ビート 楽器と武

 右に三つ、左に三つのベッドが並び、それぞれのベッドの傍には大きな装置が置かれている。装置からは大量のケーブルが伸び、ベッドに横たわる人たちの体に刺さっていた。六人に老若男女に偏りはなく、全員下着姿で両手首と両足首をベッドに縛り付けられていた。全員眠っているが、衰弱している様子はなくむしろ健康そうだ。

 それでも微弱にしか感知出来なかったのは、ベッドを丸ごと覆っている薄い膜のようなもののためだろう。守っているようにも閉じ込めているようにも見える謎の膜。大型装置やケーブルと相まって、絵里は病室を連想した。

 とりあえず全員無事なようで少しほっとする。だけど、と絵里は視線を上げる。

 壁にぎっちりと備え付けられた大型スピーカーの意味がわからない。ベッド脇の装置とケーブルで繋がっているから事件と無関係ということはない。スピーカー自体は、超高級志向で有名なメーカーのものだ。だけど今は、音質への興味よりも気味の悪さのほうが先立っていた。

「これは……」

 追いついたべるは蔵の中を少し観察したあと、手近なベッドの前に移動する。アンドロイドの目が、眠っている若い男性の顔を見据える。

「照合完了。失踪届が出されている人です」

「やっぱり。失踪じゃなくて誘拐事件だ……助けられる?」

「すぐには難しいですね。このケーブルも抜いていいものか、判断しかねます」

「それを抜かれては困りますね」 

 振り返った絵里とべるは、戸口に立つ男を睨みつけた。

 歳は六十より少し上くらいだろうか。シャツにスラックスとラフな格好だが、いずれも仕立ては良く、真っ黒な杖を持っているせいもあり、紳士然とした印象だ。閉じられた目の周りに刻まれた皺は、温和な人生の歩みを忍ばせるものだった。

「あなたが、ここにいる人たちをさらって来たんですか?」

 連続誘拐事件と、目の前の温厚そうな老紳士が結びつかず、絵里はつい尋ねていた。

「おおよそ、そのように考えてもらって結構です。申し遅れました。私、茂木誠司というものです」

 言いながら茂木は蔵へと入ってくる。足腰も背筋もしっかりしているが、前方を確認するように杖を動かし進む。

「そちらからはいいですよ。安野絵里さん、青葉べるさん。黒き使者から聞いています」

「黒き使者……やはりニャルラトホテプと関係があるようですね」

 茂木は無造作に絵里の隣を抜け、ニャルラトホテプの手回しの良さにおののくべるにもぶつかることなく、ベッド脇の装置まで着いた。老紳士の目はずっと閉じられたままだった。

「茂木さんは……目が?」

「生まれつき盲ていましてね。あの方は黒き使者と名乗られましたが、黒いという感覚は理解の外でした。するとあの方は、私の目の前にある底なしこそが黒だと教えてくれたのです。なるほどと思いましたね。この底なしの世界を作りたもうた神の御使いがまとうにふさわしい色であり、私が生まれつき黒の恩寵を受けているという考えは、素朴に感動しました。おっと、私ばかり話して……珍しい客人にはしゃいでしまいましたな」

 口調こそ温和だが、ニャルラトホテプに心酔しているのは明らかだ。

「私はニャルラトホテプに言われて、あなたを倒しに来たんです。私とあなた、両天秤にかけるような奴の言うこと信じないほうがいいと思います」

「承知した上で、あの方は私の理解者で協力者だと思っていますよ」

「このまま警察に行くつもりはありませんか」

「あなたは魔術師で、戦いに来たのでしょう? そもそも、武器を持った人間が言うことではありません」

 痛いところを突かれ、絵里は黙る。

「投降する気はありませんが、和解の算段はあるのですよ」

 目を丸くする絵里。べるは精密機械の瞳で茂木の真意を見抜こうとしている。

「魔術師は音楽家だと聞いています。私は視覚を持たぬ身ですので、他の感覚が少々鋭いのです。特に聴覚、音楽には一家言あるのですよ。一流とされる楽団の演奏を聴くために世界中を渡り、ロックやノイズもたしなみ、もちろんボーカロイドもよく知っていますよ。アイドルとしての面は専門外ですが、そこを除いても音楽的な可能性と価値を強く感じています」

