5章 世界は音楽でできている
ユニヴァース 終幕と反逆
澄んだ歌声が茜空に抜ける。
深いギターの音が赤く染まる草原に響く。
二つの音は溶け合い、絵里とべるしかいない夕方の公園を満たしていた。
タイムリミットは明日の正午。一晩ぐっすり眠ることも考えたけれど、砕けた小惑星の欠片が落ちれば大惨事だとべるの指摘を受け、少しでも地球から離れたところで迎え撃つ方針に決めた。
絵里が仮眠している間に、ギターは完璧に修繕されていた。べるが作ったサンドイッチを食べながら、動画サイトのランキングを見てセッションする曲を選ぶ。砂糖まみれのラブソングと、少し切ない青春ソング、どちらも簡単で譜面もネット上にあったし、今の気分にあった曲だった。必要な装備と情報を揃え、HPLによって封鎖された公園に着いた時には夕方になっていた。
絵里の手はブランクなどないように自然に動く。両親が力を貸してくれているなんて思うのは幻想がすぎるだろうか。共に練習した日々がこの手に刻み込まれているのは間違いない。
絵里と目が合ったべるは、にこりと本当に嬉しそうに微笑む。べるのアメジスト色の瞳に映る絵里も笑っていた。音に包まれ、音に満たされている。音楽とはこんなに幸せなものだったと改めて知った気分だ。
指先に庵野絵里の全存在を乗せて爪弾く。それは弦を通し、ピックアップを伝い、シールドコードを走って、アンプに達する。一連の電気信号は血の流れのようで、楽器を体の器官のように感じるのは、ほとんど快楽に近い。
絵里とべるが奏でる音は溶け合い、分かたれることなくそれぞれの体に響く。曲は二人の想いを吸い上げ増幅させ、ぶつけ合うように混じり合わせる。溶け合った音に、それぞれの魂が共鳴している。
最高の演奏で規定曲をクリアし、フリーセッションに入る。絵里が鳴らす音にべるが応え、べるが新たなテーマを投げかけると、絵里は変則リフで打ち返す。勝負のような、愛撫のような音の交わり。
黄昏の光を受けて歌うべるは信じられないほどに美しかった。風にさらわれた長い銀髪に赤光が絡まり、神秘をたたえる歌姫を彩る。思わず見とれミスをした絵里へと、べるはいたずらっぽく笑う。熱くなった絵里のほほを、草の匂いを含んだ風が冷ましていく。
二人のための世界。
この瞬間、太陽も風も大地も全ては二人のためにあり、二人の鳴らす音が全てと共鳴していた。
絵里は足踏みでリズムを刻み、転調の合図を送る。べるがうなずいたのを確認して、バイアクヘーの召喚の曲へ繋がるイントロを即興で鳴らした。あとを継いだべるが魔術の詠唱を始める。
その間に絵里はギターを置き、ヒップホルスターに装備した極害ナランラシュトラの固定を確認。問題なし。ポケットに入れていたビンの蓋を開け、黄金の蜂蜜酒の飴を噛み砕いて飲み込む。甘い後味を口の中で転がしながら、禍哭タモトゥトを手に取る。やがて茜空の彼方から怪物が姿を見せた。
アリの体にコウモリの翼が生えたような異形の影が草原に落ちる。ゆっくりと翼をはためかせながら舞い降りたバイアクヘーは、甲高い声で一つ鳴いた。
絵里は大きな背に飛び乗り、べるに手を差し出す。
「行こっ」
「はい」
べるも同じように黄金の蜂蜜酒の飴を飲み込み、絵里の手を取った。
「お姫様をエスコートする騎士みたいでちょっといいね。乗ってるのは、白馬じゃなくてキモカワ生物だけど」
べるを引き上げた手で、バイアクヘーの背にしがみつく。ふと、べるの声がして絵里は振り返った。
「いいよ。しっかり掴まってて」
「えっ?」
きょとんとしているべるに、絵里も首をかしげる。
「べるちゃん今……私に掴まりたいって思った……よね? でも口には出してないよね……」
「バベルの片鱗ですね。テレパシーが発動しているようです」
「自動で筒抜けってこと!? うっわぁ恥ずかしいな」
「絵里に全てを知られても、私は構いませんよ」
べるの細い腕が、腰に回される。背中に顔をぴったりつけたべるは、くすりと笑う。
