第3話 双璧

 春季大会の敗北からより一層練習に打ち込んだ。

 今までにない程自らの身体に鞭を打ち、二度とあの有無を言わさず突きつけられた〝敗北〟と言う二文字を味わうことの無いように朝から晩まで練習に明け暮れた。

 授業時間はしっかりと仮眠を取り、練習に備える。

 練習内容は時代遅れの根性論の走り込みに素振りにシャドウと一切ボールに触れることなく練習が終わるなんて日もあった。

 もっと実践的な練習がしたいと思いながらも身体が言うことを聞いてくれず、一度倒れ込んでしまえば数時間は身動きが取れずにグラウンドで倒れるたびに朦朧とした意識の中で先輩部員に引き摺られながら何かしらの文句を言われていた気がする。

 そして気が付けば寮の自室に無造作に転がされているのだった。


 自室を出て食堂へと向かう道すがら吉田と鷹宮と合流し、食堂へと歩を進める。

 ふと思い出したように鷹宮が。

 「ところで天童はどこだべ?」

 「そういや見ねぇな。澤村は?」

 「知らないし構っている余裕なんて俺にはないよ」

 事実ここ数週間ろくにメシが食えていない。

 腹に無理やり詰め込んでは逆流してきて吐瀉物となって押し寄せてくる。

 結局トイレへと駆けこむと言うことを繰り返している。

 そして今日もまた、同じことの繰り返しとなるだろう。

 重い足取りでたどり着いた食堂からは食欲を誘う匂いが飛ばされてくる。

 個の匂いだけならばいいのだが東櫻高校野球部の寮の食事の量は明らかに尋常ではない。

 ダクトから仄かに香る匂いだけでもう十分な気がしてきた。

 自室に戻ろうかと言う考えが頭を過った瞬間食堂の扉が開いた。

 「どうしたん? そないなところさ突っ立って?」

 引き返せなくなってしまった。

 そして今日もまた食事を終えた俺はトイレへと駆けこんだ。



   ***



 基礎練習にも慣れ始めたと言うタイミングで選手権大会が開幕した。


 神宮球場に詰めかけた観客が芥子粒のようだ。

 開会式は東西の高校が一堂に会する。

 正直東の奴らが羨ましい。

 西東京は激戦区で東東京のレベルが低いなんてことは言わない。しかし激戦区である無いという問題以前に東京の二強は東櫻と帝都大附属だ。

 これから三年間決して揺らぐことの無い強者が同じ西東京地区と言うのが不運としか言いようがない。

 それでも勝つのは俺だ。

 それにしても辺りを見渡せばどこもかしこも高校球児ばかりだ。

 当たり前のことではあるが甲子園のスターに憧れていた存在。

 俺は今憧れた高校球児になったのだなと今更ながらに実感していた。


 行進曲に合わせて行進しながら入場していく球児たちを胡坐を掻きながら見送る東櫻一年四人衆と怪物神谷。

 完全に周りから浮いている。

 「久しいなお前ら」

 「相変わらず態度がデカいんだよ。お前は」

 「エース君落ち着いて」

 「あぁん! なんやお前、喧嘩売っとんのか?」

 自分で言うのも癪ではあるがオレの怒りの沸点はティファール並みに早い。

 背番号6を付ける一年生ショートに掴みかかろうとした瞬間―首筋から腕を入れられインナーを掴まれ、そのまま後方へと引き摺られた。

 「何やってる? 喧嘩は大会が終わってからにしておけ」

 鋭い眼光はスポーツ選手のものとは違う凶悪なもので背筋が自然と伸びる。

 「キャプテン……」

 胡坐を掻いたままの他の三人を一人ずつ一瞥した後。

 「それで、お前らは何やってるんだ?」

 三人は勢いよく立ち上がると一礼してから東櫻高校と書かれたプラカードを持つ女子の下へと駆け寄りキャプテンからの離脱に成功していた。

 徒党を組んで強引に逃げやがった。

 絶望の広がる俺の足元で怪物神谷がほくそ笑んでいる。

 するとキャプテンが足元の神谷へと視線を落とし。

 「国立には報告しておくからな」

 そう告げると見る見るうちに神谷が青ざめ、視線が泳ぎ始めた。

そして背後から低い声で。

 「探したぞ。神谷」

 振り返るとそこには帝都大附属の背番号一が悠然と俺と神谷を見下ろしていた。

 「テヘペロ。ダメ?」

 舌を出して首を傾げる。

 鉄拳制裁。一瞬の出来事にフリーズ状態の俺を尻目に関東ナンバーワン投手、稲城亮は神谷をシバき倒して引き摺って行った。

 「お前どうする?」

 酷く冷たく感じたキャプテンの言葉に。

 「すみませんでした」

 深々と頭を下げて―顔を上げた時には遠くにあったキャプテンの背中に付けられた背番号3を追って駆け出す。


 開会式には似つかわしくない生憎の空模様に歓喜の声を上げるのは東櫻の馬鹿三人衆(もちろん俺は除外する)だ。

 「晴天の中で立たされっぱなしと言うのはいかがなものだろうか?」

 吉田の語り口調に乗って鷹宮が。

 「でも今日は曇りだべ」

 天童は相槌を打つに留めているが、正直開会式に飽きてしまっているようで、終始落ち着きがない。

 加えて学校を一校挿んで並ぶ程度大学付属高校の列から神谷が話に割って入ってくる。

大勢のカメラがお前に注目しているのがわかっていないのか、馬鹿話に加わる。

 開会式は花形とも言える選手宣誓へと移る。

 宣誓―結局馬鹿共のおかげで何を話しているのかまともに聞き取れなかったではないか、それにしても列をまたいで馬鹿話に参加している神谷はどのように報道されてしまうのか他人事ではあるがふとそんなことが気になった。


