婚約者が魔王を見捨てたワケ Ⅱ

 教国とエスト国の国境線。

 荒野の様な所がイーロスの指定した場所だった。

 かなり遠くまで見渡せる遮蔽物や障害物のない位置にイーロスと彼の部下である魔族の高位魔術師が数人…それとナメクジがいた。

 時刻は昼を過ぎた頃だが、空が曇っているので太陽は見えない。

「どうやら来た様ですよ?」

 ナメクジに言われた方角を見たイーロスは、遙か彼方からエストが浮遊術で飛んで来るのを確認した。

 エストは、やがてイーロスの手前に降り立つ。

「遙か後方にですけれど、ミイトさんと爺やさんが見えますね。」

 ナメクジがイーロスに告げた。

 エストは苦虫を噛み潰す様な表情を抑えられなかった。

 イーロスはエストに静かに尋ねる。

「…一人で来いと書いた筈だが?」

「この場所と付け加えられてよね?あんなに遠くの場所が、ここだと言えるのかしら?」

 エストの言い様に何かを企んでいる事は、流石のイーロスにも分かったが、彼は絶対的な自信があったので未だに余裕を崩さすに寛大に応じた。

「まぁいい、あいつらが近づいて来ないのは賢明だ…。」

 イーロスが指を鳴らすと魔術師達は呪文を唱え始める。

 彼らのいる場所を中心に広範囲に三重の次元障壁結界がドーム状に張られた。

「これで邪魔者は手出し出来ないし君も、もう逃げられない…。」

「娘は何処なの?」

 エストはイーロスを睨む。

 イーロスは再び指を鳴らすとナメクジの背中に赤ん坊が現れた。

 エストは、ほっと安堵の表情を一瞬だけ浮かべて言う。

「子供の無事を確認したいわ。こちらに渡して頂戴…。」

「いいだろう。」

 イーロスはナメクジの背に乗った赤ん坊を抱きかかえると、エストへと近づいて行った。

 その歩みが彼女の直前で止まる。

「どうしたの?」

「手を後ろに組んで動かないでいてくれ。」

 エストは仕方が無いので言うことを聞いた。

 イーロスはエストの身体を、まじまじと見詰める。

 少女の頃から美しくプロポーションも良かったが、出産を経験した彼女は、何かしっとりとした艶の様な雰囲気を醸し出していた。

 それを形作った者が自分ではない事実に、イーロスは嫉妬する。

 イーロスは片手で赤ん坊を抱いたまま、もう一方の手をエストの胸の鎧の留め金に掛けて外した。

「何を…?!」

 予想だにしないイーロスの行動に、エストは驚いて身をよじったが、手は後ろに組んだまま動かせずにいる。

 イーロスは服の上から彼女の乳房を揉みしだき始めた。

「これを俺より先に、あの人間が蹂躙したって言うのか…。」

 イーロスの瞳には嫉妬と怒りの炎が渦巻いていた。

 エストは痛みに耐えて行為を受け入れていたが、イーロスを非難の言葉で罵る。

「…馬鹿じゃないの?そんなの後で幾らでも触ればいいじゃない…。今は…子供の無事を確認させなさい…。」

「本気で言っているとは思えないが…まぁ、いいだろう…。」

 イーロスは手を離した。


「あの男!あろう事か女王陛下の乳を揉みましたぞ?!」

「なに?!」

 爺やが遠見の魔法で様子を見ている。

 その話を聞いてミイトの殺気が膨れあがった。


 …わぁ…あちらさん怒っているなぁ…とナメクジは思ったが、他の者は流石に遠過ぎて殺気には気が付かないでいる。


 イーロスは再び赤ん坊を両手で抱き直すと、エストに渡す為に腕を伸ばした。

 震える両手でエストは、赤ん坊を受け取ると、ゆっくりと頬擦りをする。

 自然と涙が零れた。

 そんな親子の再会に水を差すかの様にイーロスは、ある方向をエストに指し示す。

 彼の指の先には紫色に輝くゲートが開いていた。

「あれは異界への扉だ。君は今から、あれをくぐって異界で俺の妻になるんだ。拒否する事も帰る事も許さない。もっとも入ったら最後、君が帰る術は無いから俺を頼りにする以外はないだろうがな…。」