 茂木は見えていないのに、きちんとべるの方を向いて微笑みかけた。

「ですが年のせいか、最近は簡潔に完成した音を好むようになってきましてな。どんどん音をそぎ落とし、それでも物足りず考えぬいた末、ひとつの解を得たのです」

 老紳士の手が、装置のボタンを押した。それは電源のボタンだったようで、装置にいくつもランプが灯っていく。

「生命としての、根源の音」

 蔵の壁にぎっちりと備え付けられたスピーカーから、一定のリズムでごくシンプルな音が放たれる。この低くこもった音には聞き覚えがある。それどころか、とても馴染み深いとすら思う。

「まさか……!」

 おぞましい解答に思い至り、絵里は慄然と茂木を見つめる。

「これは人間の心臓の音です。言葉にすれば野暮ですが……美しい。知っていますか? 心音は指紋のように人によって違い、同じものはひとつとしてないのです。世界で唯一無二の音。尊く、愛おしい」

「最っ低……!」

 吐き捨てるように言う絵里に関わらず、酔いしれた声で茂木は語る。

「体の状態によって心音は様々な顔を見せます。黒き使者より賜った繭と装置は、この楽器の正気と健康を保ったまま音色を変えられるのです。こちらのボタンは快楽を与え、こちらは苦痛、こちらは幸福な思い出を回想させ、」

