第二話 その1
「お子さんですか?」
「違います」
受付の妙齢の女性が聞いてくる。首都カーライルに位置する、国家人民軍総司令部を擁する高層ビル。その受付を素通りしていこうとするファスの首根っこを摑まえた際のことである。
「言われてみれば、髪も肌も瞳も、何一つ同じじゃないですもんね。ごめんなさい」
「いえいえ」
そこまで違うのだから、質問する前に気づいてほしかった。
ファスとともにタグの提示をすれば、この前と同じ部屋を指定された。エレベータに乗り込み、前回と何も変わりないドアをノックする。
「B-113小隊所属、狭霧京少尉、ファス准尉、入ります」
「うむ、入りたまえ」
しかし、ドアの内側から聞こえる声は異なるものだった。渋みのある声には変わりないが、あの大佐の声に比べてよく通る声だ。どこかトゲを感じる声でもある。
横に立つファスにせかされて開けた扉の先に見える人物は、全くの予想外だった。
隣のファスが袖を引き、あれは誰だと目で訴える。彼のような人の存在は想定していなかったため、ファスの扱いに困ってしまう。
「ふむ、よくなついているのだな」
「なついてない。好敵手」
「おい!」
ファスの言動に背筋が凍る。
なぜなら、相対するのはG部隊の隊長、ハーケン大将だからだ。立派な口ひげを蓄えた彼は、BDUがはち切れんばかりの肉体を椅子の背に預けていた。身長は190ほどだろうか。前回、大佐が座っていた時と比べ、彼が座っている今は机が小さくなったのではないかと錯覚する。
落ち窪んだ目に蛇のような眼光を灯してこちらを観察する彼の存在が示すことはただ一つ。不用意な言動は、何があっても許されない。
そんな状況では、ファスが隣にいることは地上800メートルの綱渡りでもしている錯覚を与えてくる。そして、すでに片足は綱を踏み外していた。
カーライルの口が動く。
「それのことは気にするな。そういうものだと理解している」
「……そうですか」
張り詰めた緊張が一気に緩み、一息つきそうになるのを何事もなかったかのように誤魔化す。
「時間が惜しい。狭霧少尉、報告を」
「では、黒魔戦での--」
「待て」
俺の言葉を遮ったハーケンは体を起こし、肘から先を机に着けて軽く手を組む。
「少尉の小隊は貴官を除き全滅したそうだな」
「はい」
「理由は」
「黒魔の反撃が予想を超えていました。ファス准尉もそこで負傷し一時的戦闘不能。すべては私の責任です」
ハーケンは俺の心を見透かそうとするかのようにじっとこちらを見つめている。その視線の先の心が怒りに染まっているのを彼は知らぬのだろう。
ファスは命令を受けていて、それが俺の小隊を襲った理由。となりでぼけーっと突っ立っているファスが自分の凶行を隠すためにそんなことを言う発想を持つとは思えず、これは確信できる。そして、俺の小隊。親族の生き残っている者はおらず、例え死人が出ても手間のかからない小隊だった。
以上から成り立つ結論は俺たち小隊はもともと殺される予定だった。それに尽きる。
ここで問題なのは、その目的だ。考えられるのは情報の隠蔽か、対人戦も実験の一つだったか、あるいはその両方の三択になる。任務の流れから情報の隠蔽の線は薄いと考えていたのだが、肝心の戦闘は誰の目にもつかない場所で行われたことから、選択肢を絞ることができなかった。
だから、俺はこの報告ですべてを見極めるつもりでいた。俺の解答に追及を挟むなら、彼らは俺の部下の死に単なる死以上のものを求めていたことになる。つまりは実験目的と推測できる。もしそううまくいかずとも、隠蔽目的であるならどうせ後で刺客がのこのこ出てくるだろう。
そう考えていたところでこれだ。こいつは何にも優先して理由を確認した。つまり、俺の部下をモルモットとして扱った。隠蔽で殺されたとしても許されるものではないが、個人的な感情として許せないものがあった。
「そうか。ならばいい」
