ブースト 虹と魂
茂木は黙ったまま、再び杖の先端をこちらへ向けた。
考えるより先に、べるにタックルして一緒に転がる。後ろで重い音がして、揺さぶられた木が血を吐くように葉を散らせた。
立ち上がった絵里は、茂木とこちらを繋ぐ破壊跡に気づく。
「衝撃波みたいなので吹っ飛ばされた?」
「及第点ですが、いいでしょう。この杖は遠い星に棲むタモトゥトなる生物の、喉から口までを生きたまま移植しているのです。黒き使者が言うには、その星に大気はなく生物たちは音や声の、より上位にあたる概念で意思疎通をはかっているのだそうです。正直、私には意味がよくわかりませんでしたよ」
苦笑する茂木に絵里も困惑するしかない。だが、べるは身を乗り出していた。
「もしかしてバベルですか?」
「黒き使者も同じ言葉を口にしていましたね。それは、世界そのものの音だとか。人間の使う魔術は、バベルの不完全品でしかないとも言っていました」
「では、その杖はバベルを操れる?」
「使い手が、その概念を理解しているならば可能ということです。私では到底届かない。できるのはごく簡単な指示を考えることだけです。私の脳波をタモトゥトが受け取り、変換して発信してくれるのです」
茂木が杖の先端を、すっと横へと向けた。
「ささやけ、と命じると」
衝撃波が芝生を散らして走り、大木に激突。断末魔めいた音を上げて、大木が倒れていく。
「ささやけ、でこれなのです。叫べと命じたら、辺り一面塵ひとつ残さず消せる。これが世界の音の力です。もちろん、そんなことはしませんよ。魔術師はどんな心臓の音をしているのか興味があります」
戦慄と嫌悪に、絵里の顔が引きつる。腰を落として力を溜め、一撃必滅を期す。
「それでも茂木さんはボロボロだし、タネの割れた手品にはひっかからない」
「音、つまり大気の振動はそう簡単に逃れられるものではありませんよ」
タモトゥトの六枚の舌がのたくり、発生した衝撃波は直線ではなく、面で迫ってきた。出力を上げてきた。生け捕りを思わせぶりに口にしたのはブラフで、消し飛ばす気だ。
せめてべるだけは守ろうと、絵里はパートナーを抱きかかえて押し倒した。
轟音が通り過ぎ、来るはずの意識の消失はなかった。
「……あれ?」
転がった拍子に、絵里はべるに馬乗りになっていた。そして、アンドロイドの秀麗な額へと、偃月刀を振り下ろした。
「絵里……なにを」
べるは、絵里の腕を掴み凶刃をとどめているが、じりじりと押し込まれている。
「ち、違くてっ。体が……言うこと聞かないのっ!」
全力で腕を上げようとしているのに、頭の中のなにかがそれを上回る命令を下している。相反する命令を受けた神経と骨と筋肉が悲鳴を上げ、絵里の顔が焦りと痛みに歪む。
「これも、タモトゥトの力なの……!」
「一種の洗脳。音波による強力な暗示と推察されます」
「正解です。私は確かにろくに動けませんが、あなたたちに潰し合ってもらえばそれでいいのです」
離れたところからの茂木の講釈は落ち着いた調子だ。勝利を確信している。
「ぐぅぅううぅ!」
絶叫して抵抗する絵里に、茂木は哀れみ混じりの笑みを向ける。
「この技は人体の構造上絶対に抗えない。無意味です。諦めてください」
「断るっ!」
「絵里が稼いだ時間は無意味ではありません。解析終了。少しだけ、ご容赦を」
べるの手が翻り、絵里の手首を打った。力をそらされた偃月刀が地面に突き刺さる。偃月刀に引っ張られてバランスを崩した絵里から、べるは転がって逃れる。起き上がると同時に照準、茂木を狙った弾丸は、割って入った絵里に叩き落とされた。
べるがステップして射線を確保しようとしても、絵里はきっちり茂木との間を塞ぎ盾となる。絵里を剣にも盾にもする茂木の戦術は狡猾だった。
「卑怯者! 自分で戦え!」
「心外です。手札をすべて切る形で、礼儀を尽くしていますよ」
「……私に、べるちゃんを傷つけさせないでっ」
胸を引き裂いて飛び出したような少女の絶叫を、茂木は肩をすくめて流した。
「諦めてください」