 最後まで言わせなかった。

 一足で距離を詰め、バルザイの偃月刀を振り下ろす。狂人の指を斬り飛ばすはずの刃は、硬い手応えに阻まれた。受け止めたのは、茂木の手の中で旋転した黒一色の杖だ。

 たとえ目が見えていても、反応が難しいだけの速度はあったはずだ。だが、止められた。茂木は杖を強く押し出し、動揺していた絵里も逆らわずに一旦下がる。

「この素晴らしさを理解してもらえないのは、残念です」

「……正直言って、理解はします。人間だって楽器の一つです。でもこれは、やっちゃいけない! 自分の都合だけを他人に押し付ける理不尽、私は許さない!」

「人間は牛や豚を育て、殺し、食べます。彼らからしてみれば、これほど理不尽なことはありません。ですがこの仕組みに疑問を持つ人は少ない」

「人間を音楽の奴隷として使いたいの? バカげてる。自分を正当化したいだけじゃない!」

「本気でそう思っているのですが、伝わりませんでしたか」

「和解はあり得ませんし、これ以上あなたの好きにはさせません」

 老紳士に対して構えを取る。見た目こそ初老だが、体も技術も超一級だと考えないといけない。

「絵里、あの杖はまともな物品ではありません」

 べるがささやきかけ、絵里も茂木に聞こえないよう小声で返す。

「さっき言ってた魔術の力を持つ武器が、あれ?」

「バルザイの偃月刀で斬れなかったのです。警戒すべきです」

「その通りです。これは黒き使者より賜った禍哭タモトゥト。どうまともではないのかは、あなたがたがこの脅威に耐えられればおのずと知れましょう」

 小声で話していたのに割り込まれ、二人は口をつむぐ。

「……耳がよすぎる」

 ぼそりと言った絵里に、べるは思い当たった顔になる。

「心眼。いえ、聴勁と呼ぶべきでしょうか」

「武術の達人が使う、なんとなく気配でわかる、ってやつ?」

「そうです。もっとも、なんとなくでは済まない精度ですが」

「目が見えないからこそ、感じられるものもあるのですよ」

 茂木は泰然とした足取りで蔵の外へ向かう。

「ここで暴れるのは、あなたも都合が悪いでしょう。どうぞ外へ。庭ならいくら壊してくれても構いませんよ」

 無警戒に見える老紳士の背中。だが今仕掛けても、攻撃が通るとは思えなかった。

 庭に出て、二人と一人が向かい合う。

 ゆるり、と偃月刀と杖が持ち上がる。特に合図はなく、戦士の勘めいたものに突き動かされ絵里と茂木は同時に飛び出した。

 白銀の刃と漆黒の杖が激突。火花が散り、甲高い音が大気を騒がせる。そして、べるの歌が流れ出した。

 押し込まれる絵里の刃を、茂木は巧みな杖術で受け流す。絵里も力の流れに逆らわず位置を変え、反転。翻った偃月刀が銀の半月となって駆ける。

 飛び退いていた茂木は、杖の握り位置を変え一瞬でリーチを伸ばすと、黒雷の如き突きを放った。

 とっさに体をねじるが、絵里の左肩から血がしぶく。体をねじっていなかったら、喉をぶち抜かれていたはずだ。

 痛みに構わず絵里は間合いを詰める。刃が届く一歩手前で、重心を落としながら体を回転させた。溜めたバネの力を解放し、伸び上がる竜巻となって躍りかかる。

 横殴りの斬撃を、茂木は杖を回していなす。さらに加速しての連続回転斬撃も、杖の高速円運動でさばき続ける。速度を増す回転と回転の競り合いは、突如打ち上げへ転化した茂木の一撃で終結した。

 体勢の崩れた絵里へ、禍哭タモトゥトが強襲。偃月刀の防御は間に合ったが、威力の乗ったまま振り抜かれる。地面で肩と背中を強打しつつも、芝生を掴んでなんとか止まる。べるが心配そうな視線を投げてくるけど、魔術の完成までもう少しかかりそうだ。茂木の注意を引いておかないと。

 立ち上がりながら、思考を走らせる。相手は異界の怪物じゃない。人間だ。だったら、そんな相手にふさわしい戦い方があるはずだ。握ったバルザイの偃月刀がじわりと熱を持つ。熱が体を伝わりながら、新しい神経を生み出し繋いでいくイメージ。

 強く蹴り込んで突撃する。豪風を巻く渾身の斬り上げ、と読ませてブレーキしつつ、切っ先を返す。防御に動いた杖を持つ、茂木の右手首の腱を狙い刃を突き出す。

 右手から血を滴らせて茂木が後退する。腱の切断には至らなかったけど、利き手にダメージを与えた。

 流れを逃さず絵里は前進。脚を振り上げ、下ろす先は茂木の膝だ。膝関節を蹴り抜かれ、茂木の体が大きく沈んだ。

 絵里が脚を戻し、次に踏み込んだ衝撃で芝生が散る。その運動量が少女の体を伝い、大上段に掲げた偃月刀が猛禽類の急襲めいた獰猛さで落ちる。

 杖の防御は間に合った。だが不完全だった。威力を殺し切れず、押し込まれた杖が老紳士の鎖骨を割る。

 茂木は、続けて突き出された切っ先に脇腹をえぐられつつも間合いを離した。

 絵里も大きく呼吸して構え直す。この攻め方で正解だ。動きを読ませた上で裏をかき、腱、関節、鎖骨と人体の弱いところを狙っていく。

「驚きました。お若いのに熟達した技術だ。それに、人間を壊すことへのためらいがない」

「降参する気にはなりませんか」

「まさか。まだお互い小手調べ程度のはずです」

 腰を落とし、低い姿勢で接近してくる茂木。胴へ目掛けた横薙ぎの杖を、絵里は一瞬だけ引きつけて飛び越える。空中で偃月刀を構えた時、足首を茂木に掴まれていた。

 次の瞬間、視界が暗転し激痛に打ちのめされた。もうろうとする頭で、飛び越えるように誘導され、引きずり落とされたのだと理解した。

 来るはずの致命の一撃をかわすため、絵里は地面を転がる。だが予想された攻撃はなかった。顔を上げ、かすむ視界で絵里が見たのは、べるへと詰め寄る茂木の後ろ姿だった。

 べるは歌い続けたまま、ホルスターから拳銃を抜き、プログラム通りの正確、俊敏な動作でセーフティを解除し、セレクターをフルオートにセット。トリガーを絞った。発砲音と、杖が弾丸を防ぐ硬い音が連なり重なり、千鳥のざわめきとなって響く。

 べるのアメジスト色の瞳が驚愕に見張られる。大きな瞳には、無傷で突進してくる茂木の姿が映っていた。

 銃弾は銃口の向いている方向にしか飛べない。その点では回避しやすいとも言える。だが、視覚から情報を得られない人間が防ぎきったとなると話が違ってくる。茂木は尋常な使い手ではない。べるは魔術を放棄し、空いたCPUリソースを近接戦闘に振り分けた。