燃え上がる心に柄杓一杯の水をかけられる。
あの言い方、実験目的ではないのか。ならば、なぜ理由を気にするのか。俺たちを殺させようとするのに、他に何の理由がある。
顔に出さないようにしつつも困惑する俺をよそに、ハーケンはファスへと視線を移す。
「それで、どの程度機能した」
「黒魔四体を一瞬の間に撃破していました。負傷も黒魔の死体によりできた死角からの一撃によりますから、防衛線などの援護のある状況下でしたら猛威を振るうでしょう」
惑う頭の中でも、ファスの有用さはアピールしておかねばならないという使命感は残っていた。小隊の一人も殺していないことになってしまったファスは命令に失敗したことになる。無用と判断されてしまっては、どうなるかわからない。
「それは結構」
小さくうなずくハーケンを見て、ひとまず安心する。ちらりと横を向けばこちらを見上げるファスと目が合う。今すぐ帰らせろ、わずかにしか表情の変化を見せないくせに、ベースが無表情のその顔は雄弁に語っていた。その能天気さに苛立ちを感じもするが、変わらぬその様子になぜか安心も強まった気がした。
「報告は以上です」
「ご苦労」
その他諸々の伝達を終え、退室の許可を待つ。ファスもあと一声がかかれば帰れると察し、ちゃんとハーケンの方を見た。
突如二つに増えた視線の中で、彼は机から二つの書類を取り出す。
「ではこれより、貴官らに次の指令を与える」
「次の、指令ですか……?」
ファスは興味を失って再び視線をさまよわせ、俺はつい聞き返してしまう。
「そうだ。狭霧少尉、これを」
言われるがままに一歩進み出て二つの紙を受け取る。それは指令書でなく辞令。一つは大尉への昇進、もう一つは俺のG‐0部隊への転属が記されていた。
「ハーケン大佐、これは」
「見ての通りだ」
「G-0部隊など、私は聞いたことがありません」
「当然だ。だから私が来たのだ」
わけがわからない。
ゲシュタポに形容される部隊の、隠匿された部隊。戦死を思わせる突然の二階級昇進。本能が全力で警鐘を鳴らす。
「G-0とは私直属、いや、カーライル国家元首直属の部隊。その昇進は選別だ」
「……理由を聞いてもよろしいですか」
「経歴を調べた。鬼のサギリ、その能力は捨て置くには惜しい」
「昔の話です」
鬼のサギリ。俺がまだ妻子の生存を信じ、彼らの帰り着く場所を確保するべく奮戦していた時の名だ。
「それに、以前はエスペランザで従軍し、潜入任務もこなしたそうだな」
「昔の、話です」
まだ黒魔の出現しない頃の話だ。世界を統一した国家、エスペランザに従軍したのは事実。首都エスペラントで黒魔が発生した時にはちょうど居合わせたが、統一当初の情勢の安定しない時代には地方のレジスタンスへの潜入も行った。
今思えば、家族を置いてなんともくだらないことをしていたものだ。
「今回はその能力を存分に生かしてもらう」
そう言って取り出すのは新たな一枚の紙。今度こそ指令書で間違いはなかった。
「黒魔領を通ってライツに潜入。彼の国の兵力を調査」
むちゃくちゃだ。黒魔領を通ってライツに向かう場合、寝ずに走り続けても10日、黒魔への警戒、戦闘、睡眠を考慮すれば一か月はかかる。
しかし、指令はそれにとどまらない。
「黒魔に対し特に有効と目される兵器を発見次第、可能な限り破壊せよ」
「そ、そんなばかな……!」
抑えきれなかった。
黒魔殲滅に対し意欲を見せない俺であっても、黒魔を憎まないわけではない。人類一丸となってとまではいかずとも、足を引っ張り合う必要性が思いつかない。
俺の失態を、ハーケンは平然と受け止める。
「今の発言は見逃そう。貴官はその辞表を受け取った時点でG部隊の一員だ。貴官の両肩にかかる責任は今までのそれとは比べ物にならん」
「拒否権は、ないということですか」
「その通りだ」
厳しい視線は、俺を捉えて離さない。
「……見苦しいところをお見せしました。その指令、謹んでお受けします」
