デスティニー 約束と命脈

 相手の闘志の高まりに呼応するように、絵里もバルザイの偃月刀を構えた。全身のすみずみまで意識を行き渡らせると、細胞のひとつひとつが声なき歌を歌い始めるのが感じられた。体を満たす合唱の指揮者は、心臓の音。それは、魂を源泉とする原初の鼓動。世界と溶け合い、共鳴する言語。

 ひび割れたコンクリートの隙間を抜ける風の歌声、赤紫色の苔が胞子で交わすささやき、リムの肌の下を流れる血液のせせらぎ――世界。

 リムはコンクリートを蹴りつけ、低い姿勢で突進してくる。ナイフを握った右手は前に、左手には、どこかに隠し持っていたらしい円筒状のものが握られていた。それは刃のない、剣の柄だけの物体に見えた。

 絵里の脳内で最大級の警鐘が鳴る。ナイフの間合いまであと五歩はあるが、ここで左手を見せたということは、すでにあの武器の間合いに入っていると考えるべきだ。存在を匂わせもせず、永呪極点が切り札のような口振りすら前振り。これがリムの真の切り札!

 進むか、退くか。そう考えた瞬間、絵里の背筋を悪寒が貫いた。

 リムとの会話をまとめると、庵野絵里以外の人間を殺すことが、庵野絵里にとって無意味かどうか試す、という趣旨になる。絵里がべるをとても大切に想っているぐらいのことは、リムだって気づいている。

 あの武器の攻撃範囲はわからない。ただ、後ろにいるべるまで届くほどに長いと確信した。

 もう退けない。進んで、初手で終わらせる。

 一歩踏み込んだ絵里を、凍える烈風が叩いた。発生源はリムの持つ武器。ゆるく下段に構えた円筒状の先端からは白く輝く風が噴き出し、その直線上の大地をえぐり、細氷を撒き散らしている。

 指向性を持った吹雪を刀身にした武器だ。その吹雪の強すぎる威力が、余波となってこちらまで届いている。あまりに危険だ。

 絵里は、自らを疾く駆ける風とし接近。だがリムが腕を動かすと、轟々と唸りを上げる吹雪はあっという間に迫る。間に合わない。なにか突破口はないかと吹雪を見て、絵里は自分の目を疑った。

 絵里の知覚は超高度の集中で世界の有様を直覚できるレベルに達している。だから、指向性を持った風の中で舞っている氷の正体が米粒大の虫であることに気づいてしまった。冷気を放つ虫が何千何万とうごめいている。あの剣の柄は、虫を囲い、働かせる役割も持っているのだろう。改めて大地に刻まれた跡を見れば、吹雪に削られただけでなく、無数の細かい噛み傷が存在していた。

 極限の集中で引き伸ばされた時間感覚の中、悟る。すでに回避は不可能。吹雪の剣の実態は微小な生き物の群体のため、偃月刀での防御も無意味。あと一秒後には、庵野絵里と青葉べるは氷漬けにされながら虫に食い散らかされ無残に死ぬ。

 それでも、間に合わないものを間に合わせるには、もう速さの領域にはいられない。茂木との戦いの最後で使ったあの不思議な力、今度は自分の意思で発動させる。速く動くんじゃない。「ここ」に在る庵野絵里という存在を、「そこ」に在るよう、世界を! 変える!

 リムの前に忽然と絵里が出現し、勝負は決した。リムの首の皮から薄氷だけの隙間を空けたところで偃月刀が止まっていた。弾き飛ばされた剣の柄は吹雪を放出したまま宙を舞い、遠く離れた施設の最上階から一階までを、氷結、粉砕したところで効力を失った。

「私の勝ちだよ」

 施設が崩れる音が響く中、剣の柄が落ちて小さな音を立てる。それが合図になったように、リムは引きつった口を動かす。

「なにが……起こった……?」

「私のほうが強いってことだよ。さっきの話、受けてくれるよね」

「説明しろ。一回きりの奇跡なら、強さとは認めない」

「……えっと、世界を感じて、世界を作り変える……みたいな? いやいや待って、待ってよ。魂にはリズムとメロディがあって、世界にもリズムとメロディがあって、それをハーモニーにして操る……こんな言い方にしかならないや」

