第二章 その5
先程まで俺とマイクとあと二人しかいなかった4階に、今ではこのビルの全住人が集められている。全住人と言っても、四十人ほどであるが。彼らの視線の先には緊迫した面持ちのマイクがいて、誰もが何か不吉なことがあったのだと察していた。
俺は集団から距離をとって壁にもたれる。隣にはファスがぼーっと立っている。
窓を叩く雨音だけが響く薄暗い室内で、カルロがようやく口を開く。
「皆、聞いてほしい。さっき、黒魔襲撃の報があった」
今まで何度となく黒魔を撃退してきたからだろう。
考えの浅いものは討伐を主張し、考えの深いものは絶望に顔を青くしていく。一部の騒がしい者を静め、マイクが再び口を開く。
「今回はいつもと違うんだ。数も多いし、種類が違う。僕達では、抑えきれない」
一言一言、染み込ませるようにマイクは言葉を紡ぐ。
「じゃあどうするんだ!」
一時呆然とした集団の中から一人が声をあげ、ぱらぱらと続く者がいる。
マイクは申し訳なさそうに視線を巡らせ、言った。
「……僕達は、この都市を出る。ライツに向かうんだ」
「どうやって!」
「外にも黒魔がいるんだから、食料には困らない。水も、狭霧さんがろ過装置を一つ譲ってもいいと言っている。ガイドも、付いてくるだけなら構わないそうだ」
突如あげられた俺の名に、人々の視線がこちらに向く。その中に、カルロの輝く視線も感じられた。
声の大きい者が、マイクに対して再び疑問を呈す。
「誰なんだこいつは! こんな突然現れた他所者を信じられるわけーー」
「うるさい!」
その言葉を遮ったのは、カルロだった。きつく手を握りしめ、きっと相手を睨みつける。
「俺が三匹に追われてた時、全部やっつけてくれたのは、狭霧のおっちゃんと、ファス姉ちゃんなんだぞ!」
「黒魔を、三匹も……?」
さざ波のようにどよめきが広がる。期待、疑念、わずかな警戒。ただひたすらにたゆたうそれらを、一つの拍手が打ち払う。
「紹介が遅れた。彼は狭霧、シルルの軍人で、ライツに向かっている。シルルからここまで、二人だけで旅してきたそうだ」
「そ、そんなの嘘っぱちに決まってる!」
「だとしても、今の僕らは信じるしかない」
ついに、威勢良く反論する者はいなくなった。
「じゃあ、話し始めようか。僕達が、この都市を脱出する方法を」
こうして、作戦とは名ばかりの強硬案が示された。
それぞれが自分の荷物をまとめに行き、4階には俺とマイクとファスと、そして机の天板を剥がす幾人かが残るのみだ。
「狭霧さん、協力していただき、改めてありがとうございます」
「礼ならファスに言うんだな」
届けられた弾薬をリュックにしまいつつ、俺は言葉を返す。
今回の作戦、俺は正直関わる気は無かった。
敵は多量の黒魔、加えてB型が混じっているらしい。B型とは、一般的なA型黒魔の両肩から、腕の代わりにコウモリの翼のようなものを生やした個体である。奴らは飛びはしないものの、翼で体の前面をすっぽり覆い突進してくる。その翼は普通の黒魔の体表より硬く、対黒魔貫通弾もライフルなどを用いなければ効果を発揮しない。走力にも優れたB型は、もはや走る砲弾なのだ。
小規模な、それこそ二人だけの部隊でなら対処は易い。適当にかわしてやれば、その速さゆえに方向転換が遅れたところを討ち取ってしまえる。問題は、規模が大きくなった時に隊列が乱されることにある。特に今回は、戦闘能力のない民間人を守らねばならない以上、隊列の乱れは致命的だ。
加えて、黒魔の発生が地下からであったことから、この都市の地下通路は全て埋め立てられていた。都市を出るには、黒魔のとおってくる穴のどれか一つを抜ける必要がある。
こんな不利な条件で協力を請けたのは、言った通りファスのカルロを守りたいという意思による。自分だけでも残ると言いだすのだから仕方ない。言いつけ制度も、人間の暮らす土地に入るということで、人に危害を加えさせないために使ってしまっていた。
「ありがとう、ファスちゃん」
「うん」
答えるファスは、威張るでも謙遜するでもなく、いつも通りだ。俺の隣で、戦闘前の栄養補給と称して早めの夕食を取っている。
俺が銃弾を補充し終えて立ち上がるのと、ファスが食事を終えるのは同時だった。
「よし、行くぞ」
「わかった」
マイクから地図と爆薬を受け取り、階段へ足を向ける。
俺たちの任務は、逃走経路の確保、それに尽きる。警備の人員の情報から一番手の薄い穴はわかっている。それでも二桁はいるわけだが、やるしかない。
確保が終わり次第、足の遅い一般人が来るまで防衛し、同時に爆薬を仕掛ける。脱出が完了したら、壁を崩して穴を塞ぐという算段だ。通れないとまではならずとも、足止めにはなるだろう。