 開会式の直後に行われた選手権大会西東京大会の初戦。

 その試合は開幕試合としては最高の試合と言えるだろう。

 劇的なサヨナラ弾。大会第一号の本塁打は開会式の―怪物の歩む道に花を添えた。



   ***



 「納得いかん」

 隣では吉田が唸っている。

 口には出さないが皆同じことを思っていることだろう。

 理由はテレビ報道だった。

 自分たちもテレビに映ると期待した馬鹿共に加えて俺(馬鹿共ではない。ここ重要)は深夜のスポーツニュースを楽しみに待った。

 結果は言わずもがな。

 某テレビ局に勤める女子アナ(タレント化した女性社員)がやたらと神谷を褒めちぎる。

 神谷君は緊張した様子も見せず笑顔を見せていました。

 『馬鹿面じゃねぇか!』

 この時だけは普段擦れ違いばかりの四人の意見が見事に一致した。もしかしたらこの四人の意見が揃うのは初めてかもしれない。

 そして今に至る。

 「俺たちあまり映らなかったな……」

 寂しげな吉田に鷹宮がバシバシと背中を叩きながら明るく。

 「仕方ないべ。馬鹿の中心は俺たちだったからあの馬鹿面は放送コードになってしまうんだべ」

 「馬鹿面はお前と吉田だけだろ!」

 「いや、お前も似たようなもんだったよ。天童」

 ―!? まさかと言った様子で俺を一瞥してから、馬鹿面の中心核二人へと視線を向ける。

 「流石にアレと同じというのは心外やわ」

 「彼奴らよりましなだけでお前も十分あっち側の住人だよ」

 「エース君も似たようなものや」

 「ちゃうわ!」

 この馬鹿騒ぎを聞きつけたキャプテンの登場により馬鹿面問題は終決? した。

いや、してねぇな! してないが、真剣に考えれば考えるほど自分が馬鹿へと確実に近づいてしまっている気がして考えることをやめた。

 そして説教を小一時間受けた後解散の運びとなった。

 皆一様に同じことを考え、思っていた。

 『ちゃんとしよう』


 そして翌日。

 鷹宮が監督に呼び出された。

 馬鹿は死んでも治らないらしいが、早朝に早々の監督からの呼び出し。鷹宮は生粋の馬鹿らしい。

 朝食を取っていると三十分ほど遅れて入ってきた鷹宮が手を振りながら近づいてくる。

 「おはよう」

 「おう、おはよ」

 「おはようさん」

 「監督なんやて?」

 「大したことじゃあない……べ」

 「お前今『べ』付けるの忘れてたべ」

 「吉田お前鷹宮の話し方うつってるぞ」

 はっとした様子でなにやら神妙な面持ちで吉田は食堂を後にした。

 「おい! 吉田! 盆、下げてからに……聞いちゃいねぇ」

 横暴な振る舞いも自己中心的な発想に行動も吉田だからこそ許される勝手なのだ。

 ムカつくけど。

 「お前らはいいよな……」

 一瞬誰かと思う程に覇気のない言葉に思わず戸惑う。

 隣の天童は眉を顰める。

 ふと我に返ったように鷹宮は声を張り上げる。

 「本当に吉田は勝手だべ!」

 しかし今日の鷹宮にツッコむ勇気は俺にはなかった。

 今日はからかってはいけない。

 漠然とそんな気がしていた。

 そして天童も同様に言葉を呑みこんでいるようだった。


 梅雨明けなどと言うお天気おねえさんの言葉を信じていた俺は球場に着くなり駐車場から 休場入口までのダッシュを課せられた。

 別に俺が何かのペナルティを課せられたという訳ではない。

 ただ単に大雨が降っているにも拘らず傘を持ってきていないことが原因なのだが誰一人として相合傘を許諾してくれないのだ。

 俺はバスが球場に到着し、扉が開くと同時に薄情なチームメイトに「お前ら覚えとけ!」と  捨て台詞を吐いて雨粒を出来うる限り躱しながら(気分的に)球場へと駆けだした。



