第二章 その3

 ーー出発して、十三日が過ぎた。

 背の低い建物が立ち並ぶ中、二車線の道路が一本伸びている。どの建物もヒビが見え、入り口などに緑をあしらっていたものは、今ではその主従を入れ替えたようだ。

 そんな静かな通りで、一人ポツンと夜営の片付けをする。とは言っても、寝袋をしまうくらいのものだが。

 水の地面にこぼれる音がしている建物の影では、ファスが水浴びをしているはずだった。

 後頭部を強打して倒れたので後遺症を心配したものだが、今日までの六日間、何事もなくけろりとしている。

 水音が止んでしばらくすると、ファスが首の後ろで衣服の紐を結びながら出てくる。濡れた白髪は重みを増していて、いつもより少し頭が小さくなったように錯覚する。


「サギリ、そろそろ」

「ん、そうだな」


 空になったボトルをこちらに向けつつ戻ってきたファスを見て、言わんとすることを察する。

 確かに、そろそろ水を取りに行くべき頃だろう。


「丁度いい。今から行くぞ」

「わかった」

「タオルは大丈夫か」

「うん」


 タオルは、道中で見つけては補充し、使い捨てにしていた。洗濯しようにも洗剤がないのだ。二回か三回使ってから捨てているので、それでも困ったことはなかった。

 交差点を見つけて左へ曲がり、海岸線へと走る。途中で遭遇した二体の黒魔を奇襲で制圧し、問題なく目的地に至った。

 街並みが途切れ開けた視界には、あたり一面の砂浜が映った。目の前の階段を下りさえすれば、砂を踏みしめる独特な感触が足を包むだろう。その先に構える海原は、雨の名残の曇天に染められている。波の浜辺に寄せる音が、時たま耳に滑り込んでくる。


「サギリ、周り、大丈夫?」

「あぁ、今のところな」


 海岸沿いは遮蔽物が少なくていい。双眼鏡の視程は十二分に活躍し、安全を次々と確かめていく。

 けれど、何事もそううまくはいかないらしい。


「ファス、二時の方向、黒魔だ」

「どうするの?」

「こちらに向かってくる。先に叩くぞ」

「わかった」


 双眼鏡で見えるぎりぎりに映った影が少しずつ大きくなる。黒魔しかいないこの地域で、しかし、だんだんとはっきりしてきた先頭の一人は、服を着ている様だった。


「待て、少し様子を見る」

「何かあった?」

「服を着てるやつがいる」

「コクマも服を着るの?」

「普通着ないから様子を見るんだ」


 砂浜を駆ける黒い集団は、もうだいぶ明瞭に見えていた。先頭以外は普通の黒魔で間違いないようだ。その数、三匹。

 問題の先頭は、黒魔には見えなかった。なぜかと言えば、それには頭髪がある。白っぽい肌色がある。そして何より黒魔と比べて明らかに身長が低く、黒魔と比較するにその身長は130弱。

 --人間の、子供だった。

 小さな人間の子供を、黒魔がしゃかしゃかと追いかけていた。

 こちらに来る以上黒魔は排除しなればいけないが、あれはどうしようか。その思考は中断を余儀なくされる。


「ねぇ、どうしたの」


 双眼鏡を構える左腕を、ファスが引っ張る。視野を自分の周囲へと引き戻され、定番のふくれっ面が映る。

 それは、俺に自分の守るべきものを再確認させるには十分だった。


「何でもない。行くぞ」

「うん」

「余計なものが一匹いるが、特に気にするな。邪魔なら始末しろ」

「うん」


 砂浜沿いにのびた細い道路を駆けてゆく。後ろについてくるファスはすでに腕を四本に増やしていて、戦闘態勢は十分だ。

 互いの距離はぐんぐんと縮まり、双眼鏡なしでも命がけの鬼ごっこが見えるようになってきた。それは当然、向こうからもこちらが見えているということだ。


「おーい! 見えてるんだろ! 助けてくれよ!」

「--チッ! 余計なことを」


 手を振りながら、こちらに走り寄ってくる。

 声からもわかったが、駆けよってくるのは少年だった。こちらに向けて振る掌には、大きめの黒い痣がある。

 未だ黒魔と彼との距離は縮まっておらず、子供にしては異常な脚力をしていた。


「コクマ、こっちに気づいた?」

「いや、今のところ気づいたのはガキだけだ。だが、もう時間の問題だ」


 本来は高低差をもって隠れて接近し、側面をたたいてつぶす予定だった。今となっては正面衝突しか選択肢はない。

 --撃ち殺すか……?

