インビテイション 神と赫怒

「実に素晴らしい」

 豊かな膨らみを持つ、低く響く声で男が言う。

「君のことだ、庵野絵里。音楽家としての才能のみならず、昨日のナイトゴーント、今はムーンビーストを退けた戦士としても十分な力量を示した。いや、手下を仕掛けたのは、私としてはちょっとしたお遊びのつもりだったのだが、こうも完璧な対応をされては称賛の念を禁じ得ない。だがそれだけなら君たちの前に姿を見せる気はなかったのだが……ン・ガイの炎獄を使われては私も黙ってはいられない」

 男の目がべるを捉える。静謐な眼差しは、凄みを増し、黒々とした底なしの虚無が渦巻く深淵へ通じているかのようにも見える。

「ン・ガイはお気に入りの怠け場所だったのだが、うっかり辺り一帯を焼け野原にしてしまってな。あの時の炎を呼び出す魔術があるのは、まぁ理解もしよう。だが、実際使われるとなると私も気分がよくない。なぜ使ったのかね、青葉べる」

 べるの美しい顔は、畏怖と絶望に染まりきっていた。唇が何度も開いては閉じる。誤った返答は破滅を意味すると知っているかのようだった。

「……ナイトゴーントとムーンビーストを従えるお方となれば、あなたを思い浮かべるのは当然です。ン・ガイの炎獄を使えばあなたの逆鱗に触れることも承知していました。だからこそ、この魔術を使うことで、あなたがこの連続する襲撃に関わっていない証明としたかったのです」

「愚かな賭けだが、勇気は認めよう。それでどうだね、関わっていると証明された気分は?」

「……演算処理の限界を超えています。途方に暮れている、とでも申しましょうか」

「この千の無貌を前にしては、仕方のないことだな」

 残酷な問いから絶望的な答えを引き出した男はしかし、つまらなさそうにうなずくに留めた。

「やはりあなたは、闇に棲むものにして、燃える三つ眼、チクタクマンにして、ブラックファラオ、あるいは……這い寄る混沌」

「多くの名で呼ばれるが、広く通っているのは、ニャ&%トホ※プだろうな。この名は発音できる種族が少ないし、簡易にニャルラトホテプとでも呼べばいい」

 絵里は固くなったつばを苦労して飲み下し、口を開いた。

「……じゃあ、ニャルラトホテプは私になにか用があるんですか」

「もちろん。君を窮極の楽団に招待しに来たのだ」

「それはいけないっ」

 窮極の楽団とは魅惑的な響きだけれど、それよりも見たことがないほど焦ったべるの態度に驚かされた。

「絵里、行ってはいけません。身の破滅を意味します」

「それは誤解だ。神に供する窮極の音楽を奏でる座に着けるのだから、これほど栄誉なこともない。現在の肉体は滅び、魂だけとなって永劫に神の下僕となることを破滅と呼ぶのなら、否定はしないが」

 ニャルラトホテプは唇をわずかに動かしカミソリのように鋭利な冷笑を刻む。

「神? 神さまは本当にいるの? あなたは、何者なの……?」

「そう一度に訊くものじゃない。ふむ。せっかく姿を見せたのだから、たまには丁寧に勧誘するのも一興か」

 浅黒い手をさっと一振りするニャルラトホテプの前に、白く濁った不定形の物体が煮え立っているような映像が浮かび上がった。

「ホログラム? これも魔術?」

「君たちの理解では、魔術ということにしておいていいだろう。この不格好な存在が神ということで納得してくれたまえ」

 ニャルラトホテプはさらに手を一振りした。神らしい物体の全周囲に漆黒の空間が生まれ、空間の中には無数の輝きが穿たれている。

「さて、これが世界の概略図だ。まず神は実在する。正しくは神しか実在しない。この世界全ては神が見ている泡沫の夢だ。邪悪な神が見続ける悪夢の世界だ。そんな神でも目覚められては世界が消滅してしまう。そこで窮極の楽団は子守唄を奏で、私は世界の端から端まで駆け回っては、神が目覚めを望まないよう面白おかしい出来事を起こしているわけだ。神の使者と言えば格好はつくが、要は体のいい使い走りだな」