 イーロスは邪悪な笑みを浮かべる。

「子供は、どうするの?」

「…置いていって奴に育てさせるなり、異界に連れて行って自分で育てるなり、好きにすればいいさ…。」

 エストは悩むフリをして答えた。

「…連れて行くわ。」

 エストは、ゆっくりとゲートに向かって歩き始めるが、かなり内心では焦っていた。

 自分達親子が助かる為の絶対的な条件が、まだ満たされてはいないからだ。

 …ゲートに入る前に何とかしなければ…彼女は、そう考えていた。

「…待って、赤ん坊の様子が変なの…。」

 彼女は立ち止まってイーロスに哀願した。

「様子がおかしいって…何がだ?」

 イーロスは彼女の焦った様子に特に疑問を持たずに訊き返した。

「さっき、あれだけ頬擦りしたのに全然目を覚ましてくれないのよ。何かの病気に掛かっているんじゃないのかしら?」

 イーロスは…なんだそんな事か…と言いつつ彼女に近づいて行って、赤ん坊の頬を優しく突いた。

 赤ん坊は、むずがゆい表情をすると途端に泣き始める。

「こうすると、こいつは絶対に起きるぞ。」

 なんだか楽しそうに言うイーロスだった。

 乱暴な起こし方に、やや眉をひそめるエストだったが、自分も知らない子供の一面に少し驚く。

 赤ん坊は手を伸ばして泣きながら暴れていた。

 イーロスはあやそうとしたが、エストがそれを制した。

 彼女は人差し指を赤ん坊の掌に差し出すと、赤ん坊は彼女の指を握りしめて泣き止む。

 それを感心した様に眺めていたイーロスだったが、突如としてエストに何かの攻撃魔法による衝撃で吹き飛ばされた。

 エストの周囲を白い輝きが包み始める。

 吹き飛ばされたイーロスは、その輝きを見て驚いて叫んだ。

「やめろエスト!周囲の次元障壁結界は跳躍では越えられない!激突して赤ん坊諸とも死ぬぞ!?」

 だが間髪を入れずにナメクジも叫ぶ。

「いけません若!それは跳躍とは違う術式の瞬間移動です!逃げられてしまいます!」

「なんだと?!くそ!」

 イーロスは腰に納めた短剣を抜くとエストに向かって突進して来た。

 エストの抱えた赤ん坊を奪い返そうと短剣を振りかぶる。

 エストは反射的に赤ん坊を庇って彼の短剣の刃先に背を向けてしまった。

 怒りに震えるイーロスは、彼女の背中に目がけて短剣を突き立てようとする。

 …しかし、愛する彼女を傷付ける事は、どうしても出来ずに手を止めてしまった。

 エストは白い光に包まれたまま赤ん坊と共に消え去った。

 呆然とするイーロスの耳にナメクジの警告が飛ぶ。

「外周の次元障壁結界にミイトさんが近づいています!いや、二番目の結界を破壊された?!あれ?もう最後の結界内に侵入されている?!」

 三重の次元障壁結界が魔剣の力によって跡形も無く消去され、イーロスの周りの魔術師達がミイトの剣技によって全て気絶させられた。

 イーロスはミイトに振り向いて対処しようとしたが、そのまま両手を手首から斬り落とされる。

 絶叫をあげるイーロスの首に魔剣を突きつけ、ミイトは言う。

「俺の恋女房の乳を勝手に揉みくさったのは、どっちの手だ?…おっと、分からなかったから面倒くさくて、つい両方とも斬り落としちまったぜ。悪りぃ悪りぃ…。」

「き、貴様ぁーっ!」

