ミラー 歌と兵

「おかしい。あのラボだけキレイすぎるよ」

「苔の付着が見られませんね。こちらの世界で判明している限りの大部分は、苔の侵食を受けていると認識しています。あの場所だけが苔を退けているのなら、なんらかの要因が働いていると考えられます」

「ニャルラトホテプ、出番だよ」

 絵里が呼ぶと、チョウの姿をした神の使者は頷くように、ゆっくり羽ばたく。

「確かに、Higher Phenomenon Laboratoryの施設だ。あそこには、一人だけ生き残りが住んでいてな、住処を快適に保ちたい性質なのだろう。やつは、ここに棲む生物たちをけしかけ君たちの世界への侵攻を手助けしている。今回の試練は奴を止め、侵攻を阻止することだ」

「またこっちに都合がよすぎるよ。本当の狙いはなんなの?」

「趣向を先に明かしては興ざめだ。自分で確かめたまえ」

「興ざめなのは、あなただけでしょ」

「白痴全能の我が主もきっとそう望まれている」

 皮肉げに言うニャルラトホテプからは、主への敬意など欠片も感じられない。

「神さまか……ねぇ、どうして神さまは、世界をこんなに簡単に滅びるように作ったの?」

「被造物である我々に、造物主の真意など知りようもない」

「あなたにもわからないの?」

「断絶しているのだ。ただ、世界は君が思うように理不尽で残酷ではないと言っておこう」

「この光景は……理不尽と残酷そのものじゃない」

 崩れた建物に赤紫色の苔がへばりつき、生物の気配のない街路を埃っぽい風が撫でていく。滅亡としか言えない光景だった。

「人類文明が崩壊しただけだ。ここには、ナイトゴーントも、ザイトル・クァエも他にも多くの生物がいる。星一面に広がった苔も、立派に生きている」

「だったら、人間はなんでこんなに弱いの……!」

「それも違う。この世界ではクーハー・サイが人間を捕食したが、別の世界では、人間がクーハー・サイを捕らえ、居住地として使っている。君が世界だと思っているのは、果てない可能性の内のひとつでしかない」

 複数の世界を俯瞰して語るニャルラトホテプの視点に、頭がくらくらする。

「御身は、我々の間では破滅と混沌の使者として知られています。今の話しぶりからされると、それだけではないように思えましたが」

「まったく、ひどい言われようだ」

 べるの指摘に、ニャルラトホテプは声だけで苦笑を返す。人間の矮小な認識がおかしいのだろう。

「私は演出家だ。役者は君たち。生と死の綱渡り、表裏一体の混沌と秩序、振り子のように揺れる絶望と希望。そんな刺激的な物語を主は望んでいる。より良い物語のために手を尽くしていると、破滅をもたらしているよう見える時もあるだろう。だが同じように救ってもいるのだ。私は、誰の敵でも味方でもない」

 この存在は、神ではないけども、限りなく神に近い視点と能力を持っている。だからこそ、人間の庵野絵里は言わなければならない。

「ううん。あなたは、穏やかに生きている人たちの敵。普通の人は、命がけのギリギリなんて求めてない」

「穏やかな日々が続けば、主は退屈のあまり目を覚ましてしまう。夢であるこの世界は、泡沫と消える。そんな事態は君も望んでいないはずだ」

「忘れたの? 私、神さまに嫌がらせするためだけに死のうとしたんだよ。神さまを許してないし、世界を好きになることもない」 

「では試練を放棄するかね」

「そんなこと言ってないでしょ。私は自分が一番大事な最低の人間だけど、大事だと思う子を守っちゃいけない決まりはない。平気で剣を持って戦ったり、普通の人は聞くだけで発狂するような音楽作ったりするこんな私でも、」

