3章 アイ

アイ

 茂木との戦闘の翌日、疲れていたけど絵里は学校に来ていた。昼休みの教室に絵里の悲痛な叫びが響く。

「うおー終わらないいい」

「ノート持って帰ってもいいんだよ。この前もなんかくたびれてたけど、ちゃんと返ってきたし」

 食後のいちごジュースをすすりながら、由美子が呆れ顔で言う。

「いや、やり切る!」

「やる気があるのは結構なことじゃない。いつもこうだといいんだけど」

 腕を組んだまま美香が言う。小言を付け加えるのも忘れない。

「今日だけです!」

「あっはっは。よく言い切った。さすが絵里ちんだ」

「……ずいぶんな自信ね。なにか根拠があるの?」

「……なんとなく」

 さすがに、明日からまた学校を休むとは言えなかった。今日はべるが修理に出ている。魔術が使えない状況では、ニャルラトホテプも仕掛けてこないと踏んで学校に来ていた。

「絵里ちん、なんか雰囲気変わった?」

「ふふふ。実は密かにダイエットを……」

「たくましくなったような」

「って聞いてよ!」

「で、したの? ダイエット」

 ジト目で問う美香から、目をそらす。

「……してません」

「できるの?」

「甘いもの大好き!」

 由美子が笑う。笑うとえくぼができて、のけぞった顎の下から普段は見えない位置のほくろが覗く。美香はため息をついた。吐息に長く垂らした髪が揺れ、額を支えるように当てた手の裏側では、目元が微笑んでいることを、絵里は知っている。

 こんな他愛ないことがとても大事だと思う。ニャルラトホテプの試練に勝ち、人類を救うことはそのままこの二人の命を守ることに繋がる。

「ま、元気そうでよかったわ。おとといは早退するし、昨日は休むし、心配してたのよ」

「あっ……ごめん。風邪ぎみ? で」

「なんで疑問形。いいけど、なにか困ったことあったらすぐ言ってよ」

「そーそー。なにがあっても百二十パーセント、絵里ちんの味方だからね」

 鋭い二人は、学校を休んでいた間になにかがあったと気づいている。それでも踏み込みはせず、そっと気を遣ってくれている。ありがたすぎた。少し、甘えさせてもらおう。

「なんていうのかな。その……自分の汚いところ気づいちゃったなーみたいな。あ、いや、風邪で寝込んでると色々考えちゃうからね」

 思っていたよりずっと強く世界を憎んでいた自分、強大な力に飲まれる自分、希少な生物を容赦なく殺す自分、覚悟していたとはいえ人間同士で戦える自分……嫌悪を感じる。

「でも、自分に嫌いなところあるの、普通じゃない?」

 あっけらかんと言う由美子に絵里は少し肩をコケさせた。

「そうだけどさ、私のは重いって言うか、人間としてダメだよ。ゲスいんだよ」

「少なくとも、そこを自覚したのは進歩よ。人間、キレイなだけじゃないし、精神的潔癖症じゃいられないでしょ。あとは、どう向き合うかって問題で」

 自分の汚いところを知った今だからわかることがある。両親の事故から続く件では、人間の業の深さを見せられてきた。だから自分はそんな人間と同類じゃないと示さないといけなかったのだ。正しくあろうとしてきた。そして、ニャルラトホテプの試練の中で、その目論みは破綻しつつあることも悟ってしまった。