 イーロスは憎しみを込めて叫んだが軽口の割に怒りに燃えるミイトは、そのまま彼の首を斬り落とそうとした。

「待って!ミイト!」

 その静止の言葉で首の皮一枚分手前で、魔剣は止まった。

 次元障壁結界が取り払われた中を再びこの地へ今度は、紫色に輝く跳躍の魔法を使ってエストが現れる。

 赤ん坊は既に安全な場所に預けており抱いてはいなかった。

「エスト…?」

 膝を地面について脂汗を流して痛みを堪えるイーロスの前に現れたエストは、彼に尋ねる。

「なぜ、こんな強引な実力行使をしたの?こんなやり方…慎重な貴方らしくないわ?」

 イーロスはしばらく考えて、やがて口を開いた。

「…帝国の神帝が崩御したんだ。」

「…知っているわ。」

 エストは、その言葉で何となくイーロスの強行の理由に思い当たったが、イーロスは驚いて尋ねる。

「知っているなら何故逃げないんだ!?確実に羅刹がやってくるぞ?帝国に敵意を持たない民間人ならともかく、君の様な王族なら確実に殺される!」

 イーロスは恫喝にも似た声をあげた。

 エストも尋ね返す。

「勇者が私を討滅しに来た時に、私を置いて一人で逃げ出した人の台詞とも思えないわ?…なぜ今頃になって私の生死の心配をするの?」

 イーロスは悔しそうに答えた。

「…勇者は違う。彼は優しい男だと当時は噂に聞いていた…。まさか、あんな事をする男だとは思わなかったが…。」

 あんな事とは教国でサウムが起こした虐殺の事を言っているのだろう。

 エストは少し哀しい表情をしながらイーロスの話の続きを聞いた。

「俺とお前の二人だけで残って勇者と闘って激しく抵抗をする方が、纏めて殺される可能性が高いと思ったんだ…。それなら君に独りで残って貰って早々に勇者に降参してくれた方が、君は生き残れると思ったんだよ。勇者は…特に女にだけは甘い奴だと聞いていたから…。」

「イーロス…。」

 何から何までを信じる訳ではないが、いまさら彼が嘘をつくメリットも無い。

 自分に都合良く話を盛っているかも知れないが、きっと本心からの真実の告白なのだろうと、エストは思った。

「イーロス…羅刹には次元障壁結界が通用しないの?」

 エストは一番に疑問に思っていた事を尋ねた。

 イーロスは頷く。

「次元障壁結界は別に俺だけの十八番ってわけじゃない。現に高位の魔術師であれば術式を教えれば修得は難しいが可能だ…。俺も君の父上から教わったんだ。彼の魔剣を今は、何故あいつが持っているのかは知らないが…あの魔剣に限らず勇者や羅刹の剣技なら容易く突破されてしまうだろう…。」

 イーロスはエストを見て言う。

「だから逃げろ。勇者の時とは違う。迎え撃とうものなら今度は、確実に殺されるぞ?」

 エストは一度だけ深呼吸をするとイーロスに答えた。

「逃げないわ…。逃げずに羅刹と闘って、必ず打ち勝ってみせる…。」

 エストはイーロスの目を見つめながら、きっぱりと言い切った。

「イーロス…私が貴方の事を愛していたのなら、誘ってくれた時に異界まで後をついて行ったと思う?…多分無理よ。今も同じ状態…ううん、あの時よりも私がいなくなったら困る人達が増えてしまった…。私は魔王として臣民を放っておく訳にはいかないのよ…。」