 ダメだ。離れすぎているし、射程に入ったころには黒魔はこちらに気づいていることだろう。


「仕方ない」

「突っ込む?」

「あぁ、お前の速度なら十分に不意を付ける。俺が後ろでカバーしている、それを忘れるな」

「よろしくね」


 それだけ言ったファスは、砂浜へと降りて速度を上げる。足元の砂が舞う。

 相変わらずの無感情な声であったが、その言葉に少し口の端が吊り上がったのが分かった。

 俺も続いて砂浜におり、ファスに置いて行かれないよう、昔の勘を取り戻してきた体を酷使する。


 近く、近く、より近く。加速する景色の中で、もはや接敵に幾何の猶予もない。

 必死に逃げていた少年が接近の気配に顔をあげ、希望に満ちた表情がすぐさま絶望に染まる。


「ひぃぃ! バ、バケモーーわぶっ!」


 急停止を試みた少年は、砂浜に足を取られて顔から砂に突っ伏す。慌てて仰向けになった彼には、一匹の黒魔が迫っていた。そんな彼に、影が落ちる。

 旋風。バケモノと呼ばれた少女は少年を飛び越し、回し蹴りで黒魔をなぎ倒す。小気味の良い音が響き、黒魔の体は砂地に抱き留められる。その体は、追撃の俺の銃弾によって眠りに落ちる。

 銃声の響くころには、ファスの次の行動が始まっていた。そのまま後ろに控えていた二体の足元に、彼女は低い姿勢で着地する。巻き上がる砂の粒。回転を残していた彼女は、円を描いて足を払う。

 倒れる二体。一方にはファスが躍りかかり、一方には俺が迫る。

 倒れこみながらも繰り出してくる攻撃を、難なく払う。軽い音の連続は、ナイフの一撃で終止線を迎えた。隣では未だ、惨憺たる曲目が奏でられている。

 ファスの力強い両腕が、黒魔の上顎と下顎を掴み、引き裂こうとしている。肉が無理やりに裂かれる悲鳴。時折噴き出す緑。黒魔のわずかな抵抗も、残された腕に無力化される。

 そして、ひときわ大きな音とともに、黒魔の体は二つに割れる。下半身を投げ捨て、ファスは太い腕で上半身を断面が見えるように固定。引き絞った細腕を、その体内に突き刺す。

 最後の抵抗を試みる黒魔だが、がむしゃらに降る腕は有効打足りえない。湿った、肉をかき分け進む音。手首が、前腕が、肘が、黒魔の体内にねじ込まれる。ファスの腕が止まり、力が込められたと思った瞬間、黒魔の三本の腕がだらりと垂れた。


「お前、核を素手で握りつぶすやつがあるか」

「めんどくさい」


 呆れた声を投げる俺に、ファスは死体をぶらぶらとさせつつ答える。


「食べていい?」

「生はダメだといっただろう」

「たまには」

「だめなものはだめだ」


 つまらなそうに、弄んでいた死体を海へと放る。水の飛び散る威勢のいい音がした。

 ファスの黒魔の腕は黒い液へと溶け、肌を包む黒は引いていく。


「あれ、どうするの」

「放っておいていいだろう」


 指さす先には、変わらず砂の上に身を預ける少年がいる。

 腰の抜けてしまっていたらしい彼は、後ろに手をついて体を起こし、何やら口をパクパクさせている。その目は俺というよりも、ファスを見ていた。


「………………よ」

「何か言ったか」

「…………げぇよ」

「何もないならもう行くぞ」


 その言葉を聞いた瞬間、少年は跳ね起きる。駆け寄ってきた彼は、ファスの両手を取って興奮を隠さずに振り回す。


「すげぇよ姉ちゃん! バケモノって言ってごめん! あんなの初めて見たよ!」


 顔を輝かせた彼の、ファスへの賞賛は終わりを知らない。

 ファスは初めて見せる困り顔をこちらに向けてくる。とはいっても、こちらも肩をすくめるほかになかった。


 ◇◆◇


「俺、水を取りに来てたんだ。そしたら海岸に出る前にあのバケモノにあっちゃってさ」


 海岸を離れ、俺とファスがたどっていた道路で向き合って座り、少年の、カルロの話を聞く。最初は捨て置こうかとも思ったが、黒魔の支配下に置かれて十年が経つこの地で人間の子供がいるのも不自然だ。一応話を聞いておくべきかと思い、今に至る。