 そもそも、魔術などという狂気に届いてしまったと知った時に、おかしいと気づくべきだった。まともな人間は、魔術の詠唱を聞くだけで発狂するのだから。

「向き合う……しかないよね。自分のことだし」

「自覚ある時点でほとんど受け入れてるようなものだと思うわ」

「……うん。ありがと、話聞いてもらってちょっと楽になった」

「いいじゃん。我らゲス乙女三人衆!」 

 おかしななポーズを決める由美子に笑ってしまう。

「あははは。いいね、強そう」

「えっ、私も入ってるの?」

「当たり前じゃん。むしろ美香が一番ゲスいよ。はい、最強ゲス子のポーズして!」

「ないわよ! むしろムチャぶりする由美子のほうがゲスいから!」

「私が最強、つまりセンターか」

「総選挙する前にセンター決まっちゃったね」

「いきなり決選投票状態のものを総選挙とは呼ばないし、そもそも誰も投票しないわよ」

 美香の細かいツッコミに、腹を抱えて笑う。命と正気の瀬戸際に立ったあとでも、まだまだ楽しく笑えるらしい。

「あ~……もう時間ないし。ノートありがと。また今度貸して」

 由美子はノートを受け取りながらも、気遣わしげだ。

「持ってていいんだよ」

「いいのいいの。トイレ行ってくるね」

「一緒に行きましょうか?」

「すぐ行って帰ってくるから」

 腰を浮かせていた美香に手を振って、足早に教室を出た。

 用を済ませてトイレから出た時、スマホがメールの着信音を鳴らせた。メッセージアプリではなく、メールの着信だったことを少し不思議に思い、差出人を確認する。空白だった。

 脊髄を駆け抜けた悪寒に操られるように、メールを開く。

〈第二の試練突破おめでとう。とても楽しませてもらった。君の残酷さには、感嘆の念を禁じ得ない。我が主もきっと喜んでいるだろう。

 さて、今回は少し趣向を変えたい。学校の中で、君が一番大事な人間のところに爆弾を仕掛けた。近づけば自動で出現するが、停止装置はつけていない。適当に捨ててくれたまえ。なお、爆弾は十秒後に爆発する。

 君の旅路が面白おかしいものであらんことを〉

 スマホの画面に、大きく10と表示された。走り出す。

 残り9秒。

 最悪だった。最悪! 最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪最悪。油断した。巻き込んだ。由美子も美香も絶対に守る。そして許さない。甘い自分を。

 残り8秒。

 バルザイの偃月刀を使った副作用として、絵里の基本的な身体能力は大幅に引き上げられていた。偃月刀を持っている時と比べれば天地の差があるが、それでも今の絵里は高校生としては最高クラスの身体になっている。

 廊下を走り抜けていく絵里を、生徒たちがあっけに取られた顔で見送る。

 残り7秒。

 このペースではいけば充分間に合うけど、焦る。由美子と美香が教室にいるとは限らない。

 残り6秒。

 教室についた。ドアに手をかけた時、ふとした疑問が脳裏をよぎった。ニャルラトホテプはメールで、一番大事な人間のところに爆弾があると言っていた。それは由美子のことだろうか? いつも明るく、会話の波長も合う親友の久美子だろうか。それとも美香のことだろうか? いつも見守るような、温かい厳しさをくれるもう一人の親友の美香だろうか。一番、というのはただ一人、という意味だ。

 このドアを開ければ、最悪の決断が自動的に下される。

 残り5秒。

 止まるわけにはいかない。葛藤を振り払うようにドアを開けた。

 そして絵里は、目を丸くしている由美子と美香を見た。二人とも教室にいて安堵した直後だった。

「……あっ」

 悟った。

 幾百の感情が混じり合い溶け合い、冷たい電流となって全身を貫いた。電流は、固い、虚無めいた感覚になって絵里の頭頂からつま先までを支配した。砂の詰まったような腕を上げると、そこに虚空から小さな箱が出現した。

 気づくと絵里は屋上にいた。走り抜けた廊下や階段の光景は網膜の上を滑っていくようで、屋上へのドアを体当たりで開けた感触は残響のように遠く感じる。

 渾身の力で箱を投擲した。瞬間、箱は内側からふくれ上がり、爆音を轟かせて紅蓮の炎をまき散らした。絵里は、体を震わせ、燃える空に向かって喉が潰れるほどに叫んでいた。自身と世界への言葉にならない呪詛は、爆音に紛れ誰の耳に届くこともなかった。


 階下からべるの声が聞こえたけれど、絵里はベッドで横になったままだった。第三の試練を終えたあと、周りの声をほとんど無視して家に帰った。制服のままベッドに倒れ込み丸まった。そこからの記憶は空白。