 抽象の極まる説明しか出て来ず絵里は困り果てた顔になる。だが、リムの反応は劇的だった。絵里の説明は、驚きの小石となって投げ込まれ、リムの瞳を大きく揺らし、やがて理解と畏怖のさざなみとなって顔全体に広がっていった。

「そうか……貴様がそうなのか……!」

 リムはよろよろと数歩下がり、どこか遠い目で絵里を見た。

「貴様は強く、私の最大の障害であることを認めよう。提案を飲み、貴様を倒さない限り、そちらの世界への侵攻を放棄すると約束する」

「やっっっっったああああああーー!」

 躍り上がる絵里を前に、リムは不可解そうだ。

「自分で言うのもなんだが、こんな口約束を信じるのか?」

「だってリムちゃん約束守る人でしょ」

「なぜそう思う」

「一回は私の勝ちを認めたあと、手を出さなかったもん。あんな凄い武器あるなら、いくらでも不意打ちできたはずなのにしなかった。それに、命の借りなんて義理堅いこと自分から言い出す人、信じないわけないよ」

 リムは、意外な事実を言い当てられた顔でしばらくきょとんとしていたが、やがてきびすを返した。

「やはり貴様は殺さねばならんな」

 物騒なことを、苦笑交じりで言って歩いて行く。落とした吹雪の剣の柄を拾いに行くようだ。

 決着の気配を察したらしいべるが小走りで寄ってくる。絵里は、パートナーに満面の笑みでピースサインを向けた。べるは心の底からほっとしたようだった。

「ありがとうございます。やはり絵里は、私の騎士なのですね」

「やっとそれらしいこと、やれた気がするよ」

「しかし……危険な賭けに出ましたね。この先、絵里は狙われ続ける」

 パートナーへの心配を口にしつつ、世界をまたいだ姉妹であるリムを見るべるの目は、葛藤に渦巻いていた。

「受け取れ!」

 放物線を描いて飛んできたものをキャッチする。吹雪の剣の柄だった。

「いいの?」

「勘違いするな、預けるだけだ。貴様を殺して取り返すという、私からの約束だ。それまで、その極害ナランラシュトラは好きに使え。霊峰の名を冠する剣、貴様なら真の力を引き出せるはずだ」

「ありがとっ!」

「礼はいらん」

 リムは施設のほうへと去っていく。その後ろ姿を見つめて、ショートカットの金髪がなんだか太陽の輝きのように思えた。

「百点満点じゃなかったけど、これで満足してるよ。殺してないし、殺されてもない。ほんのちょっとだけど、歩み寄れたと思うんだ」

 絵里は、預かった極害ナランラシュトラを軽く振って見せる。危うくても確かな絆の証に、べるはうなずいた。

「そうですね。いつか、和解の日が来ると信じましょう」


 絵里とべるは、施設をあとにし、荒廃した異界の街を歩く。異界門の創造で元の世界へ戻りたいところだけど、ボロボロの格好で人通りのあるところは歩けない。こちらの世界の自宅近くまで移動してから、魔術を使うことにした。

「ニャルラトホテプ、いつの間にかいなくなってるね」

「戦闘中に反応をロストしています。しかし、絵里があのお方を気にかけるなんて珍しいですね」

「ドヤァってしてやろうと思ってたのに」

 絵里は唇をとがらせて、残念そうに言う。

「ドヤァ……ですか?」

「試練はクリアしてきたけど、ずっと負けてきた気がしてたんだ。あいつの狙い通りに殺しちゃったり、戦わされたりね。今回の試練であいつは、べるちゃんとそっくりのリムちゃんを、私に殺させたかったはずだよ。そのほうがおもしろいから。でも私は、自分の思い通りの結果を出せた。やっとひとつ、勝てたと思うんだ」