 彼はひどく傷んでいると一目でわかる衣服に身を包み、ブロンドの頭髪は短く刈り込まれていた。今は、俺の携帯食料を腹に入れて満足そうにしている。あんなまずいものをとてもおいしそうに食べていたことから、彼の食生活がうかがい知れた。


「がむしゃらに逃げたんだけど迷っちゃって。適当に走ってたら海岸に出たもんだから、とりあえずどっちかに行けば帰れると思って適当に走ってたんだよ」


 息を休めるついでに、カルロは水でのどを潤す。


「っはあ! 久しぶりの水はおいしいなぁ。実は水を入れる容器とか、逃げる時に全部落としちゃってさ。水も食べ物もなくて死にそうだったんだ」

「話がずれてるぞ。なんだ、それで砂浜を走っていたら見つかって、あの状況になったわけか?」

「そ、そうだよ」


 不機嫌ににらまれたカルロは、蛇に睨まれた蛙のように身を縮こまらせる。

 どうやら、この少年はライツとの関わりはないらしい。おおかた、どこか食料生産の施設がある都市に隠れ住んでいるのだろう。

 ライツがこの辺りに人材を置く目的は、シルル侵攻以外にあり得ない。黒魔の拠点があるとされるエスペラントはこちらの方向ではないのだから。だとするなら、水を取りに行くのが子供である時点で、ライツが関係しているはずがなかった。

 判断を終え、俺は腰を上げる。


「ファス」

「呼んだ?」


 双眼鏡を渡し、周囲の警戒をさせていたファスが戻ってくる。


「ファス姉ちゃん! 聞いてよ、狭霧のおっちゃんが怖いんだ!」

「サギリ、怖くないよ?」


 隣を抜けようとするファスの腕に、カルロが縋り付く。立ち止まらされたファスは、首をかしげるばかりだ。


「ファス、行くぞ」

「わかった。敵、いなかったよ」

「あっ……」


 あっさりとカルロを振り払ったファスが、こちらに近づいて双眼鏡を手渡す。代わりに、俺はファスに預かっていた荷物を手渡し、ついでに一日分の水と食糧をカルロの前に放ってやる。


「カルロとか言ったな。それはやるから、あとは勝手にしろ。俺たちも暇じゃないんだ」

「へ……?」


 カルロは目を点にして、俺を茫然と見上げている。

 俺とファスは気にすることもなく、その脇を抜けていく。


「私は暇だよ」

「……後で構ってやるから黙ってろ」

「わかった」


 話の流れを読まないファスを、頭をなでて黙らせる。満足そうなファスの顔を確認し走り出そうとする俺に、後ろから不満足そうな声が届く。


「お、おっちゃんたちシルルの軍人だろ⁉ 俺を置いてったら、ライツに連絡するぞ!」


「……なんだと?」


 予想外の発言に俺の足は止まる。振り返って視線で威嚇してみるが、カルロは少し体を震わせるのみでなおも言葉を重ねる。


「だ、だって、昔、ラジオで言ってたんだ。シルルはぱわーどっていう生身で強い兵隊がいて、安心だから逃げて来いって。おっちゃん、そのぱわーどなんでしょ?」

「……」


 きっとこいつが言っているのは、建国初期に時折シルルが行っていた避難誘導のラジオ放送だ。

 返事のない俺に対して自信を強めたのか、カルロは身を乗り出して力説する。


「シルルの兵隊がこっちに来るなんて、ライツに攻めるぐらいしかないよ! おっちゃんたちはライツに攻めに行くんでしょ? 俺のいたところには、一応通信の道具があるんだ。僕が帰り着いたらライツに電話するぞ!」