 絵里は胸の奥底で、黒く粘着性のマグマめいた感情がぼこりと泡立つのを感じた。

「……私も窮極の楽団に入って世界の維持に協力しろって言いたいんですね」

「そうだが。君は自分が仮初めの存在だと知っても特に反応がないのだな。多くの個体は混乱や恐慌を見せたものだ」

「この世界は理不尽で、条理と不条理がより合わさって解けないままぶちまけられている……」

「ほぉう」

 絵里の瞳に宿る暗い炎に、ニャルラトホテプは興味深そうにあいづちを打った。

「こんな世界、邪悪が神が見る悪夢なら納得がいく。あなたの言ったこと、本当だと信じられます」

「愉快な解釈だ。対話してみて正解だったよ、庵野絵里」

 絵里の瞳の暗い炎はこぼれ落ち全身へと燃え移って、鬼気となって発散される。べるは不安そうにパートナーを見るが、幽鬼と化した絵里の視線はニャルラトホテプを、そしてその先の神しか見ていなかった。

「神が死ねば世界は消える」

「道理だな」

「あなたは私の能力を必要としている」

「そうだ」

「じゃあ、私がいなくなるとあなたと神は困る」

「まぁ、そうだな」

 バルザイの偃月刀が一閃。冴え冴えとした刃は、絵里の首の皮を薄く裂いて停止していた。とっさにべるが腕を掴んでいなければ、絵里は確実に自らの首を斬り裂いていた。

「なにを、しているのです」

 絵里の鬼面にはまった眼窩に盛る燎原の火が、理解不能の表情を張り付かせたアンドロイドを貫く。

「邪魔しないでよ。これは復讐なんだよ。お父さんとお母さんは、居眠り運転のトラックに殺された。じゃあそのドライバーは悪? 執行猶予中に謝りに来たよ。私が殴り続けても耐えてた、死ねって言っても黙ってた。あの時は梅雨で、無視してたのに雨の中一週間ずっと家の前で土下座し続けられたからさすがに話聞いたら、その人音楽家目指してるけど生活していけないから深夜の、違法な運送してたんだって。真っ青な顔と真っ赤な目して本気で謝ってるのわかったし、試しに聞いてみたら、歌もギターも上手かったよ。怒り切れなくなってきた頃、その人死んじゃった。お金稼ぐためにめちゃくちゃにバイトしてたら過労死だって。誰にも見つけてもらえなくて、アパートの中でギター抱いたまま腐ってたんだって。ねえ誰が悪いの? 体力のない人? 違法労働させた会社? 役所や政府や国? じゃあその先は? みんなその場で生きてるだけで善と悪にわけられない。そんなの社会に出たことない私でもわかったよ。そしたら今度は私が人殺しになってた。巻き込んだ人も数えたら大量殺人者だよ。あの人が感じてたた恐怖を味わったし、すぐに償わなきゃいけないって気持ちになった。じゃあそんな気持ちになるきっかけになったあの事故は正しかった? 両親はあの人に殺されてよかったってこと? 悪いのは誰? 無知な私? べるちゃんの組織の人? じゃあその次は? どこまで突き詰めればいいの? 悪の黒幕なんかどこにもいない。この世界そのものが悪なんだから、黒幕がいるとしたらそれは神で、そんなものいないと思ってたら出て来て、でもそいつを倒したら世界は滅びるって? 神を倒したら世界が滅びるだなんて、最悪の世界に笑えないくらいお似合いの最悪さだよ。でも私はなにもしないなんてできない。神のために働くなんて冗談じゃない。神を倒しちゃいけないなら、邪魔してやる。思い通りになってやらない。これが世界と神への復讐なの!」

 圧倒され、よろめき離れるべる。そして、目を爛と輝かせるニャルラトホテプ。

「くっはははははは! 素晴らしい!」

 ナイは唇を歪み吊り上げて哄笑を響かせ、感極まったように両手を大きく広げる。

「私の描いた脚本を飛び出してこそ、良い演者だ! 生き様を演目とする最高の芸術家だ! よし、窮極の楽団への招待は取りやめよう。その代わり、君を主役とした舞台を用意する。そこで生命の限りを尽くし踊りたまえ」

「勝手なことを!」

 絵里の姿が消えた。一陣の土煙が駆け、その終点で剣士の姿が結像する。大気をつんざく音を残しバルザイの偃月刀が走るが、ニャルラトホテプは手の一振りで力を流した。上へひねり投げられた格好になった絵里は空中できりもみ回転して勢いを拡散させてから、柔らかく着地を決める。

