幕間
二人分の軍靴の音が大通りに寂しく鳴っている。三日ぶりに歩くその街並みに変化はなかった。変わったところと言えば、俺の左腕が三角巾に包まれていることと、そして隣を歩くファスくらいのものだった。
「ねぇ、サギリ」
「なんだ?」
「まだなの?」
「もう少しだ。三日前に歩いた道だろう」
「覚えてない」
口調は相変わらず平坦なファスだが、こちらを見つめるその顔には、わずかにむくれたような気配がある。
「暇」
「我慢してくれ」
「遊ぼ?」
「……勘弁してくれ」
あの後基地までファスを負ぶって帰り、目を覚ましたと思えばずっとこの調子だ。ここでハイと答えようものなら、ファスが躍りかかってくるのは身に染みて理解している。
「……ケチ」
「なんとでも言え」
灰色の絵の具で塗り固めたような空の下、俺たちは二人、任務の結果報告のため首都に召喚されていた。
◇◆◇
精根尽き果てて太陽とお見合いしていれば、俺を現実へと強引に引き戻すものがいた。
吹き飛ばされた衝撃を一身に受けその機能を停止していた左腕が、灼熱の痛みとともに今更の主張を始めたのだ。左腕を押さえて立ち上がった俺は、左手の指先から滴り落ちる血に初めて気づく。一定のリズムを刻むそれを見ていると、精神が少しずつ平静を取り戻し引き締まるのを感じた。冷静に分析すれば、左のあばらがいくつか折れ、足の骨にもひびが走っているらしい
とにかく、敵の陣地でおいそれと休憩するわけにもいかない。仲間は倒れ、ファスが眠り、俺が戦う力を残していない今こそ、速やかに撤退すべきだった。
傷ついた身体は歩を進めるだけで悲鳴を上げた。だがそれも、未だ強化兵手術を受けていなかった頃の苦しみよりは軽いものだ。できる限り迅速に、しかし確実に普段の歩行より遅いペースで自分がファスの食事中に座っていた場所まで戻る。
一度腰を下ろして深く息をついた後、右手だけで荷物の中を探る。使ったばかりの双眼鏡はすぐに出てきたが、どうせ使わないだろうと適当にしまっていた痛み止めを探し出すのには苦労した。
薄い褐色の液体が入った小瓶を逆さにして一気に飲み干すと、独特の薬臭さが鼻を抜ける。舌にわずかに残る苦みに顔をしかめつつ、双眼鏡を目にあてる。
今日の幸運は明日は槍が降ると言われても信じてしまうほどで、こちらに気づきそうな黒魔はいない。それどころか、戦闘前に相手には気づかれない距離だからと捨て置いた集団がその姿を消している。理由を考える時間も惜しい今は、偶然が重なっただけと思っておこう。
痛みの消えてきた体に荷物を背負い、隊員たちの遺体に足を向ける。
まずはノリス、親の戦った彼の死に顔からはもはや表情が正確に読み取れない。額に開いた小さな穴から流れ落ちた血が彼の顔に一本の赤い線を引いていた。死してなお強い意志を感じさせるその瞳をそっと閉じてやり、胸元から引っ張り出したタグを二つとも回収する。
次にパーカー、こちらはノリス以上にひどいありさまで、片方だけ残った眼は死への恐怖にこれでもかと見開かれている。こちらも同じように瞳を閉じさせ、二つのタグを回収する。その時、タグではない何かを胸元で握りしめていたのが目に入った。
そしてジャック、全身を食われてしまった彼にタグは残されていない。何か身分を証明するものがあるかもしれないと考え、残された荷物をまとめて持っていく。
最後に、ファスの前に立つ。足元ですやすやと眠っている姿は、先ほどまで恐ろしいほどの殺気を向けてきた相手とは思えない。
--我ながら、甘いものだ。
肌の色も、もちろん髪の色も俺と同じ黄色人種で、髪も黒かった娘とはかぶらない。ついぞここまで逃げてくることのなかったあの子。俺の家からはシルルより距離の遠いライツに逃げたはずもなく、黒魔に食われてしまったのだろう。黒魔の被害者という点では、合成体であるらしいファスとあの子は似ているのか。
何はともあれ、一度生かすと決めたのだ。最後の俺の直属の部下として、この子を守ってやらない選択肢などなかった。自分の荷物を腹側に回し、ジャックの荷物をファスに背負わせる。背中を向けてしゃがみ、右腕だけでえっちらおっちらと自分の背にファスを載せた。羽のようにとはさすがに言わないが、少女らしい軽い身体だ。
向かうスラジャワ山脈は土や岩の色が丸見えで、城塞か何かのように目に映った。
