1章 轟音開幕
デイズ 日常と戦場
命を狙われているようだけれど、学校には行くことにした。ノートは返さないといけないし、こんな状況だからこそ日常を維持したかった。もし攻撃されるとしても異界の中だろうし学校は巻き込まないと判断した。ただもしもの時のために、べるには学校の近くで控えてもらっている。申し訳なさとありがたさが半分ずつだ。
「……ノートちょっと曲がってない?」
由美子が不審な顔で古典のノートを見ていた。バッグは無事だったけど、中身は激しくシェイクされて運の悪いことに借りていたノートが一番下になっていた。
「気のせい! キノセイダヨー」
「本当は~?」
「本当は……うとうとしてたら、こう、腕がぐぐーっと」
「なんだ。私と一緒だね」
朗らかに笑って返された英語のノートは、思いっ切り曲がっていた。
「ひどっ! 全然一緒じゃないよ!」
「ぐぐーって言うか、ずざーって感じだったけどね」
「どんな勢いで寝落ちしたの!?」
「大丈夫。ヨダレはついてないから」
「本当は~?」
「つけたほうが喜ばれるだろうかと一晩考えた」
「いらないからね!? て言うかちゃんと寝て!」
「……いつまで漫才やってるのよ」
呆れ切った美香の声が刺さる。
「なんか止まらなくなっちゃって」
「むしろ美香が止めてくれるって信じてた」
やれやれと美香が首を振る。いつもと言えばいつものやりとりだ。ただこの日常を成立させるには、少し嘘を混ぜないといけないのが苦しかった。魔術なんかきっと信じてもらえないし、話すことで巻き込んでしまうかもしれない。ただ友達でいてくれればよかった。
「どうしたの絵里。疲れてる?」
美香は妙なところで鋭い。気をつけないといけない。
「そうかな? いつも元気な絵里ちゃんだよ」
「くすっ。ごまかされといてあげるけど、なにかあるならすぐ言ってね」
「本当にっ? じゃあ次の授業寝るから……」
美香の瞳の温度がみるみるうちに下がっていく。
「嘘です。ごめんなさい」
「よろしい」
チャイムが鳴る。さすがに授業まで大切な日常だと悟れはしなかった。休み時間と休み時間の合間に訪れる睡魔との戦いを制し、昼休みを迎えた。
弁当持参の由美子と美香は教室で待ってもらって、絵里は購買へパンを買いに行く。学校を満たすのは、遊びの計画のざわめきや、購買で好物を買い逃すまいとする駆け足の音、校内放送からはポップミュージック。小さく聞こえてくるピアノの音は熱心な誰かが音楽室で練習しているのだろう。自分にもそんな時期があった。いや、これからまたそんな情熱を取り戻さないといけない。魔術の勉強を進めないと、次に襲われた時も昨日のように上手く対処できるとは限らない。
「……あ」
廊下を歩いていた絵里の足は、足裏が伝える不快なざらりとした感覚に止まる。
生徒たちの気配は絶え、壁や廊下の隅には赤紫色の苔がこびりついている。ひび割れた窓の向こうの空は留まることなく色を変転させている。特に合図もなく、異界に踏み込んでしまっていた。
「マズイなー。すぐにべるちゃん来てくれると思うけど」
べるはこちらのスマホのGPSをモニタリングしている。異界に行くと反応が消えるから、すでに事態を察しているはずだ。それでも、呪文の完成には少し時間がかかる。
「時間稼ぎと偵察はしとかなくちゃかな」
とりあえず合流しやすいように、外へ向かう。階段に差し掛かった時、階下から獣臭い匂いと生理的に嫌悪をもよおすうめき声がただよってきた。絵里は足音を殺し、そっと下をうかがう。
醜悪な怪物がいた。全体としてはカエルが近い。肌は灰白色でぬらぬらしている。目や鼻があるべき場所にはなにもなく、代わりに密生するピンク色の短い触手がうごめいていた。口は横に大きく裂け、残忍そうな牙が並んでいる。手には槍を持っている奴もいる。穂先に何重にも逆棘が揃い、獲物に苦痛を与えるよう設計されていた。
残虐の化身のような怪物は、うじゃうじゃいた。統率の取れた集団ではなさそうだが、なにか目的を持って動いている感触はある。例えば、人間の女を探して殺すとかだ。
絵里は、口に手を当て悲鳴を抑えこんだ。魔術がなければあんな怪物の相手なんて不可能だ。
あいにくこの校舎には、東西の両側に階段がある。絵里は逆側の階段へと足早に廊下を進む。だけどすぐに、先の階下からも怪物の放つざわめきがただよってきた。足音の聞こえ方からして、奴らは階段を上がってきている。
このまま廊下を進めば階段で鉢合わせる。教室に隠れたところで見つからない保証はないし、最悪挟み撃ちにされる。
「だったら進むっ」
絵里は足元の苔を蹴散らし駆け出す。階段に到達したと同時、怪物たちが目の前に姿を現した。嫌悪と恐怖にすくみそうになる体をねじって跳躍。二段飛ばしで駆け上がる。
踊り場の手すりを掴んで急旋回した時、視界の端でまばゆい光が灯った。光は、怪物の顔にある触手に宿ったものだった。階段を埋め尽くす怪物たちの触手が一斉に発光すると光の絨毯のように見えて、ある意味幻想的ではあるけれど、触手の先端がすべてこちらを指しているのだから銃口を向けられているような感覚になる。