 エストの決意にイーロスは、がっくりと項垂れる。

「ありがとう、イーロス…。私の事を今でも大切に思っていてくれて…さっきも刺さないでいてくれて…。愛してはあげられないけど、妙に憎めなかったわ…。」

 そう言うとエストは、彼女の両手でイーロスの顔をゆっくりと持ち上げて、拳で顔面を思いっきり殴り倒した。

「これは赤ん坊を攫われた母親としての分よ。…さようなら。」

 エストは一つだけウインクをすると、振り返って爺やが待っている場所へと歩き始めた。

 ミイトはエストに近づいて尋ねる。

「…あれだけで、いいのか?」

「…いいのよ。ありがとう、ミイト…。」

 ミイトの問い掛けにエストは、何処か吹っ切れた様に微笑んで返した。


 帝国では崩御した前帝の葬儀が終わって、新たな神帝の戴冠式も滞りなく終了した。

 謁見の間でインは、新しい神帝の前に恭しく跪いている。

 元摂政で前帝の弟である新たな神帝は、インに対して玉座の感想をこぼした。

「いい気分だ。やっと、ここまで来れた。随分と遅く感じたがな…。」

 新たな神帝はインを見下ろして言う。

「今日からは俺の為に働いて貰うぞ?兄上と比べて、忠誠を誓い辛い相手かも知らんがな…。」

 神帝は、そうインに告げると嫌味ったらしく口角を上げた。

「誤解がある様なので申し上げますが…私は亡くなられた兄君と同様に貴方様の事も嫌いではありませんので、誓って忠誠に差は御座いません…。」

 インは、こともなげに答えた。

「なんだ、それは?処世術のつもりか?」

「事実に御座います。」

 神帝は鼻で笑った。

 インは許しを得ずに面を上げて言う。

「申し訳ございませんが、新たなる我が君に御伝えせねばならぬ事が御座います。貴方が戴冠するまで前々帝から口止めを命じられていた遺言に御座いますれば…。」

「何だ?言ってみろ…。」

 そう言って神帝は、先を促すと同時に喉に違和感を感じて口を手で抑えて咳き込んだ。

 手が僅かながら血で汚れている。

 初めての事なので、神帝は驚いた。

 インは目を細めて、その様子を確認すると哀しい表情を見せて言う。

「魔帝に呪われたのは前帝だけではありません。貴方様も呪われているのです。父上殿は兄上殿が亡くなって貴方が神帝となれば、その事を先ず伝えよと仰っていました…。」

 新たな神帝は驚愕の表情で自分の血で濡れた震える手を見つめてインに尋ねる。

「なぜ今なのだ?父上は何を考えていた?」

「理由は明かされませんでした。焦った貴方が兄上を殺して神帝の座を簒奪すると思ったのか…逆に貴方の方が兄上よりも大事だったから魔帝の監視から遠ざける為に、わざと神帝の座を貴方に譲らなかったのか…。何れにせよ前々帝の御心は、生前にせよ死後にせよ、私には知り様がありませんでした…。」

 神帝はインを睨んで言う。

「なぜ、こんな大事な事を亡き父上の命だからといって、今まで黙っていたのだ?」

 インは何も答えずに代わりに深々と頭を下げた。

 神帝は再び口角を上げて言う。

「…融通の効かん奴め…。」

 神帝は、ゆっくりと玉座の背もたれに身体を預けると、呟く様にインに尋ねる。

「俺は、後どのくらい生きられる?」

「一年…いえ半年程ではないかと…。医術師の見立てでは、そうなります…。」

 神帝は静かに目を閉じるとインに告げる。

「新しく後宮に入れた女の中に俺の子を宿した奴がいる。式の準備を急がせろ…。世継ぎが存在するのは幸いという他ないな…。」

「そちらは別の者に命じて任せましょう。後は如何いたしますか?」

 神帝は目を開いてインを見据えて尋ねる。

「後とは何だ?」

「…望むのであれば、兄上殿同様に貴方の側にて御守りする事も可能ですが?」

 神帝は笑って言う。

「俺をあのような引き篭もりの臆病者と一緒にするな!後半年の命なら俺の願いは決まっている!全てだ!半年以内に全てを手に入れて来い!この俺に背く奴を俺が死ぬ迄に一人も生かしておくな!教国の邪神を信奉する異端者どもを皆殺しにしろ!それに恭順する国々もだ!」

 インも邪悪に微笑んだ。

「貴方のそういう所は、本当に嫌いではありませんでしたよ…。」

 インは立ち上がると深く一礼をする。

「御意。全ては神帝の御心のままに…。」

 そういうと玉座に背を向け扉に向かって歩き出した。

 目指すは神でない者を崇める異教の民が巣食う教国と、そして魔王と魔人と魔族が支配する北の国。

 東の英雄は動き出した…。

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