第5話 苦悩
神谷輝。日本球界を代表する天才打者。球界史上八人目の三冠王達成者。などなど異名は数多存在する。
そのような大打者の長男としてこの世に生を受けたのが翔だった。
野球選手の子どもだからという理由で地元の軟式クラブでは入団早々背番号を与えられ、試合にも出してもらえた。
特別待遇と反発を買ってもおかしくはなかったがそのような事態にはならなかった。
翔は父親譲りの野球センスでメキメキと上達した。
しかしそのハイセンスが翔を悩ませた。
幼いころからバットを振り続けていた翔のスイングスピードは同年代の中では異様なほど速く、四年生の頃には柵越えの打球が目に見えて減っていた。
理由は単純明快。翔のスイングスピードが速すぎて軟式球がインパクトの瞬間につぶれてしまうのだ。
翔は父親に硬式野球へ移りたいと相談したが、小学生の間は軟式と一蹴されてしまった。
プロ野球選手の輝は野球を続けたいのであれば高校までの間は身体作りをすればいいと硬球反対の姿勢を崩さなかった。
翔は、父の輝が遠征のついでに知り合いの家に行くというので、同行することにした。
翔はたまに、父親の遠征について行き、ちょっとした旅行を繰り返していた。
正直、地元のクラブでの練習は退屈以外の何物でもなかった。
周囲から頭が一つも二つも飛び出してしまっている中での練習は復習の時間ではあっても進歩するための時間とは成り得なかった。
父の遠征先で立ち寄った一軒の家。
表札には進藤の文字。
この日の出会いが翔の退屈したモノクロな日々に色を与えた。
頼ることのできるものは己が有する感覚すべて。その中でも翔は自らの直感というものに全幅の信頼を寄せていた。
野球というスポーツにおいて直感が占める役割は大きい。
勿論、日々の鍛練がなせる業というものもあることは否めない。
それでも努力云々を差し置いて、見るものすべてを魅了してしまう才能というものがある。
翔は、そんな才能に出逢った。
進藤勉は翔よりも一回り小さいという印象の少年であった。
その為、翔は勉を初めて前にした時に年下だと思った。
父親から同級生の同い年だと聞いてはいたが、あまりにも想像と違っていたために一瞬、弟かだろうか? と失礼極まりない感想を抱いたりもした。
その日、進藤家へと神谷親子が赴いた理由は進藤健人―勉の父親の遺品の中に輝が鍵を有したものがあるらしく、その遺品の中身を確かめるために父は遠征のついでに(一日早く関西入り)寄った次第である。
安っぽい木箱に申し訳なさげにぶら下がっている南京錠は、これまた安物で、バールでこじ開けてしまえばいいとも思えるものではあったが遺品であった事を思い出し、傷をつけたくないというのもまた人情というものかと一人で納得していると父の輝が南京錠を外す。
木箱の中にはきれいに畳まれたユニホームに野球道具一式に加えてメダルがこれ見よがしに納められていた。
何故その様な行動をとったのかはわからない。
進藤家に到着し、勉に野球を教えてやるとは言ったが木箱の中に納められたグラブを目にしてそのグラブですぐさま目の前の勉とキャッチボールをしたいと庭へと飛び出した。
思いの外、勉の呑み込みは早かった。
しかし、捕球は上達するも返球が覚束ない。
肘から先―すなわち腕の力だけでボールを投げる。力の乗っていないボールは山なりで翔の手前数メートルの所に落ち、一回、二回と地面に跳ねてグラブに納められた。
捕球が出来る人間が返球にここまで苦労するものだろうか? と疑問に思いながらキャッチボールを続けた。
完全に太陽が沈み、辺り一面の空間が正しく認識できないほどに暗くなった空間でのキャッチボールはスリリング以外の何物でもなかった。
さすがにそろそろ切り上げようかと思った瞬間、暗闇に浮かぶシルエットから声が飛ぶ。
「もう暗くてボールも良く見えないからこれで最後にしよう」
今まで覚束ない返球しかしてこなかったシルエットが一丁前に振りかぶった。
違和感―。
何かがおかしい。
違う。何かがおかしかったには今までの方? 即ち、シルエットの本来の実力がわかる。
翔は得体の知れない何かに期待する自分に気付く。
次の瞬間、シルエットは投球動作に入る。
思わず見とれてしまう。
素人だというそのシルエットの投球フォームはプロと見紛うばかりの美しく完璧なもので気が付いた時には目の前にまで白球が迫っていた。