「気をつけてくださいね」
「言われるまでもない」
マイクの心配を背に受け、部屋を出て階段を下りる。その先で待っていたのは、カルロだった。
心配そうな、申し訳なさそうな視線が、こちらを見上げている。
「おっちゃん、姉ちゃん、気をつけてな……」
「何に?」
ファスは首をかしげる。
「いや、なににって、黒魔にだよ」
「何で?」
今度は逆に首を傾げてみせるファスに、カルロは小さく吹き出す。
「何で笑うの?」
「いや、何でもないよ。そうだよね、おっちゃんと姉ちゃんに限って、心配することなんてないよね」
「そういうこと」
笑顔を取り戻すカルロに、ファスは自分の狙い通りとでも言いたそうに答える。どう考えても、ファスは本気でわかっていなかっただけだ。
だというのにファスは、俺を期待を込めた目線で見上げてくる。あまりに偉い? 偉い? とうるさいので、ついそれを咎めてしまってからはこれが撫でて欲しい合図になっていた。
仕方なく、頭を撫でてやる。他には見れないほどに顔を緩めて感触を楽しむファスを、カルロはまたかといった風に眺めている。
「もういいか」
「うん」
「カルロも特にないな」
「あぁ! もう安心した」
「なら、行くぞ」
カルロに背を向け、俺とファスは戦場へと、一歩一歩下りていった。
雨が騒がしく、地面を打っている。
濡れた髪はすぐにしぼみ、目の前で絶え間なく雫を落としている。邪魔な前髪を手ですくい上げ、視界を確保する。久しぶりの護るものを背にした戦い。どこか、高揚する自分を感じた。
◇◆◇
おっちゃんと姉ちゃんが、行っちゃった。ビルの窓からのぞいた二人は、すぐに雨のカーテンに飲まれた。
二人でいっぱいの黒魔を倒すなんて、俺にはできそうもないや。でも、ファス姉ちゃんと狭霧のおっちゃんなら、俺を助けてくれたみたいに一瞬で倒せるんじゃないかって思えた。
「何やってるの、カルロ! 準備はできたの⁉」
「うん、大丈夫だよ」
少し怖いけど、姉ちゃんたちを信じてる俺は不安が少ないけど、みんなはそうもいかないみたいだ。落ち着きなく動き回ったり、貧乏ゆすりが激しかったり、逆に動かなかったり。よくわかんないけど、何かいつもと違った痛い空気で、部屋はいっぱいになってた。
窓に背を向けて、俺は何となく自分の右の掌を見てた。姉ちゃんには黒魔みたいと言われたけど、俺たちを守ったヒーローの印。俺にも力がある。本当は、俺も姉ちゃんのナイフを借りて、一緒に行きたかった。
でも、おっちゃんは言ってたんだ。力は力だけで力にはなりえないって。
戦い方も、立ち向かう度胸も、武器も、俺は持ってない。おっちゃんが言ってたのはたぶんそういうこと。何もできないのは悔しいけど、何かして姉ちゃんの足を引っ張るのはもっと嫌だ。
「母ちゃん、荷物、俺が持つよ」
「大丈夫なの?」
「当たり前だろ」
右の掌をいっぱいに母ちゃんに見せてやる。おっかない母ちゃんの顔が少し緩んで、きっと俺のしなきゃいけないのはこういうことなんだなって思った。
そんなに待たないうちに、俺たちも移動することになった。
俺たちみたいな戦えない人たちが真ん中に固まって、十三人の痣持ちのみんながそれを囲ってる。痣持ちのみんなには、いつもみたいな鉄骨の槍を持つ人と、なぜか机の板を持ってる人がいた。
シャワーみたいな雨だけど、傘は視界が悪くなるからって使えない。俺も母ちゃんも、マイクさんだってびしょびしょに濡れてる。俺が背負ったリュックの肩ひもをぎゅっと握りしめると、ぐじゅっと水のしみ出す感触があった。
俺たちは早足に歩いて逃げた。人数分の水が跳ねる音と、雨の地面をたたく音と、時々の荒れた息遣い。
もっと早く逃げた方がいい。音の中にそんな感情が混じってる気がして、でも、たぶんそれは俺の心の声だ。じいちゃんやばあちゃんがいなければいいのになんて、絶対に思っていない。思っちゃいけない。
俺の靴の中はもう水浸しで、歩くたびに独特な嫌な感覚がやってくる。立派な防壁は好きだけど、もう少しこの都市が小さければいいのに。
人数分の水が跳ねる音と、雨の地面をたたく音と、ずっと続いてる荒れた息遣い。
黒魔は今どこにいるんだろう。近くにいるのかな。まだ遠いのかな。遠くは見通せないし、いっぱいの音で小さな音は消されてしまう。
誰も、一言だって発しない。俺たちのことを、空にあるみたいな鼠色の雲が覆ってる。
あとちょっと、あとちょっとで終わりだ。今まで歩いた距離を考えればあとちょっとだ。
隣を見れば、母ちゃんの顔も少し明るくなったかな。雲に、少しの裂け目ができた。
人数分の水を蹴散らす音、雨の地面をたたく音、荒れた息遣い、後ろの方で、もう一塊の水を蹴散らす音。
……もう一塊?
