第4話 神童

 進藤努は在り来りな日々を過ごして、在り来りな悩みを持ち、在り来りな幸せを満喫していたある日、突如として平穏な日常は一瞬にして崩れ去った。


 小学四年生の時、単身赴任の父が事故に遭ったと東京の病院から母に連絡が入った。

 「お父さんどうかしたん?」

 電話口で言葉を失う母、雲雀。

 狼狽えている雲雀に気を利かせたつもりだったのだが、雲雀は言葉に詰まり、視線を泳がせていた。

 「大丈夫やから、努は心配せんでもええ」

 笑みを浮かべながらも視線は泳ぎ続けたままだった。

 子どもながらに黙っておくべきだったと直感した。そしてその日のうちに東京へと向かうこととなった。


 東京への道中、雲雀は一言も話すことは無く、ただただ夫の無事を祈っていた。雲雀は心で泣いている―と、そう思った。


 進藤家の構成は父、健人と母、雲雀に長男、努に長女、燕の四人。

 東京に着いてすぐにタクシー会社へと連絡を入れる―必要はなかった。タクシーはすぐに捉まった。

 タクシーのドアが開くなり雲雀は燕を押し込み努の手を引っ張ってタクシーへと乗り込む。

 「急いで帝都医大まで!」

 「はい。帝都医大ですね。畏まりました」

 決して道は渋滞という訳ではないのだろうが、雲雀にとっては信号も我慢ならないようで、頻りに腕時計を確認してはスマートフォンの着信履歴を数十秒置きに確認している。

 運転手も雲雀の異様な雰囲気に気付いてはいるのだろうが何も言わずに黙々と仕事をこなしている。

 タクシーの運転手なのだからお客に気を取られてしまっていてはいけないのだろうが気に懸けてはくれているようで努や燕に話しかけてくれる。

 「御嬢さんはお幾つかな?」

 御嬢さんという聞き慣れない言葉に自分のことだと気付くのに遅れた燕が、

 「わたしのこと?」

 「そうだよ。御嬢さんはお幾つかな?」

 無駄に紳士的な人だなと思った。

 それからも努と燕に時折話しかけながら運転手は子どもである努たちが母の醸し出す雰囲気に呑まれてしまわないようにしてくれていた。

 病院に着いてから燕の手を引いて遠ざかる雲雀の背中を必死に追う。

 看護師の教えてくれた健人の病室の扉にはICUと記されていた。

 医療ドラマなんかで目にしたことはあるが実際にそのような場所に赴いたことなどあるはずもなく、それもフィクションではなくノンフィクションの現実。初めて見るものだらけのその場所にはドラマ以上に緊迫した空気が流れていた。

 そしてつい最近見たばかりの医療ドラマでICUに入った患者は亡くなった。そしてここにいる人の多くはそうした命の危機―命の瀬戸際に立たされている人たちなのだろう。

 そしてまた健人もそうした人たちの一人なのだろうと―努はどこかで諦めがついていた。


 健人に駆け寄る雲雀と異様な空気に呑まれてその小さな手で服の裾を握りしめる燕。努はそんな二人を傍観していた。

 もうすぐ息を引き取るであろう人間に対してなぜそこまで傷心しているのだろうか? 勿論大切な家族を亡くすのは雲雀や燕だけではなく努もまた、父親を失うのだ。

 燕と共に雲雀の対面へと移動する。

 健人の右手は雲雀が、左手は燕が強く握りしめている。腰を落としている二人と対照的に努は立って家族を眺めていた。

 医師の一人が健人の状態を話したいと雲雀を連れ出した。

 張りつめた空気に耐え切れなくなったのか燕は泣き始めてしまった。

 嗚咽交じりにパパ、パパと父を呼ぶが健人が応えることはない。

 泣き疲れた様子の燕は健人の手を握ったまま突っ伏して寝息を立てている。

 ふと健人の方へと目を向けると薄らと目を開けている。

 「おはよう。父さん」

 「あぁ……」

 短い吐息のような声が漏れ健人は意識を取り戻した。そして自らの手を握りしめたまま眠りについている愛娘を視界に捉えうっすらと笑みを浮かべると燕が握る手とは反対側にある 手を燕の頭へと持って行き、力なく撫でた。

