ヴァーサス 神威と神威
絵里の手にはすでにバルザイの偃月刀が握られている。
「ふぅむ。ならばこうしようか」
ニャルラトホテプの手に、一振りの刀が出現する。刀身にうねる刃紋が、美しさと同時に凶暴さをかもし出していた。
「日本刀?」
神父服に似合わない装備に、絵里は首を傾げる。ニャルラトホテプは自らの演出が気に入ったように、刀を持ち上げ愉快げに喉を鳴らす。
「君の国に縁のあるものだろう。これはな、織田信長の名で活動していた時に使っていた刀だ」
織田信長がニャルラトホテプだったと聞かされても、たいして驚かなかった。日本史の授業で習った通りの人物なら、似ているところがあってむしろ納得してしまう。それよりも――
「そうやって人の歴史に割り込んできたんだ。織田信長が歴史的に重要な人だってことは知ってるよ。でもね……父さんと母さんを事故で死なせた人も、茂木さんもリムちゃんも、きっと戦国武将って呼ばれる人たちも、間違えることはあってもみんな必死で生きてた。それを弄んで、嘲笑って……人を! 想いを! バカにするな!」
絵里、べる、ニャルラトホテプ。三者、同時に動いた。
一瞬で最高速に乗った二人の剣士は、真正面から激突。冷たい宇宙に、鍔競る刀が熱い火花を散らす。至近距離で、猛る闘志を瞳の炎に乗せて交換した二人は、刀を押し合い間合いが離れる。
その瞬間を見計らい、べるのイメージが世界を書き換えた。神の使者へと裁きの雷が下る。怒涛の雷撃を、ニャルラトホテプは的を絞らせない軽妙な動きでかわし歌姫へと迫る。阻止するのは騎士たる少女。
絵里は上段から叩きつけるような一撃でニャルラトホテプを押し返すと、下段からバネ仕掛けめいた斬り上げ、さらに旋回斬り、そこから変化した三連突。止めどない連撃の一太刀一太刀が、理想的な威力、速度、タイミングで繰り出される。
バルザイの偃月刀は、太古の剣士バルザイが時空を超えて戦闘記録を収集するために作り上げた魔刀だ。染みこんだ戦闘の記録を現実へ引き出す時、それはどうしても理想からの乖離を起こす。だがバベルの使い手となった絵里は、イメージのままに世界を改変する。理想を、理想から損ねることなく世界に生み出す。完成された剣技は、芸術的とも言える美しい太刀筋でニャルラトホテプを攻める。
ニャルラトホテプは積極的に攻撃してはこなかった。楽しげに受け流しては、苛烈なカウンターを挟んでくる。絵里の精美な連撃の合間、ニャルラトホテプの腕が翻った。危うく刃に飛び込むところだった絵里は、体を半回転させ回避しつつ上へ逃れる。そこから慣性を無効化した動きで急降下の奇襲をかけ、さらに体ごと跳ね上げる鋭角の飛翔斬り。直上、直下からの見えない攻撃を、ニャルラトホテプは知っているかのような態度でかわし、伸びきった少女の脚へ刀を走らせる。
星光を鮮やかに照り返す日本刀と、急旋回したバルザイの偃月刀が激突。真っ赤な火花を散らせる。
「世界改変者同士の戦いは、つまるところ、より強く明確に相手を滅ぼす意思を持ったほうが勝つ。武器を握っているのは、己の意思を乗せやすいからにすぎない」
「だったらなんなの!」
偉そうに講釈するニャルラトホテプへ、瞬速の一刀。それはニャルラトホテプの左腕を斬り飛ばし、鮮やかな血をしぶかせた。あっさり攻撃が通り驚く絵里の目の前で、唐突に左腕が再生する。ニャルラトホテプは両手で刀を握り直し、腕を引き絞って突きの構えを取った。
「あっ……」
絵里は愕然とした顔でゆっくりと下を向く。腹部を、日本刀が貫いていた。無重力で丸くなった血のしずくが、絵里の顔に跳ねる。
熱さと寒さが同時に暴れ回る感覚の中、絵里はニャルラトホテプの動きを思い出す。構えを取った次の瞬間にはもう刺されていた。過程を省略して、結果だけが生まれたとしか思えない。絵里もこれまでワープじみたことはしたが、ニャルラトホテプはイメージをさらに拡張していた。