絵里の意に反して、その体は瞬速で間合いを詰め、パートナーへと凄絶な突きを放った。半身になってかわすべる。続く怒涛の連撃を、銀髪を一房持っていかれながらもアンドロイドは紙一重で避け切った。
絵里もまた、茂木とやり合った達人を超えた存在だ。格上の相手に、致命傷を与えず無力化させる技術などべるにはない。それがわかっているからこその、茂木の余裕、絵里の焦りだった。
「私の、体なのにぃ……!」
泣きそうな声を裏切り、刀身が銀光の霞となる速度で偃月刀が落ちる。べるは、剣風に前髪が引っ張られるほどぎりぎりで避け、同時にホルスターから予備のナイフを抜いていた。
下がった偃月刀を、上からナイフで抑えつけられ、絵里の動きが止まる。ナイフを持っているのは左手だけ。力比べをするまでもなく、すぐに振り払われる。だが右手は、絵里の体の横から突き出され、握った拳銃は茂木に狙いを定めていた。
フルオートで吐き出された弾丸は空中を疾駆し、旋転した杖にやすやすとさばかれた。絵里をかわしても、茂木には銃弾を防ぐ程度の自己防衛力は残っていた。
「私を狙うのは正しい判断ですが、届かなければ意味がない」
「任務の困難さは認めます」
ただ茂木を倒すだけなら、絵里を排除するのが確実だ。たとえ絵里でも、茂木をかばいながらではすべての銃弾をさばけないだろう。ただし、ニャルラトホテプの試練は、庵野絵里がクリアしなければ意味がない。絵里の殺害は論外で、重傷を負わせて今後の試練に影響があっても、人類の滅亡につながる。
「かっこ悪すぎていっそ殺して欲しいぐらいなんだけど、そんなのダメだってわかってる……だから、お願い。助けてべるちゃん」
「安心してください。決してあなたの刃には触れませんし、茂木は私が倒します」
「大きく出ましたな。勝算はあるのですか」
「決戦手段を使います。見苦しいかと思いますが、ご容赦を」
べるは、絵里を見た。アメジスト色の美しい瞳には、不安を決意で超える強い意思が輝いていた。
「モードチェンジ・コードレインボウ」
べるから爆発的に熱波が放射された。リミッターを解除されたジェネレーターの稼働率が劇的に高まり、一時的に発生した余剰熱を排出したためだ。同心円状に薙ぎ倒された芝生は、屹立するアンドロイドにひれ伏しているかのように見える。
「すごい、きらきら……」
アンドロイドの表面にコーティングされたナノマシンが、高出力域で安定したジェネレーターからの熱を吸収し、光エネルギーへと変換して散乱させている。単なる冷却システムだが、全身をおおう虹色のプリズムがアンドロイドの姿を、神々しい戦乙女へと変貌させていた。
「歌唄いの姿を捨て、一個の戦闘機械となりましょう」
べるの両肘から先は、兵器へと変形していた。全身をスピーカーとして音を奏でるべるが姿を変えるということは、魔術の放棄を意味していた。
左腕は、剣呑な輝きを宿す刀身となり、小さく大気を騒がす音を発している。高周波振動を発生させ対象を溶断する機構を有する強力な剣だ。そして、右腕は――
「このような武骨な姿は青葉べるではないかもしれません。しかし、私は魔術戦闘アンドロイドとして、」
「べるちゃんはべるちゃんだよ!」
不安そうに弁明するパートナーに、絵里は最後まで言わせなかった。
「私が助けてって言ったから、無理してくれてるんだよね。見苦しいわけないじゃない……すっごいカッコイイ!」
べるは、安堵を超えてもはや救われたような顔でうなずいた。
「ありがとう……ございます。では少し、お手合わせを願いますね」
さっきまでとは桁違いの速度で、べるが飛び出す。迎撃する偃月刀をいなし、姿勢を低くして下がるべる。左腕の剣に触れた芝生が高周波によって次々炎上し、赤い線を刻んだ。
追撃に進む絵里の踏み込みが疾風となって炎を吹き散らす。火の粉の舞を破った偃月刀が突進。べるは偃月刀を弾きつつ姿勢を下げる。地に触れた切っ先に炎を宿し、すくい上げる斬撃を返す。だが赤い円弧は浅く、絵里はたやすく引き下がった。べるも追撃はしない。