一人で走る山道は殺風景だ。踏みしめる地面は何度も踏み固められてカチカチになっている。つい益体のないことをつい考えてしまう、そんな帰路だった。
三人分の死を伝えるなど、きっと面倒な作業だろう。それに比べて、自分はひたすらに戦っていることしか求められない楽な役職についているものだ。恨み言を言われるべきなのに、恨み言を言う者に会うことはおそらくないのだから。パーカーの彼女など、怒り狂って俺を罵倒するだろう。まぁ、籍を入れていないらしい彼女がそれを知ることはないのだが。
そこまで考えて、はたと気づく。
誰が、戦死報告を受けるのだ。ジャックにノリスの戦闘への欲望は直接にしろ間接にしろ、黒魔に親族を殺されてしまったことによる。パーカーは彼女に支払う養育費を肩代わりする親族がいなかったのではないか。
ずっと不明だった俺の小隊に命令の下った理由。本当に、ろくでもないことに気づいたものだった。
遠くから見ると暗闇の中でぼうっと光っていた基地に帰り着く。負傷のせいで、予定よりも遅い帰還になっていた。傷を負ってなお戦うために支給されたあの痛み止めは即効性であるものの持続せず、途中で痛みがぶり返し始めたのだ。
はっきりと見え始めたゲートには、今度はベネットではなく正規の衛兵二人が立っている。
「B-113小隊、帰投した」
小隊であるというのに二人しかいない俺たちの様子に怪訝な顔をするが、指令の存在を知らない彼らには無理からぬことだった。それでもタグを確認したようで階級が上の俺たちを多少恭しく迎えた。
左腕や酷使した足の痛切な訴えは無視する。どうも自分のことを優先する気にはなれなかった。ファスも新型生物兵器である以上医務室に連れて行っては問題があるかもしれないし、使用に特に警告もなかったセーフティが原因だから放っておけば目を覚ますだろう。
疲れた身としては耳障りな耳元の寝息と、蒸れてじっとりと熱い背中の不快感を取り除くべく、俺はその足で宿舎の向かいにある司令棟へと向かう。
たどり着いたベネットの執務室は、当たり前だが昨日と何も変わらない。少し切れていた息を整える。
「狭霧だ」
「おう、帰ったか! マイちゃん、ドア開けてやってくれ」
「はいっ!」
ドアに駆け寄る音がして、まもなく丁寧にドアが開けられる。マイのにこやかな顔が見えたが、俺の土と血に汚れた姿を見て驚愕に染まり、すぐに上目遣いに気遣ってくる。
「だ、大丈夫なんですか? ファスちゃん、死んでるんですか?」
「残念ながら、死体を担いで歩く趣味はない」
「よかったぁ」
「俺の心配はないのか……」
呆れつつマイの脇を通り抜け室内に入る。荷物の多い身体では一苦労だ。
「上官の前に来るには身だしなみがなってないぞ、保母さん」
「悪いが、仕事をしない上官に対して守ってやる礼節は持ち合わせていない」
「手厳しいな」
珍しく机についているベネットがいつもの軽口をたたき、かと思えばその表情を引き締める。
「で、どうだった」
「……俺とファス以外、全滅だ」
「そんな……」
ドアのそばにそのまま控えていたマイが漏らすようにつぶやき、俺とベネットの視線を受けて、しまったとばかりにそろえた片手で口を抑える。
「何があった」
「悪いが、話して利益があると思えない」
その言葉を聞くや否や、ベネットはキザったらしく目をつむって息をつく。
「じゃあ聞かん」
やはりこいつは察しがいい。表情で雄弁に『だいたい察しはつくからな』と語っている。
「それで、ファスちゃんはどうしたんだ。部下はおぶらないんじゃなかったのか」
「眠って起きないから仕方なくだ」
「キスでもしてやればどうだ」
「やかましい。マイ、部屋に連れてって寝かしてやってくれ」
「だってよマイちゃん、よろしく頼む」
「はいっ!」
近づいたマイがファスを俺の背中からはがし、抱き留める。そのファスの背中からジャックの荷物を下ろしてやると、マイは元気に執務室を出て行った。
「それで、お前も医務室に行ったらどうだ」
「いや、まだやることが残ってる」
「戦死報告なら俺が代わりに行ってやるぞ」
「自分の仕事くらい自分でやる」
そのくらいはやらないと申し訳が立たない。
「それに、それだけじゃないしな」
ベネットは一瞬思案顔になり、果たして思い至ったようであった。
「お前もよくやるよ」
