第二章 その2
昨日空を包んだ灰色の雲は大地に一滴の恵みも与えずに去り、周囲には爽やかな朝の気配が満ちている。
「準備に不足はないな?」
「うん」
宿舎前にあるスペースに立つのは俺とファス、そしてファスと同室のマイだ。俺とファス、二人の背負うリュックは丈夫な生地でできた灰色のものだ。軍用のものではないそれの中には、余裕を持って40日分のレーションと、ファス用の四日分ほどのブロック肉が分割されて入っている。そこに数Lの水、数着の衣類、寝袋、海水をろ過する四角い装置などを加えればかなりの重量となる。着ている服はBDUではなく、首都で買った動きやすい一般の衣服だ。
俺は紺色のシャツに落ち着いた青色のパンツをはいていた。そこに黒色のプロテクターやらホルスターやらを取り付けている。胸には一丁のハンドガン、両腿に二本ずつのタクティカルナイフを装備している。
対するファスは、袖のない背中の大きくあいたワンピースを着ている。なんでも黒魔の腕を出すたびに服が破れるのが嫌だそうだ。戦闘に邪魔だろうと思われたスカート部分は、マイによってシャツか何かのように短く加工されていた。ほのかにピンク色のそれは首に引っかかっているだけのように思えて落ち着かない。風が吹くと胸元でワンポイントのリボンが揺れ、浮き上がった裾からベージュのショートパンツが見え隠れする。ここまでならかわいい女の子と言えただろう。しかし、肌の白さと朝の日差しが相まってまぶしい太ももには、三本のナイフを抱えた黒いホルスターが不釣り合いに巻き付いていた。
そんなファスはリュックの背中に当たる感触が気に入らないようで何度か背負い直している。それを見たマイは甲斐甲斐しく位置を整えてやっており、片手間に言葉をかけている。
「ファスちゃん、気を付けてね」
「大丈夫」
「ほんっとうに、気を付けてね!」
「ん、そこでいい」
「ほんと? ……って、ちょっと! 聞いてるの⁉︎」
眉尻を下げて心配そうにするマイに対し、ファスはどこまでもマイペースだった。数日の同室での生活でそれにも慣れたのか、言葉とは裏腹にマイもマイで気にしてはいないようだ。
ファスに煩いと追い払われて、マイは口で何やら言いながらもこちらにやってくる。
「狭霧さんも、気を付けてくださいね!」
「心配するな」
「心配しますよー。私の愚痴り相手がいなくなるかもしれないんですから」
「お前に愚痴られるやつも大変だな」
マイはにひひと笑いながらも俺のことを気遣ってくれる。きっと、これも冗談で俺の気を紛らわそうとしているのだろう、きっと。
そんなマイが突如表情を引き締める。その表情には、どこか切なさというか、同情というか、そんなものを感じた。
「でも狭霧さん、良かったじゃないですか」
「嫌味か?」
「違いますよー。だって、ライツに行けばもしかしたら--」
その時、ちょうど後ろにある指令棟の方から声がする。
「よう狭霧。俺に挨拶もしないで行くとは連れないじゃないか!」
振り返るまでもなくベネットだった。何故こうもあいつは後ろからひょっこり現れるのだろう。視界にとらえた彼は片手をポケットに突っ込みながら、もう一方の手をひらひらと振っている。
「昨日充分話したろう」
「お前、あんなあっさりした別れの挨拶があるか」
「別れの挨拶じゃないからな。まだ死ぬと決まったわけじゃない」
「おぉ、それもそうか」
にこやかに話すベネットだったが、その目だけは笑っていないような気がした。しかも、俺を見ているようで俺を見ていない。俺の後ろに何かあるのかと考えて、マイが何か言いかけていたことを思い出す。
「マイ」
「はい⁉︎」
振り向きざまに声をかけただけなのだが、何故か大げさに驚かれてしまった。
「そういえば、何を言いかけていたんだ」
「いぃえぇ、何も……」