 階段を上がってくる足音、ドアをノックし中を覗く気配、いずれも遠い。

「……絵里? 眠っているのですか?」

 少しの沈黙のあと、べるが近づいてくる。

「呼吸、体温、代謝活動から鑑みて、目覚めていると判断します。……気分が優れないのですか?」

「ん。ごめん。ちょっとほっといて」

 喉からは、隙間風のようなか細い声しか出なかった。

「絵里……本当に大丈夫ですか? 顔を見せてください」

「いや」

「ではここにいます」

「だめ」

「HPLのスタッフから、学校で爆発があったと報告を受けています。なにか関係がありますか?」

「ほっといてって言ってるでしょ」

「……お断りします。私はあなたのパートナーです。問題があるのなら――」

「もういいよ。パートナーもやめる。出てって」

 沈黙。

 いきなり肩を掴まれて、絵里は引っ張り起こされていた。ベッドに膝を乗せたべるが、至近距離で絵里を覗き込む。

「いやっ!」

 ベッドの上で後退りしても、すぐ壁に着く。べるを見る絵里の目は、怯えに揺らいでいた。

「……ニャルラトホテプと関わりましたね。そして、恐ろしい目にあった。違いますか」

「違うよ。恐ろしいのは、私。自分がどんな人間か、よくわかったんだ。近いうちに、絶対べるちゃんを傷つける。そんなことするぐらいなら、なにもしないほうがマシだよ」

 吐いて捨てても落ちない汚れをそれでも吐くように絵里は言う。

「バルザイの偃月刀に飲まれた時も、茂木に操られた時も、自衛してきました。やすやすとあなたの刃にかかることはありません」

「それ、私の意思じゃないでしょ。私はべるちゃんを見捨てられる人間なの」

「あなたは何度も命を賭して私を守ってくれた。絵里は、私の騎士です」

「やめてよ……私はただの偽善者のなりそこないだよ」

 なおも言い募ろうとするべるを、強く首を振って拒絶する。口を開く代わりに、スマホにニャルラトホテプからのメールを表示してべるに突きつけた。

 スマホを受け取ったべるの目が、大きく見開かれる。

「わかったでしょ。爆弾が出て来たのは、私のところ。友達じゃなくて、私だった! 自分が一番大事なの! 最低の人間だよ!」

「ニャルラトホテプの罠だったのでは? つまり、どうあっても絵里のところに爆弾が出現するように仕組まれていた」

「それは私も考えたよ。でも、ないなって。あいつは、本当のこと隠したりはしても嘘はつかない。どこに爆弾が出て来ても、ニャルラトホテプ的には面白くなるはずだった。じゃあ、真実の見世物のほうが面白いよね。おかしな話だけど、そこはあいつを信用してる」

「……神の使いに小細工は必要ありませんね。ならば絵里、はっきり申しますが、生物が自己の生存を最優先とするのは当然のことです。なにも気に病むことはないはずです」

「正論なんか意味ない! 私は、そんな当たり前の嫌なことに抗わなきゃいけなかった! お父さんお母さん、あの事故に関わった人たち、私の音楽で狂い死にさせた人たち、それから地球のすべての生き物。これだけ背負ってる人間が自分が一番大事なんて許されないんだよ。試練はクリアしても負けたのと一緒だよ……」

「それでも、次の試練はやって来ます」

「もういいじゃない」

「えっ?」

 絵里の目は、うつろな色に染まっていた。

「このまま試練をクリアしていったら、私は救世主様だよ。でも、こんな最低の人間に救われる地球ってなに? 私が試練をクリアすることが、地球や人間への侮辱になる。汚れた手で救われた星に価値があるって思えない」

「絵、里……」

 パートナーの名前を呼ぶべるの声は、荒れる内心のままに揺れていた。なにか言おうとしては言葉が出ず何度もそのたび閉じられる口は、アンドロイドの激しい葛藤を示していた。

 長い沈黙のあと絵里が投げやりな声をかける。

「もう出てって」

「絵里。私はあなたを愛しています」

「ひぁっ?」

 裏返った声が、喉から飛び出した勢いでのけぞり、絵里は後頭部を思い切り壁にぶつけた。

「った、たたた。な、なに言ってるの?」

 涙目で頭をさする絵里を、べるは心配そうに見つめる。

「ひどい音がしましたが、頭は大丈夫ですか?」

「それはこっちのセリフだよ! べるちゃんこそ頭大丈夫!?」

「特に損傷はありません。また文脈上、精神の正常性を問うていると推察します。何度もチェックしましたが、私の精神は正常です。この感情は、愛です」

「いや……いやいやいや。今の話でなんでそうなるのっ!?」

「力強くも脆く、果てを知らないほどに高潔で、真っ直ぐ歪んでいる……絵里は偽善者ではなく、善人だと思います。ただ、あまりに正しすぎる。その正しさで自分を傷つけ、地球を滅ぼうとしている。それはもはや、悪と区別がつきません」

