2章 覚醒の鼓動

アフタヌーン 予兆と解読

 絵里がリビングに入ると、物憂げな目でギターケースを見るべるがいた。埃の積もったケースに伸ばしかけた手は、触れるか触れまいか迷っているようだった。

「べるちゃん! 喉渇いちゃった」

「絵里……」

「早く早く! オレンジジュースがいいな!」

 なにか言いたげに開かれた歌姫の唇は、無闇に急かす絵里の態度に閉ざされる。

「……はい。すぐに用意しますね」

 キッチンからグラスの載ったトレイを持って出て来た。べるの姿勢の良い歩行は、グラスに入ったオレンジジュースの水面を揺らさない。

 ソファーに座り、絵里はテレビの電源を入れた。普段は学校にいて見ることのない、午後のワイドショーが流れていた。

「調子はどうですか」

 べるがテーブルにグラスを置き、自身もソファーに腰掛ける。

「もーバリバリいっちゃってるよ。難しいけど、それより面白くって、燃えてるって感じ!」

「そうではなく、いえ、それも重要なのですが。体調に変化はありませんか。ネクロノミコンは、適性のない者が読めば狂死する危険な書物です。無理をすべきではありません」

「無理もするよ。次も上手くいくって限らないし、使える魔術は多いほうがいいに決まってる」

「ニャルラトホテプの試練は残り四つです。先は長く、絵里の人生はもっと長いものです。ここで脳に異常をきたすようなことがあってはなりません」

「人生、かぁ。……ふふっ」

 顔をほころばせる絵里に、べるは首をかしげる。

「なにか、おかしなことを言いましたか」

「ううん。ただ、べるちゃんはもうニャルラトホテプの試練に勝つ気しかないんだなって」

「あなたとならば」

「えへへ。私も、べるちゃんとずっとやっていきたいな」

 絵里とべるは穏やかな表情でうなずき合う。

(……連続失踪事件の被害者は、子どもから老人、成人男性にまで及び、普段は近所の住民たちで賑わう公園も不気味な静けさに包まれています。以上、現場から吉崎がお送りしました)

 テレビから流れるリポーターの声に、絵里は注意をひかれた。

「この事件さ、うちの近所なんだよね。せっかく魔術なんてすごい力があるんだし、なんとかならないかなぁ」

「絵里の優しい気持ちは察しますが、許されないことです」

「でも、きっとパッて解決できるよ?」

「魔術は極めて強大な力です。相応の力を持たない者に対して使えば、必ず歪みを生み出します。こういった事件は一般の司法機関に委ねなければなりません」

 ワイドショーではコメンテーターたちが悲痛な顔で、意見を述べている。

「うーん……」

「犯人を公正な裁判にかけ、法の裁きをくだすにはしかるべき手続きが必要なのです。魔術は諸問題を一足飛びに解決し、犯人を拿捕するかもしれません。しかしそれは司法機関による逮捕にはならず、結果としてより多くの問題を生むでしょう」

「でもこうしてる間にも次の犠牲者が……!」

「落ち着いてください。魔術師である絵里がなすべきは、魔術の研究です。仮に私達が失敗すれば人類社会は滅亡します」

「うっ、そうでした」

 絵里はがっくり肩を落とす。

「ごめん。なんか熱くなってた」

 のっそり手を動かして、オレンジジュースを飲み干す。冷たいジュースが頭を冷やしてくれた気がした。

「理不尽な犯罪に対して怒りを感じたのでしょう。ですが、私達が相手にすべきは、また別種の理不尽です。そのことを理解していただければ……はい、こちら識別ナンバー〇〇三九」

 いきなりなにもない空間に向かって話しだしたべるに、絵里は目を丸くする。アンドロイドは軽く目礼して会話を続ける。

「……はい。そうですか。了解しました」

 絵里に向き直ったべるの顔は暗く沈んでいた。

「重要な報告があります」

「待って。今のなに? 誰と話してたの?」

「内蔵された通信機能に、組織から連絡がありました」

「おおっ、メカっぽい。で報告ってなに」

「ニャルラトホテプの予告の裏付けが取れました。不可解な動きで地球との衝突軌道に入った天体を確認。落下予測時刻と地点は、四日後の正午、この家です」

「そっかぁ。がんばらないとね」

「……あまりショックを受けてないようですが」

「ニャルラトホテプがその気になったら、できちゃうんだろうなって思ってたし。たぶん私達が試練を超える以外に解決方法ないんだよね」

「そうですね。世界中の核兵器を集めても破壊には至らないでしょう。また、魔術による対処も原理的に不可能です」

「原理的に?」

「宇宙は真空空間のため、歌、つまり音を媒介とする魔術は発動しません」

「なるほどねー。やっぱり私達がやるしかないんだね」

 絵里は立ち上がると、胸の前でぐっと拳を握った。

「ねぇねぇ、べるちゃんもネクロノミコンの解読いっしょにやろうよ」

「解読は孤独に書と向き合う作業です。私がいてもお役に立てません」

「私べるちゃんが歌ってるところ想像しながら作業してるんだよ。顔を見ながらだったらもっと上手くいくと思うんだ。あっそうだよ! セキュリティがどうとかで、ネクロノミコンとべるちゃんのソフトだけ入ってるタブレットもらったでしょ。あれに打ったのを、そのままべるちゃんに歌ってもらえばいいんだよ!」