引きつった笑顔で語るその言葉は胡散臭く、目はおそらくは俺の後ろにいるベネットと俺の顔を行ったり来たりしている。
「そうか、何もないならいいんだ」
露骨にホッとするマイ。普段なら気になるところだが、今はそんなに暇でもない。また、出発前に長々と話し込む必要も感ぜられない。
「行くぞ、ファス」
「わかった」
歩き出す俺の後を駆け足でついてきて、ファスが横に並ぶ。ベネットとマイは後ろについてきた。そちらから頭を小突かれるような小さな音、というより十中八九頭を小突く音がして、マイの小さな謝罪の声が続く。
少し歩いてゲートを出ると、ベネットとマイはそこで立ち止まる。最後に背中越しに手を振って、俺とファスは長い、長い旅路を走り出した。
◇◆◇
目指すのは前回のスラジャワ山脈越えの時に使ったなだらかなルートでなく、なるべく山脈のライツ寄りを超えるルートだ。海岸線に触れるルートでほぼ平地なのもあるが、何よりもそろそろ黒魔が山脈前に集結してきている可能性があるのが今回の選択の理由だ。黒魔は隊列の一部が突出するのを恐れてか、このルートをあまり使わない。
海岸線を歩いて出た黒魔領は変わらず殺風景だ。スラジャワ山脈はシルルの北の国境となっているわけだが、その西端から出た俺たちが辺りを見回すと右手は赤茶けた土の色が目立ち、左手には似たような地面であっても緑の気配がある。これはひとえに山脈を超えた風は乾いていて、海風は湿っているという違いによる。
周囲を警戒してみるも、百匹はくだらない大きめの黒魔の集団が東の方に遠く見えているくらいで、問題はなかった。おそらくあの集団は、次のシルルへの攻勢のための戦力だろう。個体間でコミュニケーションをとる様子はないのに、どうやって集団行動をとっているのか。時々気になってしまう。
そうはいっても、今の俺にはそんなことを解き明かすことはできないし、国のためにあいつらを掃除してやる気も兵力もない。俺とファスは緑の見える方へと走っていく。
高みの見物を決め込む太陽がさらなる高みに至る。彼の視線を一身に受ける俺たちは夏は終わったというのにじわりじわりと汗をかかずにはいられない。
人間のいない、他の動物にとって過ごしやすい環境のはずなのに、動物の影と呼べるものは見当たらない。シルルに逃げる途中で黒魔が犬を食うのを見たという人がいたが、本当だったのだろう。
「サギリ、お腹すいた」
「……そうだな、一度休憩を取るか」
腕時計を確認すれば、正午を回って十三時になろうとしていた。
荷物を下ろし、双眼鏡片手に食事をとる。後ろではすでにファスの食事音が聞こえていた。口で噛んでレーションの簡素なビニール包装を破り、口に入った包装を吐き捨てる。一口で半分ほどのレーションを口に入れる。ぱさぱさとしたそれはお世辞にもおいしいとは言えない。残りの半分を口に放り込むと、俺はボトルに入った水で喉の奥に流し込んだ。レーションに含まれた物質が、強化兵手術により改造された満腹中枢を適度に刺激する。
背後では、ファスが未だガリガリゴリゴリとやっている。
「ふぇえ、ふぁひり」
「何だ、食べながら喋るんじゃない」
「ふぃま」
「……そうか」
ひときわ大きな喉を鳴らす音がする。前ばかり注意していても仕方ないので後ろを振り向く。双眼鏡を外した視界に、こちらを見上げながらひとさし指を咥えるファスが映った。
どこまで卑しいんだ。
じっとりとした俺の視線を受けて、それでも最後まで食事を楽しみたいらしいファスは、目の前で全ての指を薄い桜色の唇で受け入れていく。
「お前、さすがにそれはないだろう……」
一体どういう教育を受けてきたのだろう。教育を受けたかすら怪しい。俺が何とかするしかないのだろうか。頭をかかずにはいられなかった。
「いいか、ファス」
「何?」
