ボンド 傷と紅蓮

 絵里は土煙を置き去りにして跳躍、一瞬にしてキーストーンタートルの頭のさらに上空に到達した。狂戦士は体を激しく回転させ一個のダウンバーストと化すと、自らの噴き出す赤い血の尾を引いて巨大亀の顔面に激突。硬い皮膚と強靭な筋肉をこそげ飛ばす。絵里は走りながら止まることなく偃月刀を振るい、巨大亀の顔面に赤い血の亀裂を刻んでいく。

 キーストーンタートルは顔に付着した小さな異物を払うため、軽く首を振る。それだけで絵里は一直線に吹き飛び空中に投げ出された。

 巨大亀が右前足を振り上げると、発生した上昇気流が建造物を破壊し、瓦礫を巻き上げていく。右前足は、空中で身動きの取れない絵里の頭上に占位した。

 右前足の巨槌は轟音伴い落下。自ら生み出した空気の壁すら破砕して進む。

 自身の体重の数万倍はあろうかという巨槌を、絵里は偃月刀の峰に左手を添えることで受け止めた。過剰な負荷に少女の体は悲鳴を上げ、あちこちから血しぶきを噴くがわずかでも力が抜ければ即死するしかない。だが、右前足が地表を踏みしめるまで一秒も残されていなかった。

 絵里は大きく腰を反らし力を溜めると、振り子の要領で両足を上げる。天井と同義の、巨大亀の右前足裏を蹴って急速降下。着地と同時に大地を蹴った絵里は血しぶきでVの字を描いて圧殺の運命から脱出。直後に落下した巨槌が大地を爆砕した。

 駆け上がる爆風に翻弄されつつも、絵里はビルの壁面に着地するとそこからキーストーンタートルの頭上へ舞い戻り、降下の勢いを乗せた偃月刀を顔面にねじ込ませた。

 キーストーンタートルの不機嫌な唸り声と、絵里の狂戦士の咆哮が共鳴ように響き渡った。絵里は飛翔すると、ビルの壁面を蹴って急激な方向転換、家々の屋根を飛び移りながら高速の三次元攻撃を仕掛けていく。

「絵里……このままではいけない」

 激しく動く一人と一体の戦闘を追いながら、べるの表情は焦りでこわばっていた。偃月刀が与えている戦闘力は驚異的なものだが、絵里の体がついていけていない。傷は再生されても、失った血まで戻るわけでもなく、すぐにも体力が尽きる。その時点で、絵里の命運も尽きる。

 べるはホルスターから拳銃を引き抜いた。アンドロイドの瞳が対象までの距離を計測し、皮膚センサーが風向風速を捉え、頭脳が正確な弾道を導き出した。拳銃が吠える。吐き出された弾丸は、空中にいた絵里の眼前を行き過ぎていった。赤く染まった瞳が、べるを睨む。 

 絵里はビルの屋上から跳躍すると、その背後でキーストーンタートルは自らの頭を巨槌として大地に叩きつけた。発生した爆風をも利用して絵里は空を走るように移動し、べるの前に降り立った。

 無造作に偃月刀を振り上げる構えは、さっき校庭で見せたものと同じだ。べるは、収集していた戦闘記録から予測される攻撃を演算。垂直に走ってくる衝撃波に長い銀髪をさらわれながらも、紙一重の見切りでかわすと、一気に絵里との距離を詰め、抱きしめた。

「絵里っ」  

 べるの腕の中で絵里は暴れ、腕からしたたった赤い血が飛び散る。べるのセンサーは、少女の体が危険なほど発熱していることを感知していた。べるの腕に一層力が込もり、熱を吸い取ろうかとするように体を密着させる。

「絵里、あなたは十分傷ついてきた。そして贖罪と己の善を貫くために、苦難の道を選んだ。きっとこれからも辛いことがあるでしょう。ですが、私が支えます。辛いことも、きっとあるはずの嬉しいことも、分かち合いましょう」

 べるは体を少し離し、自らの額を絵里の額に、こつんとぶつけた。至近距離で二人の視線が交わる。絵里の赤く染まった狂獣の瞳を、べるの瞳が海のようなおおらかさで受け止める。