肌をさっと走りぬける何か。後ろを見れば、周りの人たちは気づいていないけど、しんがりを務める痣持ちの人たちは警戒してる。
俺は、しまったと思った。けど、遅かった。
俺の様子を見て、周りのみんなが後ろを気にしていく。ただ沈黙の中で歩いていたみんなに、その行動は一瞬で広まる。目を凝らし、耳を澄ませ、みんなが後ろの薄暗闇を見つめる。
音がはっきりしてきた。母ちゃんの顔が引きつる。
闇が形を持った。みんな、目を見開いたり、目をそらしたり、走り出そうとしたり。
マイクさんの鋭い指示が飛ぶ。黒魔の、襲来だった。
壁にしか見えないその集団は、速い。道路をふさぐバリケードになって、地面を揺らしながら見る見るうちに迫ってくる。あれがマイクさんの言ってた新しい奴か。
「言った通りに動いてくれ! 縦に、細長くだ!」
板を持った痣持ちが黒魔に対して先頭になって向かい合い、戦えない人たちはその後ろに一本の帯のように並ぼうとする。槍持ちがその側面に並ぶ。
でも、そううまくはいなかった。
帯状になろうとして前に進んだ人が、恐怖に背を押されるままに勝手に逃げていく。黒魔と接触したのは、そのすぐあとだった。呼び止めるマイクさんの声からも逃げるように、必死に走っていった。
硬い衝突音。盾持ちが斜めに板を構えて、黒魔の突進をそらした音だ。方向を狂わされた黒魔は、隣の黒魔を巻き込んで倒れる。それを槍持ちが素早く仕留めていく。
ほっと、誰もが一息をついた。だから、続く悲鳴と死の音楽は、みんなを震え上がらせた。
さっき、逃げ出した人だ。
あっちこっちが潰れていた。腕から足まで、余すことなくひしゃげていた。その体は雨をきれいな赤色に染めていた。
母ちゃんは目を揺らして立ち尽くす。あそこのお姉さんは、悲鳴を上げてうずくまる。声の大きいおじさんは、荷物も捨ててすぐそばの路地に消える。
おじさんの消えた路地から、赤い虹が見えた。腹についた気味の悪い大口でおじさんだったものを嚙みながら、普通の黒魔までやってきた。見せつけるように血をまき散らし、食事を終えたと思えば黒をまき散らす。泡立ちながらどんどん体を大きくして、一体が二体に分かれる。その後ろからもまだまだ出てくる。
マイクさんの怒号が飛ぶ。しかし、それに従う人なんて、もうここにはいなかった。
俺は惨めったらしく逃げた。マイクさんの指示に従いたかったけど、母ちゃんを一人にしたくもなかった。
俺たちの向かう方向は一緒でも、統一感なんてものは雨に洗い流されてしまった。ばらばらのリズムを刻む足音はもうだいぶ少ない。でも、追いかけてくる地響きはどんどん大きくなる。
黒魔につかまった人たちが、食べられることで時間を稼いでくれる。それに加えて、マイクさんが戦闘慣れしていた故に正気を保っていた痣持ちのみんなをまとめてくれたから、何とかここまで逃げてこられた。
本当にあとちょっと、あとちょっとなんだ。
でも、少しずつ、でも確実に痣持ちが負傷するペースは上がってる。
俺も痣持ちだから知ってる。痣の力を使うとすごいお腹がすくんだ。きっともう、みんな限界に近い。
そんな状況では、ジョンみたいな人が出るのも仕方ないと思った。
「ジョン、何やってるんだ!」
「マイク! こんな戦い、食べなきゃ続けられるわけないだろ!」
倒した黒魔の死体を拾い上げ、ジョンは下がりながらもその体に歯を突き立てる。マイクさんも最初こそ咎める視線を送ったものの、すぐにそれをやめる。
「交代だ! 一人ずつ交代しながら補給していくぞ!」
倒し倒され、食って食われて。俺にはなんだか黒魔同士の戦いに見えて、逃げる足に、隣を走る母ちゃんに、もっと速く動けと願った。
もう、十何人しか走っている人はいない。
心配になって後ろを見れば、痣持ちの人たちがまだ戦って、食ってくれている。槍のない人は、胸を食い破って核を砕いていた。
彼らの痣はどんどん大きくなっていて、みんな体のほとんどをどす黒く染めている。