名残惜しそうに指を眺めていたファスが顔をあげる。
「食後に指をなめるんじゃない」
「なんで」
「なんでもだ」
「遊ぼ?」
「だからだな」
「暇」
眉根を押さえ、天を仰ぐ。これに家事も加わるとは、専業主婦とは軍人よりハードなのだろう。少しの間をもって考えをまとめ、餌を待つ小鳥のように返事を待つファスに視線を戻す。
「わかった、遊んでやる」
「ほんと?」
「本当だ」
ため息交じりに答える。
「ただし、条件がある」
「条件?」
喜色を見せたファスの顔が横にかしぐ。
「毎日一つずつ、俺の言いつけを守っていけ」
「一つ?」
「そうだ。今日はとりあえず指をなめる癖をやめろ。明日はそれに加えて別の言いつけを守るんだ」
「……」
無表情に戻った顔で固まるファス。きっと頭の中では欲望と欲望がせめぎあっているのだろう。そうであってほしい。やがて首の角度を元に戻し、ファスは言う。
「いいよ」
「よし」
「じゃあ、やろ」
ファスは俺から歩み去り、間合いを放す。その間に俺は中断していた作業を再開する。近くに黒魔がいないことを確認し、双眼鏡を下ろす。今のところ、予想外に問題のない道程だ。このあたりの黒魔はすでにスラジャワ山脈前に移動したのかもしれない。
「はやく」
「焦るな。少し待て」
すでに位置についたファスが急かす。組手を始める前に、双眼鏡が壊れては困るのでリュックにしまって離しておく。
「そうだ、言い忘れていた」
「何を?」
視線を戻すと、ファスがおかしな動きをしている。察するに、ファスは構えという概念を学習したらしい。まだまだ棒立ちと大して変わらないが、なにかあれでもないこれでもないというように手を動かしていた。もちろん、返事をしながらも続けている。
旅行を前にしてはしゃぐあの子に通ずるものを感じるその姿に、俺は残酷な宣告をする。
「黒魔に見つかるとまずい。遊んでやるのは三分だ」
ゆらゆら動いていた手がぴたりと止まる。その後の組手は、結局俺の圧勝に終わったものの、昨日よりさらに攻撃的だった。
組手の後、五分ほどの休憩をはさんで出発した俺たちは、黒魔の妨害もなくひたすらに走った。夕暮れ頃になると、遠く左に青い海原があるのみの殺風景な景色には、灰色の長大な蛇が追加されていた。車道だ。長年手入れされていないコンクリートの道路はひび割れ、ところどころから草が伸びている。シルルは海上輸送だよりの土地で、あまり強国の支配領域であったことがなかったから、陸路が整備されていなかった。ここからは道路沿いに走り、時折海に水分をいただきに行けばそれでよい。まだまだ距離はあるというのに一種の達成感を感じつつ、日が沈むまでの少しの間でさらに距離を稼ぎ、交代で見張りをしつつの野営でその日を終えた。
--出発の日から五日、シルルを離れるにつれ黒魔との接触が増えてきた。あたりも緑が豊かになってきて、以前は農地だったであろう場所では草が伸び放題になっている。明日には雨でも降りそうな曇天の下、俺たちは相変わらず人っ子一人いない道路を二人だけで進んでいる。今はごつごつした地面に腰を下ろしての昼休憩中だ。
「サギリ、コクマは?」
「いない」
「つまんない」
組手を制限されたファスは、時折の黒魔との戦闘を心待ちにするようになっている。三日目の夜、何かの物音に目を覚ましてみれば、ファスが黒魔と戦闘に入っていた時は肝が冷えた。戦いたいがゆえに報告をせず、わざと接近させたそうだ。一日一回の言いつけ権を用いて禁じてあるが、このままではファスのストレスが増え、いつか暴発しそうに思える。何か気をそらすものが必要だが、時々スタンドのあるくらいのこの道路沿いに面白いものなどない。