 語る絵里の手を、べるが急に強く掴んだ。べるは、真摯な思いを瞳に込めゆっくりと首を振る。

「あなただからこそ、と言い直してください」

「私、でも……ううん、だからこそ……」

 べるに託された言葉は、思いを導き、より強く言葉を結実させる。

「私だからこそ、守れるものがある……!」 

 絵里は偃月刀を軽く放って、つかむ。手元が狂えば、指を落としかねない動作で気合を入れ直す。身体も心も、熱い。

「くっくく。君はいい役者だ。さあ行きたまえ」

「言われなくてもそうしますよっ。べるちゃん!」

「気をつけていきましょう」

 先行する絵里の少し後ろをべるがついてゆく。さらにその後ろを、銀河模様の羽を持つチョウがひらひらと舞う。

 施設へ足を踏み入れ、広い駐車場を進む。陽光を照り返す真っ白な壁は、近づくほどに圧迫感が増していく。この世界の地面は苔まみれだったせいで、安定してコンクリートの上を歩けるのはなんだか安心感があった。静寂の中鳴るのは、二人分の足音、そして、

「……なにか聞こえない? ……歌?」

「これはっ……!?」

 切迫したべるの声が弾ける。なにかただごとではない事態が、高速で迫っている。

 どこか聞き覚えのある曲を、なにか引っかかる声が奏でている。鼓膜に爪を立てて揺さぶるような常軌を逸した歌。歌というよりは、歌のように聞こえる音の連なり。

 音の源を求めて、視線を彷徨わせた絵里は、研究施設の二階の窓に人影を見つける。窓に当たる日光が眩しく、はっきりとした人相はわからない。

 べるも、窓際の人影に気づいた。アンドロイドの瞳は光量を補正し、人影の目鼻立ちを見て取ると、愕然とした表情で人影から視線を外せなくなっていた。

 パートナーの異常な様子に気づいた絵里は、べるの手を引き施設へと走る。とにかくここにいてはいけない。恐ろしい予感に急き立てられ、施設へと走りこんだ直後、後方から爆音と衝撃波が叩きつけてきた。

 よろめきつつ振り返ると、まばゆく目を焼く紫電の束が駐車場に突き立っていた。雷轟響かせ光景を青白く塗り替えている光は、角度からして、窓際の人物が放ったと確信する。

 紫電は収束していき、空気の焦げた嫌な匂いを残して消える。かすれた声で、べるがつぶやく。

「ガントーンの血液」

 べると初めて会った時、ナイトゴーントを吹っ飛ばしたあの魔術だ。

「……魔術、だ」

 歌のように聞こえる異常な音楽によって引き起こされる超常現象。それが魔術で、魔術を詠唱できるのは――

 施設のエントランスへと人影が降り立った。人影は、さらに魔術の詠唱を開始。今度は聞いたことのない旋律だけど、音に乗って敵意が突き刺さってくる。薄暗い施設内からでは、明るいエントランスは逆光になってやはり相手の顔はよく見えない。ただ、ほっそりとした体型は見慣れたものに思えて仕方ない。

 再び駈け出し、角を曲がって身を隠す。

「逃げてばかりか? それでは試練の突破はおぼつかないな」

「だって……」

 嘲笑するニャルラトホテプに、なにも言い返せない。身体の中で渦巻く嫌な予感に耐えるので精一杯だ。

 魔術が完成し、爆音が轟いた。吹き荒れる白煙の中から現れたのは、一人の少女だった。見覚えのある体型。よく見知った顔。

「だって、相手はべるちゃんじゃない!」

 致命的な魔術を連発してきた相手は、隣で立ち尽くすパートナーと双子のように似ていた。違うのは、髪色、髪型ぐらいだ。べるの長い銀髪とは対照的な、ショートカットの金髪は邪魔にならないよう切り揃えただけに見える。