 力なく失笑した健人はどこか寂しげな表情をしたまま燕を撫でていた手を努へと向ける。

 「努」

 息子を呼ぶその声にはもはやかつての生気はなく、命の燈火が残りわずかであることを匂わせていた。

 だからこそ最後まで健人の前では涙は見せない。そう心に誓うも目頭は熱くなり、健人の顔を直視することができずにいた。

 「男が簡単に泣いたらあかん」

 健人の口癖だ。

 息子に対していつも男は泣くな、の一点張りで、それを強要しておきながら自分は感動モノの映画を見ては涙を流し、ドキュメンタリー番組を見ても涙を流す。そんな父親が大好きだった。

 「泣くなよ、努。男が―」

 「簡単に泣いたらあかん……やろ? 父さん」

 優しい笑みが返ってくる。

 「そうや。わかっとるやないか!」

 健人は頬を伝うものには触れなかった。さもこの場には悲しみなどないかのように振る舞って見せた。

 頭へと手を伸ばす健人に対して頭を差し出す。

 頭に置かれた手には次第に力が入り、力強く。そして少し粗雑に撫でる。その力強さに驚いていると掠れた声で健人が語りかけているのが聴き取れた。

 「お母さんと……燕のこと……頼んだで―努……」

 直後、傍らにある機器が電子音と共に健人の死を知らせた。


 泣き崩れる雲雀とどこか上の空の燕。

 努が手を握ると燕も握り返してくる。

 燕の右手は爪を突き立てられ抉られた爪痕を残し、指圧により皮膚には赤く指の形が残されていた。

 開いた左手には進藤健人と書かれたプラスチックの板が握られていた。


 健人の突然の訃報には親戚皆が戸惑っていた。そんな中一人浮足立つ男がいた。名前はよく知らないが親戚の中でも出しゃばりで有名な小父さんだった。

 俺が喪主を務めると言い張る小父さんに意気消沈気味の親戚が押し切られる形となって喪主が決定した。

 小父さんは健人の交友関係では来る人間もたかが知れていると言って一番小さな葬儀場で―最安値での葬儀を決行した。


 葬儀当日―。

 葬儀への参列者は小父さんの予想の斜め上を行き見渡す限り人、人、人。他の親戚も驚いてはいたが同時に嬉しいらしく、少し、ほんの少しだけ和やかな空気が流れていた。一人を除いて。

 葬儀場の駐車場は他県ナンバーの車で埋め尽くされた。

 小者臭漂う小父さんには荷が重かったらしく半ば投げやり気味に参列客を捌き始めた。結果、健人の会社の上司はを始め、年寄りに子供を立たせたままにした挙句あとから来たよく知らない若者を座らせるといった具合で喪主が務まっているとは子どもながらに思えなかった。


 葬儀も進行してしばらくした時に到着した集団参列者十数名。一人のお爺さん? を筆頭に健人と同年代の男性が一気に押し寄せていた。

 しかしもはや小者臭しかしない小父さんにこの大所帯を捌くことなどできるはずもなく、案の定、放置という手段を取り集団と目を合わさぬようにしている様子だ。

 仕方がない。自ら動かねばならないだろう。このままあの人にすべてを任せていたら父のために集まってくださった方々に失礼だろう。と努は葬儀場を抜け出すと道を一本挟んだ先にある自動販売機へと向かった。


 握りしめた財布の中身を確認してみると小銭しか入っておらず、幾らあるのかパッと見では正確なところはわからないがそのようなことには気にも留めず小銭を自動販売機に飲み込ませる。