 アンドロイドが銀の髪をなびかせながら大きく飛び下がる。直前までべるがいた空間を、凶悪な風鳴りを上げて杖が薙いでいった。素早くリロードを終えていた拳銃を連射。

 茂木は杖の先端へ握り位置を変えると、杖先で螺旋を描く突きを繰り出す。銃口を狙った突きは、弾丸を弾き飛ばしつつ、べるの腕をも砕く威力を備えた攻防一体の絶技だ。

 べるは横に転がって突きをかわし、もう一回転して距離を取る。起き上がろうとしたべるの眼前の地面が、落ちてきた杖で爆砕された。距離を取っていなければ、砕けていたのはべるの胴体だったはずだ。

 杖の落下軌道、速度、茂木のこれまでの動きと負傷の程度から、もっとも命中確率の高いと演算した箇所に牽制の弾丸を放ちつつ、アンドロイドが跳ね起きる。

 高性能コンピュータが算出した予測を、茂木はもはや見切ったとばかりに杖での防御すらせずステップでかわす。返礼の突きは迅雷の速度。

 べるは、後退しても避けられないと判断し、ホルスターからナイフを引き抜いた。かろうじて杖は弾いたが、ナイフを持つ手が泳ぐ。そこへ来襲する、茂木の苛烈極まる連撃。

 べるに組み込まれた近接戦闘プログラムは、リソースを振り分ければ人間の達人と同等の動きを可能にする。だがそれは、茂木のような達人以上の存在には抗し得ないことも意味していた。

 黒い残像が幾重にも重なる連撃に、とうとうべるの手からナイフが弾き飛んだ。高く舞ったナイフは、陽光にきらめき、墓標のように真っ直ぐ地面に突き立った。

 翻った禍哭タモトゥトが、べるの頭部へと無慈悲に振り下ろされる。

 頭上の、死神の指先めいた黒一色の杖を見て、アンドロイドの動きが止まる。どう動いても修復不可能なまでに破壊される結論が出たための、フリーズだった。それは、人間なら絶望と呼ぶものだった。

 転瞬、重々しい爆裂音がし、大地が震え 芝生が散る。震源地から走った疾風は、茂木とべるの間に割り込んだ。

「させないっ!」

 疾風まとい現出した絵里は、偃月刀を振り抜いていた。超高速の斬撃は、杖で受けた茂木の体ごと吹っ飛ばす。浮いた茂木の足が地面に着くより、絵里の突進のほうが速い。斬り下ろし、斬り上げ、反転して横薙ぎ、からの袈裟懸け、さらに刺突、さらに、さらに、さらに、無数の剣閃が茂木の体を斬り刻む。

 裂帛の気合を吐いて放たれた突きは一筋の流星。衝撃波をともなう一撃は、茂木を弾丸めいて撃ち出し、後方の木へと叩きつけた。

「絵里……やはりあなたは私の騎士なのですね」

「ごめん遅くなって。魔術も失敗しちゃったし」

 嬉しさに震える声で言われても、絵里は悔しげに首を振る。

「かえって良かったのかも知れません」

「え?」

「さっきまでより、絵里を近しく感じています。もっといい歌が歌えそうです」

「もう。べるちゃんってば~」

 呻き声をこぼしつつも、茂木は立ち上がる。ボロボロの体だが、杖を突き出すような構えに乱れはなかった。

「本当に強い。こんなにも良い生命の音を聞けるのだから、長く生きてみるものですね」

「もうまともに動けないはずです。やめませんか」

「まだ小手調べと言ったではありませんか。そちらの本領は、二人の連携。近接戦で時間を稼ぎ、魔術で勝負をつける。だから私は、先に機械のお嬢さんを攻めたのです。反撃を受けましたが、あなたたちは失敗した。ならば、次は私の手番でしょう」

 禍哭タモトゥトの先端が、ねじれながらめくれ上がっていく。露出した先端部にあったのは、不気味にうごめく生物の口らしきものだ。口には、歯も牙もなかったが、代わりに花弁めいた六枚の舌が口内でのたくっていた。

 全身を危険信号が駆け巡ったその時には、絵里は吹っ飛ばされもんどり打って転がっていた。近くには、同じような格好でべるも這いつくばっていた。

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