 無駄に頭の回るやつだった。

 ライツがそれを信じるかはわからないが、万が一警戒を強められでもすれば潜入は面倒なものになる。


「俺を家に送ってくれよ! そしたら何も言わないから!」


 始末する方が早い。その考えが頭をよぎる。

 今、素早く拳銃を抜き放って撃てば、年相応に小心の彼が身をすくませている間に確実に殺せる。弾薬がもったいなくはあるが、、安全は確保できる。

 ……待て。黒魔の跳梁跋扈するこの大地で生きているのだ。彼の暮らす都市には弾薬があるのではないだろうか。シルル製の対黒魔弾といかないまでも、通常の弾薬があれば牽制には使える。

 シルルから持ってきた弾薬は、すでに心もとない量まで減ってしまっていた。


「カルロ、お前のところに、銃弾はあるか」

「わかんないけど、たぶんある!」


 会話の流れが自分に向いたのを感じてか、カルロは立ち上がって主張する。

 俺はそんな彼から一度視線を外し、ファスに問いかける。


「ファス、少し寄り道していいか」

「サギリに任せる」


 まっすぐにこちらを見つめるファス。

 カルロに向き直った俺は、決定を告げる。


「わかった、連れてってやる」

「やった!」


 カルロはその場で拳を天に振り上げ、小さくジャンプする。まぶしいほどの笑顔だ。


「方向はわかるのか」

「シルルとライツの間にあるから、おっちゃんたちの行きたいように行けばつくはずだよ」


 上機嫌に駆け寄ってきたカルロは、ファスの空いていた左隣を確保し、手をつなぐ。


「何?」

「何でもないよ! ファス姉ちゃん!」

「……よくわかんない」


 手を繋いで並ぶ少年少女は、姉弟に見えなくもない。無表情な姉に、表情豊かな弟。

 また面倒が増えてしまったなぁ、そう思った。


 その後、二回の黒魔との戦闘を乗り越え、夜を迎えた。

 生暖かい風が頬を撫で、明日は雨が降りそうだとぼんやり考える。

 三人に増えた俺たちは荷物を下ろし、野営を始める。

 ファスの荷物を背負わせていたカルロに、レーションを投げて渡す。俺に対してファスを盾にするように立つカルロは、身を乗り出してそれを受け取った。

 ファスも最初はそんなカルロを邪険に扱っていたが、面倒になったのか、はたまた戦闘のたびに彼女を絶賛するカルロがお気に召したのか、今ではしたいようにさせていて、誰よりも先に食事を始めていた。


「カルロ、よく俺たちの速度についてこれたな」

「まぁ、俺も痣持ちだからね!」

「痣持ち……?」


 聞きなれない単語だった。

 カルロは俺に対し、にかっと笑いながら右の掌を突き出す。思いっきり開かれた掌には、指以外を覆いつくさんばかりの黒い痣があった。得体のしれないそれは、どこかで見覚えのある気がした。


「俺の都市の人たちに、たまに出てくるんだ。これが出た人はすっごく力が強くなって、そのおかげで俺たちは黒魔と戦えるんだ!」


 誇らしげにカルロは言う。途中からは見せていた手を強く握りしめてさえいた。

 そんなカルロに反し、俺の頭の中では疑念が渦巻く。そんな簡単に強化兵並みの身体能力が手に入るのか。自然に発生したとあっては、危険な手術を受けた俺たちはどうなる。一体、その痣の原因はなんだ。


「その痣、黒魔みたい」


 食事を途中でやめたファスの一言が、隙間風のように吹き込む。


「やめてよ姉ちゃん! あんなのと一緒にするなんて」

「でも、同じ匂い」

「匂いって……」


 ファスに手を掴まれ、そしてすんすんとその匂いをかがれ、カルロは顔を赤くしている。それを画面越しに見るように、俺の頭は別のことに集中していた。

 ファスの言うとおりであれば、あの痣に見覚えのつく理由もわかる。基本は人間で、黒魔のような黒い肌。人間のものに戻せる戻せないの違いはあれ、それはファスと変わらない。

 ならばなぜ、そうなるのか。

 食事を再開したファスの姿と、レーションを美味しいというカルロの味覚、そして黒魔の肉のひどい味が音を立てて結びつく。


「カルロ」

「なんだよ、おっちゃん」

「お前普段、何を食べているんだ?」


 カルロは一瞬意味が分からないといった顔を見せ、その後馬鹿にするようにこう言った。


「何言ってんだよ、狭霧のおっちゃん。そんなもん、黒魔の肉に決まってるじゃん」

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