「君は今、自分の不利を認識しただろう」
日本刀が、さらに深く絵里の腹にねじ込まれる。
「が、はっ……」
血を吐く絵里へ、神の使者は薄笑いを向ける。そこへ吹雪の剣が振り下ろされた。
ナランラシュトラをコピーしたべるの顔は、麗しい歌姫からかけ離れた憤怒一色に塗りつぶされていた。アメジスト色の瞳に光る意思は、煮えたぎった形相とは裏腹に寒々としたもので、一層に強い感情を表している。
白銀にきらめく暴威がニャルラトホテプの頭頂に触れる寸前、剣士二人の姿が消える。
ニャルラトホテプが突進し、絵里も押される形だったが、その突進速度は超光速に達していた。太陽系を駆け抜け、一個の流星となって星の海を走り続け、未知の惑星に突入した。
痛みで歪む絵里の視界に、ニャルラトホテプの笑みと奇妙な緑色の空が映っている。一瞬後には、未知の星の大地に激突する。宇宙空間での活動を概念的に守ってくれる黄金の蜂蜜酒の飴の効果も墜落のダメージまでは消してくれない。
「絵里っ!」
べるの悲痛な叫びは、距離を隔てていても絵里の頭に届いた。声と同時に、べるの想いが流れ込んでくる。
「死ねない、でしょ」
ニャルラトホテプを倒す理由なら、山のようにある。でも、庵野絵里が生きる理由は一つ。大事なパートナーが呼んでいるなら、それは世界の摂理を改変して、超光速で迫る死の運命から命を拾うに十分だった。
墜落。
極大の衝撃で、未開惑星の空にキノコ雲が生まれた。
大気は断末魔の絶叫を上げ、大地は気が触れたように暴れ回る。地平線の果てまで広がる焦土の中心に、地殻まで達するクレーターがうがたれていた。深く巨大なすり鉢の底で、ニャルラトホテプが地面から日本刀を引き抜き、ゆっくりと顔を上げる。
雨が降り出していた。さっきまで原生林だった焦土から塵や水蒸気が巻き上がって雲となり、荒れ続ける大気に引かれて地表に注がれる。
風雨の中、クレーターの縁に絵里は立っていた。串刺しのくびきから、バベルの力で空間転移を果たした絵里の腹にはもう傷跡はなかった。
「あなたのほうが、バベルの扱いは上手いね」
「敗北を認めるか?」
静かに告げる絵里と、嘲りにやや失望を乗せて笑うニャルラトホテプ。クレーターの縁と底、離れすぎて見えも聞こえもしないはずの様子を、両者はバベルの力で認識していた。
「まっさかぁ。これまでだって自分より大きい敵、強い相手に勝ってきたよ」
「確かにそうだが、私はこれまでの相手とは違う。君はこう言いたいのだろう、パートナーのために勝つと。だが、私はそんな奇跡を超越している」
「その超越を、もういっちょひっくり返すからおもしろいんだよっ。べるちゃん!」
ニャルラトホテプの足元から赤い光が射した。直後、クレーターの底から天高くマグマが噴き上がる。マグマは空高くで鋭く角度を変えると、遠く離脱していたニャルラトホテプへ驀進する。
灼熱の魔弾の射手は、空間を飛び越え追いついたべるだ。空中に静止し、風雨に銀髪をなびかせ戦場を見渡す様は戦女神の風格を備えていた。
べるが指揮するように腕を一振りすると、マグマから幾筋もの支流が生まれる。マグマは多弾頭ミサイルめいた軌道で、逃げるニャルラトホテプを猛追。連続で大地に刺さった灼熱の奔流が、轟音とともに岩石を撒き散らす。
赤熱した岩石弾をニャルラトホテプがバックステップでかわした。その隣にはすでに、絵里が出現していた。
バベルによる空間転移が「ここ」と「そこ」を繋いで移動するように、攻撃の始まりと終わりを強くイメージして、「攻撃が終わっているから当たっている」と因果が逆転した事象を世界に書き込む。ニャルラトホテプがやって見せた、ありえない攻撃のカラクリはきっとこれだ。バベルは無限の可能性を実現させる神の力。不本意だけれど、ニャルラトホテプと戦うことでやっとその本質をつかめた。