「入力された譜面を、リアルタイムで出力するということでしょうか。技術的には可能ですが」

「じゃあ決まり! れっつごー!」

「え、絵里?」

 絵里はべるの手を引き、勢い込んで部屋に戻る。だがすぐに、実際に歌唱するのならば、不慮の事態の招かないために異界で作業を行うべきだとべるが諭す。

 二人は近くの公園まで移動し、周りに人がいないことを確認してから、異界門の創造を発動させた。


 光を抜け、絵里は三度異界へ足を踏み入れた。赤紫色の苔を踏んだスニーカーが、変わらず気味の悪い感触を伝えてきた。

 べるが服の裾をめくると、小気味よい音がして腰の辺りからコネクタが飛び出した。べるの手がコネクタを掴み、コードを引っ張り伸ばして、絵里の持つタブレットに接続する。

「おーメカっぽい」

「魔術戦闘用アンドロイドですので。……プラグインのインストールが完了しました。これで、タブレットにインストールされている青葉べるのソフトウェアと、私がリアルタイムでリンクします」

「自分で言い出しといてなんだけど、不思議な感じがするね」

 絵里はベンチに腰を下ろし、持ち込んでいたスタンドにタブレットを立てかけた。少女の指がモニター上を走り回る。

「えーりーえーりー がーんーばーろー ……絵里、なにを歌わせているのです」

「いやあ、つい」

「こんなことしなくても、私は絵里を応援しています」

「うんっ」

 解読作業は、穴埋めクイズのようなものだった。先行研究から読みかたが判明している箇所はピアノロールにノートが打ち込まれ、パラメータも調整済みだ。ただそんな風に完成しているのは一部だけで譜面は穴だらけだ。曲の展開からある程度は予測してノートを打ち込むけれど、正解かどうかは音を鳴らしてみるまでわからない。当たりの時は、脳にピリッと電流のような感覚が走って、これ以外ないと確信が生まれる。これが魔術師の資質というものなのだろう。

 絵里が再生ボタンを押すと、べるから発せられた音が異界の空気を震わせた。音高はA5、音価はBPMが120で2拍、歌詞は「ら」と入力してあるけれど、エフェクトをかけまくっているためもはや日本語の「ら」の形を保っていない。

「違う……次は少し前のところから通してみるね…………違う。ポルタメントをいじって……もう一回いくね」

 たった一つの正解の音を当てる作業は、音楽という大海の中で透明なビー玉を掴み取るのに等しい。しかも、人間の持つ概念に当てはめれば歌が近いというだけで、実態はどんな音楽理論も通用しない呪文なのだ。大海は大荒れだった。

「あれ? こんな表情づけだったかな」

「申し訳ありません。絵里が楽しそうだったので、つられてこちらの情感が乗ってしまいました」

「そんなに楽しそうだった?」

「はい。とても」

「えへへ。じゃあもっと楽しい感じにしよう!」

「それでは譜面から離れてしまうのではありませんか」

「まだそこまで曲の解釈がはっきりしてないんだ。だから、べるちゃんが歌ってて楽しいって感じたなら、それが正しいんだよ。曲は歌手に嘘をつかせないの」

 べるは少し驚いた顔で言う。

「……しかしこれは、魔術の呪文であって、我々の考える曲や歌手といった考え方が当てはまりません」

「音楽って、ぶっちゃけ空気が震えてるだけなんだよね。でもそれはなんて言うか……そう、魂! 音楽には魂をビリビリって震わせる力があるんだよ。あれって、解読で正解の音当てた時と同じ感じなの。魔術と音楽は全然違うけど、きっと同じ根っこのものなんだね」

 その気付きに、はしゃいでいた気分が落ち着く。この楽しさを味わうと、魔術は音楽を利用しているとは思わなくなっていた。きっと同じ現象の呼び方が違うだけだ。

「そうですね、これまで研鑽した音楽的直観や理論を援用しつつ、呪文を完成させてもらいたいと思っています」

 絵里は、瞳に真摯な光を宿し譜面を見つめる。

 荒れる音の大海の中、自身の解釈が羅針盤になると信じて。

「うん。やっぱり楽しい感じでいくよ」

「それが絵里の結論ならば、信じます」

「私のっていうか、音符が進みたがってる方に進路を整備してるイメージかな」

 絵里は、とても正しいことを言ったと満悦顔だ。べるは戸惑ったように首を傾げた。

「……絵里は、心の底から音楽を信頼しているんですね」

 べるは言外に、音楽家の両親を交通事故で失い、その加害者の音楽家志望の青年も亡くし、音楽から離れていたのに、と言っている。

「そう……だね。自分でも不思議だけど、好き嫌いと、信頼は別なんじゃないかな。好き嫌いだとどっちも自分の中にあるから。でも、信頼は絶対。音は正しく鳴りたがってるし、鳴るべきだって確信がある。理屈はないけど、私にとっては当然のことだよ」