「お前がやらなさすぎなんだ」
それだけ言うと、俺はファスの消えた背中にジャックの荷物を載せ執務室を後にした。
戦死報告などを行う場所は指令棟の一階の出入り口付近にあって、消費した物資の報告などの雑多な報告がここでまとめてなされている。木でできたカウンターの奥は小さなオフィスのようになっていて、戦闘終了後であればある程度の報告書の仕分けを行う連中が詰めている。しかし、戦闘が終わって二日後の夜であるこの時間では形式的に一人が受付として座っているのみだった。あくびをしていたところを、近づく俺に気づいて慌ててとりなしている。
少ない仕事に慣れて第二のベネットになっては、まだ若い彼にとってはいろいろと不都合だろう。そう考えた俺はジャックの荷物の中から彼の身元を示すものを探すことを押し付ける。ベネットにはああ言ったものの、このくらいは許されるのではないか。仮にあいつでなく俺が死んでいたとして、あいつがそこまでするビジョンが見えない。
身軽になった俺はゲートを再び出て、基地のぐるりを囲むフェンスに沿って歩いていく。周りに森も人家もないこの場所では、宿舎から時折聞こえる怒声や笑い声が止んだ途端澄んだ静寂に包まれてしまう。
ちょうど宿舎の裏までやってくると、月明かりすらもそれにさえぎられた暗闇に包まれる。持っていた懐中電灯をつけて地面を照らせば、不自然にこんもりとした小さな土の盛り上がりが、規則正しく並んでいる。右の方では逆に少し抉れた部分があることを、俺は見るまでもなく知っていた。
懐中電灯をその場に置いた俺は抉れから新たな土を持ってきて三つの山を新たに作る。
「ついてるな。お前らには墓標がある」
銀色の小さなプレートを作った山のうちの二つに立てる。
一通りの作業を終えた俺は懐中電灯を拾って立ち上がった。土で汚れた手は払っていない。
「すまない。俺の力不足だ」
何度この言葉をここで吐いたことか。一度も忘れたことのないその数を、山を数えることで確認する。ただひたすらに自己満足のために作られて、奴らも迷惑していることだろう。だから、使い古したその一言を長ったらしい懺悔の代わりとする。
「もう二度と、ここには来ない」
我ながら安い言葉だ。
それでも、去り際にそう残さずにはいられなかった。
医務室で手当てを受け、俺は宿舎に戻っていた。
一直線の廊下にブドウのように部屋をくっつけたものをひたすら並べて重ねたこの宿舎には、武器庫のような印象がある。常ならば露ほども気にしないのだが、今日の一件を考えると笑えない冗談だ。
少尉にもなると個室が与えられていて、俺に支配された必要最小限の大きさのこの部屋はベッドと机、箪笥があるばかり。ひどく殺風景と言える。小さな嵌め殺しの窓から差し込む月明かりだけが、机についた俺の手元を照らしていた。
隣の部屋のいびきが耳につく中で、金属と金属の触れ合う音がする。俺が、机の上で銃を掃除する音だ。
そこに、珍しいことに俺の部屋の戸を叩く音が加わる。
「狭霧、どうせ起きてるんだろう。たまには一杯どうだ」
「……少し待て」
金属の擦れる音とともにマガジンを差し込む。
人生の半分以上の期間続けている銃の組み立てはこの基地で一二を争える早さだという自負があるが、片手ではやはり時間がかかる。使えない左手は三角巾でつられている。
掃除を終えた銃を机に置き、左足をかばいながら立ち上がってドアを開けてやる。立て付けの悪いドアは盛大に軋みをあげた。
外では片足に重心を置いて立っているベネットがいて、片手にはずんぐりとした酒瓶を、もう片方の手には二つのグラスを持っている。
俺の肩越しに銃の掃除の痕跡を見て取ったベネットが、俺より低い身長で器用に見下してくる。
「おいおい、あの鬼のサギリが銃の組み立てに時間を取られてたわけじゃないよな」
「いつの話だ。そこまで言うなら、お前も片手でやってみろ」
「遠慮しとくよ」
ずかずかと部屋に入り込んだベネットは乱暴にベッドに腰を下ろす。仕方なしに隣に腰を下ろしたころには、勝手に引き寄せた椅子の上で二つのグラスに酒を注いでいる。
「お前も飲むのか」
「俺の酒だぞ? ひとりでがめるつもりだったのか」
「自分の行いを顧みてから言うんだな」
酒にとことん弱いベネットと一緒に飲んでろくなことはなかった。若い頃ですらすぐ潰れていたあいつだ。年も取ってどうなっていることやら。