「誇るべき結果です。神の使者が敷いた道に抗うなど、あなたにしかできません」

 嬉しそうに目元をゆるめたべるだったが、なにか引っかかるものがあったのが秀麗な眉根にしわが寄っていく。

「どうかした?」

「これではまるですべてが……いえ……少し考える時間をください。これまでの経緯から試練は一日にひとつずつです。明日までには話します。」

「じゃあ今日は夕ご飯私が作るよ。う~ん、パスタがいいかな。冷蔵庫にしめじとレタスが残ってたし、オリーブオイルでささっとね」

「そうですか? では絵里の好物を教えて下さい。この試練に決着がついたら作ります」

「いちごパフェ!」

「申し訳ありません……そのレシピはプログラムされていません」

「あっごめん、よく考えたらウチにパフェグラスないね」

 ごまかし笑いする絵里を、べるはちょっと困った様子で見てから、おずおずと切り出した。

「……食べに、行きますか?」

「それ採用だよ! 気合入ってきたぁ! 今までだって負けるつもりはなかったけど、絶対の絶対に負けられなくなったよ」

 話しているうちに、自宅近くまで来ていた。べるが魔術で作った光に触れ、元の世界に戻る。続いてべるが出現した瞬間、乾いた拍手が絵里とべるの耳に届いた。人を不快にさせる嫌らしさのこもった拍手の音には覚えがある。絵里が音の出どころを睨むと、浅黒い肌の、精悍な顔つきの男がゆっくり歩いて来るところだった。

「素晴らしい意気込みを聞かせてもらった。舞台のクライマックスも盛り上がるというものだな」

「ニャルラトホテプ!」

 ネズミやチョウに姿を変えて現れてきたけれど、今回は初めて会った時と同じ神父服姿だ。ニャルラトホテプは、静謐な笑みの端に愉悦と悪意をにじませ口を開く。

「第四の試練突破おめでとう。続いて、第五の試練内容を告げる」

「試練は一日ひとつのはずじゃっ!?」

「私がいつそんなことを言ったかな」

 絵里は、確認する目をべるに送るが、パートナーは首を横に振るだけだった。本当は、確認するまでもないことだ。ニャルラトホテプは嘘をつかない。

「もちろん明日告げてもよかったのだが、準備時間が足りないかもしれない。公正さを保つため今日出向いたのだ」

「それっぽいこと言ってるけど、要は簡単にゲームオーバーにならないでねってことだよね」

「必要な時に必要な演出をする、それが私の使命だ」

 はぐらかすような物言いにやっぱりイライラさせられる。

「では改めて告げよう。最後の試練は、明日の正午に君の家へと落ちる小惑星の破壊だ」

 まさに小惑星が直撃したような衝撃だった。一瞬、意識が空白化し、目眩に襲われる。

「それは……それはっ約束が違う!」

「繰り返すようだが、試練の内容に小惑星の破壊を含めないとは言っていない」

「卑怯な……!」

「君にふさわしい舞台を用意したまでだ。最高のクライマックスを期待している」

 背を向けるニャルラトホテプに声をかけたのは、べるだった。

「お待ち下さい。お尋ねしたいことがございます」

 偉大なる神の使者に立ち向かうべるは、畏怖にこわばっている。

「べるちゃん……?」

「さきほど言いかけたこと、ここで確かめます。絵里はリムから、交渉によって望む結果を得ました。あの方が相手では難しいでしょうが、可能な限り情報を引き出します」

 絵里は勇気づけるようにパートナーの手をきゅっと握ってから、一歩離れる。

 べるとニャルラトホテプが向かい合った。

「許そう。続けたまえ」

「いったい、どこからどこまでがあなたの計画なのですか?」

「ふぅむ。というと?」

「プロフェクトバベルとウリム、そして茂木の誘拐事件は、絵里が魔術師になる前から始まっていました。すべてはあなたの望みを達するための、深淵にして長大な脚本の内ではないかと考えてしまうのです」