「それでいい」
ハーケンの目を怯むことなく見返し、差し出された指令書を姿勢正しく受けとる。指令を断れないのならば、その中で生き抜いてやろう。そう決意した。
そのためにもまずは、足元をしっかりと固めておかねばなるまい。
「質問をしてもよろしいですか」
「いいだろう」
「なぜ、黒魔領を通らねばならないのですか。地下通路を用いればライツ側の監視はあるとはいえ、不測の事態も少なく、時間もかなり短縮できるものと愚考しますが」
交易用の地下通路はシルルからの亡命を拒否するというライツの方針もあって警備のものが多くいる。そうはいってもシルルからライツまでは長大な距離があり、その全てを意欲あふれる警備員で固めるのは不可能だ。最初の検問さえ突破すればその後は乱雑なものになっていくという。また海沿いに回り込まねばならない陸路と違って、地下通路ならライツまで直通で繋がっている。輸送用のライツ製高速鉄道も走っているため、時間も大幅に短縮できるはずだった。
「ならん」
「理由をうかがっても?」
「それが大きな不安要素となるからだ」
顎で示す先にはファスがいる。
話の輪からも完全に外れ、隣から俺もいなくなった彼女は完全に気が抜けている。もともと気を張ってもいなかったが、背伸びなどをのんきにするほどではなかった。
何はともあれ、俺ではなくファスが不安要素になるということは、俺とファスの相違点が問題ということ。そんなものは一つしかない。視線を前に戻して確認を取る。
「黒魔との融合体だからですか」
「そうだ。ライツの地下トンネルには黒魔の発する微弱な電磁波を捉えるセンサーが設置されているそうだ。セインの連中は問題ないというのだが、ライツの軍事機密たる技術ゆえにこちら側で試験することもできない。不確実な手は避けたいのだ」
仕組みまでは知らなかったが、地下通路にそのような装備があるとはベネットから聞いた覚えがある。かつてエスペラントで黒魔が発生したのは地中からであったため、地下通路に不安を示すシルル首脳陣への説得材料として用意していたとかなんとか。鉱物資源不足にあえぐシルルに対しその札は切るまでもなかったとも。
ベネットでさえつかんでいた情報だが、きちんとそれを掴んでいたところは流石G部隊といったところか。
「加えて、地下通路から入る物品には厳しいライツだが、時折黒魔領から逃げ延びてくる避難民は受け入れているそうだ。彼奴らもたった二人の黒魔領越えは想定しておるまい」
「なるほど」
たった二人の黒魔領越え。普通に考えれば武器弾薬の損耗によって強化兵であっても実現はほぼありえない。大規模の軍隊で補給線を確保すれば可能でも、その結果送り込むのが二人であるはずがないし、シルルに黒魔を放置してそこまでの軍事行動を行う余裕がないことはあちらにも知れている。
「しかし食料はどうするのです」
「強化兵用の高栄養価レーション三十個程度なら二人で余裕をもって運搬が可能だろう。ファス・シンセシスの食糧は数日分にして、あとは現地で調達すればよい。あれの持っていた黒い立方体は、黒魔の肉を焼けば簡単に作れる」
確かにその通りだった。
高栄養価レーションはブロック状の小さなもので、見た目には茶色い。ぱさぱさとして調理に失敗した明日葉のような味がするそれは、一日一個で必要な栄養分を補給できる優れものだ。ただし一個当たりのコストが高く、通常であれば目にすることのない代物だった。
ほぼ海沿いを歩いていけば済む以上、海水の塩分濃度を専用の器材で下げてやれば飲み水には困らない。
「私たちの装備はどうするのです。避難民の受け入れをしているといっても、身体検査は行われるはずです。シルルやライツの対黒魔兵装を用いれば怪しまれます」
「そのためのあれだ。いくら強化外骨格をまとっていようとあれにはかなうまい。国内の警備であれば生身の人間が行うことも多いだろうから、強化手術を受けた貴官なら問題ないだろう。武器は現地で調達するのだ。そもそも破壊活動は可能である場合に限る。偵察だけならば、入国前にどこぞに武器を隠しておけ」