俺はそれを見ていられなくて、前を向く。もう何度目になるだろうこの繰り返し。だけど、今回は違っていた。
視線の先に壁がある。壁には穴が開いている。穴には少女の人影と、大人の人影がある。
周りのみんなの表情が明るくなる。僕の心も軽くなって、口から喜びとなってせり出そうとして--
「ぐあぁっ⁉」
マイクさんの絶叫が、それをかき消した。
◇◆◇
「来ないね」
「そう言うな。あいつらは一般人を守って移動しているんだ」
高くそびえたつ防壁に開いた穴の前には、黒魔の死体がうず高く積まれている。道路の両脇に押しやられたその上に座し、ファスは死体を足先で蹴って遊ぶ。
出入り口を確保し、爆薬もセットし終え、新手の黒魔も来ない。俺たちはすっかり暇を持て余していた。ここを離れようにも、壁の上を伝ってここに集まっていた監視の人員がいる。そもそも俺たちが援護に行ったせいでここが塞がれてしまえば、作戦は失敗するのだ。
「あのう」
既に壁の外に出ている監視の人員のうちの一人がやってきて、おどおどしつつ声をかけてくる。
「なんだ」
「二人いらっしゃるのですから、片方が都市内に援護に行くということはできないのでしょうか」
「無理だ。それをしないことが、協力の一つの条件だからな」
「そんな……」
怯えの中に不満を込めた視線に、俺は価値を与えない。
俺の戦いの理由はファスを守ること。ファスを一人にすることなど論外と言わざるを得ない。
死体によってかさましされ、俺より高い位置にいるファスの声が降ってくる。
「私、一人でも大丈夫だよ?」
彼の顔が、一筋の希望を見つけて輝くが、その希望は儚い。
「何言ってるんだ。お前だって納得していただろう」
「でも……」
「これが、カルロを助ける最上の策だ」
「むう……」
ファスの死体蹴りが威力を増す。監視の彼はまるで自分が蹴られたようにそれを見てうなだれ、すごすごとほかの仲間の元へ戻った。
入れ違いに、ファスが俺の隣に飛び降りてくる。
「来たよ」
「そうだな」
ファスが見やる彼方から、雨の奏でるせわしないリズムを乱す、かすかな地響きが聞こえていた。どう考えても黒魔の出す音だろう。
ファスが肌を黒く染め、腕を四本に増やす。俺もファスもナイフを構え、視界に入るのを待つ。
雨を突き抜けて見えてきた集団は、その規模を何分の一にも変えていた。老人などはほとんどいなくなっていた。先頭に近いところに背の低い影があって、ファスが少し殺気を弱める。
俺とファスは援護に向かおうとした。けれど、向かおうとしただけだった。動こうとした足に急停止をかけ、ファスを手で制す。ファスの視線が頬に刺さる。
視線の先、すっかり肌をファスのような真っ黒に変えた集団に、異変があった。
マイクだろうか、彼の体が、不自然に膨らむ。黒魔に掴みかかっていた手が、腕が、肩が、末端から中央へと突然に筋肉量を増やす。
そんな彼を、黒魔は興味を失ったように無視する。食欲の権化のように人を食う黒魔が、苦しみに悶える隙だらけの肉を無視した。
やがて、彼の顔が膨らむ。ブクブク、ブクブクと膨らみ、風船のようにパンパンに膨らみ、それはついに破裂した。そこから伸びたのは一本の黒い右腕。
--そこに残った、否、生まれたのは、一匹の黒魔だった。
やがて痣持ち達が次々と苦しみ始めてゆく。
「サギリ、行かないと」
「……だめだ」
ファスの言う通りだ。今いかなければ、防衛線を失ったあの集団は黒魔の餌となり、黒魔となってしまう。
だからといって、痣持ちの戦力が期待できず、逆に敵になりうることを考えれば、俺とファスの二人であの人数を守るのは荷が重い。あの黒魔たちの後ろには、まだまだほかの穴から入ってきた黒魔が続いているはずなのだから。
「カルロ、死んじゃう」
「駄目だ!」
俺は撤退の決意を固めた。カルロには悪いが、俺たちには荷が重い。力だけでは力は力になれない。力は状況を選ぶのだ。
だが、ファスの姉としての意識が、それを許さない。
「私は、行く」
「無理だ、撤退する」
「行くの!」
「--ッ⁉」