「それは、正しいとも言えるしそうでないとも言える。私がいくつもの名で呼ばれるのは知っているだろう?」

「強壮なる使者、月に吠えるもの、ブラックファラオ、ウィッカーマン、這い寄る混沌――」

 名を列挙するべるを、ニャルラトホテプは軽く手を挙げて制する。

「千なる異形である私は、膨大な物語の種を蒔いてきた。君たちが見たのは、私の計画の極一部にすぎないのだよ。バラバラに散っている物語たちを組み合わせ、あたかもひとつの舞台であるかのように演出する、私の腕の見せどころだな」

 楽しそうに目を細めるニャルラトホテプが見ているものは、人間である絵里が見えるものとは違いすぎた。リムは運命を受け入れることを誇っていたが、ニャルラトホテプは運命を操る存在だ。こんなものを受け入れるのは、間違っている。

「良い演出家は、役者が舞台から飛び出したとしても、それすら演出の内であるかのように見せるものだよ」

「では……私たちの行動の結実として、最後の試練があると考えてよろしいですか?」

「その通り。言っただろう、君たちにふさわしい舞台を用意したと」

「ちょっと待って! それ、どういう意味?」

 思わず割り込んだ絵里に、べるは解説者の顔で頷く。

「魔術師となったばかりの絵里と、現在の絵里では大きく異なっています。最後の試練は、現在の絵里でなければクリアできないものです」

「少し違うな。実は君にも期待しているのだよ」

「私……?」

 これは本当に意外だったようで、べるは目を丸くしている。

「むしろ、一連の試練で最高の成果物は君かもしれない。高度な知性には魂が宿る。アンドロイドもホムンクルスもそれは変わらない。だが、造られた生命に宿る魂はどこまで達するだろう?」

「まさかそんな、私も……」

 べるはなにか言いかけた口を固く引き結ぶが、大きく揺れる瞳までは隠せない。

「心当たりがあるようだな」

 ニャルラトホテプの目を見たべるは、意を決したように唇を開いた。

「バベル」

「そうだ。魔術を超えた魔術。音楽を超えた音楽。君たちはそのような表現を使っていたかな。私は、神が世界を記述する言語と言うがね」

「バベルは神の力……? しかし、世界内存在である私たちに、神と同等の力を与えるのは危険すぎるのでは」

「極限状況での超高度な集中がなければ到達し得ないし、そもそも、素養を持つ者は一握りだ。だが――」

 ニャルラトホテプの顔が、宇宙の深淵の狂気を帯びて怪しく輝く。

「――そんな彼らの魂が昂ぶる時にこそ、よい物語が生まれるのだ」

 あらゆる生命を役者とみなす演出家は、舞台が内側から崩壊する危険すら、物語を盛り上げる要素としか思っていない。

「狂ってる……」

 奥歯を噛み潰すように言う絵里に、ニャルラトホテプは心外そうだ。

「合理的だろう」

「合理的だから狂ってるんだよ。この世界は、神さまの夢の中なんでしょ。神さまが退屈したら覚めて消えちゃう夢の世界を続けるために、世界が内側から壊れるかもしれないやり方が正しいなんて、狂ってる」