ハーケンは言い終えると深く息をつく。
「もういいだろう、狭霧大尉。私も忙しいのだ」
彼は本当に予定が詰めっているのか、先ほどから時折壁にかかった時計を気にしている素振りがあった。これ以上引き止めれば不興を買ってしまうだろう。
「最後に一つだけ、よろしいですか」
「……なんだ」
それでも、これだけは確認しておきたい。
「本作戦の目的は何ですか」
質問を聞くや否やハーケンは深くため息をつき目を伏せる。
「我らが国家のためだ。下がれ」
「……失礼します」
不服だが、仕方がない。くるりと踵を返して、ファスを引きずるようにハーケンの前を去った。
◇◆◇
午後の日差しが雲間から見え始めた昼下がり、俺は基地内に置かれた練兵場の隅に腰を下ろしていた。
練兵場といっても、ただのだだっ広いグラウンドに過ぎない。号令の声の聞こえてくる中央当たりではB部隊の訓練が行われていて、俺とファスは使われていない隅の方を使っていたというわけだ。何をしていたかと言えば、当然ファスの駄々に付き合っていたのである。
この暑すぎない気温では、わずかにかく汗が気持ちいい。土の地べたに腰を下ろし、息を整える。
「四十になるっていうのに元気だな、狭霧大尉」
「……お前はどこにでも出てくるな」
後ろからはベネットが歩み寄ってきていた。背後に建つ武器庫の裏には指令棟があることを考えれば、マイに仕事を押し付けて抜け出してきたところなのだろう。
「それで、ファスちゃんは何やってんだ」
「さあな」
並んで座った俺とベネットの視線の先、少し離れたところでファスは俺に投げられた姿勢のまま寝そべっている。もちろん、黒くなったりはしていない。数秒してようやく立ち上がった彼女は、BDUのところどころについた土も払わずにこちらを見て言い放つ。
「サギリ、もう一回」
「ほら、お姫様がお呼びだぞ」
「あれのどこがお姫様だ」
よっこらせと立ち上がる俺をベネットはにやにやと眺める。
ベネットを巻き込まないよう数歩前に出て、左手を軽く伸ばして前に突き出す。右手は引いて顔の近くに構え、腰を落とす。俺の態勢が整った途端、ファスは構えも取らず突進してくる。
タイミングを合わせ、呼気とともに左拳を突き出す。白髪が風に揺れる。軽快な足音とともに、ファスは左にステップを踏んでかわした。すでに拳を引いた俺は足を滑らせ、体の正面でファスを捉え続ける。
彼女はなおも姿勢を低くして突っ込んでくる。繰り出されるパンチは身長差もあって、突き上げるようなものになっていた。鋭いそれを左腕を横に振って払い、同時に頭を刈り取る気で右回し蹴りを放つ。
姿勢を低くした状態で頭を狙われれば、腕で受けるか下がるか、どちらかの選択肢しかなく、どちらにせよ攻撃の手が止まる。そこから攻めに転ずれば俺の優位が得られる。ベネットはそう考えたに違いなかった。
しかし、ファスは三番目の選択肢を選んだ。地面に胸を付けんばかりにその身を伏せたのだ。空を切る俺の右足。キレのある音だけがむなしく響く。俺が足を引いた刹那、ファスは伏せた姿勢のままで飛び上がる。俺の視界から、ファスが消えた。
後ろから聞こえる着地音。それを聞いた俺の判断は素早い。足を引く勢いを殺さず後ろに蹴りこむ。軸足と地面の擦れる音が短く響いた。
「--ごえっ」
横腹に足の側面がめり込む手ごたえがあった。ファスが振り向きざまに放っていた裏拳から力が抜けるのを視認する。頭を引いてそれを難なくかわした俺はその手を掴み、裏拳の速度を利用してファスを引き倒す。ファスは受け身を取ることもなく、仰向けに倒れる。どさりという音が、俺たちにとってのゴングだ。
組手は、またも俺の勝ちに終わった。
「普通女の子の腹を思いっきり蹴るかね」
「あんな曲芸師じみたことをするやつのどこが普通の女の子だ」