決して互いを打倒するための戦いではない。絵里とべるは、声に出さず目と目で意思を確認し合った。
引かれ合う磁石のように、二人は同時に動く。激突したバルザイの偃月刀と高周波ブレードが絶叫を上げる。炎が唸り、疾風が吠える。舞い踊る火の粉を裂いて、幾条もの剣光が駆ける。絵里とべるは、離れ、また近づき、炎と光の中で剣舞を続ける。
「剣が風を切る音、ぶつかり合う響き、競り合いが生む切なげな声……上質の交響曲を聞いているかのようです」
茂木の歪んだ感想はともかく、絵里は高揚を感じている自分を否定し切れなかった。望んでこうしているのでも、楽しんでいるのでもない。それでも魂が昂ぶり、べるの魂と交わっていると強い実感を得ていた。
「しかし、膠着状態になるとは思いませんでした。庵野さんには破壊しろと命じているのです。たとえ相手の力量が上昇したとしても、まったく追いつけない剣技ではないはずです」
茂木の疑問に、べるはあっさり答える。
「私は、絵里の戦闘ログをすべて保存しています。そしてさきほど絵里が抵抗して稼いだ時間で、解析を終了しました。現在の戦闘特化の姿でも、絵里は倒せないでしょう。しかし拮抗し続けるだけならば、高精度の攻撃予測ルーチンの構築と、それに見合う出力を得た今、充分可能です」
べるには、人間の達人のように直感や閃きで戦況を作っていく能力はない。だが莫大な記憶容量と、解析、演算処理を持つ機械だからこそ可能な戦術がある。
「なるほどなるほど。無理をしてでも、私が打って出なければならないようですね」
「必要ありません。あなたの敗北が確定しました」
振り下ろされた偃月刀を、べるは上から高周波ブレードで押さえつける。右手は絵里の横から突き出されている。それはついさっき拳銃で茂木を狙ったのと同じ構図だった。
違うのは、右腕の肘から先が長大な銃身となっていることだ。
その銃は、内部の複雑な機構を暗示するかのように多くのパーツが組み合わさった兵器然とした外観だが、虹色の光を放つアンドロイドの腕に収まると、戦乙女の聖具にふさわしい機能美を有して見えた。
べるはリミッターを解除されたジェネレーターからのエネルギーを、絵里の高速攻撃に対応するため消費しつつ、余剰分は少しずつ右腕に蓄えていた。エネルギーは、光に変換され、増幅され、収束され、ついに一条の光の矢を形成した。
解き放たれた光の矢が世界をまばゆく貫く。
「ぐっ、おおおおおお!?」
茂木が悲鳴を上げてくずおれる。男の右ももの半分ほどが消失し、傷口は完全に炭化していた。茂木の背後には、傷口と同じ直径の穴が大木にうがたれていた。火の粉の爆ぜる音と焦げた匂いが漂う。
「レインボウ、つまり天の弓の名を持つレーザー兵器です」
「すごっ……あ、体動く! ありがとべるちゃん!」
「レーザー兵器、ですか……? そんなものまで……持っていたのですか」
茂木はまだ信じられないと言いたげに首を振る。
「あなたは拳銃弾すら防いだ。私の腕の動きや、火薬の匂い、発砲音から弾道を予測していたのでしょう。しかし、盲目のあなたは銃口の向きがわからない」
「光の速さの攻撃を避けようとするなら、銃口の向きから予測するしかない。道理ですな」
無念そうに言いながら、茂木は杖を支えによろよろと立ち上がる。
「黒き使者から、知性を持つロボットが来ると先に聞いていたから驚かなかったものの、レーザー兵器まであるとは思いませんでした。オーバーテクノロジーにもほどがある」
「最先端ではありますが、ただの技術です。それよりも武器を捨ててください。早く治療を受けるべきです」
「機械の知性は、意地を持っていますか?」
唐突な問いに、べるは答えられず押し黙る。
「私の人生は、意地に突き動かされてきました。生まれた時から足りてなかった分を取り返そうと躍起になっていたのです。ただの負けず嫌いとも言いますが」
茂木は、禍哭タモトゥトの先端を己へと向けた。老紳士の顔には、決意を秘めた清々しい笑みが浮かんでいる。衝撃波がその体を突き抜けたあとには、茂木は華麗に杖を旋転させ、さっきまでと遜色ない構えを取った。