「心拍数が上昇しているようですね。頭部表面の温度上昇も感知しましたが、どうかしましたか?」
「それわかってて言ってるでしょ! もう、べるちゃんちょっとSっけあるよね」
「父親譲りかもしれませんね」
べるの口調はさらりとしていた。際どいが、ニャルラトホテプと対決したべると、過去を引き受けた絵里の間でなら、冗談として通じるものだった。
「お父さんに抗議しないとだね!」
「ふふふ。戯れはともかく、この力は宇宙空間での意思疎通に役立ちます。真空では音が伝わりませんから」
「これで安心だね」
絵里は心の中だけで語り、べるに確かめる目線を送る。
「絵里の声が、私の中に響いています」
「そういうの恥ずかしいだってば!」
思わず口に出して叫んでしまう。心の中であふれる嬉しさも、幸せも伝わってしまうのだから、あまり意味のないツッコミだ。
「そろそろいい時間かな」
「規定時刻までわずかです。カウントダウン開始します」
「うん。あなたも準備よろしくね」
絵里はバイアクヘーの頭を撫でると、それに応え腰部がかすかに振動を始める。フーンと呼ばれる腰部に備わった器官により、発生させた特殊な磁気が空間に干渉し、星間生物の超光速飛行を実現させる。
目標とする小惑星は十kmもの大きさだが、宇宙の広大さからすれば砂粒にも満たない。正確な時刻に出発し、正確な軌道で進まなければ、すれ違うことさえかなわない。仮眠のあと、HPLのスタッフから知識を教え込まれた絵里は、バイアクヘーに正しい指示を下せるようになっていた。
「目標! 土星の衛星プロメテウス!」
「三、二、一――」
「――行こう!」
バイアクヘーがひときわ高く鳴き、その声ははるか地上に置き去りにされた。音速をゆうに超える速度で飛び立ったバイアクヘーは、すでに超光速に突入している。
「……すっごい」
刹那の後、二人は宇宙にいた。無辺にして無限の暗黒。ぽつりぽつりと散らばる星の光たちは、超光速飛行の歪んだ空間のため点ではなく線としか認識できない。果てしない闇を、己の存在を主張するかのように星々の光が切り裂いて走っていく。
「本当に宇宙来ちゃったんだ! すごいねっべるちゃん」
振り返った絵里は、星々の光を浴びるパートナーの美しさに言葉を失った。どこかうっとりとした表情をしているべるの通った鼻筋や可憐な唇を、光芒が駆け抜けていく。
「……どうかしたの?」
なんとか息を飲み下し、絵里は問う。
「宇宙空間にある大量の情報を処理しています。私に搭載されている程度のセンサーと分解能では、処理し切れないのが実情ですが、驚きに満ちています」
「私はただ綺麗だなって思うだけだけど、べるちゃんは私とは違うものを感じてるんだね」
「天体は多様な波長の電磁波を放ち、その合間を太陽風が抜けていく……そんな感触です」
「太陽から風が吹いてるんだ?」
「太陽から放出されるプラズマ化したガスをそう呼んでいるのです。太陽風は太陽系全体に吹き渡り、言うなれば……太陽系の通奏低音です。そこへ星々の歌が重なり大合唱となっています」
「……違うなんて言っちゃったから、わかりやすく言い換えてくれた?」
「絵里と感覚を共有したい私のわがままです」
「ううん。ありがとう。素敵な考えだって思うな。宇宙で音波は伝わらないけど、音楽はあるんだよ。世界は音で満ちてる……」
意識が澄み渡っていく。内なる魂の鼓動と、世界の音が共鳴する。光を超えた視覚、音ではない合唱、感覚は凪いだままで煮えたぎる。
宇宙に身を浸す二人の魂から、同時に、自然と言葉が生まれた。
「「バベル」」
絵里の視界が拓けた。飛来するいびつな楕円形の小惑星が見える。人間の目で捉えられるはずのない十数光年先の光景を知覚していた。
「べるちゃんっ」
「見えています。小惑星との接触まで間がありませんので、急ぎ戦術の最終確認を行います。まず、バベルは無限の可能性を実現させる神の力ですが、扱う私たちの側には限界があります。戦闘中に、世界を変える強い意思をまったく突飛な発想に注ぐのは困難でしょう、そのため、既知の戦力の引き上げにバベルを利用していきます。絵里は禍哭タモトゥトと極害ナランラシュトラで、私は魔術によって小惑星を攻撃、破壊します」