   ***



 アイツ荷物置いて行きやがった。

 今年入学してきた一年生―ごく一部の一年生の勝手な行動が目立つ。

 澤村は後で締めとかねぇとな……。

 両の膝に手を置き、ゆっくりと立ち上がる。

 集中するために目を閉じる。

 皆の注目を一身に受けているのがわかる。瞼が重い。しかし悟られてはならない。

 緊張していないと言えば嘘となるだろうが口にしてはならない。

 それが墨田晃輝と言うキャプテンが東櫻高校野球部にしてあげられることなのだ。

 実質今年のチームは甲子園を狙える。可能性などと言うすがるようなものではなく確実にもう一息で届くのだ。

 しかし、油断をすれば足元を掬われる。

 故に目を開けると同時に気合いを入れ直す。

 「行くぞ」

 静かに呟いた声は静まり返ったバスの中では十分な大きさで、ともに苦楽を共にしてきた三年生は静かに頷き、二年生も今年こそはやってやると自らを奮い立たせていた。

 一部を除いては。

 「着いたぞ、鷹宮。起きろ」

 「ん!? おぉ、やっと着いたべ。マジで遠いべ」

 「べがうつった……うつってしまったべ。マジカオス!?」

 「調子良さそうだな。吉田」

 「ヤバイ、マジでヤバいべ。べって言うてもうた!」

 ……取りあえず、澤村に続いて締めておこうか。

 しかし、緊張しすぎてしまうのもよくない。そう考えると今年の一年生四人はいい具合に緊張をほぐしてくれる。

 それでも純粋にムカつくから結局後で締めることに変わりはないのだけれど。

 「お前ら馬鹿話してないでバス降りろ」

 悲しいかな……そんな馬鹿共の荷物を持つのは三年生なのだからこの世界はつくづく能力第一主義なのだと実感させられる。

 天才四人にレギュラーの座を奪われたのは皮肉にも四人全員が三年生だった。

 そして俺も天童にポジションを追われてファーストに回された口だ。

 それでもレギュラーの座を守ったオレの荷物を肩に提げて俺の数歩後ろを歩く豊田に感謝の意を伝える。

 豊田は訝しげな表情を浮かべながら。

 「俺何もしてねぇし。それでも感謝してるって言うのなら甲子園連れてけや」

 俺は振り返ることなく言い切る。

 「わかってる。連れて行ってやるから黙って見とけ」


 ついに始まる。

 俺や豊田の高校野球に青春のすべてを捧げた三年間の集大成。

 夏の甲子園大会へのたった一校の出場権を懸けた選手権大会の初戦を迎える。



   ***



 「もしもし? おう、どうした墨田? 何か用か?」

 通話の相手は帝都大附属の今季最大のライバル校東櫻高校の主将墨田晃輝だ。

内容は聞かずとも大体わかるのだが一応聞いておこう。

 「お前今日すごかったらしいな! ノーヒットノーラン達成したらしいじゃないか」

 「まぁな。相手もあんまり強いところじゃなかったし、運七と実力三ってところかな?」

 「謙遜もそこまで行くとただただムカつくな」

 「お前最近ムカついてばかりだな。例の一年生カルテットの所為か?」

 「まあな。それもある」

 「でも東櫻も初戦勝っただろう」

 結果を知っているからこそ互いに愚痴を言い合える。

 「19対11の八回コールドだぞ! いつ7点差が付いたのかわかりやしねぇ」

 「ん? 八回表にお前が打った2点タイムリーで七点差になっただろ?」

 「そんなことはわかってるよ! 要は、しんどい試合だったって話」

 確かに乱打戦ほど心臓に悪いものはない。しかしそれは打てるチームだからこそ言えるぜいたくな悩みだ。

 帝都大附属は昔、毎年大型選手の獲得失敗を続け、守備に特化したチーム作りを行ったのが今から十年ほど前にあった。

 それから十季連続で甲子園に出場していることもあり、完全に守備中心のチームという印象が世間に浸透している。その為か毎年入部してくる選手の多くは守備の得意な選手だ。

 そしてその守備陣の下でなら自由に投げられると関東の有望な投手の多くが帝都大附属野球部の門を叩く。

 「でも打ち勝ったからいいじゃないか」

 「それでもな守備の時にもう少し休みたいんだよな。すぐに打球が飛んできて息を吐く暇もねえんだ」

 「でもウチは乱打戦弱いぞ」

 「でも今年は怪物一年がいるだろ」

 そう。故にウチは神谷翔と言う怪物の獲得に動いたのだ。

 打線の火力不足を補うために一人の怪物の獲得に二年の歳月を要したと監督が涙を浮かべながら語っていたのを覚えている。

 「あぁ、だからウチは今年も甲子園に行くよ」

 自信がある。

 今年に関しては負ける気がしない。

 しかし。

 「それはウチも同じだよ。あの四人は一人一人がお前のとこの怪物くんと同格だよ」

 確かにそうかもしれない。それでも断言できる。

 「天才が何人いても野球の勝敗は確定しない。チームにも相性がある」

 「ウチじゃあお前らには勝てないと?」

 「違うよ。身内の話さ」

 「身内? どういう意味だ?」

 「それは―」

 通話が切れた。

切られたのかとも思ったが、こちらのスマホの充電が切れてしまったらしい。

もしかしたら墨田には不快な思いをさせてしまったかもしれない。

 しかしそれでいい。

 俺は何故敵に塩を送るようなことを言おうとしたのだ。

 東櫻がウチに決して勝てない理由―主将。即ちチームを率いるリーダーとチームの相性。 それが東櫻と言うチームにおいては最悪だ。

 墨田が悪いのではない。

 墨田の発揮するリーダーシップと一年生カルテットとの相性が悪いのだ。

 これはすぐには解決することのできない問題だ。故に夏は貰ったも同然なのだが、それでもやはり親友には悔いを残してもらいたくはない。

 そんなことを考えてしまうから俺は所詮、関東一止まりの投手なのだろう。

 それでも今年は名実ともに全国一を狙えるのだからここでてっぺんを目指さずしてどうする。

 男ならば一度はてっぺんからの景色と言うものを味わってみたいと思うのは自然なことだろう。

 だからすまない親友。

 今年も甲子園に行くのは俺だ。



   ***



 第一シードの帝都大附属高校。

 第二シードの東櫻高校。

 第三シードの足立実業高校。

 第四シードの東成高校。

 これら西東京の四強は確実に勝ち上がってくるだろう。

 堅守の東成と強打の足立実業。

 そしてこの二校を上回る東櫻に帝都大附属。

 実質二強という見方が強いが東成と足立も侮れない。

 攻撃こそ最大の防御と語る足立実業の渕江監督と同級生で共に甲子園にも出場した東成の楠監督のライバル対決も今大会の見どころの一つと成り得るだろう。

 そしてなんといっても帝都大附属と東櫻の対決も見逃せない。

 どちらの対決も決勝戦でしか実現しない対戦カードだが、個人的には後者の対決を見てみたい。