一度、黒魔に荒らされた大きめの都市があったが、食料はすべてダメになっていて、いくらかの衣類を新調できただけだった。娯楽施設なども当然機能していない。視界を遮る崩れかけのビルやなんやらのせいで黒魔の発見が困難で、逆に危険な場所だった。ファスにとっては遊園地なのだろうが。
手に持った食べかけのレーションを嫌々ながらに口に入れる。もともとまずいものが飽きによってさらに下方修正されているのだから、顔をしかめずにはいられない。隣でいつもと変わらぬ顔で黒魔の肉をかじっているファスがにくたらしい。
俺が水でむりくりに流し込んでいると、ファスも食事を終えたようだ。
「食べ終わった。やろ」
手を払う動作とともに立ち上がったファスの声が頭上から降ってくる。急かされても、安全を確認しないことには遊べはしない。
後ろを向くついでに立ち上がりつつ、ファスに言う。
「少し待て」
ついでに空いた右手をファスの頭に置く。あの子はこうして優しく頭の上で手を跳ねさせてやるのが好きだったから、ファスの戦闘欲も少しは和らぐかもしれない。
「……遅い」
逆に不機嫌になってしまった。
ーー七日目。早めの昼休憩を終え、新たに見つけた都市の突破に乗り出す。都市に入らずともボロボロの建造物が道沿いに目立ち始めてはいたが、防壁に囲まれたこの場所は一目で都市だと判別がついた。穴あきチーズのようにいびつな侵入口の空いた壁を防壁と呼べるかは謎であるが。
状態から見て中に黒魔がいる可能性は高いが、回り道をするのは面倒だ。一番近い穴から難なく入ってみると、やはり黒魔との戦闘の跡がある。黒い爆発の痕跡が地面についていたり、ビルの壁の一角が手によって抉られた跡があったり、薬莢が転がっていたり。中には歯形のついた突撃銃なんて洒落たものもある。
閑散とした街並みを、二人肩を並べて歩く。
「サギリ、向こうに敵」
「避けていくぞ」
「戦っちゃ、ダメ?」
「ダメだ」
差し掛かった十字路の先、チラリと見えた黒魔の集団の影を見逃さず、ファスが報告してきた。右に曲がることで戦闘を回避する。しばらく何を話すともなく進んでいたが、いきなりファスは速度を緩め、こちらを見上げて袖を引っ張る。
「ねぇ、我慢したよ」
「そうだな」
「偉い?」
「あぁ、偉いな」
昨日から、こういう問答が増えた。今までの言いつけを守った時もそうだし、先程同じようなことがあった時もそうだ。だから、この先の展開もわかっている。
「撫でて」
その言葉は、お願いではなく命令だ。ファスは袖を摘んでいた方の俺の腕を、両手で手首を掴んで自分の頭へと持っていく。撫でてやらないでファスを動かす手間より、撫でてやる手間のが少ない。俺はされるがままに、側頭部の頭髪に手を差し込み、髪をすくように撫でてやる。ファスの綺麗な白髪は、長い旅路で少し指通りの悪いものになっていた。それでも、ファスは目を細めて頭を擦り付けてくる。
「満足か」
「うん」
ファスは俺の手を開放し、歩調を合わせてやっていた俺を置いてさっさと先に進んでしまう。
ファスが暇だ暇だというものだから、つられて俺も退屈を感じていたのだ。そこで、昨日気まぐれに頭の撫で方を変えてみたら、それがだいぶ気に入ってしまったらしい。やたら戦いたがるファスの気分を害することなく止められるので重宝している。
だが、調子に乗せすぎるのも考え物だった。先行させてしまったファスが次の十字路の真ん中でその歩みを止める。
「……サギリ」
「おい、まさか……」
「ごめんね?」
「ったく!」
ファスのむき出しになっていた肌が黒く染まり、隆起する両肩から丸太のような両腕が突き出す。そのまま左へと駆け出すファス。走って交差点までたどり着いた時には、ファスと敵の戦闘は始まるところだった。一応向かってはみるが、果たして意味はあるのだろうか。