 詰まる所、現在の所持金のすべてを叩いて飲み物を確保しなくてはならないのだ。

 これ以上、小父さんに任せていたらすべてが破綻してしまうと判断した。

 両の手一杯に缶入りのお茶を抱きかかえて、来た道を戻る。


 葬儀場の前に焙れている人たちの下へと駆け寄る。

 足下から前方へと延びる自分の影が掻き消える。背中越しに気配を感じ振り返る―同時に肩を叩く手。

 驚き両の手からお茶の缶が零れ落ちる。

 スチール缶がアスファルトの道に叩きつけられて至る所に凹凸ができている。

 辺りに散乱したお茶を拾いながら横目で一緒に缶を拾う男性を確認する。

 知らない人。

 それでも声を掛けようとしていたことは確かなようで、頻りにこちらの顔を確認しては視線を逸らすということを繰り返して。

 「進藤努くんだよね?」

 「はい。進藤努ですが父の友人の方ですか?」

 相手がこちらの名前を知っていることは予測できていたため相手が父親とどのような関係にある人物かを知ろうと質問する。

 「あぁ、そうだよ。君のお父さんの高校の先輩」

 「先輩ですか……」

 健人の先輩だと名乗る男は確かに年の頃は父よりも上に見えないことも無いがとても父と親しくしていた人種とは思えなかった。

 男は高身長で細身の喪服は着ているもののその下にある肉体を隠すことはできない。

 喪服には妙なところに皺があり手足の採寸に失敗したのか五センチほど短く少々間抜けな感じにも見える。

 加えて襟元はパツパツで見ているこちらの方が、息が詰まりそうになるほどに太いその首はこれまた見た目の印象を大きく面白いへと傾かせる要因となっていた。

 筋肉質な肉体故にどうしても喪服を着ているというより喪服に着させられている感が否めない。

 父の先輩とはいってもどのような関係だったのか予想がつかなかった。

 父は基本的に優良生徒だったらしく学校でもそれなりに知られていたと話していたので交友関係は広かったらしい。

 するとこの男もそうした広い交友関係の中の一人なのかとも思ったが親族以外は父と親しくしていた人たちだけを呼ぶということになっていたためこの可能性は低いだろう。しかし、そうすると父と親しい関係ということになるが、父から受ける優しい印象と目の前の男から感じられる体育会系の雰囲気とが結びつかない。

 そこでどのような関係性だったのかを問うと男は「部活の先輩後輩の関係だよ。聞いてない?」とさも当然と言った口調で答えた。

 「部活ですか」と返しながらも未だに目の前の男から受ける印象に戸惑っていた。

 実のところ父が学生時代何をしていたのか全く知らないのである。

 両親ともに昔の話はしなかったし、同窓会もどこか避けている節すら見られた。

 だからこそ深くは訊ねなかったし、詮索することも無かった。

 自分の知らない父をこの人は知っているのだ。

 そしてこう続けた。

 「何の部活してたんですか?」

 この問いに男は目を見開き驚いた様子を見せて少しの間何かを思案した後、口を開いた。

 「野球だよ。お母さんとかからも何も聞いてないの?」

 その様な話は一度も聞いたことがなかったと素直に答えると「なるほど」と小さく呟くと「そしたら小父さんのことも知らないかな?」と尋ねる。

 「すみません。わからないです」

 すると苦笑いを見せて男は自己紹介を始めた。

 「小父さんは努くんのお父さんの二年先輩で神谷輝と言います。一応、プロ野球選手をしています」


 神谷さんにも手伝ってもらい飲み物を運び配ろうとした時にはすでに溢れ返っていた人たちの多くは式場の中へと通され残っていたのは父と同じくらいの男性五、六人とさらに一回りくらい上と思しき男性が一人。

 すると神谷さんが「あの真ん中にいる爺さんにお茶を持っていきな」そう囁くと軽く背中を押す。

 小さく頷くと言われた通りに一番の年長者に真っ先にお茶と労いの言葉を掛けた。

 「このたびは父のためにわざわざありがとうございます。もしよろしければ……」

 差し出した缶のお茶を受け取ると爺さんと呼ばれるには聊か早いのではと思わせる男性は穏やかな笑みを浮かべて「ありがとう。君は健人の息子か?」

 「はい。そうです」

 間髪入れずに答えると男性は満足そうにうなずきながら「お父ちゃんにそっくりだな」と嬉しそうに語るのでそれに釣られて自然と笑みが零れる。

 すると周りから「爺様が健人の倅に媚び売ってるぞ」などと囃し立てると先程までの笑顔が嘘のように殺気立った爺様はご立腹のご様子だ。

 すると神谷さんが軽く手を上げながら近づいて来て「監督。子どもの前ではあまり怒らないでいてください」と窘めながら合流する。

 「久しぶりだな。神谷!」

 「お前らも元気にしてたか?」

 友人同士の何気ない会話に本来なら父も交ざって昔話に花を咲かせていたのだろう。

 すると神谷さんは手招きをして自分の隣に僕を立たせるとその場にいる人たちへと改めて紹介した。

 「この子が健人と雲雀ちゃんの息子の努くんだ。ちなみにウチの息子と同い年だ。あとタカとシゲちゃんと誠のところも同い年だったはずだけど……誠の奴は?」

 自己紹介をしてもらっていたはずなのだがいつの間にか話は脱線し、友人が見当たらないという話題へと移り変わっていた。

 すると通称爺様が重重しく口を開いた。

 「誠の奴は体調がここのとこよ芳しくないらしい。おそらく来ることは叶わんじゃろう……」

 空気には落胆の色が見て取れた。

 「仕方ないでしょ。先輩にもしものことがあるよりはいいでしょ」

 「お前の言い分もわかるんだが、やっぱりな……皆で送ってやりたいじゃないか」

 呟くようにして想いを口にした神谷さんの瞳からは一筋の光るものが零れ落ちていた。

 