 何せ東櫻の薬師寺監督は俺の夢を打ち砕いた張本人で、帝都大附属の監督を務める高島平良監督は俺が甲子園のマウンドで蹲ったあの試合で東櫻を指揮していたのが高島監督だ。

 師弟対決。

 此方の方がしっくりくるな。そんなことを思いながら与えられた小さな記事を書き上げる。

 ―怪物神谷の前に立ちはだかるのは東櫻の天才たち―怪物と天才の戦いは常人のそれを遙かに凌ぐ。

 内容は実に陳腐なものだった。

 しかし見出しと最後の一文だけは掲載された。

 残りの文章は全て先輩の記事と差し替えられた。

 それでも葛木宗悟の名前が記事の最後に載るのだから不思議だ。

 俺の伝えたいものとは別の何かが俺の言葉として伝わる。

 未だになれないがいつかきっと自分の言葉で自分の想いを伝えられるその日まで……。

 怒鳴り声が飛んでくる。

 「葛木! お前さっさと取材に行って来い!」

 「ハイ!」

 勢いよく返事をすると鞄にトーナメント表やらいろいろとディスクの上にある書類を突っ込み神宮球場へ向けて駆け出した。



   ***



 「久しいのうヤス。まあ、精々頑張れや」

 相変わらずの上から目線に苛立ちを覚えながらも昔と変わらぬ親友の問いかけを軽く流しながら返す。

 「お互い様じゃろぅが」

 迎えた全国高等学校野球選手権大会西東京大会十二日目準決勝第一試合東櫻高校対東成高校の試合。

 野球ちゅうもんの「や」の字も知らんような若者がやたらと多く見受けられる。

 この騒ぎも東櫻さんと帝都さんの御蔭やろかのぅ。

 呑気に湧き上がる歓声に耳を傾けながら物思いに更ける。

 「監督!」

 背後からの呼びかけにゆっくりと振り返る。

 其処に居るのは小麦色にやけた肌に丸めた頭に東成のユニフォームがようやく板についてきた印象の二年生ながらエースを任せている浅間だ。

 「馬子にも衣装だな。浅間」

 「なんですかそれ?」

 「お前みたいな野球馬鹿でもエースナンバー付けていりゃそれなりに風格みたいなモノが出てくるちゅうことだよ」

 諭すように告げながらも内心ではこれ以上ない程に褒めちぎっている。

 今年は甲子園も狙える。そんな期待をしていた矢先に天才どもが同じ地区に集ってしまった。

 それでも甲子園出場は堅い。

 四割程度の可能性はある。この数字はかなり高い。それだけ今年の浅間の調子はいい。

 春大は準々決勝で帝都大附属に敗れはしたが内容では勝っていた。

 それだけに夏の選手権ではリベンジをと、選手たちは意気込み、精進を続けてきた。その結果チームは今大会において未だ無失点を継続中である。

 特に浅間の成長は目を見張るものがあり、一四〇キロ中盤の直球にキレのあるスライダーとフォークボールに加えて打者のタイミングを外すチェンジアップの習得により投球の幅が広がり、手が付けられない投手へと成長していた。

 そして迎えた準決勝の相手は東櫻高校。

 近年、甲子園はおろか選手権大会決勝戦にすら駒を進められないと言う足踏み状態をここ三年程続けている。しかし今年から監督に就任したわっぱがスカウトに力を入れて獲得した戦力は強力で瞬く間に優勝候補の一角、強いては二強と呼ばれるまでに復権したと言えるだろう。

 それでも東櫻は盤石ではない。

 その証拠に大差でのコールドゲームでも乱打戦になることが多いし、投手の澤村が好投している試合では打線が沈黙。東櫻のちぐはぐ感は否めない。

 一年生エースに一年生中心の上位打線。

 調子の波が激しい。それも若さ故のことなのだろうが一発勝負の高校野球においてその不安定さは命取りとなる。

 第一、あのわっぱが指揮するチームになど負けとうないわ。

 詰まる所勝てる理由と言うよりも負けたくないと思わせるモノの方が強いのだ。しかしそれでいい―理由など監督選手で各々違うだろう。無理に統一する必要はない。勝つと言う意識が一致していればそれで構わない。

 そして待つのに飽きたのだろう。苛立ちを含んだ声で。

 「監督、行きますよ。皆待ってます」

 意識を現に戻して、頷きを返す。

 「今行くわい」

 ゆっくりとした足取りで遠ざかる背番号一を見つめながら交互に足を踏み出して歩みを進める。

 「潔く散ってこいや」

 親友のおどけた声に軽く手を上げてその場を後にする。

 見ていろ親友。まず私が一足先に決勝進出を決めてきてやるよ。


 鳴り止まぬ歓声に疲弊した選手たちは耐えるのがやっとなのだろう。

俯く選手が多い中、浅間だけは前を見据えていた。

 浅間の視線がバックネット裏のスコアボードへと向けられる。

 視線の先に見える数字に目をやり、深い溜息を吐く。

 私には浅間が何を見て憂鬱になっているのかがわからなかった。

 監督失格だ。

 六回まで並んだ東成のボードに表示された0の文字。もしくは東櫻が積み重ねた得点九点の文字。それとも東櫻先発の澤村に抑えられ刻まれたHの欄に表示された0の文字。

はたまた―歓声とともに見やったスコアボードの球速表示が示す150キロの表示。

 付け入る隙がない。

 何も声を掛けてあげられない私は無能な監督だ。

 そしてまた綺麗にミット吸い込まれたボールがパンと大きく鳴り、再び歓声が沸き起こった。



   ***



 『シャァース!』

 球児たちの快活な挨拶(相変わらず何言っとるのかようわからんが)を聴きながら高みの見物を決め込む。

 「さあ、ヤス見せてもらおうか」

 独り言ではあるが老人の独り言は最早独り言の域を超えて五月蠅い。

 しかしながら改善することは難しい。

 だって言われなきゃわからないしなどと自分に言い訳しながら(誰に対してかは不明)試合へと意識を集中させていく。


 実にふてぶてしい態度でマウンドに登るのは澤村一樹わっぱが獲得した四人の目玉選手の一人だ。

 いけ好かない小僧だ。

 素直に感想を述べるならばそんなところだろう。

 自らが強者で周りの者を弱者としてしか認識していない様子だ。しかしそれもまた仕方のない事。

 事実、澤村一樹という小僧は天才だった。


 初回東成の攻撃を三振三つで仕留めて見せた天才は次元が違った。

 初回の三人への配球は全て真っ直ぐを放ったのだ。

 150キロ連発。

 初回に投じた十四球中九球が150キロ超えの真っ直ぐだった。

 バットが空を切る。

 当たっても転がすのが限界で鈍い、球を擦りあげたような金属音しか耳には届いて来ない。

 ヤス……。

 この苦しい状況を打破する策はあるのか? 俺には思いつかない。

 そして。

 七回表東櫻の攻撃。

 わっぱが獲得した四人の目玉選手たちに打席が回る。

 抑えようが無い。それほどの実力差が両者の間にはあった。

 よく戦ったよ、ヤス……お前さんは嫌うかもしれんが敵なら取ってやるからよ……。

 鳴り止まぬ歓声を背にして決意を新たにする。

 勝つ! 