黒魔は三体。ファスから見てボウリングのピンのように並んでいる。先頭がファスを間合いにとらえる。打ち合わせるように両側から頭蓋に迫る掌。人の頭など風船のように破裂させそうなそれを、ファスは身を回しつつ腰を落としてかわす。次の瞬間には、下からつきあがったナイフが黒魔の胸を一突きにする。回転の遠心力と、体を起こす足のばね、それらを二重に利用した鋭い一撃だ。
回転そのままにナイフを切り払うように抜き取り、その反動で黒魔の体は右に流れる。ファスは回転とともに反対に抜ける。振り向きざまに後ろに控えていた一体を視認。先ほどのナイフを横倒しの投石器よろしく投擲した。日光を受けてきらめくそれは、ファスの正面にいた黒魔の真ん中の腕の目に突き立つ。
瞬間、投擲の隙を好機ととらえたもう一匹が右から迫る。右腕を下げて構え、胸か頭を突き上げるつもりだろう。即座にそれを認めたファスは、自由になっていた黒魔の腕をプロペラのように振り回す。それは牽制であり、加速。速度の上がった回転から、軽快なステップとともに怯んだ黒魔の胸に蹴りこむ。よろめく黒魔。素早く近づいたファスはその三つ腕を自らの四つ腕で固定し、ドロップキックを放つ。繊維がちぎれ、液が飛び、固いものが折れる音のトリオが奏でられる。
全ての目を失い無力化された黒魔にファスは関心を示さない。軽やかに着地したファスは引きちぎった腕を放り投げ、左にいるもう一体の黒魔に向き直る。俺ももう到着はしているのだが、一対一で負けるファスでもないし、ストレス発散になるだろう。視界を奪われ右往左往する一体にとどめを刺しつつ、観戦に移る。
最後の黒魔は、左手を引いて掌の目をファスに向ける。中央の目の代わりだろう。代わりにナイフの引き抜かれた腕と、無傷の右腕とをいつだかのプロレスラーのように広げて構えている。
対してファスは重心を前に寄せて腰を下ろす。左足を前に出し、右足を引いて軽く半身になっていた。細腕にはナイフが握られ、左手は順手に構えてナイフを前に向け、もう一方の右手は逆手に握って顔の近くに置いている。筋肉質な腕は軽く広げて楽にしていた。
じりじりと距離が詰まっていく。先に仕掛けたのはファスだ。ファスの口から鋭く空気が抜けた。左足で大きく踏み込み、同時に右足を引き付ける。風を切り突き出された左のナイフを、黒魔は体をねじって避けた。黒魔が腕を取ろうと伸ばした右腕は空を切る。すでにファスの構えは元に戻っていて、太いほうの左腕で上に突き出た腕を押さえる。この時の体のねじりを利用し、左のナイフが再び発射される。肉を裂くかすかな音が響く。しかしそれが突き立ったのは、ファスの狙った胸でなく、黒魔の左の掌。黒魔はナイフごとファスの左手をホールドし、ファスの体を引き寄せて崩す。
ファスはそれすらも利用して右のナイフで首から生えた腕を切り落とそうとするが、その寸前でファスの顔が初めて苦痛にゆがむ。ファスの二本の左腕によってできた死角を通って、黒魔の右こぶしがファスの脇腹に突き刺さっていた。鈍い打撃音。浮かび上がる軽い身体。力の抜けるナイフ。間髪入れず、高速の緩んだ腕を真上から振り下ろし、拳がファスの後頭部を捉える。再びの鈍い音とともにファスの体が落ち、唯一掴まれたままの左腕につられる形になっていた。
ーーあのファスが、負けた。
その状態で観戦するほどの胆力などないし、愚かさも持ち合わせていない。
走り寄りつつも、ファスを食おうと動く黒魔に銃弾を浴びせる。無数の発砲音が自分の足音に重なる。数歩ほどの今の距離では銃弾は大した威力を発揮できていない。だが、注意ぐらいは引ける。案の定黒魔の注意はこちらに向き、解放されたファスの左手が、糸の切れた操り人形のもののように落ちた。