「もしかして……私にかけた術を、自分に?」
「投降してください。そんなものはすぐに破綻します」
べるの勧告を無視して、茂木はすり足で間合いを詰める。
「理屈より感情を優先する人間の愚かな悪あがきです。私は、意地を押し通す!」
闘鬼めいた気迫を宿し、茂木が突進する。
迎え撃つ絵里の動きが鈍い。全開で戦うよう命じられていたところに、全力で抗っていたのだ。神経を始め、体中に限界を超えた負荷がかかっていた。
直撃すれば内蔵破裂は免れ得ない打擲に、危うく偃月刀を潜りこませて防ぐことには成功した。だがそのまま、為す術もなく振り回され、絵里は大地に溝を刻みながら滑っていくしかなかった。手から離れた偃月刀が、芝生の中で所在なさげに埋もれている。
追い打ちに進む茂木の前に、べるが躍り出る。大気を騒がす高周波ブレードは軽く弾かれ、続いての打ち合いもべるのほうが一歩二歩と下がっていく。茂木の気迫が増しているのもあるが、それ以上にべるの動きもまた精彩を欠いていた。揺るぎない直線で繰り出された突きが防御に掲げた高周波ブレードごとべるの体を吹っ飛ばす。何度も跳ね転がり、ようやく回転は止まったが、べるの動きもまた止まっていた。
地に伏した少女とアンドロイド。茂木はそれらを眺めて、安堵と疲労の混じったため息を吐いた。
「さて、後始末が大変だ」
「終わって……ません」
「……まだ動けましたか」
立ち上がったのは、べるだった。高周波ブレードは停止し、コードレインボウ時の燐光も失せている。だが、その瞳には決然とした光が宿っていた。
「コードレインボウは、エネルギーのほとんどを消費し、使用後は危険域までパフォーマンスが低下する決戦手段なのです。現在の私が、戦闘を続行不可能な状態であることは認めます」
「ならば、」
「しかし、」
べるが一歩踏み出す。速くもなく、姿勢の正しさも保てない一歩だが、決してあとには引かない決意を秘めた重い一歩だ。
「同じような状態のあなたは、己の意思を通すために進んだではありませんか。そして、それを意地と呼んだ。私も同じです。存在を賭けたこの一秒一秒が、絵里の命脈を繋ぐと信じて……今発生している、この情感を私は誇りと呼びます」
茂木は満足気な、何の気なしに弾いた弦が思わぬ深い音を鳴らしたような嬉しさと感動を得た顔だ。
「この戦い、私の敵は最初からあなただったのかもしれませんね」
茂木は、禍哭タモトゥトを一度くるりと回して構え直した。
「来なさい」
べるが駆け出す。速度は出ず、剣筋は荒かった。しかし、一撃一撃が決意の分だけ重くなっていた。また、ここまでで集めた茂木の戦闘データを解析し、わずかだが攻撃の予測が立つようになったのも大きい。
互いに譲らず、限界を超えて戦い続ける者たちの剣戟の音が広い庭に響く。
「べる、ちゃん……」
絶対守ると言ったのに、今必死で戦っているのはべるだ。自分はみっともなく倒れて動けずにいる。それに、バルザイの偃月刀を手放したせいで、体の痛みがさっきまでの比ではなくなっていた。ぐつぐつと煮える金属を体の中に流し込まれたように、熱くて痛くて、動かない。
「くっ……!」
絵里は腕を伸ばして、地面に爪を立てて、這い進んでいく。とにかく偃月刀さえ手に取れば、立って動ける程度にはなるはずだ。汗が目に入って視界がにじみ、芝生に顔を引っかかれる。かっこ悪くても泥だらけでも、ここで立ち上がらないと意味がない。
もう少しで偃月刀に手が届く、その時、絵里の鼓膜を破滅的な音が打った。顔を上げた絵里の目に飛び込んできたのは、大量のコードと液体を吐き出しながら宙を舞う、レーザー銃だった。右腕を失ったべるがもんどり打って転がっていく。
「絵里……逃げて……」
「あ、ああ……」
周囲の音が遠ざかっていく。自分の心臓の音がいやにはっきりと聞こえた。
ここで逃げて、どうなる? 敗北は人類の滅亡を意味する。小惑星が落ちるまでの間、震えて過ごす? いや、そんなことより……こんなにかっこ悪い自分を守るために限界を超えて戦ってくれたべるを見捨てて逃げる?