雨粒を斬り裂きバルザイの偃月刀が閃いた。ニャルラトホテプは日本刀をかざして受け止めるも、衝撃で大きく吹っ飛ぶ。
ニャルラトホテプは絵里の攻撃を、「ありえない」ものとイメージして防いだ。世界改変者同士の戦いは、相手の「ありえる」をより強い「ありえない」で打ち消しながらの戦いになる。因果も摂理も振り切った理不尽のぶつけ合いだ。
絵里はニャルラトホテプを追わずに、その場で大きく一歩踏み込み腰を低く落とす。振りかぶった偃月刀目掛けて、一筋のマグマが降り来た。マグマはべるのコントロール通り刀身に絡みつき、長大な業火の刃を形成。十分距離が離れていたはずのニャルラトホテプへ、灼熱の断罪が下った。
今度こそニャルラトホテプの左腕を斬り飛ばした。絵里はゆっくり息を吐き、武器を構え直す。
「そうこなくてはな」
ニャルラトホテプの顔が深い笑みに歪む。神父服ごとすぐに再生した左手が、日本刀の柄に添えられた。
「あえて言うよ。私たちが勝つ」
強いイメージを言葉にして宣言することで、世界に刻み込む。それが力になる。
絵里の隣に、べるが降り立った。二人は視線を絡ませ、小さく微笑みを交わす。想いを交換し胸の暖かさを感じつつも、なんだか嫌な予感がした。
「これまでの勝利は、奇跡ではなく愛です。敗北する理由はありません」
「ちょぉおおっ! なに言ってるのべるちゃん!?」
「事実です」
絵里のツッコミ涼しげに流すべるの眉と頬はやや持ち上がっている。ささやかだが、これはべるのドヤ顔なのだろう。
「あなたがべるちゃんの生みの親のようなものでしょ! 娘さんの性格に問題があるんですけど!」
「愉快な性格じゃないか。むしろバベルに達し、愛を語るまでに成長したことを嬉しく思う」
父親らしいことを言ってはいるが、うっすらした笑みが台無しにしていた。親子二人がかりでからかわれているようで、絵里の顔が渋くなる。
「この親にしてこの子ありだよ」
「そんなのを伴侶に選んだのは君だろう、庵野絵里」
「は、伴侶って……」
「絵里、違うのですか?」
「違わないよっ、わかるでしょ!」
バベルによって、常に互いの思考が還流している状態では口先のごまかしなんて利かない。
「ふぅむ。テレパシーを完全に会得したか。相当に世界を深く理解しているな」
ニャルラトホテプの瞳に、企みを転がす色が浮かぶ。構えた日本刀が、雨筋をしたたらせ剣呑に光った。
「君たちに問おう」
神の使者の姿が消失。
同時、絵里はバルザイの偃月刀を思い切り振り抜いた。直観すら超える、未来予知めいたものに従った一撃。それは、現出したニャルラトホテプの日本刀と重く噛み合い、火花と金属音を飛び散らせた。
「世界意思の代弁者たる私と敵対しながらも、世界を理解し愛を語りさえもする。この矛盾どう説明する?」
絵里は一瞬だけ刃を引き、隙とも言えないわずかの事象を改変して、ありえない角度での突きを繰り出す。
「説明なんかないよ! 憎しみも愛情も全部私! 矛盾しないっ」
べるが空へと手を伸ばすと雨が止んだ。雨雲が渦を巻いて数カ所へと集うと、凝結した雨粒は高硬度の砲弾となって降り注ぐ。
「弑逆こそが愛の証であるがゆえに」
後退したニャルラトホテプは、ひらりと舞ったかと思うと世界から消えた。奇襲のためではない。何らかの意図を持ったニャルラトホテプに追ってくるよう促されていた。
「行こう!」
「はい」
全時空の中から、ニャルラトホテプの存在する座標を感知し、絵里とべるは転移する。
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