「オッケー!」
ヒップホルスターから吹雪の剣の柄を右手で引き抜き、左手に持った洗脳の杖を握り直す。
「注意すべきは、徹底的に破壊することです。HPLが破片の迎撃を各国軍に要請していますが、迎撃システムは万全からほど遠いものです」
「あんな大きいのをバラバラにしなくちゃなのか。大変だぁ」
言葉とは逆に、絵里は不敵に笑っていた。
「よっし。そろそろ――」
前触れ無く、バイアクヘーが暴れ始めた。
「どうしたのっ!?」
「小惑星のほうへ意識を向けてください」
こちらと小惑星の間に、宇宙の暗黒とは質感の異なる、全身漆黒の怪物が感じられた。尻尾を振り、太陽風に乗るかのように翼を打って怪物はこちらへ突撃してくる。
「異界にうじゃうじゃいたアイツ!」
「ナイトゴーントですね。ニャルラトホテプが遣わせたと考えていいでしょう。バイアクヘーは戦闘の気配に怯えているのでは」
「そりゃ、あれだけいればねぇ」
宇宙空間に展開するナイトゴーントの数は絵里の知覚した範囲で約四万。宇宙にそびえる巨大な壁だ。
「うわぁっとと……この子とはここまでだね」
暴れるバイアクヘーから、二人はタイミングを合わせるまでもなく同時に飛び降りた。着地の動作を明確にイメージし、世界と自分を、そのように在らせる。動作完了と同時に、イメージを浮遊へと切り替える。絵里の体は、慣性に流されたり制御を失うことなく、宇宙においてしっかりとコントロールされていた。隣では、べるも同じように宇宙に浮かんでいる。
「ありがとー! 早く逃げてね!」
絵里が大きく手を振ると、バイアクヘーは宇宙の彼方へ飛び去っていった。
「よっし、始めよっか」
「魔術構成を開始します」
行く手を阻む敵が四万増えた程度で、負ける気はしない。自分とパートナーを信じ、またパートナーも同し想いを持っていると確信する。心が共鳴し、還流し、増幅していく。
「力を貸して……ナランラシュトラ!」
絵里が右手に持った吹雪の剣を思い切り振り抜く。発生した長大な吹雪が、数千万キロメートル先の敵の群れを突き破り、小惑星に到達する。横一文字に走った吹雪は、漆黒の怪物と岩盤を食い破っていく。
吹雪の実態は、冷気を発する小さな虫の群体だ。それを荒風によって統御し、対象を凍結、粉砕する極害の生体兵器。真空に近い宇宙で吹雪など存在しようもないが、バベルは世界を作り変える。
べるが、すっと敵方向を指差した。宇宙の暗黒に一層映える白い手の先へと、細い雨が走っていく。シィホー・カの嘆きで呼び出された雨が、漂う氷塊に触れた瞬間、氷塊から爆発的な炎が上がる。だが雨が再び炎に触れると、一瞬で鎮火されまた氷塊が生み出される。急激な熱の転移を起こす魔術は対象を脆く崩し、怪物の肉体はもちろん、小惑星の岩盤をも深くうがっていく。絶え間なく爆発と氷結が繚乱し、闇を鮮やかに染め抜いた。
数千の敵を葬ったが、押し寄せる大軍隊の勢いは衰えない。広大な宇宙空間を活かし、包み込むように全方位から押し寄せてくる。
絵里は左手の杖を一回転させ、正面へと差し向ける。
「出番だよ……タモトゥト!」
杖の先端が、ねじれながらめくれ上がっていく。内蔵されている生物の口がむき出しになり、花弁のような六枚の舌がのたくる。
杖内部の喉が震え、禍を哭き散らす洗脳波が放たれた。狂ったナイトゴーントの群れは、鋭い鉤爪を持つ腕を仲間の腹へねじ込み百八十度の方向転換。もろともに小惑星へと突っ込んでいく。
小惑星の正面に黒い腫瘍が出現していた。ギルンゾゥプの呪詛によって生まれた腫瘍は、岩盤を高性能爆薬へと置換したものだ。
小惑星のあちこちにある腫瘍へと、ナイトゴーントたちが激突していく。衝撃で点火した爆薬は、ナイトゴーントを焼き尽くし岩盤を打ち砕く。酸素のない宇宙ではすぐに果てる炎が、道連れを求めるように周囲の爆薬を巻き込む。誘爆はさらなる誘爆を呼び、小惑星はあっという間に炎の星と化した。