「白痴の神の妄想世界には似合いだろうさ。さて、おしゃべりはこのくらいにしておこう」

 神父服を翻し、ニャルラトホテプは背を向ける。

「君の旅路が面白おかしいものであらんことを」

 お決まりのセリフを残して、神の使者は忽然と消えた。ふと、絵里が小さく声を上げる。

「絵里?」

「……いや……なんか、あいつも必死だったんだなって急に思えて。いつもの別れ際のセリフ、嫌がらせかと思ってたけど、お願いだったんだね」

「いかに神の使者と言えど、世界は広すぎます。多くの化身を用い、お願いして回って必死で世界を維持しているのかもしれませんね」

「本当にムカつくし嫌なやつだけど、そこだけは認めなくちゃ。でも、こんな風に考えるなんて、変な感じだよ」

 絵里の顔は、苦笑いを作ろうとして失敗した苦さがにじんでいた。

「バベルに覚醒した影響でしょうか。バベルは、世界との融和だとほのめかされています。世界の代弁者であるニャルラトホテプに近づいているのでは」

 絵里はニャルラトホテプが消えた場所に立ち、強い目で空を、その先の宇宙を見る。

「バベル。それが切り札なんだね」

 振り返った絵里は、パートナーへ笑いかける。

「情報、手に入れてくれてありがと」

「僭越かとは思いますが、今回の切り札は私かと」

「べるちゃん?」

「試練の内容を聞いた時点で、バベルの運用が必須だと確信していました。私が確かめたかったことを具体的にするなら、絵里をバベルの領域へ導くのが一連の試練の目的だったのか、となります。しかし……私も扱えるとは考えもしませんでした。機械の身体の私がバベルに達するのなら、魔術とは、バベルとは、いかなるものなのか」

 べるは迷子の目で絵里を見る。

「絵里は二度、魔術ではない超常の能力を発現させています。一度目は茂木との戦闘時に」

「うん。二度目はさっきのリムちゃんとの戦いでだよね。リムちゃんはバベルについて知っていて、だからあっさり引き下がってくれたんだ」

「御堂リムには、バベルの感覚を世界と自分とのハーモニーだと説明していましたね」

「今思えばだけど、茂木さんがこだわった心臓の音がヒントになってたんだ。人間そのものが鳴らす音楽と、世界の音楽のハーモニーなんだよ」

「しかし、私には心臓がありません。メインジェネレーターはありますが、人間のように脈打ち、固有のリズムを刻むものではないのです」

 べるは胸に爪を立て、ありもしないものを掴み取ろうとするように力を込める。

「もう。べるちゃんは変なとこでおっちょこちょいなんだから」

 絵里の手が、こわばるパートナーの手をつかむ。

「大事なのは魂だってずっと言ってるじゃない。心臓の音はたんなるヒントだよ」

 不安な心をほぐすように、ゆっくりと指を絡めていく。

「べるちゃんはずっと私の切り札で支えだよ」

 べるの手が、大事な人の手をやわく握り返す。雪が溶けて凍えていた薄紅色の花がほころぶような笑みがべるの顔を彩った。

 胸の奥で、じわりとぬくもりが広がっていく。この想いは、幸せなんて言葉では捉えきれずに溢れだしてしまう。温かいものが拡がって体中で響き合い、ふと、明瞭な答えを得た。

「そうだ……例え話じゃなくて、べるちゃんは本当に切り札だったんだ」

「絵里?」

「思い出したの。バベルを使った時の気持ち。べるちゃんが茂木さんにやられそうになってた時、リムちゃんの吹雪の剣がべるちゃんまで巻き込もうとした時……べるちゃんを本気で守りたいと思った時にバベルに届いてたんだ……」