 この一言を実現させるのがどれだけ大変なことかなど言わずともわかっている。

 それでも誓う。

 必ず勝つと。



   ***



 主審が「整列!」と告げると、両ベンチから選手が勢いよく駆けてくる。そんな選手を他所眼に気怠そうに駆けてきて整列する選手が五人。

 その五人の態度は天才と呼ばれるに見合うだけのモノがある。

 両チームとも新戦力を加えて実力的にはどちらも申し分ないのだろうけど……今年は東櫻だろう。

 元高校球児の雑誌記者は試合が始まる前からすでに記事の見出しを考えていた。



   ***



 化け物かよ。

 決して口には出さないが心の中で呟く。

 三年最後の夏にとんでもない化け物と対峙する羽目になった。

 神谷という怪物を獲得した今年の帝都大附属に敵はいないなどと考えていたのだがどうやら甘かったらしい。

 世の中楽して上手く渡っていきたいというのに……上手くいかないものだと気分は限りなく原色に近いブルーと言ったところである。

 初回から飛ばしに飛ばしている東櫻の澤村の球速は150キロを連発している。

一年生で150キロとかただの化け物だな。

 自分でさえ三年生となって迎えた最後の甲子園―全国制覇への挑戦。

 その挑戦の前に立ちはだかる化け物。

 個人戦ならともかく野球はチーム戦のスポーツだ。総合力なら帝都大附属が東櫻を上回る。

 しかし不安材料は相手の上位打線(主に一年生)だ。

 爆発したら手に負えなくなる。

 今までの試合を見ても序盤に打っている試合の全てはコールドゲームで勝利を収めている。

 つまり……序盤さえ凌ぐことができれば勝率は跳ね上がる。

 東櫻の一年生カルテットは打てない日にはとことん打てない故に……。

 「行って来い、国立」

 監督の静かな―しかしやたらとはっきりと聞こえたその声に大きく頷きマウンドへと駆けて行く。


 照り付ける太陽の下汗の滲んだインナーへと目をやり大きな溜息を一つ。

 まだ回は序盤の四回裏。

 気がぬけねぇ。そんなことはわかりきったことなのだが、怪物神谷と同格の天才四人を相手にするということの意味を痛感している真っ最中だ。

 こんな打線を高校生が抑え込むのは不可能だ。

 ウチの神谷より天才四人の方が劣るなどと評した人間は馬鹿なのではないだろうか。こんな奴ら凡人からすれば大差ないのだから。

 どいつも此奴も一年生のくせしてバンバンに威圧してきやがる。オーラみたいなものまで見える気がするのだが―気のせいということにしておきたい―気のせいであることを願う。

 九番からの打順で始まる東櫻の攻撃は実質最強の打順と言える。

 投手という理由で九番を打つ澤村は確実に他校に行けば四番を打つであろう打撃センスがあり、続く吉田、鷹宮は澤村以上の打撃センスを有する選手たちで正直神谷に劣る部分が俺にはわからない。そして三番の親友の実力派言わずもがな。その親友の後ろを打つ天童。気が抜けない。できることなら誰一人として勝負を避けたいところなのだが流石に勝負しないわけにもいかないので意識を目の前の打者へと切り替え後先考えずに目の前の敵を抑えることに専念する。

 此方の死一杯の威圧を意にも返さない打席の澤村は投手にしておくのがもったいないと思う程、打者としての風格を持っている。

 キャッチャーの構えはインコース。

 長打は喰らいたくはないがアウトコース一辺倒の配球ではいずれ捕まる、ならば時には冒険も必要だろう。

 小さくサインに頷き投球モーションへと移行する。

 踏み込みが甘い。そのせいかリリースポイントもいつもより早い。

 不完全な投球モーションから放たれた不完全な投球はキャッチャーの構えよりもボール二、三個分真ん中気味に入ったボールを天才が見逃してくれるはずもなく―打球音、歓声―打球の行方を追う。


 「キャプテン? どうしたんですか?」

 心配そうな声に振り返ればそこには声とは裏腹ににやけ顔の怪物がいた。

 マジでムカつくな。締めとくか?

 ふとそんな思いに駆られていると。

 後ろに立つ怪物は微笑を浮かべながら淡々と告げる。

 「勝ちますよ。俺たちは」

 ―はぁ!? 素っ頓狂な声を上げてしまったが怪物は気にも留めずに続ける。

 「今のアイツらじゃ俺には勝てないですから、それに俺、澤村からは天明みたいに勝てないとは感じないんですよ。だから勝てます」

 不確定要素でしか構成されていない怪物の言葉だが此奴に言われたらそんな気がしてきてしまうのだから不思議だ。

 しかしながらウチの神谷に東櫻の一年生カルテットと言った天才が敵わない天明とはどれほどの奴なのだろうか? 我ながら随分と余裕があることに驚きながらもどこか勝てる気がしてきた。

 七回表の帝都大附属の攻撃は三者凡退―重くなりつつある腰を上げてマウンドへと向かう。

 そして試合は終盤戦―最終局面へと突入していく。


 迎えた第四打席。

 打てるイメージが湧かない。

 八回を迎えてさすがの天才投手にも疲れの色が見えていた。

 それでもなお140キロ台の直球を放れるのだから大したものだ。

 才能では勝ち目がないが、俺は帝都大附属のエースだ、勝つことが求められている。

内容は二の次。勝つことが全てだ。

 特に高校野球において一度の敗北はあまりにも重い。

 それを俺は甲子園で痛感した。

 去年の夏の甲子園大会で初戦3対0のリードで迎えた九回裏アウトカウント残り一つと言う場面から二者連続ホームランを浴びて迎えた代打の一年生に対して投じた一球はあまりにも不用心だった―早く打ち取りたい。その一心で投じた気持ちの乗っていない球はいとも簡単に弾き返され、満員のスタンドに飛び込む三者連続ホームランとなり延長戦に突入した試合は相手にペースを握られたまま進み十回裏にまたしてもスタンドに打球を放り込まれサヨナラ負けを喫した。

