第11話

婚約者が魔王を見捨てたワケ Ⅰ

 執務室でエストは眼鏡をかけて公務に臨んでいる。

 爺やから内政を教わり、図書館の蔵書から独学で魔法の勉強をしていた彼女は、強化魔法を使わない裸眼状態だと、すっかり視力が落ちてしまっていた。

 だから最近の公務や勉強の最中には、安易に魔法に頼らずに、こうして眼鏡を掛ける事にしている。

 執務室の扉を乱暴に開けて、ミイトが入って来た。

 彼は開封済みの親書を持って来ると、エストが公務を続けている机の上にそれを叩きつける様に置いた。

 エストは静かに手紙を取ると開いて中身を確認する。


 "君の娘は預かっている。

 返して欲しければ一人で以下の場所に指定した日時に来て欲しい。

 来なければ、彼女の命は無い。"


 これを国家間の親書で送り付けてくるイーロスの神経に頭痛がしてくるエストだったが、それだけに何らかの理由で彼に余裕がない証拠なのかも知れないと思った。

 余裕がないのはミイトも同じで真剣な面持ちでエストに尋ねる。

「どうするんだ?」

 教えて欲しいのはエストの方だった。


「お前に、あんな特技があろうとはなぁ…。」

 イーロスは玉座で赤ん坊の両脇を抱えて高い高いをしていた。

 赤ん坊は、きゃっきゃっと喜んでいる。

「はぁ…まぁエスト様には二度と通じないと思いますがねぇ…。それに若の卑怯な手段に利用されるのが見え見えだったので、余り御教えしたくは無かったんですよぅ…。」

 ナメクジは、しょんぼりしていた。

「ねぇ…若?もっと正々堂々と人妻を掻っ攫いましょうよ?」

「なんだか、それも人聞きの悪い表現だが…。俺だって、もっと時間があれば、こんな強行策は取らなかったよ…。」

 今度はイーロスが、しょんぼりする。

「まぁ、お気持ちは分からないでもないですけどねぇ…。」

 ナメクジは頭を赤ん坊に向ける。

 何も知らない赤ん坊は、きゃっきゃっと続けて喜んでいた。


 昨日の事である。

 遷都の終わったエストの国の新たな魔王城に、娘が攫われたと伝令を受けて神器の羽根を使って急遽帰還したエストとミイト。

 二人は新たな神器の羽根の帰還先に指定されている謁見の間に現れて、すぐに子供部屋へと向かった。

「エスト様…。」

 子供部屋へ入るとフィレンが、沈痛な面持ちで出迎える。

「…状況を教えてくれるかしら?」

「はい、こちらを御覧下さい。」

 フィレンは壁に掛けてあった鏡を取り外すと、机の上に置いてエスト達に見せた。

 フィレンが何か呪文を唱えると、鏡は過去の部屋の様子を映し出す。

 留守中に赤ん坊の世話を任せたメイドが、子供部屋の中へと一人で入ってきた。

 今の時点で特に異常は見当たらないが、フィレンが鏡の中の一点を指して言う。

「扉の上の付近に注目して見て下さい。」

 エストとミイトは言われた部分を凝視した。

 特に変わった所のない壁に見えたが、よく見ると時々模様がだぶっているかの様に揺らめく。

 メイドはベッドで寝ている赤ん坊の様子を確認すると退出した。

 すると扉の上の付近から徐々に巨大なナメクジの姿が現れる。

「そんな…。」

 エストは驚いた。

 魔帝の使用した次元操作系による跳躍の魔法すら防いで通さない特殊な魔法結界は、城の周囲だけでなく子供部屋にも施してある。

 このナメクジは一体どこから侵入して来たのか?

「擬態です。このナメクジは周りの景色と完全に同化してメイドと一緒に入って来た様です。」

 ナメクジは天井を這うように移動する。

「メイドが子供部屋にいない時に、床に重量がかかると警報が鳴る魔法を掛けてあるのですが…これでは…。」

 フィレンは悔しそうに言った。

 やがて、ナメクジは赤ん坊のベッドの真上に到達すると、ゆっくりと身体を伸ばして赤ん坊を身体の先で掴もうとする。

 しかし、何かに気が付いたかの様に離れた。

「このナメクジ…一体何者なんでしょうか?イーロス様の配下だという事と異界の生き物だという事くらいしか掴めてはいないのですが…。」

 ナメクジは赤ん坊を掴んで、ゆっくりと引っ張り揚げると同時に、自分の身体から透明な体液を少しづつベッドに流し込んでゆく。

「見ての通り…ベッドから姫様の体重分だけ重さを感じなくなったら鳴る警報まで、気付かれて対策をされています…。」

 そして赤ん坊を天井で自分の身体にくるんだナメクジは、そのまま消えて見えなくなった。

 天井の模様がうねうねと動きながら壁に移って入り口の扉の上の辺りで止まる。

 やがて、メイドが再び子供部屋に入るのと、彼女が赤ん坊がいない事に気が付く様子が見えた。

 その間に扉の上にある壁の模様が、外へ向かって揺れているのを確認できる。

「これで全部です。」

 フィレンは静かに鏡を戻した。

 エストとミイトは余りの出来事に呆気にとられている。


 そして、今朝になって届いた脅迫の文章に目を通したエストは、手紙を静かに机の上に置いてミイトに言う。

「これは既に届いた時点で私も確認したわ。」

「随分と冷静だな。」

 ミイトは語気を荒げる訳では無かったが、少しだけイライラした感じで話した。

「奴の目的は…?」

「自意識過剰でも何でもなく私を手に入れる事でしょうね…。本当に何故今頃になって、こんなに執着されるんだか…。」

 エストは苦悩の表情を浮かべる。

「手に入れても逃げ出したり奪い返されたりする事を、奴は考えないのか?」

「何か手段があるのでしょうね…。子供を人質に取られたままだったり、仮に異界に閉じ込められたら今の私には、この世界に還る手立てがないわ…。別次元に送られたら跳躍や神器の羽根でも戻って来られるかどうか分からないし…。」

 エストの答えにミイトは、溜息を漏らす。

「条件を呑まなかったら奴は、本気で赤ん坊を殺すつもりなのか?とても、そんな事が出来る奴には見えなかったんだが?」

「分からないわ…。でも必要があれば躊躇い無く人を、いいえ同胞の魔族だって殺す事の出来た人よ。婚約者だった時に、そういう事が度々あった…。その時の彼の眼差しは…誰かを殺してきた後のパパの瞳にそっくりな厳しい目をしていた…。」


 教国の王宮の謁見の間でイーロスは厳しい目をしていた。

「女の子だったのか…。」

 玉座に乗せた赤ん坊の、おしめを取り替えながら呟いた。

「そう伝えた筈ですよ。若?」

 ナメクジが答えた。

 しばらく黙った後でナメクジの方からイーロスに質問が飛んで来る。

「…ねぇ、若?若はエスト様がいらっしゃらなかったら、どうなさるんですか?」

「我が子を見捨てる様な冷たい女に、未練は無い。その時点で、きっぱりと諦めるさ。」

 イーロスは意外とサバサバした感じで答えた。

「その場合、その子はどうするんですか?本当に殺しちゃうんですか?」

「うーん…まだ赤ん坊だし気が引けるなぁ。流石に子供は殺した事がないし…自分に直接的に逆らって来た訳でも無いしなぁ…。」

 イーロスは、おしめを取り替えた赤ん坊の両脇を掴んで持ち上げながら悩んだ。

「つぶらな瞳なんか子供の頃のエストに、そっくりで可愛いなぁ…。そうだ、エストが来なかったら、この娘を大切に育てて未来のお嫁さんにしよう。」

 真面目な顔をして語るイーロスに、ナメクジは戦慄した。

「死よりも恐ろしい未来が、その幼子に降りかかってしまう訳ですね…。」

「そりゃ、どういう意味だ?」

 イーロスはナメクジを軽く睨んだ。


「見捨てるかもしれない…だと?」

 ミイトは自分の妻からの信じられない言葉を聞いて憤りを隠せなかった。

「あくまで可能性の話よ…。」

 エストは、そんなミイトの顔を真っ直ぐ見る事ができずに呟く様に答えた。

「自分の娘の事だぞ?何を言ってるのか分かってるのか?」

「分かっているわよっ!」

 エストは溜まらずに叫んでしまった。

「でも!私は一人の子供の母親である前に、多くの国民を抱えている女王でもあるのよ?!自分の娘の命一つと多くの人々の命を比べられる訳ないじゃない!数多くの手を考えて、あらゆる可能性に手を伸ばす必要があるのよ!」

 エストは机を両の拳で叩いて喚いた。

 ここまで取り乱した彼女を見るのは、ミイトも始めてだったので怒りを忘れて戸惑ってしまう。

 エストは両の拳を机に付けて突っ伏したまま震える声で絞り出す様に呟く。

「なんで、よりによって今なのよ…?今、私達の何方かが欠けたら間違いなく、この国は破滅だわ…。」

 エストは呼吸を整える様に、ゆっくりと息を吐く。

「私ね…子供が出来たって分かった時は、不安だった…。でもパパやママみたいに強く成りたかったの…。無事に出産して母親になれた時は、嬉しかったよ…?強くなれる…強くなろうって思った…。だからガムシャラに頑張って、二人で羅刹を退却に追い込めるまでになって…やっと、自信が持てる様になって来ていたのに…。」

 エストの瞳は潤んでいたが、涙は流さなかった。

 ミイトは母親になってからの彼女が、泣いている所を見た事があまりない。

 きっと、自分なりの我慢をしているのだろうと思った。

「子供の事を考えると…母親になってからの私の方が弱くなったんじゃないのか?って、時々そう思えるの…。」

 ミイトは突っ伏したままのエストの髪を軽く撫でながら答える。

「俺だって今は、心臓を掴まれて心を掻き毟られている気分だよ。」

 ミイトは思い出すように語る。

「羅刹と闘って殺されかけた時にさ、ロクのゴーレムに助けられて帰りがけに娘が生まれたって聞いて、実感が湧かなかった…。医者の先生から聞いていた出産予定日はまだ先だったし、名前も考えていなかったから…。ロクに言われて後五分で考えなきゃならないって分かった時は、今すぐにゴーレムから降りて時間を稼ぎながら、ゆっくり名前を考えながら帰ろうか?と思ったよ…。」

 ミイトはエストの顎に触れて、ゆっくりと優しく顔を持ち上げた。

 エストの目を見ながら伝える。

「でもな…やっぱり早く帰りたかった…。嬉しかったし、早く子供とエストの顔を見て安心したかったんだ。結局、名前は後で二人で考える事になっちゃったけど、それも良い想い出だな…。」

 ミイトの想い出話にエストも、ようやく微笑みを返す。

「子供がいないままで、今後の対応がまともに出来る訳がない。こんな気持ちのままで成功も出来る訳がないだろう?先ず子供をイーロスの手から取り返す。それから皆を守るんだ。所詮それしか俺達に選択肢は無い…。」

 ミイトの言葉を聞いたエストは、真剣な顔で彼に尋ねる。

「もしも失敗したら…?」

「もしも、は無しだ。…でも、そうだな。もし取り返しの付かない罪をエストが被る事になるなら、俺も一緒に被るよ。共に死ぬまで背負ってやるよ。俺たちは、その為に結婚するって決めたんだからな…。」

 エストは眼鏡を外してミイトを見つめ返して答える。

「そうね…。結局…それしかないわね…。」

 二人は、しばらく黙っていたが最初に口を開いたのはミイトだった。

「…作戦は、あるんだろ?」

「あるわ…でも…。」

 しばらく言い淀んでいたエストだったが、立ち上がって机の上に座り直すとミイトに作戦の内容を語った。

 エストから作戦の内容を聞いたミイトは、彼女に感想を伝える。

「…なるほど。上手くいく為には絶対的な要素が一つ必要で、且つ不確定な要素が一つ絡んで来る事と、以前には失敗した方法だから、ちゃんと実行が出来るかどうかで悩んでいたんだな…?」

「そう…作戦中に例のナメクジに目的が途中でバレてしまうかもしれない、という不確定な要素が一つ…。絶対的な要素の方は、私が何とか出来ると思うけれどね…。でも、なにしろ以前に失敗して強烈なトラウマを自分で抱えちゃっている作戦なもんだから、必要以上に実行に移すのに勇気が要るのよ…。」

 エストは、そこまで話すと溜息をついた。

「私いつも、ここぞという所で運が無い気がする…。やっぱり魔王だから神様に嫌われちゃっているのかな…?」

「神様って言っても、帝国のとか教国のとか他の国とかにも色々いるけどな。」

 ミイトは笑ってエストを抱き寄せた。

「でもさ、サウムと出会ったのは運の無かった事か?」

「…違うわ。」

「俺と一緒になれた事は?」

「…絶対に違う。」

「子供が産まれた事はどうだ?」

「…違うに決まっているでしょ…。」

 エストはミイトの胸に手を置いてキスをした。

 唇を離された後でミイトは、微笑んで言う。

「…なら信じようぜ?お前は運が良い方だ。きっと神様に愛されている。頑張れば報われる筈さ…。」

「魔王なのに?」

「魔王だからこそさ。世界の主役は誰と誰だ?いつも魔王と勇者だろ?魔王が先に世界を支配していないと、勇者の出番は永遠に無いもんなんだよ…。世界を支配できるって事は、その世界の神様に愛されていたって証拠さ。」

 ミイトはエストに向けて片目を瞑ってみせた。

「私、別に世界を支配する気は無いんだけどなぁ…。」

 エストは苦笑いをした。

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