 大の大人が声を押し殺して悲しみに耐える姿は子どもながらに想いの強さを感じた。

 父のことを想ってくれる人がこんなにもいたのだと、そして今まで張りつめていた糸が切れてしまったかのように僕は泣き崩れた。

 

 目を晴らしながらもどこかすっきりした気分で顔を上げると目の前の大人たちも皆、一様に眼を腫らして清々しい笑みを向けていた。

 外での泣き声が自分の息子のものだと気付いたのかそれとも人伝えに聞いたのかはわからないが、一直線に息子に駆け寄る雲雀。

 そして周囲にいる人間を見やり深々と頭を下げると努の手を引いて式場へと引き返す。

 手を引かれながら遠ざかっていく神谷を始めとする男たちに手を振る。

 すると「またな」と手を振りながら声を掛けてくれる。

 またいつかあの人たちと逢えるだろうか……またなと言ってくれたのだからきっといつの日か再会を果たすだろう。

 この日抱いたこの想い―確信は意外と早く実現することとなる。


 葬儀は終えたものの未だ癒えぬ深い傷跡が進藤家に刻まれていた。

 妹の燕は父親が死んだということは理解できても実感が湧かない様子で、母の雲雀は夫健人の死を受け止めきれずに体調を崩していた。

 そして努は十歳の子どもでありながら自分が家族を守るのだと父と最後に交わした約束を果たそうと心に誓ったのである。

 

 親族総出での遺品整理。

 これといって趣味の無かった健人だったが、次々と運び出される段ボールの山々。

 ほこりをかぶった遺品の殆どが学生時代のものだった。

 神谷さんが話していた部活に関するものが大半を占めているようで、中には神谷先輩とマジックで記されているものまであり二人の関係が親密な物であったことが窺えた。

 その他にもジジ様、タカ先輩、首相、マコちゃん、ヤク。などと個別に仕分けてあった。

 神谷さん以外の人物の特定が困難なものが多い。

 もう少し考えて整理してくれていればいいものを。と文句を垂れながら父の思い出を一つ一つ確認する。

 

 父の思い出の巣窟と化していた納屋の段ボールはすべて運び出し、残されたのは努が寮の手一杯に広げてようやく左右の縁を触れるほどの大きさの木箱が一つ。

 努は雲雀を呼び、手伝ってくれるように頼む。

 木箱は大きさの割には軽く、女と子ども二人の力で楽々持ち上がる程度の重量しかない。

 運び出した木箱には南京錠が付いておりしっかりと施錠されていた。

 南京錠には健人が自らの手で彫ったと思われる「カミヤ」の三文字。

 頭に浮かんだのは葬儀場で出逢った職業プロ野球選手の顔だった。

 雲雀に連絡が取れないかと問うとあっさりと連絡先を教えてくれた。

 しかし相手は現役のプロ野球選手だ。試合や練習の妨げになってはいけないと配慮を示しつつも教えられた番号に電話を掛けていた。

 

 電話口の神谷さんは気さくで、子ども相手ではあるが誠実な対応をしてくれる。

 父の遺品の木箱に南京錠が掛けられており、その南京錠に「カミヤ」の三文字が彫られていたことを伝えると。

 電話口で一言「そうか」と呟くと神谷さんは現在ホーム(東京)での三連戦の真最中とのことで今すぐには無理だが、関西に遠征する際には連絡をくれる約束をしてくれた。

 ついでに自分の息子も紹介すると付け加えて電話を切った。

 