 あのときの自分は完全に戦意を無くしていたように思う。

 故に俺はあの日泣き崩れて甲子園の土をかき集める先輩たちの震える大きな背中に誓ったのだ―俺はもう二度と試合を捨てないと、そして勝ち続けると。

 それから秋の神宮。春の選抜と勝ち続けてきた。

 だからこそ俺は勝利を諦めない―勝利を渇望している。

 そして俺は―。

 マウンドに立つ天才投手を見据える。

 打てる球はまず来ない。

 それでもチャンスはある。

 失投―その僅かな可能性に賭けるしかない。

 神谷は澤村と言う投手は最後の詰めが甘いと言っていたがだからと言って必ず失投してくれるという訳ではないのだからかなりの賭けだ。

 失投に賭ける。

 直球も変化球も捨てて僅かな可能性に勝機を見出して待つ。

 初球は外角へのカットボール。

 大きな変化はないが手元で動く球は捉えたと思っても僅かに芯を外されてしまう。

 この球に手を出してしまっているからこの試合ウチは凡打の山を築いている。

 判定はボール。

 まだ勝利の女神は俺たちを見放してはいない。

 際どい判定がこちらに有利に働いている。主審の判定にあからさまに不満を見せるマウンドに立つ天才と眼下の天才。

 そんなあからさまに不満だと示したら主審への心証が悪くなるぞ。などと忠告してやりたくなる気持ちを抑える。

 相手は敵なのだ。どんどん心証を悪くしてくれたまえとあくまで上の立場から天才たちを観察する。

 才能では劣っても高校球児としての経験は確実に自分の方が上なのだから。

 続いて投じた第二球―低めに構えられたキャッチャーミットに143キロの直球が吸い込まれる。

 「ストライク!」

 主審の右手が高々と挙げられる。

 コースは多少甘いが直球は捨てているのだから致し方ない。

 第三球―内角低めへのスプリット。これは打てない。

 判定はボール―ツイてる。

 ワンストライクツーボウルのバッティングカウントを迎える。

 打ちに行くか? いや確実に俺が打ち返せる球は失投しかないのだから俺は失投を待つのみ。

 第四球―!? 真ん中の絶好球!? 振るか? 

 バシッ。渇いたミットの音が耳に届く。

 反応した身体の動きを理性で止める。

 真ん中高めの絶好球だったが球速表示は148キロを計測していた。

 化け物め……八回まで来てその球速は反則だろ―しかしそれでもコースは今までになく甘かった。

 来るか? 一縷の望みに賭けた大博打だったが可能性はある! この希望的観測を現実のものとするのは今この瞬間においては気持ちだ。勝った―。

 平衡カウントとなり、投じられた第五球。

 高い? いやこれは最初で最後のチャンスボールになる―確信した。故に迷うことなくいつも通りに、素振りを行うように自然体のままにバットを振り抜く。

 捉えた―低い弾道を描き打球は左中間を抜ける。

 オラァァァァ―言葉にならない雄叫びを上げながら一塁ベースを蹴る。

 スパイクが土を抉りながら刃の後を残して行く。

 そして二塁ベースに到達したところで怒号が飛ぶ。

 『回れ!』

 誰が言ったのかはわからない。監督―それとも三塁コーチャーか―はたまたベンチにいる選手、もしくはスタンドに駆け付けたベンチに入れなかった選手―あるいはそのすべてだろうか。

 三塁コーチャーが飛び上がりながら両腕を右(自分から見て右)に振り滑り込めと叫ぶ―ヘッドスライッ! 頭から左手一本を三塁ベースへと伸ばす。身体はすでに投げ出し左腕とは反対方向へと飛んでいく―届け。

 指先がベースに触れると同時に三塁手のグラブが下ろされる―セェェフ! 塁審のコールに神宮が揺れた。

 続く打者は―アナウンスに会場からは一際大きな歓声が上がる。

 「四番、ファースト神谷君。背番号3」

 鳴り止まぬ歓声に神谷が徐に片手を上げて歓声が鳴りやむのを待つ。

 観客の視線を全て集めた男は上げていた腕を下ろし口元に持って行き人差し指を立てた。

 その真剣眼差しに四万を超える観客が静まる。

 打席に向かうその男は三塁側のアルプス席に陣取る吹奏楽部と野球部に人差し指を口元に当て、応援することを許可しない。

 そして打席へと向かいマウンドに立つ背番号10を付けた化け物と対峙する。

 天才と呼ばれる者同士―怪物と化け物の衝突。しかし会場は静寂に包まれていた。

力の差はおそらくない。しかし怪物は化け物に負ける気がしないと言い放った。ならば見せてみろ怪物スラッガー。お前の力を―。


 「整列! 礼!」

 「ありがとうございました」

 互いに健闘を称えて挨拶を交わす。(シャーシタ程度の滑舌)

 勝者と敗者が決まった。



   ***



 敗戦から早一週間。

 立ち直れない―立ち直れるはずがない。

 三年かけてようやく辿り着いた選手権大会西東京大会決勝戦の舞台。甲子園に行けると確信していた。

 そんな考えは甘かったのだと痛感した怪物の一振りが三年間の努力をいとも簡単に掻き消してしまう。

 そして同世代最強の投手。

 三年間の高校野球人生の最後がベンチ……背中の背番号は15。

 俺の背中に有った背番号3を付けた男のバットが空を切って告げられるゲームセットの掛け声。

 監督もわかっていたはずだ。一、二番の天才コンビですら出塁できなかったのだ、凡人の墨田に打てるはずがない事ぐらい―俺でも打てなかったであろうことぐらいはわかる。でもだったら代打で俺を使ってくれてもよかったのではないか? そんな思いに駆られて口にした―「甲子園に連れて行ってくれるんじゃなかったのか?」我ながら酷い奴だ。

誰が悪いわけでもない。そんな事はわかっている。しかし人間とはときに理性だけでは己を律することのできないと言うことがあるのだ。

 そして発した言葉は同じ釜の飯を食った者に対して掛ける言葉にしてはあまりにも残酷なもので、発した声も決して仲間に対して向けるものではなかった。


 三年間共に戦った友はたった一度の敗戦で崩れてしまう程度の関係性だったのか? 