 べるの呆けた顔が、ゆっくりと絵里の肩にもたれる。銀髪に隠された顔を絵里の首筋にこすりつけたべるの声は震えていた。

「絵里……それは、嬉しすぎます」

「えへへ」

「おかげで私も気付きました。極限状況で絵里のことを一心に考えていた時……ザイトル・クァエと戦った時に、心の中に絵里の声がしたのです」

「あっ。私もその時べるちゃんの声聞こえたよ!」

「やはりあれが、バベルのきざはし。私も……」

 べるは体を離し、力強くうなずく。

「私も最後まで一緒にやります」

「もちろんだよっ!」

 くるっと回った絵里が、ぴたっと止まる。

「でも、ぶっつけ本番のバベル頼りでいいのかな」

「情報を整理しましょう。休息を取り、入念に準備してからでも挑むべきです」

「そうだね。いったん家に戻ろう」

 はやる気持ちを抑え、べるの助言に従う。

「先日も話しましたが、核兵器による小惑星破壊は不可能です。また、あと半日でロケットの手配が整うこともありえません。私たちは独力で宇宙へ出る必要があります」 

「うわぁ、そうだよ! どうしよう」

「バイアクヘーを召喚しましょう。人を載せての宇宙航行にも耐える生物です」

「あのキモカワイイ子だね」

「加えて、黄金の蜂蜜酒の飴を服用すれば一種の概念バリアが形成され、私たちでも宇宙空間での活動や時空間移動に耐えられるようになります」

 難題があっさり解決してしまい、引っ掛かりを覚える。

「……ふさわしい舞台を用意した、か。私たちが宇宙でも活動できるから、こんな試練になったんだね」

「おそらくは」

「べるちゃんの言う通り、入念な準備が成功の鍵だね」

「まずは、HPLに預けてある禍哭タモトゥトを取り寄せましょう。茂木はあれについて、バベルを扱える者なら真の力を発揮できるとほのめかしていました」

「リムちゃんから預かってるこの吹雪の剣も、きっとそうだよ」

 パズルのピースが揃うように、これまでの戦いの結果が収束してくる。

「バベルについても整理しましょう。バベルは神の力。魔術とは比べ物にならないほど強大な力です]

「神さまの力って、凄そうだけどよくわかんないね」

「HPLが収集した伝説の中でも、わずかにしか情報がありませんが、それは万能の力であるとされています。推測にすぎませんが、古代の魔術師はバベルを操っていたと思われます。編み出した魔術を後世に残し、かつ素養のない者が触れないよう暗号化を施したものを魔道書と呼んでいるのでしょう」

「ボカロのない時代の人たちの魔術に、べるちゃんを通してやっとたどり着いたんだ。万能……なんでもありの力を形にして遺そうとしたんだね」

「伝説の通りであれば、文字通り無制限の力です。しかし、世界内存在である私たちが扱いきれるものではないのでしょう。絵里がこれまで見せた力は、念動力に空間転移、それに私とのテレパシー」

「その瞬間瞬間に、そうしたいって思っただけなんだけど……ねぇ……本当の本当に、なんでもありなの?」

「明確なイメージを持ち、世界を作り変えるという意思があれ、ば……」

 絵里の奥歯が強く噛み合わされ凄まじい音が鳴った。正気と狂気がせめぎ合う音。絶句するべるの隣で、絵里は尋常ではない気配を発していた。

「本当に、なんでもありなんだよね」

「絵里がなにを考えているのかわかります」

「うん」

「ですが……それはいけないことです」

「最初に魔術の説明聞いた時、できないって言ってたよね。でも今の私は……できる。父さんと母さんを生き返らせることが」

 溢れる思い出たちが、暖かな家庭の空想たちが、数万の刄となって絵里の精神を斬り刻む。きっとこの幸せに身を委ねれば、楽になれるだろう。

「絵里っ」

 痛ましく叫ぶべるは、絵里以上に悲しみと胸の痛みを感じている顔だ。 

「大丈夫、しないよ。ちょっと言ってみただけ……なんて嘘だね。本当はギリギリで踏みとどまってる。でもさ、べるちゃんにそんな顔させることが正しいはずないよ」

 絵里は足を止め、べるのほほにそっと手を当てる。

「ありがと、べるちゃんのおかげで私大丈夫だから」

 止まない胸の痛みに耐え笑いかける。笑えている。辛い気持ちのままでも笑顔を見せたい相手がいるのは、とても素敵なことに思えた。

 べるは絵里の手を取り、大切想われる幸せを少しもこぼさないとするように強く顔に押し当てた。

「私が人間ならこんな時に涙を流していたのかもしれませんが、あいにくそのような機能はないのです」

「そんなのいいんだよ。べるちゃんが私よりも私のこと考えてくれてるの、すっごく伝わったから」

「はい。愛しています」

「ちょ!? その、いきなり直球はズルいでしょ……」

「ふふっ」

 二人は手を繋いだままで歩き出す。

「自分で言うの恥ずかしいんだけど、今結構いい雰囲気だよね。でも家に帰って休憩したりで、ずっとこのままにはならない……バベル上手く使えるかなぁ」

「極限状況の超集中力、この条件は宇宙空間に出なければ満たせないでしょう。その分、もう一方の条件と思われる、互いを強く意識するほうは地上で達成しておくべきですが……」