不十分な捕球体制ではグラブにボールを収めることが出来なかった。
ミットの先端で回転するボール。
回転するボールは勢いそのままにミットを弾き翔の後方へと落ちる。
後方に落ちたボールとシルエットを交互に見る。
「そろそろ終わりにしなさい」
輝がキャッチボールに幕を引く。
(いいところで……)
口にはしないが父親の余計な介入に舌打ちをする。
惜しみながらも、その日は進藤家を後にした。
帰りの道中、切れかけた街灯の細い路地から一本隣の路地へと入る。
「お前はどうなりたい?」
父の問いはいつも唐突である。
野球をやりたいと父に打ち明けた時には「好きにいしなさい」と簡素な言葉しか口にしなかった。
しかし最近、どうしたいのだと問いただしてくる。
軟式球を上手く飛ばすことが出来なくなってからやたら、父が絡みだした気がする。
「プロになるよ」
一言。
「そうか……」
翔の宣言も輝にとっては嬉しいものではないらしい。
闇夜に掻き消されたかのように輝の言葉は風に乗ってどこかへと吹き飛ばされてしまったかのように翔の耳に届くことはなかった。
一歩また一歩と薄暗い路地を進む。
親子二人で歩くには少々不釣り合いな場所で、その路地の終着点として燦然と煌めく大通りへと出る。
輝は振り向いて、今さっきまで自分たちが歩いていた路地を見つめ、口を開いた。
「プロの世界はこんな風に全てが輝かしい訳ではない。皆、輝いている自分を見せようと俺たちが通ってきたような暗くて輝きなどない場所に止まったままの奴もいれば、更に深くて暗い場所へと追いやられてしまう奴もいる。もしお前がお父さんを見てプロ野球選手に憧れたのであればそれは幻想―まやかしでしかない。それでもお前はプロになりたいのか?」
もちろんそんなことは翔もわかっている。
それでも思わずにはいられなかった。
なぜ今、この〝場所〟で父はいい話風に語っているのだろうと。
「わかってるよ。父さんが苦労しているのは、でも、こんなところに息子を連れてくるっていうのは父親としてどうかと思うよ」
翔は呆れたという表情を見せる。
「何々……三千円ポッキリ新規様大歓迎のおっぱいパブに個室風呂(サービス選択可)出会いの場を提供、その他には……口にするのも憚られるような名前のお店が並んでいるね。ホント父さんの言うようにピンク基調のネオン管の輝きは美しいよ」
翔は携帯電話を無言で取出し、電話帳の登録欄から目的の番号を見つけて通話ボタンを押す。
瞬間、ものすごい速度で輝は翔の携帯電話を奪い取る。
「どこへ電話かけようとしていた!?」
翔は自分で確かめろと言わんばかりに携帯画面を見るように指図した。
「お母さんじゃないか! 何でこんなことを!?」
何故かなど言うまでもないので、翔は皮肉交じりに返した。
「お祝いだよ」
「お祝い?」
「そう、お祝い。夜のホームラン王として名高い父さんが今日もまた息子の前でホームランを予告してくれたよって、母さんに報告」
頭を抱える輝を尻目に翔はさらに続ける。
「最近、快音聞かれずバットが湿ってもなお夜のバットは快音続き」
「なんだそれは!?」
「今週発売の雑誌に書いてあったよ」
そう言いながらリュックの中の雑誌を輝に手渡す。
「ほう……面白おかしく書いてくれやがって葛城の奴、今度会ったら絞めてやる」などと恐ろしいことを真顔で呟くと打って変わっての満面の笑みで「お母さんには内緒な」と息子の翔に輝は交渉を持ちかけるのであった。
***
「お前は目がいい」
父親に褒められた自らの長所は翔の中に焦燥を募らせた。
ボールの縫い目場見える。などという常軌を逸した目は持ち合わせてはいないが、常人からすれば翔の目は常軌を逸していた。
ボールの回転が見える。
そのように感じたのはいつのころからだろうか。いや違う。感じたのではなく実際に見えたのだ。その目に映る白球が確かに綺麗なバックスピンで自分に向かってくるのが―そしてそのままボールを顔面で受け止めたのは小学三年生の終わり頃だったか、正確ではないが四年生の頃にはすでにボールを引き付けて打つようになりそれにしたがって反応打ちというスタイルを確立していた。
ボールの回転が見えてしまう翔の目は反応打ちに向いていた。
ボールの回転=変化。
即ち、回転が見える翔にとって投手の投げる変化球など、種を明かしながら自分の下へとカードを差し出してくる手品師と同義なのである。
そのためストライクゾーンに入ってきた球は問答無用で弾き返す。