全速力で前進する体を、うつ伏せに倒れたファスの体の前で急速に方向転換する。左に飛んだ俺の目の前には、未だ対応の取れない黒魔の右手がある。一閃。左腕に持ったナイフを逆袈裟に振りぬいて、その掌を二つに割る。噴き出した体液がかかる。このおぞましい怪物はそれでも悲鳴を上げやしない。視界を完全に失ったそいつに右の肩をぶち当てる。肉と肉がぶつかる感触がした。体勢を崩した黒魔の胸に、銃口を添える。
響き渡る銃声が、障害の排除を告げた。
「ファス!」
武器をしまい振り返ってみるファスは、いつだかと同じようにその姿を華奢な少女のものへと戻している。俺の呼びかけにピクリと眉が動くのを見て、いったんの安堵をえる。
「ファス、おいファス」
「……うるさい」
けだるげにファスが目を開け、のぞき込むようにしゃがんでいた俺と目が合う。つい、俺は金に輝く瞳から目をそらしてしまう。
安心を覚える反面、情けなかった。
ファスの攻撃的な面を注意しておいて、欠点があると知っておいて、俺はどこか慢心していたのだ。結果、ファスは死の危険にさらされた。
情けない、それ以外に言葉が思い浮かばない。
「ねぇ、サギリ」
「……なんだ」
大人が自分の失敗から逃げるわけにもいかない。
ファスの視線に自分の視線を合わせなおす。
「わたし、偉い?」
「っ⁉」
出てきたのは予想外のセリフだった。
死の危険を前にして、何を言っているのか。そもそも、はしゃいで見つかったのはファスであるし、一人で突っ込んだのもファスだ。賞賛すべきところなど一つ足りとて存在しない。
無自覚な発言がともした小さな火に、自責の念が不必要に薪をくべる。
「お前のどこが偉い。勝手に発見され、勝手に突っ込んだだけだろう! 負けたのも自業自得だ」
それは違う。俺とファスはチームだ。仲間のミスは仲間が支えるもの。
ファスは俺の言葉を不思議そうに聞き、そして口を開く。
「違うよ?」
「……は?」
「サギリ、言ったでしょ」
俺の言ったこと、全く察しがつかない。白熱した心が冷えていく。
「自分の失敗は自分で何とかしろって、昨日」
そうだ。確かに言った。
あれは昨日のこと、ファスに水を補給させた時のことだ。ファスは海水のろ過装置を使い忘れ、飲み水として使い物にならないものを取ってきたのだ。汲み替えてくるのを渋るファスに、言いつけたのだ。
『自分の失敗は自分で解決しろ』
思い返せば、ファスは突撃の前に確かに謝っていた。
彼女は、自分の行動を反省し、善悪の判断をし、言われたことを実行しただけ。
「偉いでしょ?」
口角が持ち上がり、ファスの初めて見せる自慢気な表情が現れる。
わかっていたはずだ。ファスはまだまだ幼いと。自分が育ててやらねばいけないと。
ならば、俺が実行すべきは一つ。
「あぁ、偉いな」
ファスの頭を慈しむように撫でる。
「すまない、ファス」
「いいよ」
「……何を謝ってるのかわかってるのか?」
「わたしの獲物、取ったことでしょ」
「よく言う」
果たして冗談で言っているのか、違うのか。俺の手の感触を楽しむファスの顔からは読み取れない。結局はマイペースなその様子に、わずかに頬がほころぶ。
「ファス、今日の分の言いつけがまだだったな」
「何?」
細めていた眼を開け、ファスがこちらを伺う。
彼女の着る服はすっかり土埃や黒魔の緑色の体液で汚れていて、せっかくのかわいらしさは損なわれている。
「これからは、危ないことがあれば何でも俺に頼れ。……いいな」
--たとえ、少しの間でも、俺はお前の父親でありたい。
優しく、語り聞かせるように。俺の決意を言いつけという形をもって表す。
ファスは変わらずこちらを見つめ続ける。少しの間をおいて少女の口からこぼれた一言は、たった一言のあっさりしたものだった。
「うん」
俺の決意が届いたかは知らないし、別にどちらでもよかった。
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