今となってはもうどうでもいい事だ―。


 夏休みに現を抜かす大多数の学生を尻目に元高校球児の夏は多忙を極める。

 言い換えれば今までのツケを払っているだけなのだが、高校生活のほとんどを野球に捧げた我らの学力は……オブラートに包んで言うと努力の余地あり―包み隠さずに言うと、これ以上は成績を落とす事の方が難しいという状況にまで追い込まれている。

 既に野球部の三年の中には大学への推薦やセレクションの話が来ている者もいる。

 勿論、控え選手の俺にそんな話が舞い込んでくるわけもなく、進学か、就職かの選択を迫られて大学進学という選択をしたにはしたのだが、やる気は皆無だった。

 就職する気にはならないから一応大学を目指す。

 我ながら情けなく思うのだが野球に青春の全てを賭けていた俺は最大の活力源たる野球を奪われてやさぐれていた。

 ぐれたことなどなかった俺ははたから見たらかなり可哀想な奴だったに違いない。

 常に憐みの視線を感じその視線に対して過剰に反応しては苛立つ事を繰り返す。

 自分でもわかっている。

 切り替えなくてはいけないと―しかしながら参考書を買ってもうすぐ二週間。いまだに参考書を開いてすらいない。

 久し振りに―とは言え二週間ぶりに野球部の寮へと足を向けてみた。

 気分転換になるかと思い尋ねてみた野球部寮―通称監獄寮。

 衣食住には困らないが監獄の呼び名に相応しく過酷な労働―もとい練習を強いられる。

 そんな生活を三年間も続けてきたというのは凄い事なのではないだろうか。

 しかし、そんな監獄寮も現在は人も疎らで寮には静寂が訪れていた。

 俺は一人食堂へと向う。

 現在開催中の甲子園大会へ観戦に出ているために人が疎らになったとは言え選手全員が観戦に向かったわけではなく控えの選手の多くは寮に残っており、練習に精を出している。

 対して観戦に向かったのは主力、次期主力選手たちだ。

 去年は俺も観戦組に―主力、次期主力選手の一人として甲子園での試合観戦に同行したというのに翌年はベンチ入り止まりで出場機会は一度も無く最後の夏を終えた……。

 何が主力選手だ―一年生にポジションを追いやられた墨田にポジションを追いやられた俺はベンチに入っている意味があったのだろうか? 

 ネガティブ志向が止まらない。

 引き攣るような笑みが浮かぶ。

 駄目だな……気持ちを切り替えないと。

 食堂にあるテレビには甲子園の試合が映し出されている。

 「クソッタレが……」

 思わず漏れた呟きに背後から同意の声が飛んでくる。

 「ですよね~。どいつもこいつも調子に乗ってますよ」

 とても一年生とは思えない体躯のその後輩は天才と呼ばれるに相応しい佇まいをしており、杖に他者を威圧していた。ただ単に身長が高いだけと言えばそれまでなのだが、おそらく目の前の後輩から感じる威圧感は気のせいではない。それだけは断言できる。才能が無いとしても才能のある人間を見極める目は持ち合わせているつもりだ。そうすると才能ある後輩が垂れ流している威圧感は自然と溢れ出しているものなのかはたまた、意識的に出しているものなのかが俺にはわからなかった。

 威圧感だのと言った曖昧なモノは直観的にわからなかった時点で考える意味はない―というより考えても答えは出ないだろう。

 「先輩も甲子園行かなかったんですね。三年生の先輩はほとんど行かなかったみたいですけど主力組の先輩たちは皆行ったって聞いていたんでびっくりしましたよ」

 後輩の言う通りベンチ入りしていた三年生は皆甲子園を観戦しに行っていた。俺を除いて。

 「別にお前には関係ないだろ? それにウチのエース様がこんなところで何しているんだ?」

 「俺は研究ですよ。研究」

 「研究?」

 「ええ、研究です」

 研究ねぇ……野球バカしか集まらないこの東櫻高校野球部のレギュラーが研究して何かが見つかるとは思えないのだが……と思っていたらウチのエース様は高らかに勝ち名乗りを上げる。

 「東櫻は全国の頂に立てますよ」

 その言葉は観測的な願いや希望とは違い確信めいた何かがあり全国制覇できると断言して見せた。

 理解に苦しみながらも何故その様なことが断言できるのか問う。

 「何かわかったのか?」

 即答で「はい」という短い返答があり説明を求めても外部の人間に話されてしまっては意味がないと頑なに話そうとはしない。

 テレビ中継されていた試合は大阪府代表の大阪義塾が福井県代表の神常実業を九対一で破り二回戦へと駒を進めていた。

 背後からかけられていた後輩の声が遠ざかる。

 「次の試合見ていかないのか? 帝都大附属の試合だぞ」

 振り返るとそこにはそんなことンは意味がないと言わんばかりの表情を見せる後輩がいた。

 「先輩。帝都大附属は神谷のチームです。今年は国立さんが居ましたけど来年はいませんし、神谷さえ抑えれば問題ありません」

 表情を崩すことなく言い切る。

 そんな後輩を頼もしく思うと同時に嫉妬している自分がいた。強者としての振る舞い。俺にはできない事がこの後輩には出来るのだと―。

 「そうか……頑張れよ」

 ありきたりな言葉しか出てこない。そんな自分も後輩に嫉妬する自分も共に戦ってきた仲間に八つ当たりしてしまう自分も未だに敗戦を引きずって苛立ちを隠すことのできない自分が―嫌いだ。

 「先輩も頑張ってくださいね」

 一瞬哀れな先輩に対する後輩の嫌味かとも思ったのだが目の前の後輩の眼差しは真剣そのもので、こちらをからかっているわけでもなさそうだった。

 「頑張る? 受験か? お前に言われなくても受験勉強はするよ」

 「違いますよ。野球のことです。続けますよね?」

 「何で?」

 こちらの問いに後輩は驚いた表情を見せて問の答えを返してくる。

 「何でって、プロ目指さないんですか?」

 「プロ? 俺が? 無理だよ」

 「そんなことはないと思いますけど……今のチームの中では先輩くらいしかプロになれそうな選手いない気がするんですけどね」

 「何でおれがプロになれると思うんだ?」

 こちらの問いに対して間髪入れずに、

 「勘です」

 即答。

 しかしただの勘と侮るなかれ、才ある者の勘は予言にも等しい。少し言い過ぎかもしれないが少なくとも俺にはプロを目指すだけの価値と可能性があるのだと自らに言い聞かせた。