「純粋に音として正しいものは、魔術の呪文としても正しいはずだと」

「そうそう」

「なるほど……よくわかりました。続けましょう。楽しく」

「音と楽しむと書いて音楽だよ!」

「音楽の語源は、声音と器楽のはずですが」

「細かいことは気にしなーい」

 べるの歌声が響く。絵里は細かくチューニングと指示を繰り返し、べるはそれに応え、新たな解釈を返す。音に身を委ねる二人は目を合わせ。少し興奮した笑みを交わす。生物の気配のない、気味の悪い世界だけど、ここだけは熱く魂が脈打っていた。

「で、できたぁ……」

「お疲れ様です」

「よっし。早速通しでやってみよ」

「疲れていませんか? 少し休みましょう」

「大丈夫大丈夫。テンション上がりきっちゃってるだけだから、ふふふ」

「そ、そうですか。では一度だけ……絵里、私から十分に離れてください」

「えっなんで?」

「魔術の効果が不明だからです。完成した曲を最初から最後まで演奏した時初めて、それがどのようなものか魔術師の頭に浮かび上がると報告されています。絵里も、現時点ではこの曲の効果を把握していませんね?」

「そうでした……譜面の上に、曲名と解説っぽい文あるけど、これは文字譜じゃないんだよね」

「そちらの文の解読が進めば、安全かつ効率よく進められるでしょうが、きっと最終ロックのような役割なのでしょう」

「危ないと思ったらすぐ助けるからね。べるちゃんも気をつけて」

 べるの指示に従い、完成した曲をべるの中にインストールし、ケーブルを抜く。絵里はタブレットを持って距離を取った。

 べるが緩く両手を広げて構える。大きく口を開け、呪文を紡ぎ出した。跳ねるリズム、踊るメロディー。思わず笑みがこぼれるような、楽しい曲に仕上がっている。

 曲が終わり、炎が出るか雷が落ちるかと思っていたが、なにも起こらない。ただ一瞬、巨大な影が公園をよぎった。

「あれ? ……ってうわわわ!?」

 影の正体を求めて見上げた絵里は、目に飛び込んできた異形に絶叫する羽目になった。全長は四。五メートルぐらいだろうか。巨大なアリにコウモリの翼が生えたような怪物が、ゆっくり空中を旋回していた。鉤爪の生えた両手両足は直立歩行できそうなほど長くバランスよく、頭部はワニに似ている。

「ばい……あくへー。バイアクヘーの召喚の呪文だ……」

 頭の中から弾き出されたように、絵里は呪文の効果を口走っていた。

「バイアクヘー。星間を飛び回る生物ですね。高速で飛翔し、宇宙空間ではワープをも行うと言われています。召喚者には従順で、人語も解するということですよ」

 べるは落ち着いているし、解説通り危険はないのだろう。

「じゃあ。おほん、おーい! こっちおいで~」

 絵里が大きく手を振ると、バイアクヘーは翼をゆったりはためかせ、公園に降り立った。間近で見るとかなり大きい印象だ。絵里が恐る恐る手を伸ばしても動じず、翼を撫でると、甲高い声で気持ちよさそうに鳴いた。

「こうしてみると、キモカワイイかも」

 本当に言葉を理解しているらしく、バイアクヘーは嬉しげに鳴く。

「うむうむ。いい子だね。それで、この子どうすればいいの?」

「背中に乗ったまま運んでくれるそうですよ」

「おぉ~楽しそう! 待てよ、ギリギリまで寝て学校までワープすることも……?」

「絵里。問題が多すぎます」

「冗談だってば。魔術はそういう風に使うものじゃないよね」

 ひとまずバイアクヘーは還すことにし、空へ消えていく新たな仲間を見送る。

「学校はともかく、バイアクヘーを使いこなすためにワープ使用には備えておくべきですね」

「どゆこと?」

「ワープ航行に、人間の肉体や私のボディは耐えられません。しかし、黄金の蜂蜜酒の飴を服用すれば、宇宙空間及び時空間移動への一種のバリアを得られるのです」

「お酒? 私未成年だよ」

「バリアの概念が物質化したものですから、いわゆるアルコール類とは似て非なるものです。消化器官を持たない私でも服用することに意味があるのです」

「宇宙に行くことなんてないけどねぇ」

 のんきに空を見上げていた絵里は、ふと強い視線を感じた。それが何かと考えるより先に、本能が一瞬で心身の警戒レベルを限界まで引き上げていた。鋭く走った絵里の目は、一匹の小動物を捉えた。

「ネズミ……?」

 訝しむ絵里とべるをよそに、ネズミはふてぶてしい足取りで近づいてくる。

「こんな姿で失礼する。なにぶん忙しい身でね、許してくれたまえ」

「ネズミがしゃべって……!」

「声紋照合。ニャルラトホテプですね」

 ネズミは歩みを止めると、小動物の顔面で可能とは思えないほどの、皮肉めいた笑みをたたえた。

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