「あなたは善き魂を持つ人。魔に屈したりしないと信じています。ですが目覚めの合図が必要ならば、それはパートナーである私の務めです。どうかご容赦を」

 べるは頭を引くと、鈍い音が響くほどの勢いで頭突きをかました。仰け反った絵里の額から血が流れ、呆然とした少女の瞳のそばを伝い落ちる。赤い涙のようなそれを、べるは頬をこすりつけて拭うと、二人の顔の同じところに同じような血化粧が施された。

 葛藤に激しく揺れる絵里の瞳を、べるがじっと見つめる。アンドロイドの美しい瞳には、深い優しさの海の中に苦しみや寂しさのさざ波が広がっていた。

「私には、人間での痛覚に相当する機能がありません。あなたの感じている痛みを想像することすらできない。ですから、あなたが傷つくなら私も傷つきましょう。この額の損傷で、あなたに近づいていると信じて。さあ、目を覚ましてください。私を見てください」

 二人の周囲に影が生まれた。転瞬、轟音立てて落ちるキーストーンタートルの左前足が大地を微塵に踏み砕く。

 もうもうたる白煙から飛び出し、少女がしなやかに駆ける。少女の左手は冴え冴えと白銀に輝く偃月刀を握り、両腕と右手でパートナーのアンドロイドを抱いていた。

「うわああああああああああああああ」

「絵里」

「あああああああああああああああああああああああ」

「絵里っ」

「べるちゃんごめええええええええええええええええええええん」

「はい」

「でもありがとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

「はいっ」

 キーストーンタートルが地形を変える音を背景に、絵里は走り続ける。べるに言いたいことは胸の中にあふれるほどあるのに、それが喉を通ると溶けるように崩れて、舌に乗るともうただの叫びにしかならなくなっている。足を止めたら、なにか正しいことを言わないといけない気がして叫びながら走り続ける。

「あああああああああああああああ」

「絵里。敵との距離は十分開いています。これ以上は意味が薄いと判断します」

「あっ、はい……」

 徐々にスピードを落とし、止まる。振り返れば、確かに巨大亀は遠くなっていた。こちらを目指して進んできてはいるけれど、多少の猶予はある。

 絵里は思いっ切り頭を下げた。

「ごめん! ごめんなさい……その、許されないことしたと思うし……」

 急激に胃の底が冷えてくる。元々形を失っていた言葉が逆流し、毒となって体を回ったようだった。

「頭を上げてください」

「でもっ……」

「状況の解決が先決です」

「うん……」

 べるの硬い声に従い頭を上げる。歌姫の眼差しは、遠くで白煙に包まれている巨大亀に向けられていた。

「敵の巨大さと頑健さを鑑みて、通常の攻撃手段は通用しないと思われます」

「わかる……けど、どうすればいいのかな」

「ギルンゾゥプの呪詛を使います。これは対象に干渉し、細胞を強制的に爆薬へと置換させる魔術です」

「うわぁエグい」

「しかし対象があの巨大さでは歌い続け術を掛け直さなければ打倒には至らないでしょう。絵里には、直接攻撃での起爆をお願いします」

「よっし……がんばるね」

 偃月刀を軽く振って感触を確かめた。正気を失っていた時と遜色ない鋭い手応え。

「その前に武器を変えます。先ほどの騒動、元を正せば私がバルザイの偃月刀の危険性を認識しないまま絵里に渡したことに問題があります。絵里が責任を感じる必要はありません」

 冷徹に告げるべるの口調に違和感を覚える。

「もしかして、無理に作戦の話にしたのって、それを言うため?」

「考えすぎです。任務遂行上、必要な判断をしたにすぎません」

「じゃあ、これより強い武器あるの?」

「それは……」

 言い淀むべるに、つい笑いかけてしまう。

「ほーらね、もうべるちゃん優しいんだからぁ」

「これは優しさではありません。恐怖です。あなたが傷つくなら共に傷付きましょう。我を失うなら当然止めます。ですが、破滅に進もうとするのをむざむざと容認するつもりはありません。あまりに……恐ろしい」