爆砕され飛び散った破片は、小惑星の重量を振り切り前方のナイトゴーントを肉片に変えて、飛来してくる。絵里はナランラシュトラで破片をさらに粉砕しつつも眉をひそめた。
「あんまり壊れてないねぇ」
鎮火した小惑星は一回りほど小さくなっていた。ところどころに深く巨大なクレーターが生まれてはいても、崩壊までは遠そうだ。
「もう破片に接触してしまうような距離です。一度下がって、少しずつ削っていきましょう」
「このペースだと、地球に落ちる前に壊し切れないと思う。もっと思いっ切りやらないと」
氷結と炎上、敵を排除しつつの爆破。ここまでは完璧な連携だった。でも足りない。茂木とリムは、バベルの使い手ならこの武器の真の力を引き出せると言っていた。
「やってみたいことがあるんだ。ちょっと任せていいかな」
べるは、凛々しさの中に嬉しさが混じった笑みを浮かべる。
「普段とは逆で、私が騎士の役ですね。引き受けました」
前へ伸ばしたべるの両手の間に、暗黒の球体が生まれた。見る間に肥大化した球体は光すら飲み込んで、宇宙の暗黒の中のさらなる闇となり爆進。ポルポポンの逆さ胃袋は敵集団を喰らい、そのまま一直線で小惑星に風中を空けた。続く怒涛の雷撃が、闇をまばゆく染めながら回り込み接近していたナイトゴーントたちを殲滅していく。
べるの活躍をずっと見ていたいと思いつつも、絵里は目を閉じ意識を極害ナランラシュトラへ集中させた。庵野絵里とナランラシュトラを共鳴させ、深く潜っていく。
……ナランラシュトラ、それは遠い星にそびえる巨山。雲を超え天を衝く霊峰の名。
……白銀に輝く巨山は、永遠の吹雪に包まれあらゆる生物を拒む。
……高度な知性を持つ全身がウロコに覆われた軟体生物は、彼の山を霊地と崇め祈祷の儀式のため吹雪を封じた道具を作った。
……道具は星の海を超えた旅の果て、今ここに故郷の記憶を呼び起こされた。
目を開いた絵里の前には、これまでの比ではない巨大な吹雪が荒れ狂っていた。吹雪の中でぼんやりした巨山の影が生まれている。
絵里は冷たい風に吹かれながらも目を閉じず、眼前の景色と遠い星の景色を重ねていく。絵里のイメージの高まりに応じて、影は加速的に形を整え、厚みと重みを増し、ついに峨々たる霊峰ナランラシュトラの大偉容が顕現した。
「いっけえー!」
太陽系最大の矢じりとなったナランラシュトラは、ナイトゴーントたちを塵芥と散らして、小惑星へ飛翔する。山頂部が超々音速で岩盤に衝突、大穴をうがった。巨山が穴を強引に押し広げ、吹雪が岩盤を内部から蹂躙する。
凶悪な掘削攻撃によって、ダメージの累積した箇所が内側から爆裂。縦横に亀裂が走り、細片と霧雪を血しぶきめいて噴き出す。ナランラシュトラの巨体が小惑星の中心部まで穿孔すると、ついに、人類に滅亡をもたらすはずだった星は終焉の時を迎えた。
莫大な粉塵を撒き散らし、大小無数に砕けた破片があらゆる方向へ飛び散っていく。まだ十分危険な大きさの破片が、こちらへ、つまり地球へ向かっていくつも飛んで来る。
絵里は、高い集中を保ったまま共鳴対象をタモトゥトへ切り替える。
……タモトゥト、極彩色の羽毛を持つ一本足の魔鳥の名
……二対四枚の大きな翼は悠然と空を飛ぶためだけにあり、決して獲物を追うためには用いられない。
……ただのひと鳴きで、強靭なくちばしへと獲物は自らを差し出し、時には空間に暗示をかけ閉じ込めた獲物の絶望を愉しむ。
……残酷な狩猟者の喉は、万象を支配する。
絵里は禍哭タモトゥトを振りかざした。飛来する破片の進路上の空間が歪み、軌道を曲げられた破片が別の破片と衝突。小さくなった破片はさらに方向転換を強制され飛んで行く。
連鎖的に破片と破片が衝突し、宇宙空間は絵里の支配する広大なビリヤードテーブルになっていた。火花と粉塵で自らの滅びの花道を飾り、小惑星の残骸たちは宇宙の暗闇へと散っていった。