 言葉を濁すべるも困った風だ。そう都合よく、いい雰囲気を作れるわけじゃない。

 考えている間に家に帰り着いてしまう。鍵を開け、靴を脱ぎ、洗面所で手と顔を洗う。鏡に写る自分の顔は、少し疲れの色があるけれど、いい顔だ。きっとなにか手はある。

 リビングに入ると、キッチンでてきぱき動くべるが見えた。軽食でも用意してくれているのだろう。 

 声をかけようとする絵里の目に映るのは、いつものリビングの光景。だが、絵里は電流に打たれたように身を震わせ足を止める。その視線は、ある一点に縫い付けられていた。

「絵里、どうかしましたか」

 不思議そうに問うべるの声もどこか遠い。息苦しさと胸の痛みをこらえ、絵里は息を吸って、その空気に言葉を乗せて吐くかを考えた。気づかなければ楽だっただろう。でも、気づいてしまったんだから、もう目をそらせない。

「……HPLに頼んで、腕の良い楽器の修理業者呼んでもらえたりする?」

「HPLは魔術の研究及び戦闘の組織ですが、当然音楽にも深く関わっています。専属技師の手配はすぐに済みますが……」

 絵里の視線を辿ったべるは、大きく目を見開く。

「絵里、そのギターを使うのですか?」

「浮かれちゃってたけどさ、私は音楽家なんだから相手を強く意識する行いって言ったら、セッションなんだよ。でも、絶対余計なこと考えちゃうから。だったらもう原因ごと持って行って丸ごとで音にしようかなって」

 二人が見つめるのは、リビングの隅にあるギターケース。その中には、絵里の父が使っていたギターが眠っている。

「……気になってはいました。リビングという目に見える場所に置きながら、絵里は触れようとしなかった。おかしいと思っても、繊細な問題であると承知していましたから判断しかねていたのです」

「どうしても父さんと母さんを思い出すから、音楽は嫌い。でも、思い出すから……音楽は好き。だからなんだろうね、DTMって楽器を使わない音楽を始めて、ボカロを知ってこんなことになったけど、めぐりめぐって楽器を取らざるを得なくなってるんだから、おかしいよね」

「運命、でしょうか」

「演出家がアドリブ宣言しちゃってるからねぇ、たまたまこうなっただけだと思うよ。……だから、これからすることの意味はニャルラトホテプなんかにあげたりしない。私だけのもの」

 べるはなにも言わず、粛然と頭を垂れた。余計な口は挟まない思いやりと、自分の問題は自分で解決するしかないという導きが態度で示されている。

「父さんと母さんに、もちろんべるちゃんにも恥じない音楽家でありたい。これは私の問題だけど、べるちゃんに勇気もらってるから進めてるんだ。本当に、ありがとう」

 絵里はリビングを進み、母が使っていたピアノの前で足を止める。今回は、セッションしてそのままのテンションでバイアクヘーを召喚する流れになるだろう。ピアノを動かすのは大変だし、まさか住宅地で魔術を発動させるつもりもない。

「もう少し、待っててね」

 ピアノに向けて口の中だけでつぶやき、絵里はギターケースの前に立つ。ファスナーの金具を掴み、一息に引き下げた。

 開いたケースから、歳月を経た重たい空気がこぼれ出る。ここで父と母といっしょに歌った記憶が燃え上がり理不尽への憤怒となり、世界への憎悪となり、それらは真っ黒な泥の鎖となって絡みついてくる。

 半開きになったケースに手をかけ、めくる。弦とブリッジには錆が浮き、ギブソンレスポールの美しい飴色の木目はくすんでいた。

 ギターへと手を伸ばす。きっと、この泥の鎖から解放されることはない。これはもう自分の一部だ。だったら引きずって進む。伸ばした手が重くても……父と母から受け継いだ血が音楽を欲している。鎖と源を同じくするものが、この体を動かしている。

 全ては、自分。己の血も、過去も、罪も、悪も。

「庵野絵里、全てを引き受けます」

 絵里の手が、ギターネックを強く握った。

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