「いつの話だよ。人間、成長するもんだ」
「口ではなんとでも言える」
止めてはいるが、これは後でマイに小言を言われた時のためでしかない。確実に二日酔いを発生させるベネットが酒を飲むことは、彼女にとって酔うほどの仕事を押し付けられるということに等しい。
護身の策をめぐらす間にもベネットは酒に口をつけている。注がれた酒を飲まない理由はない。俺もつられるように酒を口に運ぶ。
「なんだこれは。ほぼ水じゃないか」
「いいだろ。これなら俺だって飲める」
その酒はアルコール度数の低い甘い味付けのされたものだった。瓶のラベルからきつい酒を予想していた俺としては肩透かしを食らった形で、つい顔をゆがめてしまう。くだらない見栄のために、わざわざ空瓶に移し替えてきたのだろう。
対照的に満足そうに喉を鳴らすベネットが問いかけてくる。
「怪我の具合はどうだって」
「腕以外はすぐ直るらしいが、こっちはちょっとかかるらしい」
少しだけ動くようになった左腕をピクリと動かして見せる。
強化兵は何も戦闘能力の向上だけが強みではない。その回復力も、黒魔と九年もシルルが戦い続けてこられた理由だ。これは特殊な薬剤の投与によって、一時的にほかの能力を代償にして跳ね上がるようにできている。
「それはよかった」
ベネットがグラスから口を離し、たまった気を抜くように一息つく。
「何がいいものか。俺が生き残ってどうする」
「そんなこと言ってもなぁ」
ベネットはさっさと酒を飲み干し、なんとなく対抗心を覚えた俺もグイッと飲み干す。無言でグラスを差し出すベネットに酒を注いでやれば、どうもという声が返ってくる。
「お前が生き残らないで、どうするんだ」
「……」
自分の分も注ぎ終わり、瓶を椅子の上に戻す。
「部下を殺す上官が、生きていていいはずがない」
「ま、それはその通りだな」
手の中でグラスを回す俺の横で、ベネットは舌を湿らすかのように酒を口に含む。
「だったらよっぽど、お前は生きなけりゃあな」
「……」
「お前はどうして、今生きてられるんだ」
口に含む酒は、やはり俺には甘すぎる。
「お前の背中にこびりついてるものぐらい、わかってるだろ」
「……そうだな」
ベネットは話に区切りを付けるように酒を飲み干し、ベッドからのそりと腰を上げる。
「俺も、やってみていいか」
指さす先には組み立ててそのままの銃がある。俺は椅子の上をかたして差し出してやることで了承の意を伝える。
ベネットが慣れない片手での作業に飽きて眠るまで、俺はその背中を見ながら酒を飲んでいた。
◇◆◇
そして次の日の朝食堂に行ってみれば、黒い立方体をネズミのように齧るファスは、急に俺のことをちゃんと呼ぶようになったり、俺と戦いたがるようになったりしていたわけだ。
不満げなファスは直接的に反抗こそしてこないが、先ほどからやけに歩くのが遅くなっている。最初は俺に食い物を買わせようとしてきたが、要求通りに買われたときにまずいものを食わされることに気づいてからはぱたりとしない。
「おいファス」
「……」
「ファス」
「……何?」
以前のファスであればこちらを見ないことに大した意味はなかったが、今では俺に不満たらたらですと示す行為の一つだ。このままいけば何をしだすか分かったものではない。
心の中で、現在進行形に大きくなる面倒と、大きさの確定したのちの重労働を天秤にかける。ほぼ釣り合いつつも揺れ動くそれを、一つのため息とともに片方を手で押してやる。
「帰ったら相手をしてやる」
「……ほんと?」
そっぽをむいたままファスが確認を取ろうとする。嫌で嫌でしょうがないが、首都の、しかも総司令部で騒ぎを起こされでもしたらたまったものではない。昨日のことを思い出して憂鬱になりながらたった一言を絞り出す。
「本当だ」
やっとファスがこちらを向く。その頬は、わずかであるが確かに緩んでいる。
「なら、早く」
「現金な奴だ」
突如歩を速めるファスについていく俺の心には、懐かしい感情がよみがえっていた。
「おい、ファス」
「何?」
「お前、道覚えてるんじゃないか」
「……さっき、思い出した」
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