初めて、ファスが声を荒げた。驚いたのは俺だけでなく、ファス自身でさえ、一時目を丸くする。
「……私は、行くから」
思わず力の抜けた俺の手を押しのけ、ファスは走り出す。
あっけにとられた意識が回復した時には、もう遅い。ファスの背中が見え、死地に向かうその姿に、俺はあの子を思い出す。
また、娘が死ぬのか。しかも、今度は俺の目の前で。おそらくは、黒魔に食われて。
気づけば、俺は走り出していた。
「サギリ……」
横に並んだ俺を見て、ファスが顔をほころばせる。ファスが俺に期待していたこと、それの叶った喜び。わずかな変化からでも痛いほどに伝わってきた。
俺はそれを裏切らねばならない。裏切ることより、怖いことが目前に迫っているのだから。
「すまない」
油断したファスの首筋に、鋭く手刀を放つ。警戒もなしに防げるほど、生易しいものでない。
「さぎ、り……?」
寸分の狂いなく、俺の手刀はファスの意識を刈り取る。崩れ落ちる身体を支え、背に回す。
ファスの黒魔の腕は以前のように液化し、糸を引いて地面に垂れる。そのしずくの落ちる音は、雨に吸われて聞こえない。
「……ん! ……えちゃん!」
ファスを背負って走り出す背中に、聞き覚えのある声がする。その声は俺に届かない。その中には悲鳴も混じっていた気がするが、やはり俺には届かない。
なぜなら、俺の一つしかない背中はもう埋まっているから。
「狭霧さん! 何やってるんですか!」
壁の外で待っている連中が叫ぶ。知ったことではない。置いておいた俺とファスの荷物だけさらって、走り抜ける。
最後に振り返った視線の先では、紅が雨に交じって飛び、断末魔の叫びすらわずかだ。その中で、驚愕に目を見開き、ひたすらに同じ言葉を叫ぶ少年がいた。
俺にとって、それは関係がなかったのか、関係があったのか。
どちらにせよ、俺が手の中の起爆スイッチを押した事実は変わらない。
空の涙は枯れつくし、やっと顔を出した太陽はすでに沈もうとしている。道路を挟む崩れかけのビルは、そのくたびれた姿を濡れた地面に落としている。
影の中で俺はファスを下ろし、リュックを置いて背もたれを作ってやる。未だ目覚めない彼女の前に立膝を突き、その頬をやさしくたたく。
「…………さぎり?」
「起きたか」
重力のままに傾いていた頭を重そうに起こし、その視線が俺を捉えた。俺はこの後に続くであろう質問に覚悟を決める。
「カルロは?」
「死んだ」
ためらいなく、断言する。
「……死んだ?」
「そうだ」
「そう……」
ファスの視線が落ちる。まるで言葉をかみしめるように。
「どうして?」
「お前を守るためだ」
「頼んでないよ?」
「それでもだ」
ファスの言葉は静かに落ち、地面に吸われる。その発言の矛先が、やっとこちらに向かう。
「……なんなの?」
「何がだ」
「サギリは、何なの?」
「俺は……」
一瞬の逡巡。偽るためでなく、俺の心を伝えるための。
「父親だ。俺は、そうでありたい」
「ウソ」
ファスの返事は速く、強い意志がこもっていた。
「カルロ、言ってたよ」
「……なんて、言ってたんだ」
「お父さんは、命がけでみんなを守る、ヒーローだって」
「……そうか」
一度こぼれだしたファスの心は、とめどなくあふれ出る。
「私、サギリが好き」
「サギリみたいになりたかった」
「お父さんみたいに、なりたかった」
声には、だんだんと今までにない力が乗っていく。ファスのただ垂れていただけの白く華奢な手が、きつく握られるのが見えた。
「サギリ、言ったよね。頼れって」
「あぁ、そうだな」
「だったら、頼らせてよ!」
肩まで力ませて、ファスは声を張り上げる。全身を使って、叫んでいた。感情を表していた。
全てを吐き尽くしたように、ファスの緊張が抜ける。顔をあげたファスの瞳は、どこまでも冷たかった。
「サギリは、嘘吐きだね」
上がったと思った雨は、再び降り始めていた。
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