「なんだそれは? それは名前か?」

 答えた声は、べると似ているようで違っていた。べるのキュートな声を、凍土の乾いた風で磨いたような、硬質な響きを備えている。

「私には御堂リムという名がある」

「リムちゃん……」

 ゆっくり距離を詰めながら、リムはホルスターからナイフを引き抜く。

「覚えなくて結構。どうせここで殺す」

 言い終えると同時、リムは一気に踏み込んできた。えぐるような刺突をかわせたのは、体が勝手に動いたからにすぎない。突きからの連撃を反射だけで弾いて、絵里は大きく下がる。

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 恐怖と混乱に押し出された声は、滑稽なほど震えていた。

「なんでいきなり殺し合いになってるの? いったん落ち着こうよ、ね?」

「冷静に、貴様たちを殺したくてしょうがない」

 凍えるような宣告は、絵里にさらなる恐怖を植え付ける。

「そ、それは、なんで……?」

「答える必要を感じない」

 棒立ちになっている絵里の首に突き立てられるナイフを防いだのは、ナイフだった。握っているのは、べるだ。同型のナイフを競り合わせ、同じ顔を持つ二人が視線を絡ませる。一人は冷酷極まる視線で、もう一人は畏怖に張り詰めた視線。

 数合斬り合わせるも、べるの動きは明らかにぎこちなかった。崩れた体勢をごまかすために、ホルスターから拳銃を抜き、発砲。だが狙いの甘い銃撃はたやすくかわされ、翻身したリムの蹴りが、べるの腹を直撃した。

 後退するべるを、絵里が支える。追撃に備えたが、リムは怪訝そうな顔でべるを見つめていた。

「妙な感触だ。……魔術的な防護か?」

「あなたは、人間ですね」

 奇妙と言えばあまりに奇妙なべるの返答に、リムの表情はさらに険しくなる。

「当たり前だろう」

 べるは、支えていた絵里の手をそっと払い、リムの正面に立つ。

「私は、Higher Phenomenon Laboratory所属、プロジェクトバベルによって生み出された魔術戦闘用アンドロイド、青葉べるです。あなたに名乗りを願います」

「アンドロイド! 向こうの世界では、そんな技術が完成していたのか」

 驚きつつも、得心したらしいリムは頷く。

「いいだろう、ここは貴様の流儀に則ってやる。私は、Higher Phenomenon Laboratory所属、プロジェクトウリムによって生み出された魔術戦闘用ホムンクルス、御堂リムだ」

「ホムンクルス……人造人間! そんな技術が……? いえ、あなたは人間では発音不可能なはずの魔術の呪文を詠唱した」

「喉と舌、肺もいじっている。それにしてもアンドロイドとはな、ますますもって滅ぼしたい」

 リムの唇から歌が流れ始める。嵐のように跳ね回る旋律は、魔術のそれだ。

 べるは拳銃を連続で発砲。轟音を鳴らし飛翔する弾丸は、跳ねるホムンクルスを捉え切れない。だがリムの移動先では、疾風の速度で踏み込んだ絵里が、偃月刀を振りかざしていた。

 相手は本気だ。殺意と混乱にすくむ体を無理矢理にでも動かさないと、死ぬ。

 鋭く下ろした偃月刀は、ナイフに止められる。これは予想通りだ。絵里には、茂木と戦った時に学んだ対人戦闘術がある。刃を引く、と見せかけて転進した突きで手首を狙い、そこからさらに変化した横薙ぎが膝へと走る。人間なら、絶対に防がねばならない急所への攻撃。

 リムは正確な剣さばきで急所攻撃を弾くが、絵里にはもう一手ある。これが本命だ。手首を返し、偃月刀の柄でリムのみぞおちを打つのだ。ここを痛打されれば、呼吸困難になり魔術は止まる。殺すつもりはないけれど、倒れてもらう。

 渾身の力で腕を振り抜く絵里は、リムがにやりと笑うのを見た。跳ね上がったリムの膝が、絵里の手首を打ち攻撃をブロック。翻ったリムの長い脚が、騎兵のランスのごとき重さと速さで絵里の腹を蹴り抜いた。

