる左のナイフ、右手に持ち替えたそれに左手を添え、心臓へと突き出す。
攻撃の最中、酷い既視感を感じていた。前にも俺は、同じことをしたはずだ。俺はそこで何をした。死んでいったあいつらに詫びを入れてまで、何をした。
俺のナイフは、止まっていた。その黒い肌にわずかな赤い水滴を生む程度で、止まっていた。
目の前のファスの腕が動く。おそらくは、俺を殴り飛ばす予備動作。
あぁ、やっぱりこいつはファスだ。昔のファスに戻ってしまっただけで、こいつは間違いなくファスだ。
さぁ、殴り飛ばしてくれ。俺がお前を殺すのを、止めてくれ。
直後に来たのは、たくさんの腕に強く抱きしめられる感触。黒いサラサラとした髪が、頬を撫ぜる感触。手に持った刃物が、肉をかき分ける感触。そして、硬い何かを砕く手応え。
「何やってんだ!」
ナイフから手を離し、厚みのない身体を突き飛ばす。俺を抱きとめた力強さは既になく、押されるがままにファスは後ろへよろめく。
「ごめんなさい……」
久しぶりに聞く、ファスの声。今にも消え入りそうなファスの声。
「わたし、さぎりにめいわくをかけたくなかったのに」
「そのために、ひとりでいったのに」
「けっきょく、さぎりをきずつけた」
言葉はいつの間にか舌足らずになっていた。
ファスが話す間にも、数え切れないほどに生えていたファスの腕が、一つずつ黒い液体に姿を変える。ファスの黒く染まった髪から、はらはらと黒が滴り落ちる。
「……さぎり、まだわたし、さぎりをたよっていい?」
「当たり前だ! 何をすればいい! 何をすれば、お前を助けられる……!」
即座に質問を重ねる俺は、何とも惨めだ。それでも、ファスを助けられるのならば何でもいい。
「よかった」
ファスは心底安心したように笑う。今までに見たことのないほどの笑みに、俺の心は弾む。
「じゃあ、わたしを殺して?」
「……なに?」
希望的観測は、音を立てて崩れ去る。
ファスは三本の腕を残し、それ以上腕が溶けてゆくことはなかった。肌もまだ黒いままだ。きっと彼女の核は、まだ残っている。
「待て、待つんだ」
年甲斐もなく動揺する俺に、ファスはふるふると首を振る。陽の光を反射して、白髪がキラキラとした光を振りまく。
「だめ。きっとそのあいだに、またころしちゃう」
弱々しくも、その声には芯の強さがあった。その瞳には、決意の色があった。
「……決めたんだな」
「うん」
俺は地面に落ちた銃を拾い上げ、ファスへと歩み寄る。最早そこに抵抗はなく、俺は身をかがめ、自分の顔の隣にファスの顔を抱きよせる。
「俺もすぐに、後からいく」
「うん」
俺の想いが伝わるように、優しく、優しく、真っ白な髪をすくように頭を撫でる。その手に擦り付けるようにファスが頭を動かすから、彼女の髪が頬に擦り付けられる。
「お前をこんな風にしたやつを、必ず懲らしめて、いく」
「うん」
手に持った凶器を、胸にあてがう。暖かな心臓の鼓動が、金属越しに伝わってくる気がした。
「だから、少しだけ、待っていてくれ」
「……わかった」
触れ合う頬と頬の間、熱い何かが満ちていく。
強く、短く、厳かに。
“黒”の鎮魂歌は、戦場に木霊する。
Requiem of Black 浜能来 @hama_yoshiki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます