勇者が勇者見習いを諌めたワケ Ⅱ
エストは夕飯の支度をしてサウムの元に運んで行く。
見習いになってから家の中の家事全般は、ほとんどが彼女の仕事だった。
最初は、あれこれをサウムが教える必要があったが、今や炊事だけでなく掃除や洗濯すらも手馴れたものだった。
食事は普段なら楽しい二人の会話の時間だった。
だが、あれからサウムは無口になってしまった。
それでもエストは、微笑みを絶やさずにサウムに色々な事を毎日の様に報告しているのである。
今日は共和国の大統領宛に、エストの故郷から膨大な数のサウムへの助命嘆願書が届いた話をした。
フィレンがバドシから聞いた話の又聞きだ。
フィレンも彼女の兄も爺やも署名してくれたらしい。
エストは、その話を聞いた時に嬉しさの余りに瞳が潤んだ。
だが、その話を聞いたサウムの反応は、冷やかな物だった。
「死刑でいい…。どうせ皆、帝国に殺される。後で殺されるか、今殺されるかの違いだ…。」
「どうして?まだ神帝は生きている…。その間だけ羅刹は、彼の側を離れられない筈だわ?」
今日初めてサウムが、口を開いた話題だった。
せっかくの機会だと真摯に質問をするエストに、サウムは答える。
「今の教国の混乱を帝国の摂政が、見逃す筈がない。羅刹は動かなくとも数日中に、帝国軍は動くだろう…。君は早く故郷に戻って迎撃の…。」
そこまで言い掛けてサウムは、話すのを止めてしまった。
「いやいい…くだらない…。どうでもいい事だ…。」
サウムは食器をエストに返すと横になった。
「大丈夫よ。羅刹のいない帝国軍なんて私とミイトで追い払ってやるんだから。」
エストは努めて明るく振舞って言う。
もちろん本当は、自信など無くて半分冗談のつもりだった。
だがサウムは、突然に彼女の方を向いて激昂する。
「敵を舐めるなっ!そんなだから君は、失敗してストネをっ…!」
そこまで言い掛けてサウムは、また途中で話すのを止めてしまった。
エストは驚いた表情で固まってしまっている。
サウムは彼女に背を向けて再び横になった。
「…言わせないでくれ。」
エストに背を向けたままでサウムは、その呟きから続きを話してくれる。
「どのみち神帝の呪いは、魔帝のコントロールを失って進行している。仮に保ったとしても数ヶ月、長くても後二、三年の命だろう。そうなれば次の神帝は、彼の弟である強硬派の摂政だ。神帝の番犬という鎖の解き放たれた羅刹は、確実に教国や共和国に侵攻してくる…。それで終わりだ…。みんな死ぬ…。」
そんな先の恐怖よりも今、エストの心が揺さぶられたサウムの言葉は、ストネの件だった。
「…ゴメンなさい。後片付けをするね。」
エストは震える手で食器をお盆に載せて部屋から出ると、扉を力なく閉め台所へ向かう。
そして後片付けを始めるが、途中で我慢が出来なくなり口を抑え嗚咽を漏らすまいとしながら涙を流すのだった。
サウムは風呂から上がると苦労しながら身体を拭いて寝間着に着替えた。
魔力を失ったので魔法を使って自由に動かせる事の出来る義手義足は、ミスリル製どころか通常の試作品の物ですら付ける事は適わない。
しかし、エストが幾ら介助を申し出てもトイレと風呂に関してだけは、頑として自分でやると譲らなかった。
なんの変哲も無い木製の義足を左脚に固定された状態のまま、左手で松葉杖を使って自室に戻りベッドに横たわる。
エストが部屋を覗いて彼に向かって、お休みと声をかけるが横になったまま背中を向けて左手を挙げて挨拶をするだけだった。
声は元気だが、寂しそうな彼女の表情には気付かない。
やがてサウムは、眠りに落ちた。
サウムは寒さを感じて目を覚ましてしまう。
見ると自室の出入り口の扉が、少しだけ開いていた。
エストが閉めきれていなかったらしい。
起き上がって閉めようかと思った丁度その時に、台所で水を飲もうとしているエストが、視界に入って来た。
彼女は全裸に首からバスタオルを掛けただけの状態だった。
風呂上がりらしく、こちらに気付かないままコップを取って水を汲む。
少し屈んだせいで、お尻がサウムに丸見えの状態だった。
そのまま今度は腰に手を当てて背筋を伸ばして水を飲む。
後ろからでも分かる程に大きな乳房が、脇から腰にかけた間に膨らんでいるのが見てとれた。
サウムは目が離せなかった。
エストはコップを元の位置に戻すと、サウムに見られている事にも気付かずに脱衣所に戻っていった。
少しだけ衣擦れの音が聞こえる。
きっと寝間着に着替えているのだろう。
「あれっ?」
そんな声と同時にパタパタと、慌てる様にサウムの部屋へと近付く足音が聞こえてくる。
サウムは、ゆっくりと扉に背を向ける様に寝返りをうった。
やがて自室に静かに扉を閉める音が、小さく響いた。
エストは眠っていたところを何者かに馬乗りにされて目が覚めた。
迂闊だった。
サウムへの復讐を狙った襲撃者だろうか?
ここ最近、辛い事が多過ぎて疲れていたせいなのか深く眠り過ぎた。
エストは馬乗りしてきた相手を即座に確認しようとする。
月明かりが照らして、相手の顔が見てとれた。
それはサウムだった。
エストは驚いて尋ねる。
「サウム…どうしたの?」
サウムは、エストが考えもしなかった事を尋ねてくる。
「抱かせてくれ…いいだろう?」
エストは驚いた。
鼓動が早くなる。
明らかに彼女は狼狽えていた。
サウムは冷たくも真摯な眼差しでエストの答えを待っている。
何を悩む必要があるのだろう?
好きで堪らない相手だ。
喜んで当然の相手だ。
しかも、彼は今傷付いている。
愛していた相手を失って…。
自分のせいで喪ってしまって…。
自分が慰めるのは当然の話だろう。
でも…。
エストは答えの見つからないまま目を瞑ってしまう。
それが了解の意志だと受け取ったサウムは、彼女の服に手を掛けた。
半分ほど脱がされた後で、ゆっくりと左手で片側の胸を服の上から揉みしだかれた。
エストは抵抗せずに受け入れていた。
彼女の胸は、とても柔らかかった。
服がはだけて露わになった肌は、月明かりに照らされて、とても白く美しく見えた。
サウムは、今度はエストの顎を持って口づけをしようと顔を寄せる。
二人の唇が重なろうとしていた。
その時、エストの心に誰かの笑顔が浮かんでしまう。
「ミイト…。」
エストの口から出た名前を聞いたサウムは、ゆっくりと顔の位置を戻す。
エストは横を向いて涙を流していた。
サウムは問う。
「…いつからなんだ?」
「…分からない…いつの間にか…。」
エストは口に手をあてて、しゃくりあげていた。
サウムは彼女のベッドから降りると、松葉杖を取って部屋の出入り口の扉へと向かう。
「そんな断り方は、狡いだろう…?」
「ゴメンなさい…私、そんなつもりじゃ…。」
エストの言い訳を遮る様に、サウムは言う。
「これ以上、俺を惨めにしないでくれ…。」
それは絞り出す様な声だった。
サウムは廊下に出ると出入り口の扉を閉める前にエストに伝える。
「悪いが、この家から今すぐ出て行ってくれ…。自分の事は自分で何とかする…。これ以上、君の世話になりたくない…。」
それだけ言うと扉を閉めた。
エストはベッドの上で座りながら放心状態で泣いている。
いつの間にか月には雲がさしかかり始めて、部屋の中は暗く陰ってきていた。
ミイトがバドシとフィレンとで商会本部で会議というか今後についての相談をしてから、彼の自宅へと帰る道を歩く頃には既に深夜になっていた。
しかも雨が降ってしまっている。
フィレンから借りた傘型の召喚モンスターに雨を受けて貰いながらミイトは、右手で更にフィレンから貰った林檎を齧りながら歩いていた。
「あの娘は未だに浮遊術は使えないくせに、こういうのは得意だよなぁ…便利なもんだ…。」
ミイトは自分の頭の上に浮かんで離れない召喚モンスターを見上げながら呟いた。
「バドシも当てちゃったとはいえ良い許嫁が出来たもんだな。」
ミイトはフィレンが商会勤務になった経緯を粗方把握していた。
まだエストやサウムには話せる状態ではないので内緒にしている。
バドシにも内緒にしてくれと頼まれていた。
…大事な時期だろうに働かせて大丈夫なのかなぁ?…とミイトは思った。
「バドシはエストの事はもういいのかね?まぁ、他の娘とデキちゃったら良いも悪いも無いんだろうけどな…。」
ミイトは…自分はどうだろう?…と考える。
「許嫁か…。」
帰り道を進んで行く先に人影が見えた。
深夜なのに女性が一人だけで立っている。
かなりスタイルの良い女性だった。
「まぁ嫁にするなら、あれくらい巨乳が良いよな…やっぱり…。」
女性は寝間着のまま傘もささずに雨にうたれている様だった。
「幾らスタイル良くても頭がアレなのは、ちょっとなぁ…。まぁ見るだけにしとこう…。」
ミイトは女性が遠いのを良い事に好き勝手な独り言を呟きながらガン見し始める。
やがて、帰り道なので迂回せずに女性の近くに寄って行ってしまうと、顔がはっきりと見えてきた。
顔が判った瞬間に、ミイトは駆け出していた。
「エスト!お前こんな所で…そんな格好で何やってんだ?!風邪ひくぞ!」
ミイトは今迄の中で一番と言っていい位に驚いていたので、つい大声を張り上げてしまった。
しかし、エストの反応は薄い…。
「…ミイト?」
雨でよく分からないが、エストは泣いている様子だった。
目は虚ろで瞳に光がある様には見えない。
「…どうして、いつも一番いて欲しい時に側にいてくれるの?…だから私、貴方の事の方が…。」
エストは、ぼんやりとミイトを見ながら、そう呟いた。
力なく微笑みながら…。
「…何があった?」
ミイトの問いにエストは、ゆっくりと彼の胸に身体を預けて答える。
「…サウムが、私の事を抱きたいって…。好きな人に求められて嬉しい筈なのに…私…。」
「…あいつ!!」
ミイトは怒ってサウムの所へ向かおうとする。
エストは、ハッとした様にミイトを強く抱き締めて止めた。
「違うの!私、最初は受け入れたの!彼の事は今でも大好き!私が慰めないと…と思って。でも…でも!途中で…貴方の顔が浮かんで…。」
エストは、それ以上は何も言えなくなってしまった。
やがて、遅れて傘型のモンスターが彼等の頭上に到着する。
ミイトは指で彼女の頬を拭っても雫が取れない事が分かると、エストの目を見てはっきりと伝えた。
「俺も、お前の事が大好きだ!」
エストは一度だけ大きく目を見開くと、涙は流れるままに口を覆って目を細め嬉しそうに微笑んだ。
「ミイト…ありがとう…。私も貴方の事が好き…大好き…。」
エストは彼の首に強く抱きつき唇を重ねた。
ミイトは自分の右腕を大きく廻して、彼女の右肩を抱き寄せる。
長いキスの後に唇を離して、ミイトは言った。
「今日はもう、あいつの所になんて戻らなくていい…。今夜だけ…今夜だけは全部忘れて俺の所へ来るんだ。俺は困ってる、お前は…お前だけは放っておけない…。」
エストは頬を赤らめながらミイトの鼓動を感じる様に彼の胸に耳を当てつつ静かに頷いた。
今までの悲しみも、今の痛みも…決して無視する事なんて出来なかったし、これからも出来ないだろう。
エストは裸のままベッドの上でミイトに組み敷かれながら、そう想っていた。
でも、彼の胸の鼓動や彼の息遣いを感じているだけで、今は安心が得られる。
そうして全ての痛みも悲しみも、やがて想い出に変わってくれる。
そう信じたかった…。
いや…信じてみる事にした。
やがて、今の痛みから先に想い出に変わる感覚を得て、エストはミイトにさらに身を委ねた。
ミイトは何だか美味そうな匂いで目が覚めた。
すっかり晴れて眩い朝日が、寝室に射し込んでくる。
起き上がると全裸で…俺は昨夜、何をしてたっけ?…と記憶をほじくり返した。
「…お楽しみだったわ。」
馬鹿な事を言いつつ風呂場に行って残り湯を浴びると、身体を拭いて着替えて台所に向かう。
脱衣所の篭にはエストの寝間着が出されていたので…まさか?今は裸にエプロンの状態か?…と期待をしつつミイトは、台所への扉を開けた。
「おっはよー、ミイト!シャツを借りているね。」
ミイトはがっかりしたが、エストが自分の大きめのシャツをノーブラで着ている姿を見て…これは、これで…と思い直した。
取り留めのない内容の雑談をしながら、朝食は和やかに進んだ。
食後にエストの淹れたコーヒーを飲みながら、ミイトは尋ねる。
「今日は、どうするんだ?」
エストはカップを静かに置いて真っ直ぐな瞳でミイトを見て答える。
「…サウムに会いに行く。会って話し合う。」
ミイトは…何を?…とは訊かなかった。
「あの〜…それでミイトに、お願いがあるんだけど…?」
ミイトは嫌な予感がした。
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