「ほら。ほらね。偽善者ですらない。こんな悪人なんか好きになれるはずがない」

「いいえ。だからこそです」

 べるは、一片の迷いもなく、澄み切った表情で言い切った。

「強い矛盾を抱えるあなたを、もっと知りたい、もっと支えたい。救いたい守りたい。あなたの盾となり薬となり、剣となり炎となりましょう。どこまでも共に歩んで行きたい。愛しています、絵里」

 べるは本気だ。それを理解した途端、驚くほどの勢いで心臓が跳ね、耳の先まで熱くなる。特に意味もなく、絵里は両手をバタバタ振り回す。

「やっ……あ~……うぅぅぅぅ。おかしい! やっぱりおかしいよ!」

 両手で勢いのままベッドを叩き、少し潤んだ目でべるを睨んだ。

「今めちゃくちゃ嬉しいよ! でも私が嬉しい気持ちを持つなんてこと自体もう許されない! そんな自分を、自分が許さない!」

「あなたは、己がなそうとしている悪に気づいた。ならば、庵野絵里という人間は、その悪を討たなければ気が済まないはずです」

 べるが放った言葉に殴られたように、頭が真っ白になった。

「地球を滅ぼすという悪か、地球を汚すという悪か。どちらかしか選べません。私は、後者を選んでほしいと思っています」

「なんで……?」

「単純に前者では、私の物理存在が保てません。後者ならば、絵里の助けになれると信じています。その悩みを分かち、苦しみを癒やしたいのです。過去を知り、現在を想い、未来を共に見たいのです。あなたが最低の人間だと言うのなら、私は最高だと言い続けましょう。嬉しくなるのなら、百度でも愛の言葉をささやきましょう。許されないなんて思いを持てなくなるほどに、愛の歌を歌い続けましょう。内なる悪に潰されそうなときは、どうぞお呼びください。一晩の間でも抱きしめていましょう」

「うわ~~~っわかった! わかったから!」

「たとえあなたが世界中から非難されようと、私だけは味方です」

「もういいってば! 降参だよ!」

 ぜえはあと肩で息をする絵里の顔は真っ赤だ。

「私は地球を救う! べるちゃんは私を救う! それでいい!?」

「ありがとうございます」

 にっこり笑うべるはとても満足そうだ。

「なんなんだよぅも~なんなの。べるちゃんはバカなの? 私がバカなの?」

「ふふっお似合いということですね」

「そういうことじゃないよバカ! でも、一つだけ約束して」

「わかりました」

「早いよ! やっぱり頭おかしいんじゃない!?」

「絵里の願いならば、どんなことでも聞き入れたいと思っています」

「……ごめん。約束二つにして。ひとつは、私を甘やかさないで。べるちゃんは優しすぎるよ。なんでもオッケーじゃなくて、間違ってると思ったらそう言って欲しいの」

「善処します」

「や、く、そ、く、して! 地球滅ぼしてもいいんだからね?」

「試すような言動は慎んでください。絵里の内部に悪があろうとも、それは善性ゆえです。あなたの判断を、信じています」

「……参るなぁ」

 灼熱の羽毛でくすぐられている感じ。痛いけれど、嬉しい。

「じゃあ、もうひとつ。もし私が、べるちゃんに剣を向けることがあっても、絶対に当たらないで。それは地球を滅ぼすよりも辛いから」

「約束します」

「ありがと。本当にね……」

 絵里はベッドに体を倒し、べるを見上げる。べるの穏やかな包み込むような眼差しに、この目の前の存在がかけがえのないものだと実感する。

「そういや、おかえりもまだだったね。おかえり、べるちゃん」

「ただいま戻りました、絵里」

「うん……ちょっと寝るよ」

「眠るまで、そばに居ます」

 ベッドの隣へ座ろうとするべるの腕を素早く引っ張り寄せていた。バランスを崩したべるが、ベッドに倒れ込む。

「絵里?」

「そばに居て。もっと近くに」

 べるがベッドに横になると、明かりを受けた銀の前髪に光の弧が生まれた。

 指を、そっとべるの指に絡める。べるは少し強く握り返してきた。大丈夫、なんだかとにかく大丈夫だ。絵里の意識はゆっくりと落ちていった。

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