「ま、そりゃそうだけど」
姿勢を起こす俺に野次馬一号からちゃちゃが入った。心なしか練兵場で訓練中の奴らからの視線もある気がする。俺もファスも気にはしないが、訓練中に余所見とは余裕のあることだ。
余裕のあるのは彼らだけでないようで、ファスはすぐにむくりと体を起こす。
「もう一回」
「ほら、大丈夫じゃないか」
「そういうことじゃなくてだな……」
「次、そっちから」
「わかったよ」
ベネットには目もくれず、再び意識を尖らせる。先ほどの構えをとりなおし、心を落とす。
相変わらずかすかに半身になるだけで棒立ちのファス。その息を吸うタイミングを見計らって力強く踏み出す。震脚の力強い音が鼓膜を打つ。踏み込んだ左足は俺とファスの距離を一瞬で縮め、足と同時に繰り出した左拳はファスの顔面へと突き進む。これに対しファスは頭を滑らせてかわす。髪に拳が降れる、わずかな音。そして距離を詰めつつ、正面から左拳で迎え撃ってくる。予想通りだった。身体を開いて受け流し、突き出された手首を右手でつかむ。そのまま残しておいた右足を引っ掛けるようにして地面に投げる。
「ファス、お前はいい加減下がることを覚えろ」
「行けそうだった」
「そう単調に前進ばかりで、行けそうも何もあるか」
うつ伏せに突っ伏したファスが声だけで答える。今回も受け身を取っていなかったわけだが、痛くないのだろうか。
ファスの戦闘は、良くも悪くも攻撃的だった。黒いファスと戦った時もそうだ。おそらくは四本腕の手数の多さがそうさせているのだろうが、常人と腕の数の変わらぬ今では御しやすい。
「容赦ねぇなぁ。ほら、大丈夫かい、ファスちゃん」
「大丈夫」
歩み寄っていたベネットの差し出した手は何者にも掴まれず、ファスはすっくと立ちあがる。ベネットは自力で立ち上がる様子に感心したような表情を見せていたが、起き上がったファスの顔を見るや口角が吊り上がる。
「サギリ、もう一回」
振り向いたファスを見て、ベネットの心情を理解する。
「……いや、もう休憩にするぞ」
「どうして」
「もう十分やったろう。あとで自分の顔を見てみるんだな。その証拠がある」
ファスの茶色く汚れた顔の真ん中、鼻の頭が赤く擦り切れていた。土がついているとはいっても、ファスの綺麗な白い肌の中で血の色は目立ち、赤鼻のトナカイのようだ。
顔を見てみろと言われて思い当たったように、ファスは人差し指で鼻をさする。そして指についた赤色を見て、かすかに頬を膨らませる。俺を見上げる視線に数千の恨み言を乗せている気がした。
「そんな顔をしてもだめだ」
「……」
「明日、おいていくぞ」
「……」
「マイのところにでも行ってこい」
「……」
じーっとこちらを見ていたファスが、渋々といった感じでベネットの来た方向へと歩いていく。ベネットに手を振られつつ歩いていく彼女は、武器庫の管理などをしている者の挨拶を空気のように気に留めず歩み去る。あの冷たさがいいとか言っている連中は将来まともな恋愛ができるか心配だ。というか、声がでかい。
ファスが見えなくなるまで手を振っていたベネットが、一度脱力するように肩を落とす。かと思えばすぐにいつもの調子を取り戻したベネットが指令棟の方を向きながら問いかけてくる。俺にはちょうど、ポケットに手を突っ込んだベネットの背中しか見えない。
「明日、本当にいくのか」
「どうしようもないからな」
ベネットの背中ばかり見ていても仕方がないので、俺も何となく指令棟を見やる。
ベネットには明日からライツに向けて発つことを話してあった。そもそも俺の直属にあったベネットに異動のことを話さないわけにはいかなかったから、それについての軽い世間話という体で明かしたのだ。
「ま、俺からもどうすることもできんしな」
「そういうことだ」
「まさか行って帰ってきたら俺と階級が並んでいるとは」
「お前がまともに仕事をしないのが悪い」