「だがまた自害されてはつまらない。君は自分の命は軽んずるわりに、他者の命は重く考えているようなので、一つ、趣向を加えよう」

 ニャルラトホテプがなにかの合図のように指を鳴らす。警戒するが、特になにが起こったわけでもなかった。

「君たちの観測手法で言うと、五日後の正午、庵野絵里の自宅にカイパーベルトから呼んだ石が落ちるようにした。石は十kmほどだから、落ちれば人類は滅びるな」

「なっ……!?」

「君には五つ、試練を与えよう。それらすべてを乗り切れば、石は落とさないと約束しよう」

「脅しってコと? 卑ィ怯なァ……!」

「報酬だとは考えられないか。上手くすれば君は星を救った救世主だ」

 ニャルラトホテプは、自分で言ったことを欠片も信じていなさそうな嫌らしい笑みを浮かべる。

「青葉べる、君も参加したまえ。主役を彩る助役もまた重要だ」

「……絵里をサポートするのが私の使命ですので」

 声も表情も硬いままだったが、べるは神の使者を見据えはっきりと口にした。

「こコであなたヲ、倒せばァァァ!」

 刹那で間合いを詰めた絵里が偃月刀を振り下ろした。豪風ととも生まれた苛烈な斬撃が砕いたのは大地のみ。ひらりと身をかわしていたニャルラトホテプ目掛けて追撃の刃が疾走。さらに逃れるニャルラトホテプと、追う刃は、高速で走る黒い影と白銀の閃光となって大地を爆砕していく。

 突き出された偃月刀が剣圧だけで大気を轟かせるが、ニャルラトホテプの姿ははるか後方にある。神父服の男を睨む絵里の瞳は、鮮やかな赤に染まっていた。バルザイの偃月刀からは赤い粒子が妖気めいて漂い、絵里の全身にまとわりついている。

「魔の侵食か。その程度では私に触れられないし、そもそも私を攻撃するのはルール違反だ」

「るううああああ!」

 獣めいた咆哮を上げた絵里が偃月刀を水平に薙いだ。空間が断末魔を上げるとすればこんなものだろうかと思わせるすさまじい音を響かせ、剣風が校庭を駆ける。ニャルラトホテプは空中高くへ逃れていたが、校舎に亀裂が刻まれガラスは細片となって飛び散った。

「その武器、よく見れば狂者バルザイのものか。概念化された武器が戦闘記録を収集し、理論上無限に成長する魔刀、なるほど、魔に飲まれるのも無理はない」

「づああぁぁぁぁ!」

 喚声とともに放たれた斬撃は垂直の衝撃波となって、学校を破壊しつつ上昇。空中にいたニャルラトホテプはさらに高く逃れ、衝撃波は屋上を削りとって空へと抜けていった。

 絵里の周囲には赤い血が飛び散っている。少女の皮膚のところどころが弾けているが、すぐに再生されていく。攻撃によってかかる負荷に絵里の肉体が耐え切れていないが、ブーストされた再生力で強引な戦闘続行が可能となっていた。

「絵里、それ以上は危険です」

 駆け寄るべるを絵里は小うるさそうに一瞥すると、無造作に偃月刀を振り下ろした。迫る衝撃波を、べるは横に跳ね直撃こそ避けたが、世界が悶えるような衝撃波の威力は絶大。吹っ飛ばされ、大地を転がっていく。

 絵里の足元にはさらなる血しぶきの跡。傷ついた皮膚の範囲も広がっているが、修復速度も上がっている。己を傷つけ戦い続ける狂戦士の様態だった。

「暴走には暴走としようか」

 ニャルラトホテプが指を鳴らした。直後、天から落ちた超巨大物体が校舎を爆砕。爆風と激震に、絵里とべるは薙ぎ倒される。泥に汚れた顔を上げたべるの目が愕然と見開かれていく。 白煙を漂わせる校舎に突き立っている物体は、有機的なうねりを持ちその表面は乾いてひび割れた皮膚に覆われていた。

「これは昨日の……」

「キーストーンタートルだ。驚異的な成長と繁殖で、自らの星を食い尽くして滅ぼした愉快な種族唯一の生き残りだ。一つ目の試練は、こいつを倒すことだ」

 昨日は逃走しながらだったから全体像が掴めなかったが、今は嫌でもその異常な巨大さを思い知らされる。校舎に突き立っているのは左前足だが、それだけでも首を大きく傾けないと全貌が視界に収まらない巨大さで、そこからつながる胴体はもはや巨大という言葉では足りない。金属質に鈍く輝く甲羅は見るに明らかな堅牢さで城塞を思わせ、甲羅から伸びる首、そして頭部には、貪欲さと凶暴さのみを宿す眼球が地上を睥睨し、獲物を求め開かれた口からは唾液が落ちた。一筋の唾液は、それだけで瀑布に等しく直撃を受けた家屋を爆砕、さらに飛び散って飛沫がかかった周囲の建物の壁が崩れていく。この生物にとっての消化液は、その他すべてにとっては猛毒の強酸液となる。

 絵里はキーストーンタートルを新たな敵を定めたのか、獣の雄叫びを上げる。

「では、君の旅が面白おかしいものであらんことを」

 言い残し、ニャルラトホテプの姿が忽然と消えた。

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