 翌日、神谷さんの所属する球団から努宛てに観戦チケットが二枚届いた。

 その二枚のチケットと共に一通の手紙が同封されていた。

 内容は簡素なもので、「今度関西で試合があるのでお母さんと一緒に来ていただければ幸いです」といった子ども相手に畏まりすぎという印象を受ける文面の手紙であった。


 週を跨いで迎えた七月十四日。

 進藤家に神谷さんが息子の翔を連れて訪ねてきた。

 「こんにちわ。久しぶりだね。努くん」

 「こんにちは、神谷さん」

 「お前も挨拶しなさい」と神谷さんは自分の隣に立つ息子を小突く。

 致し方ないという表情をしつつも「神谷翔です」と自己紹介をする。

 「ごめんね、努くん。こいつ愛想が悪くて」と笑い混じりに話す神谷さんの姿が今は亡き父親の姿と重なってしまい、遣る瀬無い気持ちになってしまう。

 すると神谷さんは一つの鍵を取り出すと「木箱開けちゃう?」と優しく囁くように言うと頭を撫でてくれた。

 何とも言えない不思議な気分だ。

 頭を撫でてくれているその手は健人のものよりも小さいながらも安心感を与えてくれた。

 すると居間から雲雀が顔を覗かせて一言「輝くん。玄関で立ち話なんかしてないで上がっていいのに」と来客用のスリッパを二人分用意しながら言う。

「ああ、ごめんね。雲雀ちゃん。ありがとう」

 一言お礼を述べてから靴を脱ぐ神谷さん。

 対して雲雀は「いいえ。お気になさらず」とわざとらしく対応をする。

 神谷さんの息子の翔とは同級生という話だったが互いに初対面のために共通の話題を持ち合わせていなかった。

 すると徐に翔が「努は野球するの?」と話しかけてきた。

 話のきっかけを作ってくれたことには感謝しながらも、残念ながら努は野球というスポーツをしたことも無ければ、見たことすらなかった。

 「ごめん。野球したこと無いんよ」

 申しなさそうに答える努。

 「そうか……だったら、オレが教えてやるよ」と言うと翔は、努の腕を掴み、キャッチボールしようぜと急かした。

 「でもグラブなんて家にはあらへんよ」

 すると首を傾げた翔が「だからグラブを取りに行くんだろ?」

 平行線を辿る二人の会話は交わることなく繰り返される。

 


    ***



 神谷輝は木箱を目の前に少し離れた位置に立つ雲雀と視線を交わす。 

 南京錠によって施錠された木箱の中身を、鍵を預かっている神谷は勿論のこと、燕も把握していた。

 

 十年前の夏。

 真夏の太陽の照り付ける中、甲子園のダイヤモンドの中心。

 小高いマウンドには背番号1を付けた進藤健人の姿があった。


 東櫻高校が一時代を築いたのには幾つかの要因があった。

 一つ目に、薬師寺茂の監督就任。

 二つ目に、後に日本球界の至宝と呼ばれることとなる神谷輝の入学。

 三つ目に、有望選手が全国の高校に万遍なく散らばりチーム力に大きな差ができなかったことが挙げられる。

 特に三つ目は非常に大きな意味を持つ。

 五季連続で春夏甲子園出場を果たした東櫻の黄金期とも呼べる時代の内、東櫻の名前を全国区へと押し上げたのは神谷輝であったが、二季連続で甲子園決勝の舞台に立ち、優勝を成し遂げたのは神谷が抜けて小粒と揶揄されたチームだった。

そのチームでエースを務めたのが進藤健人であった。

 

 進藤健人、高校最後の夏。

 東櫻高校は西東京都大会から苦戦を強いられながらもエースの健人を中心とした粘りの野球で甲子園への切符を勝ち取った。

 甲子園での戦いも都大会同様に苦戦を強いられた。

 それでも最後には真紅の優勝旗を持ち帰ってきた健人はその年一番のドラフト注目選手だった。

 健人本人の下にも複数の球団から誘いの話が来ていた。

 健人自身、プロ志願届けを出していたことからこの時は本人を含め、誰一人として進藤健人のプロ野球入団を疑う者はいなかった。


 秋季大会の最中、野球界に激震が走った。

 健人がプロ志願届けの提出を取り下げたのだ。

 この出来事は連日ニュースに取り上げられた。

 『ドラフト目玉の進藤健人プロ志願取り下げ!?』

 この頃、すでに高卒でプロ二年目を迎えていた神谷もこのニュースには耳を疑った。

 しかし、何の理由もなくこのような行動は取らないことだけはわかっていたため、神谷は健人を食事へと誘った。


 二年ぶりに会った健人は肉付きが良くなり、一回り、二回りほど大きくなったような印象を受ける。

 でかくなったな、と肩周りを叩きながらこれならプロの世界でもやっていけそうだと思った。

 一部報道されていた怪我などといった心配はなさそうだと胸を撫で下ろす。

 ならば何故、プロへと進まないのか? 勿論、プロになっても大成するとは限らない。それでも可能性はある。それも高確率で。

 (野球選手としての勘がそう告げている)