「一理あるな」
ベネットはいつものように笑う。その笑いがひいていくと、ベネットはポケットから何かを取り出して、後ろ手に投げてよこす。視線をベネットからずらしていた俺は、不意の飛来物を取り落としそうになる。腰をかがめ、両手で何とかとらえたそれは、薄い長方形の板のようだ。その両の表面は黒いガラス質の素材でできていた。手にちょうど良いサイズのそれを長いほうの辺が縦になるように持つと、片面の下の方には三つほどの小さな四角いボタンがあった。
機械のようだが、何であるのかさっぱり見当がつかない。
「通信機だ」
手元の機械を眺める俺の疑問に答えるように、ベネットが言う。
「通信機? アンテナも何もないこれがか?」
「そうだ。すごいだろう? ライツの試作品だ」
当然のように言うベネットに、驚いて俺は顔をあげる。
「そんなもの、どうやって」
「世の中なんでも裏があるってことだよ。たまにライツの失敗作をこっそり流してるやつがいるんだ」
その分値は張ったけどな、と頭をかきながら付け足す。
「……待て、失敗作だと」
「安心しろ。一回一分の通信をすると百時間ちょいもの充電が必要な優れモノだ。スイッチのついてない面が太陽電池になっていてな、日光に当てときゃ勝手に充電する」
「逆に言えば日光がないと充電できないんだろ」
「それも、雲に邪魔されない最高のやつがな」
百時間を単純に二十四で割れば四日と少しだが、その条件ではさらに時間がかかってしまう。確かに通信機としては失敗作だ。
「で、そんなものをどうして渡すんだ」
「一応な」
ここでようやくベネットがその身を回し、俺に対し横向きになって見上げてくる。その表情は真剣極まりない。
「お前への指令といい、どうも総司令部の考えが分からん。ライツに手を出すとなれば何か大事を起こす気かもしれない」
「そうだな」
「だから、お前がいない間に何かあったらそいつで伝える。ヤバくなったら、そのままライツに隠れ住んじまえ」
「……」
「……なんだよ、なにか言ったらどうだ?」
「いや、そこまでされると気色が悪いと思ってな」
「その言い草はないだろう」
視線を外しながら言う俺にげんなりとするベネット。うれしくはあるものの、素直に言う気は起きない。
「まぁ、貰えるものは貰っておく」
「俺も、やれるものはやっておくよ」
渡された通信機をしまいつつ、その場を後にしようとする。B部隊から外れた俺にとってここにいる理由は宿泊のみだ。ファスに付き合うのも終わった以上、自分の部屋に戻って明日の準備をするほかはない。
「おい、狭霧」
ベネットが俺を呼び止める。振り返ったベネットは何が楽しいのかにやにやとしている。
「実はな、俺仕事中なんだ」
「そうは見えないが」
「マイちゃんが今日首都に戻っててな。武器庫の確認に来てたんだ」
「それがどうしたんだ」
先の見えない話に俺は眉間のしわを深める。それでもなお、ベネットは楽しそうだ。
「ファスちゃん。どこを探してもいないマイちゃんを探し回るんだろうなぁ」
「……お前というやつは」
舌打ち一つ、兵舎へと向けていた足を指令棟へ向ける。
「がんばれよ、お父さん!」
「お前が言うな」
すり抜け様に軽口をたたくベネットを黙らせる。同時に、少し考えてしまう。
--ファスにとって、俺は何なのだろう。
一度俺に敗れて気絶して、彼女は突然感情と呼べるものを見せ始めた。命令に従い躊躇なく俺を殺そうとした彼女が、好敵手足りうるというだけで俺に心を許すのか。そもそも、あの子が自分の心を適切に表現できるのかも疑わしい。命令を命令としか受け取らず誰からのものかも覚えていない彼女なら、適切な語を忘れているだけではないのか。
お前は、どう思う?
歩を速めつつ、お父さんと呼ばれて喜んだ隅っこの方の自分に、俺は問いかける。
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