そんなことできるはずがない。
まだ終わっていない。負けていない。この心臓が動いている限り。この鼓動が体を満たしている限り。茂木は、心臓の音を根源の音と評したけれど、そのセンスだけは認めなければならない。絶対に負けられないと昂ぶっているこの音は、存在の根源、魂から響く音だ。根源の音は内から響き、外へと拡がっていく。どこまでも拡がっていき、世界はこの音で満たされていた。そもそも拡がってなどなく、最初からこの音で満たされていた。
覚者の顔で絵里が立ち上がる。驚いた顔で振り向く茂木の目の前にはもう、絵里がいた。芝生が倒れたような、高速で移動した痕跡はなく、忽然と消失し、出現していた。
絵里が茂木の胸に軽く手を触れると、巨大な拳で殴られたように老紳士の体はくの字に折れて飛んでいく。茂木は樹の幹に背中を強く打ちつけたが、ずり落ちる間もなく、今度は急激に上方へと持ち上げられた。背後の樹も一緒に上昇していたため、磔めいた姿勢で茂木はもがく。
地上では絵里が手を高く上げていた。その手を、くるりと回して、下ろす。茂木は急速に墜落。一緒に落ちた樹は怖気を振るう音を立てて二つに折れ、梢が痙攣を起こしたように震える。
おかしな方向へ曲がった左手を抱える茂木の前に、絵里が出現する。
「私の勝ちですね」
「……この、力は……」
「私怒ってるんです。理不尽にさらわれて苦しめられて人たちのこと。私とべるちゃんを戦わせたこと、べるちゃんを傷つけたこと」
少女の口調こそ落ち着いているが、内には想像を絶する力がたぎっていると、茂木の鋭敏な耳は聞き取っていた。目の前の少女がただの人間ではなく、なにかもっと高次のものに思え、茂木は畏怖の表情で顔を上げた。
「魔術が関わった犯罪は、警察や裁判所じゃ裁けないんだそうです」
絵里がすっと指を動かすと、茂木は折れた樹の幹を自らの体で破って転がっていく。木くずと泥にまみれた回転の終わりでは、すでに絵里が待っていた。
荒い息を吐く茂木を、絵里は審判者の目で見下ろす。
「茂木さんは音楽を愛している。間違ったことをしたけど、それだけ本気で音を追求しようとした……嫌いにはなれないよ。だから、半分だけ」
絵里の手に、宙を飛んで来たバルザイの偃月刀が収まる。素早く走った刄は、正確に狙いを果たした。
「ぐあっ……!」
茂木は右耳のあった場所を押さえた。右耳の傷口からこぼれた血が、茂木の諦念の微笑みを彩る。
「これは厳しい。ですが、最初から奪われていた人生なのです。これぐらい耐えてみましょう。ああ……ただ私は取り戻したかっただけなのに……この歳になってようやく手段を得たと思ったのに……さらに奪われるとは皮肉なものです」
茂木は生まれながらに理不尽を押し付けられていた。そんなことにいまさら気づいた。
「……それでも、関係ない人を傷つけるのはいけないことです」
「彼らは生まれつき足りていて、私はそうではなかった。この差はなんです?」
「神様は狂ってて、悪趣味で、世界は最初から理不尽なんです。取り戻そうなんて思っちゃいけなかった。ただ音楽を愛する人生でよかったはずです」
茂木にかけた言葉が、そのまま自分に返ってくるのを感じる。戦いの結末がこうなったというだけで、自分と茂木に差はなかった。そして、反射してきた正論は、自分の中でひどく空々しく響いた。
「ごめんなさい、言い直します。茂木さんは相手を間違えたんです。神様の使いのニャルラトホテプをぶっ飛ばしてやればよかったんです。馬鹿にするなって」
「は、ははは……そうか、そうか……」
小さく笑い続ける茂木を残し、べるの元へ向かう。
「絵里、その力は……」
「これ?」
手を動かすが、なにも起こらない。
「ありゃ、気が抜けちゃったかな」
残念そうでもなく言って、絵里はべるのそばに座る。パートナーの頭をそっと抱えて、膝の上に乗せた。
「ありがとう。べるちゃん。今回もいっぱい助けられちゃった」
「パートナーですから。ですが申し訳ありません。エネルギーが枯渇しました。少し休みます」
「うん。おやすみ」
べるがまぶたを閉じると、長いまつげが柔らかい影を作った。頬が描くなだらかな曲線を、ゆっくりと撫でる。
「……やばい。べるちゃんのこと好きすぎる」
そっとこぼれた告白は、穏やかに風に溶けていった。
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