 そして、食事が運ばれてくる。

 健人は「俺こんな高そうな処で飯食ったことありませんよ!」と終始テンションが高い。

 東櫻高校近くの定食屋気分で箸を進める健人。

 神谷は額に汗を浮かべる。

 この汗は空調の問題ではない。

 高卒二年目の懐事情を鑑みれば明らかにキャパシティを超過している。

 見栄を張ったことが仇となっていた。

 健人とは対照的にテンション駄々下がりの神谷。

 流石に気が付いたらしく、健人は食事を追加するのをやめたが、最早後の祭りであった。


 健人は食事の終わりに唐突に「これ、預かってもらっていいですか?」と鍵を一つテーブルの上に置く。

 その鍵は? と問うと、健人は野球と決別すると言うのである。

 そして野球に関する物すべてを一つの木箱に入れて南京錠で施錠したのだと言う。

 「つまりはこの鍵がその木箱の鍵という訳だな」と神谷は鍵へと視線を向ける。

 「お願いします」と頭を下げる健人。

 「わかった」と了解の意を伝えると「ありがとうございます」と健人は深々と頭を下げ感謝の意を示す。


 店を出て別れ際に神谷は健人を引き留める。

 「お前さ、野球やめてどうするの? 何かやりたいことでもあるのか? 俺はお前の決断にとやかく口を挿むつもりは無いし、お前が訳話してくれるまで詮索もしないけど、悔いだけは残すなよ。わかったな」