 震えを無理に抑えつけたようなべるの声には真実味が宿っていた。恐怖というフレーズを与えられて、胸の中にあった感情たちが形を得た。死で満たされる戦場において、恐怖は嫌でも感情の基底になってしまうものだった。

「うん。よくわかってる。持ち主の心を支配する武器なんておかしいに決まってる。私も本当は怖い。見ず知らずの人を殺してたって知った時も辛かったけど、命の恩人のべるちゃんをこの手で殺しかけたことのほうが何万倍もキツかった」

 偃月刀に目を落としても、なにか答えが返ってくるのでもない。強く握り、硬さと重さを噛み締めながら言う。

「でもさぁ、地球の運命かかってるんじゃ放り出せない。この武器は、きっと必要だよ」

 べるは観念したような、でもほっとしたような顔で、ゆるゆると首を振った。

「私がどうかしていました。時間を使わせて申し訳ありません」

「ううん。べるちゃんが私のことすっごく心配してくれてるって伝わって嬉しかったもん!」

 烈風が吹き付けてきた。キーストーンタートルとの距離が詰まってきている。

「いこっか」

「はい」

 絵里は軽く助走をつけると電柱に跳びかかり、三角飛びの要領で家屋の屋根に飛び移った。背後から流れてくる曲は低く重くざわめく伴奏の上を、人間には不可能な超高音のボーカルが蛇のようにのたうつ難解なものだ。べるの集中を切らさないために、派手に動いて敵の注意を引かなければならない。

 絵里は家々の屋根を走り渡ると、屋根瓦を砕く強力な踏み込みで力強く跳躍。高く高く上昇した絵里は、キーストーンタートルの頭上に踊り出た。

「らあぁ!」

 空中でバルザイの偃月刀を薙ぎ払う。唸りを上げる衝撃波が、巨大亀の鼻面を刻み盛大に赤い血しぶきを上げさせた。

 だがこの程度の傷は、キーストーンタートルの巨大さからすれば些事にすぎない。ニャルラトホテプの下僕は、空中で身動きの取れない獲物を粉砕しようと無造作に頭部を振り上げた。

 絵里は薙ぎ払った勢いを利用して限界まで体をひねっていた。さっきは正気を失った状態でも、この武器から驚異的な力を引き出せた。昨日は、自分の意思で力を引き出してきた。今なら、制御を保ったままでもう一段階上へ行ける確信がある。柄を握った手から熱が広がってくる。熱い流れが細胞を賦活させながら体を巡っていく。飲まれることなく、使いこなす。

 体に溜めたバネを解放。空気の壁を砕いて回転するコマと化した絵里は、体を流れる運動力を切っ先に集約、撃ち出した。衝撃波はもはや指向性爆撃に等しく、キーストーンタートルの顔面を引きちぎりながら進撃、肉片と血を含んだ赤い風が空へと抜けた。

 衝撃に指向性があるとはいえ、これだけの威力で反動がないはずがなかった。だが、それこそが絵里の狙い。反動で大きく吹っ飛ばされることで、不可能なはずの空中機動を成し遂げていた。虚しく行き過ぎる巨大亀の頭部を見送り、絵里はマンションの壁面に着地した。

 烈風が絵里の全身を叩く。絵里の視界を埋めたのは、赤紫色の苔で汚れた巨大亀の左前足裏だった。絵里が素早く飛び降ると、頭上からは爆音が轟く。

 マンションに空いた大穴から、瓦礫が雨のように降って来る。絵里は揺れる大地に足を大きく広げ、腰を落とした姿勢から一息に刀を振り上げた。指向性爆撃にさらわれた瓦礫は、弾丸の一つ一つが砲弾並みの大きさを持つ巨大な散弾となって、キーストーンタートルの顎を殴りつけた。

 これはさすがに不愉快だったか、巨大亀は喉の奥で唸り声を鳴らした。唸り声は地響きを伴う振動へと増大して響いていく。絵里が訝しげな視線を投げると、巨大亀の口ががばりと開き濁流が溢れだした。