絵里がタモトゥトを降ろすと、力尽きたように黒の杖は崩れる。気づけば、手に小さな欠片を残してナランラシュトラも崩れ去っていた。
「やばっ! リムちゃんに怒られちゃうよ!」
「バベルの足がかりとしたため負荷に耐えられなかったのでしょう。限界を超えた力を発揮したと言えば、彼女も怒りはしないはずです」
「だといいんだけど……」
小惑星の残骸たちは、無数の流星となって飛びすぎていく。
「これだけ小さく砕けば害はありません。お疲れ様でした」
全ての試練をクリアした。
「べるちゃん、私がなに考えてるかわかるよね」
自動テレパシーによってパートナーの思考を完全に理解したうえで、なお、べるは信じられないと首を振った。
「いえ……その、わかりますが……」
「地球は救ったけど、それだけじゃ意味ない。本当にやらなくちゃいけないのはこの先だよ。今の私たちはこれまでとは違う。今なら、できるんだよ」
短いようで長かった戦い、その全てはこの時を掴み取るためにあったと今なら思える。
「自分の運命を決められる瞬間があるなら、それはきっと今。私と一緒に来て、べるちゃん」
絵里の言葉に乗る魂の熱波に打たれたように、べるはぞくりと身を震わせた。きらめく流星の雨よりも、庵野絵里という人間が眩しそうに目を細める。
「あなたはとても尊く、正しい」
べるは大切なパートナーへと力強くうなずき、微笑みかけた。
「庵野絵里と、どこまでもともに行くと改めて誓います」
「ありがとっ!」
絵里は満面の笑みでパートナーへぎゅっと抱きつきくるりと回ってから、虚空を睨んだ。。
「さあ! 見てたんでしょ、ニャルラトホテプ!」
「素晴らしい結末だった」
声とともに空間がねじ曲がる。口を開けた虚空から現れ出たのは、長身の男だった。
浅黒い肌と乱雑に跳ねた長髪から野性味を漂わせるが、同時に、神父服を隙なく着こなし、静穏な佇まいからは理性も強く感じさせる。
野生と理性、正気と狂気を併せ持つ混沌の体現者にして神の使者、世界の全てを舞台とする究極の演出家、ニャルラトホテプの来臨だった。
「神の理をもって、不可能をねじ伏せる。被造物の身にあるまじき暴挙に我が主もお喜びだろう」
破綻した論理を、晴れやかに語るニャルラトホテプはどうかしているし、この世界は狂っている。それでも、だからこそ、やることがある。
「試練は全部クリアした。でも、まだ終わりじゃないよ」
「ほう?」
「この世界は神様の妄想の中で、あなたは世界が滅びないように必死でがんばってるんだよね」
「ずいぶんと物分りがよくなったな。君も立派なバベルの担い手だ」
「でもあなたのやり方は全然認められない、というかムカつく」
「前言撤回だな」
感心した様子から一転、ニャルラトホテプは皮肉げに唇を曲げる。
「だからね、とびっきりのアイデアを教えてあげる。神様がすごく喜ぶやつ」
「興味深い。聞かせてくれたまえ」
絵里は会心の不敵な笑みで叫ぶ。
「それはあなたを倒すこと! 役者が演出家をぶっ飛ばすなんてありえないことこそ、あなた好みで神様好みの、最高のクライマックス!」
ニャルラトホテプは、口を大きく開け宇宙開闢以来決してしなかったような間抜け極まる顔で呆然としていた。
「あの、もしもーし?」
「くっ……はーっはっははははははははは! はははははははははは! そぉぉぉうだ! 君のような狂人を待っていたのだ。脚本を飛び出し、舞台の枠を破壊する愚か者をだ!」
爛々と双眸を輝かせ、溢れる愉悦でニャルラトホテプの顔は引きつっていた。
「挑戦を許そう! 最高のクライマックスをともに作り上げよう!」
ニャルラトホテプは、両の腕を大きく広げて絶叫する。
「庵野絵里!」
「決着つけるよ」
威勢よく腕を振り、胸を張り、少女は堂々たる態度で神の使者を睨む。
「青葉べる!」
「弑逆奉ります」
丁寧に腰を折り、敬意を示しながらも歌姫の身に宿る闘志に曇りはなかった。
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