どんな投手相手でも三振を喫することはなくなっていたが、高いレベルでの勝負が出来ないというなかなかに共有し辛い悩みを翔は抱えることになる。
周りに好敵手と呼べる選手の居なくなった翔は自らに課題を課し、その課題をクリアすることで自身のレベルアップを図っていた。
全ての打球を自在に思ったところに飛ばす。
自らに課した課題を達成することは楽しくもあり、それと同時進行で周囲との溝がより一層深まっていると感じつつも、翔は歩みを止めなかった。
それでも翔が向上心を失わずに済んだのには自身と同じく孤独な道を歩んでいる、また歩むであろう二人の存在があったからこそ翔は努力することを惜しまなかった。
それでも時折父親の遠征に同行し、遠征先での二、三日の間だけ一緒に練習する努の投げる球は思った通りに打ち返すことが出来なかった。
同年代の投手の球であれば内外高低関係なく広角に打ち分けられるというのに努の球には逆らうことが出来なかった。
内角の球は引っ張り、外角の球は流す。
基本に忠実と言えば聞こえはいいが、裏を返せば基本に忠実なバッティングを行わなくては対抗するすべがない―勝てない相手、それが、翔が努に下した評価である。
もう一人勉同様に翔が高い評価をしたのが澤村一樹である。
軟式と硬式で互いに対戦する機会こそなかったが、全日本の合宿で一緒に練習をする中で翔は確信を持った。
こいつは俺より上だと。
同年代の中でも一樹の球は群を抜いていた。
球速は中学に上がる頃はMAX130を記録し、中学最後の年には全日本のブルペンで148キロをたたき出した逸材である。
そして何より恐ろしいのは、それだけの球速を七割から八割の力で投げているというのだから手の付けようがない。しかし、何故か勝てない。負け運とでも言えばいいのだろうか? それでも一樹の才能からしてみれば些細なことでしかないのだが本人はかなり気にしているらしかった。
翔はそれでも個人の力では一樹に勝てる気がしなかった。
翔は努を発展途上の天才―自分と対をなす存在。
対して一樹は別格。
天才などという言葉では収まらないそれ以上の存在、澤村一樹という才能の前では天才という存在が霞んでしまうほどに同年代では突出していた。
だからこそあえて厳しい道を選んだ。
父親の母校にお世話になろうとも考えたがやめた。
そして、翔はあえて一樹と同じ地区の高校へと進学した。
自らの進化を求めて―。
高校野球の一大イベント夏の甲子園、西東京都大会で目下最大の好敵手を打ち倒し、甲子園への切符を掴んだ。
それでも満足はしていない。甲子園の土を東京に持って帰るために出向いたわけではないのだから。
土などに価値はない。甲子園の土も所詮はただの土、ならば後生大事に手元に置いておく義理もない。だから甲子園の土を持ち帰ることなく翔は甲子園を後にした。
***
秋大は試練の連続となった。
甲子園に出場したチームは嫌でも新チームの始動が遅れる。そして夏からのレギュラー組と新規レギュラー組との間の確執も否めない。
ブロック予選から苦難続きの帝都大附属は勝ち進んだ東京都大会準決勝で東櫻とぶつかり1対0の惜敗を喫した。
エース国立亮を欠いた帝都大附属には団結力、または結束というものに乏しかった。
試合内容はスコア以上に散々たるもので、攻撃では毎回のようにランナーをスコアリングポジションに進めておきながら一点も挙げられず、守備ではエラーが一つ、このエラーが決勝点を献上する形となった。
信頼の無いことが生んだエラー、偶然ではなく必然、負けるべくして負けた。
しかし決勝戦―東櫻の一年生エース澤村がノーヒットノーランを達成。
打線も奮起し、十九得点を奪い大記録に花を添えた。
その結果、帝都大附属の選抜への繰り上げ出場の知らせが届いた一月下旬、帝都大付属の選手たちの中にはいまだに結束と呼べるものが生まれていなかった。
借りは選抜で返す。
帝都大附属の選手たちはその目標へと一心不乱に練習に打ち込んだ。
それでも簡単には力は手に入らない。他校合同合宿においての帝都大附属の戦績は芳しくなく、練習試合を五つ組み、二勝三敗と負け越した。
秋大のリベンジと意気込んだ東櫻との練習試合第四戦で帝都大附属ナインは見るも無残な大敗を味わうこととなった。
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