「がはっ」

 魔術の詠唱中は、呼吸を乱されるのが弱点で、そこを狙うのは定石。そこまで読めているなら、カウンターは簡単だ。こちらの読みが甘かった。

 腹を抱えて足を止めた絵里から、リムは大きく距離を取っている。べるが放った銃弾も難なくかわし、さらに離れていく。歌のテンションは高まり、詠唱は佳境に差し掛かっていると直感する。今から追いかけて止めるのは、もう無理だ。

 絵里は腰を低く落とし、体をねじって力を溜める。この距離でも、衝撃波を撃てば届く。ただ、あれは加減の効かない攻撃だ。当たればきっと致命傷になる。

「くっ……もうっ!」 

 衝撃波を横手の壁に向けて放つ。もう一撃叩き込み、生まれた穴へとべるの手を引いて転がり込んだ。

 爆音。横転する二人の頭上を、カニのハサミを数十倍に大きくしたようなものが行き過ぎた。二人が転がり込んだ先の部屋の壁を巨大ハサミがぶち抜き、揺れた天井から埃が落ちる。巨大ハサミは金属製の鎖に繋がれており、鎖が引き戻されると、部屋のデスクも実験器具もめちゃくちゃに砕き飛ばしながら迫ってくる。部屋は狭く、デスクや積まれた本のせいで逃げられそうにない。

 絵里とべるは視線だけで意思確認。

 起き上がりざまに偃月刀を振るい絵里が鎖を切断すると、千切れた鎖をべるがつかむ。アンドロイドは柔術の達人の動きで腰を回し腕をしならせ、勢いそのままに巨大ハサミを天井へと叩き込んだ。

 瞬速連携成功の喜びを微笑みで共有し、二人は巨大ハサミが空けた穴から向こう側の廊下へ飛び出た。リムから離れるほうへ走り出す。

「絵里、彼女の使う魔術は我々のものとは異なるようです」

「完全に独唱だったね。人間だから、べるちゃんみたいに体から伴奏流すのは無理なんだ」

 分析しながらさらに走る。

「それだけではありません。彼女の魔術は、発動までが速すぎます」

「それ思った! こっちは、私が時間稼ぎしないといけないくらいなのに、向こうは連発してくる」

「ですが、威力と効果は限られているようです」

「べるちゃんの魔術は、一撃必殺って感じだよね。リムちゃんは、自分で接近戦こなしながら、間合い調節して魔術を打ってくる」

 人間と戦うのは、茂木と合わせて二回目だ。茂木は強かったけれども、武術家の強さだった。盲目という弱点の意味を理解していなかったから、べるのレーザー兵器が有効だった。リムは、自分の強みも弱みも知っている。実戦慣れした兵士の強さだった。

「それに……」

 言いかけた絵里の口を、騒がしい音がつぐませる。廊下を走る二人の前で、シャッターが降りていく。もう滑り込んで間に合う距離ではないし、金属製の頑丈そうなシャッターを簡単に破れるとは思えなかった。

 速度をゆるめ、べるを背中にかばう格好で振り返る。壁のタッチパネルから手を離したリムが、ゆったり慎重に、獲物を追い詰めた狩人の足取りで近づいてくる。

 目が合った。アメジスト色の瞳に宿るのは氷点下の意思。背骨の中を砕けた氷が滑り落ちていくような、おぞましい感覚に襲われる。本能が全開になって、危機を訴えている。

「リムちゃんは本気なんだ」

 これが殺気と呼ばれるものなのだと、絵里は体中を走る電気信号で思い知らされる。

 これまで戦ってきた怪物たちから感じたのは、捕食本能や残虐な欲求を満たしたいだけの、単純なものだった。茂木にしても、闘志はあっても殺意はなかった。でも、リムは違う。近づかれるだけで、体が凍って動けなくような殺気が吹き付けてくる。優しく抱きしめてくれるべるととても似ているだけに、その温度差が絵里を苦しませた。

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