敗戦から二週間で初めてポジティブな思考で物事を考えることが出来た気がする。

 テレビには選手たちが甲子園のグラウンドに飛び出すところが映し出されていた。

 「本当に見なくてもいいのか?」

 「ええ、必要ありません―」

 一度言葉を切って。

 「だって今年は天明が―大阪義塾が優勝しますから」

 そう言い残して食堂を後にする後輩の背中からテレビへと目線を移すと甲子園のサイレンが試合開始を告げていた。

 俺は席を立ち食堂を出て自室へと向かう。

 すると、

 「あら? 豊田君まだ試合あるんじゃない、甲子園。見なくていいの?」

 「こんにちは、おばちゃん。おばちゃんこそ食堂にいなくてもいいの?」

 「あたしはいいのよ!」

 無駄に声の大きい女性は東櫻高校野球部監獄寮の食堂に三十年近く勤めている監獄寮 一番の古株にあたる人物だ。

 「でも、仕事しないと食堂クビになりますよ」

 暫くワザとらしく考えるポーズを取って見せて、「そうね」と一言―。

 「それじゃあ、あたしはお仕事に戻るとしましょうかね」

 「それがいいでしょうね」

 ……。

 「俺はこの辺で……」

 「そうね」

 互いに軽く会釈をし、すれ違う。すれ違った直後思い出したように背後から声がする。

 「そういえば、豊田君は進路どうするか決まってるの?」

 何でおばちゃんと呼ばれる人種はこうもめんどくさいのだろうか? 根掘り葉掘り他人の事を聞きたがる。いつもならば適当にあしらう所なのだがこの日は―その瞬間は答えてあげようと思った。

 「進路ですか? 進学ですよ―六大学に行きたいですね」

 「そう」

 短い返答の声はどこかそれまでとは違い明るいものであるように感じた。

 「頑張りなさい」

 そう言い残し食堂へと向かうおばちゃんの背中は優しいおふくろのようで(母親とは違う第二の母的な)その背中が遠くなるのを見つめながら改めておばちゃんは凄い人物なのかもしれないと感じた。

 おそらく俺が進学を決めた理由はもちろん、見聞きしてはいない筈だがその結論に至る経緯までをも見透かされた気がした。長年高校球児を間近で見てきたが故の観察眼なのかもしれない。そんなおばちゃんの御眼鏡に叶った俺の決断は正しかったのだろう……史欲動のおばちゃんというのが不安材料ではあるがポジティブに物事を考えよう。

 そして自室へと向かって再び歩き始める。

 荷物の整理を行い、ついでに部屋の掃除でもしておこうか……面倒だな。


 そして夏休みはあっという間に過ぎていった。


 甲子園大会は雨天中止など一度も無く無事に日程通りに進行した。

 そして決勝戦。

 大阪府代表の大阪義塾と西東京都代表の帝都大附属の一戦は例年にないほどの盛り上がりを見せた。


 6対0―。

 決勝戦でのノーヒットノーランは甲子園の歴史に刻まれた。

 怪物を捻じ伏せた神童。

 これから後輩たちは最強の打者と最強の投手を相手取る必要があるのだから大変だ。

 怪物と神童にとって代わることのできるのは同等の力と才能を有した天才たちだろう。

 そしてその天才たちはすでに秋季大会に向けて始動している。

 自信を持って勝つと言い放った天才に言われるがまま進学をしてプロを目指す俺は赤本片手にグラウンドを眺める。

 何故か金属バットが奏でる金属音は心地よく感じる。それは俺だけではないだろう。野球に携わった人間ならば俺の間隔に同意する人間は少なくないだろう。

 心地よい金属音に飛び交う声は僅かひと月ほど前まで自分も混ざって出していたモノにも拘らず懐かしさを覚える。

 一際大きな金属音がしたと思ったら打球が高々と舞い上がり青く澄んだ空に吸い込まれていく。幸い薄汚れた練習球であったおかげでボールを見失うことはないが無駄に滞空時間の長いその打球に首を上げるのが億劫になって目を切った―。

 「危ない!」

 グラウンドから自分に対して発せられた声に空を仰ぎ見る。

 澄んだ青空に刺す太陽の光が視界を狭める―気が付くと一点の黒い点が間近に迫っていた。瞬間的に捕球体勢に入り捕球しようとした右手には赤本が握られており慌ててボールを回避する。

 打球の飛んできた方向には片手を上げて謝罪の意を示している人物が一人―思わず笑みが零れる。つくづく頼もしい奴らだな。そして同時にプロになるということはこんな奴らとやり合うということだ。選択を誤ったかな? 冗談抜きでそう思った。しかし誤った選択だとは思わない。

 足下に落ちている練習球を拾い上げグラウンドから出てきた後輩に投げ返す。

 「あぶねぇって天童の馬鹿に言っとけ澤村」

 「うっす。先輩は大学進学決めたそうですね」

 「受かればいいけどな」

 「大丈夫ですよ。先輩なら」

 「そんじゃあ。まあ、お前らも頑張れよ」

 赤本片手に手を振りながらグラウンドに背を向けて歩き出す。

 背後から聞こえる練習の音や声に交じって聞こえてきた「お疲れ様でした」という声は聞かなかったことにして歩みを進めた。

 大学からプロへ。実際は口で言うほど簡単ではない。しかしながら毎年確実にプロ野球選手は誕生している。すなわち、可能性はある。しかしながら限りなくないに等しい可能性に縋って野球を続けるのだから俺はひたすら前へと突き進むしかないのだ。

 間違いなく野球に対する姿勢とは関係ないだろうが出来るところから始める。俺は改めて 客観的な視点で見て見るとひどく不器用な人間なのだなと思う。

 ならば不器用なりにやりきって見せればいい。その先に見えてくるものがあると信じて―。



   ***



 高校野球は神童―進藤と怪物―神谷を中心に動き出す。

 高校ナンバーワン投手進藤努、高校最強スラッガー神谷翔。この双璧に挑む全国の猛者たち―。

 「どうですかねこの記事?」

 「それでお前は書けるのか?」

 ディスクは俺程度の新人記者の考えなどお見通しらしかった。

 確かに不満が無いと言えば嘘になる。

 双璧―これからの高校野球は三つ巴となって行く。俺が書きたい記事は、今は書くことは出来ない。だから、さっさと甲子園に行けよ―薬師寺さん。

 こんなこと本人に行ったら殺されるな俺―眠気覚ましの缶コーヒーを買うために席を立つ。

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