 すると健人は笑顔で「はい」と答えると軽快に走り去っていった。


 「早く開けろよ、親父」

 神谷は息子、翔の呼びかけで懐かしの思い出の世界から現実へと引き戻された。

 「わかってるよ」

 息子に急かされつつ、鍵を南京錠に差し込み開錠する。

 そして、開かれた木箱の中には予想した通り、野球関連の私物が丁寧に収められていた。



   ***



 努の隣では翔が神谷に早く木箱を開けろと促している。

 南京錠が外される。

 神谷が木箱の蓋に手を掛ける。

 期待が膨らむ中、距離を取る雲雀を見て同時に不安も募る。

 もしかして母は木箱の中身を知っているのでは? と疑念を抱いた瞬間、木箱は開け放たれた。


 木箱の中にはユニホームと野球道具一式にメダルに賞状、楯と丁寧に整理されていた。

 その野球道具一式の中から翔はグラブを掴み出して、キャッチボールしようぜと自分のグラブを背負っていたリュックの中から取り出した。

 ボールもあるとリュックを探り始める。

 すると神谷が「ボールならこれ使え」と下手投げで渡してくれたボールには〈全国高等学校野球選手権大会優勝〉という文字と進藤健人と名前が書かれていた。



   ***



 初めてのキャッチボールは散々たる結果に終わった。

 翔の投げるボールは野球素人の努には速過ぎた。

 しかし、その楽しさを味わうことはできた。

 最後の方には普通にボールをグラブに納めることができた。

 それでも投げる方は一向に上達しなかった。


 進藤努は神谷輝の助言に従い、小学四年生の秋から地元の軟式チームに入った。

それからは時折、遠征で関西に赴いた際には簡単なアドバイス(休息は取れ、投げ過ぎるな。など)をもらいながら自分のペースで練習を積んだ。

 そして、父親の遠征に連休だからと言い時たま着いてくる翔と切磋琢磨し、練習に励んだ。


 「努。球速くなったな」

 翔は凄い成長速度だと褒めてくれる。

 しかし、努がどこに投げようとも翔はすべて綺麗に打ち返した。

 内角の球は引っ張り、外角の球はきれいに流して打つ。

 コースに逆らうことなく翔に見事なまでに打ち返され、勉の地震はすでに打ち砕かれていた。

 「やる気なくなるよ。翔ちゃん」

 そんなことは無いと翔は言う。

 でも……と肩を落とす努に翔は言い放つ。

 「お前は俺の知ってる投手の中で二番目にいい投手だよ」

 「二番目?」と努は問い返す。

 今度一緒に見に行こうと翔が誘う。

 「うん。行こう」

 そして野球少年二人は日が暮れるまでボールを追いかけていた。


 努の所属する軟式チームはお世辞にも強いとは言えなかった。

 それでも努は努力したし、研究もした。

 しかし、どれだけ努力を積もうとチームでは控え投手の座に甘んじていた。

 野球を始めて一年以上が経過していた。

 もしかしたら自分には才能がないのかもしれないと努は思い悩んでいた。

 懸命に覚えた変化球は遅いと言われ、チームメイトの言葉には嘲りを含んでいた。

 チームの監督はあからさまに使えないと態度が物語っていた。

 そんな自分の才能に行き詰っていた時に翔から連らがあった。


 東京にすごい奴がいる。

 その一言しか翔は教えてくれない。

 東京は神谷輝の所属する球団のホームでもある。

 神谷輝の所属する球団のホームグラウンド。明治神宮野球場。

 翔は今年もここには来られなかったと零した。

 毎年、全日本学童軟式野球大会の開会式が神宮球場で行われるという。

 努の所属するチームには関係ない話ではあるが、翔の所属するチームはかなり強いのだと聞いていた。

 「翔ちゃんのチーム大会に出場できへんかったんやね」

 「まあ、実力と言われればそれまでだけどな……」

 翔は表情にほんの少し、影を落とした。

 「見せたい奴がいるんだよ」

 「知っとるわ。投手やろ。一番すごい奴やて、翔ちゃんが言うてた」

 「そう、そいつ見に行くぞ」

 翔は白い歯を見せて笑うと走り出す。

 努も慌てて翔の後に続いた。


 明治神宮球場と同じ新宿区内にある野球場へと到着すると同年代の選手たちが試合をしている最中だった。


 試合は一方的なもので、三回コールドゲームで終了した。

 この結果から見ても翔が見せたかった投手がどちらのチームだったかなど言われるまでもなく判断が付いた。

 試合が終わり、選手たちが解散を始めると翔は目的の人物を呼び止める。

 「さわ~。さ~わ~ちゃ~ん」

 さわちゃんと呼ばれてあからさまに機嫌を悪くしている。

 しかし翔はそんなことなど意にも返さず練習に付き合えと図々しいことこの上ない。

 それでもどこか憎めないのが神谷翔という存在だ。

 どうやらそれは努一人だけではないようで「別にいいけど、人前で騒ぐな、恥ずかしいだろ!」とこちらに歩み寄ってくると「そっちの奴は?」と首を傾げる。

 努は自分の紹介をする。

 「そうか、よろしく。俺は一樹。神谷にはさわとか一樹って呼ばれてる……」と一樹は呆れた様子で答える。

 バッティングセンターにでも行くか、と一が提案する。

 翔が「近い?」と距離の確認をする。

 一樹は「2~3キロくらいだったかな? って、お前、東京都民だろ! 俺、九州人だぞ。お前の方が詳しいだろ」

努も全面的に一樹に賛同した。


 結局、最終的に神谷家にお邪魔することになった。

 努はプロ野球選手という職業は儲かるものなのかと驚いた。

 庭には打撃マシンにネットと設備一つで札束が軽く飛んで行ってしまうような設備を誇っていた。


 努の投球を翔と一樹の二人が見てくれることとなった。

 努は自分なんかが才能ある二人に見てもらっても時間を浪費するだけではとも考えたが、 折角の機会だと開き直って投じることにした。

 翔が捕手に、一樹が打席に立つ。

 一樹が「打たないから好きに投げてみな」と言うのでど真ん中に直球を放る。

 一樹の試合を見たせいか努は自分の投げるボールがどうしても遅く感じてしまう。

 確かに努の投げる直球は速くはないが特別遅いわけでもない。これは一樹の投げるボールが速すぎるだけなのだ。

 翔から改めて一樹のことを紹介してもらったところ一樹はリトルリーグ世界選手権にも出場し世界一の栄冠を獲得した名実ともに同年代ナンバーワン投手なのだそうだ。

 そんな投手と、おそらくは同格の打者であろう翔は二人して、努のど真ん中の直球を見てなにやら話している。

 そして二人して問う。

 「変化球は投げられるのか?」と。


 努は投げられる変化球を二人に見せたところ、二人の意見は一致した。

 「努は曲げること意識しない方がいいよ。な、翔」

 「そうだな。そうした方がいい気がする」

 しかし、努は自信が持てずにいた。

 「でも、監督には使えないって……」

 「言われたのか!?」

 一樹が詰め寄る。

 「直接言われてへんけどわかるよ。遅いとは言われるからな」

 一樹は「その監督見る目無いわ。気にせんでえぇよ」とオーバーリアクションで努の投げた球を絶賛する。

 翔も同様に「綺麗な回転してるな。これは努力もあるけど指先の感覚は投手の武器になるからな」

 それから努は一樹と共にボールの握り方から何まで意見交換を行った。

 そして努がフォークボールの握りと投げる際の感覚を伝えてみたところ一は「投げてみる」と言って翔を座らせると徐に振りかぶり大きく前へと踏み込むダイナミックな投球フォームでボールをリリースする。