「きったなぁー!?」

 絵里の悲鳴をかき消して、吐き出された大量の消化液は滝のように大地に降り注ぐ。爆進する消化液は、道路を溶解させ、崩れた建造物を飲み込んでいく。必死になって走る絵里は、家屋を次々飛び移り高度を稼ぐと、なんとかビルの壁面に偃月刀を突き立てて消化液の大河から逃れる。だが一息つく間もなくビルが傾き始める。

 ビルの傾く方向は、運悪く絵里がぶら下がっている面を下にしていた。このままでは消化液に沈められるが、見渡す範囲に飛び移れそうな建造物はない。絵里はビルの窓をぶち破って侵入すると斜め上にある窓を目指し、傾いていく廊下を駆け登る。

 激震とともに、ビルの部屋からデスクやロッカーが廊下へと吐き出された。騒々しく落ちてくる障害物を避ける暇すら惜しい。偃月刀で両断し、隙間を縫うように進んでいく。

 背後から、こもった着水音と背筋をぞわりと撫でる物体が溶ける音が聞こえた。もう一瞬の猶予もなく、渾身の力で壁を蹴ると、その勢いで窓を突破しビルの壁面へと躍り出た。

 壁面を駆け登り、崩れていないビルへと飛び移ってようやく絵里は一息ついた。 

 目に飛び込んできた光景に絵里は息を飲み、吸い込んだ刺激臭に軽くむせる。地形が一変していた。キーストーンタートルから前方の放射状一帯の低階層の建造物は消化液に流され、マンションやビルなどは打ち上げられた小舟のように横たわっていた。

 崩壊した街に、べるの歌声が響く。曲のテンションが高まり、耳朶を粘着質ななにかで撹拌機されているような奇妙な曲調は確かに呪詛にふさわしい。

 キーストーンタートルが身じろぎし、硬い皮膚のあちこちに黒い腫瘍が浮かび上がる。

「来た!」

 絵里は跳躍。横倒しになったマンションに着地と同時に転がって勢いを前進に転化し、止まらず進む。ビルからビルへと飛び移り、傾いた鉄塔を駆け上って高度を得ると、足場がひしゃげる強さで踏み込み、絵里は一個の彗星となって空を翔けた。

 バルザイの偃月刀が甲羅に生まれた腫瘍を突き破り、内部をえぐった。絵里は寸暇を置かず、アクロバティックな動きで上空へ離脱。 

 直後、腫瘍が急速に膨張したかと思うと、爆裂。荒野めいて乾いた皮膚を裂いて灼熱の大花が開いた。

 降下しながら腫瘍の位置を確認していた絵里は、キーストーンタートルの鼻先に着地すると疾走を開始。刃を振るう少女が駆け抜けたあとには、次々と紅蓮の爆発が起こり、荒廃した世界の高空を紅く彩った。キーストーンタートルが悲鳴を上げて身悶えし、体表では暴風が起こる。

 鼻先から甲羅の後部までを焦土に変えた絵里は、尻尾に刄を突き立て暴風に耐える。風が止んだ一瞬の隙に飛び上がると、空中から渾身の衝撃波を放つ。さらに体をひねってもう一度、回転しての追加攻撃。

 紡がれ続けるべるの魔術が、瓦解した甲羅の下に新たな腫瘍を生み出し、そこへ刺さる衝撃波がキーストーンタートルの内腑をえぐる爆発を起こす。爆発が爆発を呼び、炎の渦が巨大な胴体を潜っていき、ついに腹部まで貫通。紅蓮の柱に腹部をぶち抜かれたキーストーンタートルは、口から断末魔と蒸気を吐きながら、ゆっくりとくずおれていった。

「よっし」

 道路に降りていた絵里は、ガッツポーズを作った。ひとまず、試練はクリアして生き残った。ただこんなのがあと四つもあり、そこには地球の命運がかかっている。

「負けてやらない」

 小さく決意をつぶやく絵里の目に、駆け寄ってくるべるの姿が入った。戦闘の疲れや試練の重圧など溶けるように消えて、絵里は思いっきり手を振っていた。

「べるちゃーん! おつかれっ、帰ろう!」

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