 真直ぐと糸を引くように翔の構えるミットへと吸い込まれていく。

 瞬間―翔の一メートルほど手前で急降下したボールはバウンドする寸前のところで翔が救い上げるようにしてミットに収める。

 努は愕然とした。

 目の前でほんの少しレクチャーしただけで変化球を習得してしまう澤村一樹という投手は天才だ。

 一樹のボールを受けた翔はフォークではなくスプリットだとフォークの習得はできていないと断言した。

 努は野球を始めて一年強の素人に毛が生えた程度の選手に過ぎない。

 そんな努には、フォークとスプリットの見分けも付かないし、そもそも、その二種類の変化球の違いそのものがわからないのだ。

 一樹はケチを付けるな、と翔を黙らせると、努に「もう一つ変化球教えて」と手を合わせる。

 そしてこれまた努が一言二言感覚的なことを伝えると握りの確認もほどほどに投球モーションに入る。

 大きなストライドで踏み込みリリース。

 構えられたミットにボールが収まるかのように思えた。

 しかしミットは、ポスッという音を立て、翔の構えたミットからボールが零れ落ちた。

 一からは「おぉ」という感嘆の声を上げた。

 同じく18・44メートル離れた翔からも称賛の拍手が送られた。


 等価交換。

 与えてもらった分はきちんと返す。と一は自分の知り得る投球術から気持ち―メンタル面の強化に身体全身の使い方、学んだことは多い。後は効率よく取り込むだけ。


 この日の出会いが進藤努の野球人生を大きく変えた転換点であった。



   ***



 努と翔は中学校へと上がると同時に軟式から硬式に移行していた。

 互いに会う約束をする回数は年々減少したが、それでも実際に会う回数に大きな変動は生じなかった。

 努は小学六年生の時に努力実ってU12日本代表の追加招集を受け、晴れて一人前の野球選手になれた。

 その後の快進撃は止まるところを知らず、タイガースカップを制し関西一の称号を手にし、その勢いのまま全国の頂も手中に収めた。

 特にタイガースカップでの努の気合いの入りようは周囲の人間を怯えさせるほどに鬼気迫るものがあった。

 かつて父親が登ったマウンドと思うと、努は逸る気持ちを抑えることができなかったのだ。

 そして勢いのままに得た日本一の称号は過大評価に次ぐ過大評価を招く事態となる。

 中学三年生になり、全国でも名前が売れるのと同時進行で噂に尾ひれが付き、努の中で噂(周囲からの過大評価)と自分の実力とにどのように折り合いをつけたものかと判断にあぐねていた。


 努が三度目の頂に立った頃、努は〈神童〉と謳われるようになっていた。


 努は中学最後の国際試合の直前に背中に腰と立て続けに痛め、練習メニューも実践的なものからケガ予防のためのメニューに切り替えた。


 この年、一と翔が最後の国際大会で有終の美を飾ったことを代表のオフィシャルサイトで確認した時、努は気付いた。

 「俺は誰にも負けたくない」

 神谷翔という稀代の天才打者にも、澤村一樹という鬼才と呼ぶに相応しい才気溢れる天才投手。このどちらにも負けたくはないのだと強く思った。


 努は、地元の大阪義塾高等学校へと進学した。

 全国の強豪校から誘いはあったが、家族の―特に妹のことを考えると越境入学をする気にはなれなかった。

 努はU15全日本の合宿の時に、一樹に「進藤の妹可愛いな」と言われ、「嫁にはやれへん」と返すと、翔に「お前シスコンか!?」と弄られたことがあるが、決してシスコンではない。

 断じて、シスコンではない。

 努は家族愛に溢れているだけだと自分に言い聞かせている。

 確かに妹の幸せは願っている。

 最後に父に託されたのだから。母と妹は―家族は俺が守る。

 この想いを胸に努は一年生ながら、全国高等学校野球選手権大会―夏の甲子園、決勝のマウンドで躍動した。

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