頭の中に響く警報に急き立てられ身を隠した直後、ピンク色の光が炸裂。数十もの光線が踊り場の壁を撃ち抜いた。壁が崩れる音と、怪物たちの耳障りなわめき声に背中に、階段を駆け上がる。上へと追い詰められている自覚はあっても、廊下を行けば身を隠すものもなく後ろから撃たれる。
屋上への扉はほとんど体当たりするようにして開けて、転がり出る。逃げる絵里の影を縫うように、次々と光線が突き立つ。外れた光が屋上の柵を撃ち砕いて、跳ねる破片が不協和音を奏でた。
柵まで追い詰められた。柵の向こうでは、色が変転し続ける空。そして地上では、長い銀髪をなびかせるアンドロイド。
べるは歌っていた。この不可思議なメロディーはきっと魔術を発動させるためのものだ。アメジスト色の瞳がこちらを捉えると、励ましてくれるつもりなのか、一気に声量が上がった。
光線が絵里のすぐ横の柵を砕き、空中で回転した柵が槍のように降ってきた。横に跳ねてなんとかかわすが、もう完全に包囲されていた。まばゆく輝くピンク色の光の群れが網膜に刺さった。
瞬間、歌がクライマックスを迎え、魔術が発動する。
校舎側面の空中に出現したのは、多数の鉄杭だった。出現から間髪入れず突進した鉄杭は、轟音立てて校舎に深く埋まり固定された。
振動で狙いのそれた光線が、屋上をズタボロに斬り裂く。絵里は、機を逃さず壊れた柵から身を乗り出した。
「べるちゃん!」
「絵里、それを伝って降りてください」
「伝ってって……」
下を覗けば、鉄杭は等間隔で撃ち込まれ、即席の階段を作っていた。鉄杭はギリギリで足を置ける程度の太さしかなく、当然、安全柵などない。
怪物たちが気を取り直し、絵里へと触手の先端を向けた。一呼吸で覚悟を決めて、屋上の縁から飛び降りる。屈めた絵里の頭上を、光線が貫いていった。
着地の衝撃に、軽いしびれが脚を走る。振り仰げば、怪物が屋上から身を乗り出していた。飛び降りようとしている奴もいる。絵里は鉄の足場を蹴ってスタートを切る。リズムは三拍子。タン、タン、タン。タン、タン、タン。絵里の後を追う光線が鉄杭を撃ち、舞い散った鉄が鈍くきらめく。
タン、タン、
「あっ」
足が滑った。仰向けで絵里の体が空中に放り出される。ここは学校の二階辺り。落下で即死はないけれど、しばらくは動けないだろう。この状況での行動不能は死に等しい。
地面に叩きつけられるはずの絵里を抱いたのは、冷酷な死神の腕ではなく、必死さの中に気遣いが感じられるアンドロイドの腕だった。
「また、助けられちゃった」
いわゆるお姫様抱っこの状態で、二人の顔がとても近い。絵里は赤くなっている顔ではにかみ、べるは生真面目にうなずいた。
「全力を尽くすと誓いました」
絵里はべるの細い肩を一度ぎゅっと抱きしめ、腕から降りた。
校舎から離れる二人の背後では、怪物たちが続々と降り立ってきていた。鉄杭を伝い降りてくるものも多いが、屋上から飛び降り驚異的な柔軟性と弾力性を発揮して直接地上に着地するものもいた。着地に失敗して潰れた仲間の死体をクッション代わりにするのはまだマシで、わざと蹴落として着地の安全を確保しようとするものまでいる。
屋上から溢れる落ち続ける灰白色のカエルもどきの大群は、校舎側面を埋め尽くし濁った滝のように見せていた。大合唱されるわめき声が耳に障る。
「うわぁ……」
走りながら振り返った絵里は、気色悪さにげんなりした顔になる。
「撤退しましょう。異界門の創造を歌います」
「ううん。さっき、すごいスムーズにこっちの世界に連れて来られたの。ここで逃げても同じことになるだけだと思う」
「昨日は撤退に成功しましたが」
「殺す気全開で、私を狙ってる奴がいるのは明らかだよ。昨日はある程度戦って、そいつを満足させたから合格、みたいな」
絵里の脳裏をよぎるのは、黒い影のぼんやりしたイメージだ。弄ばれている感触は腹立たしい。
「そろそろ、顔ぐらいは見せて欲しいよ」
「了解しました。ならばまずはバルザイの偃月刀を。そして、ン・ガイの炎獄を使って、ここで決着をつけます。学校から出て市街戦になると、奇襲を防げません」
ン・ガイの炎獄と口にする時、べるに緊張があるようだったけれど、詳しく訊く余裕はない。
「それでいこう! 私が注意引きつけるから、その間に歌よろしく」
絵里は反転、怪物たちの群れに向かう。灰白色のカエルもどきが津波のように押し寄せる光景に、恐怖と嫌悪感がこみ上げてくる。それでも後ろら聞こえるべるの歌が、追い風になって体を動かしてくれる。
愚かにも単身突っ込んでくる絵里をあざ笑うようなざわめきが広がり、怪物たちの触手が発光した。次々飛来する光線を、絵里はジグザグに走ってかわす。角度を変え、速度を変え、走り続ける。
ふと、自分にはこんな体力ないはずだと気づく。さっきから走りっぱなしだけれど、息が上がっていない。思えば、怪物の気配を察知したり、屋上から飛び降りたり、体や感覚がおかしくなってきている。きっとバルザイの偃月刀の影響だ。あれを持っている時に比べればたいしたことはないけれど、その変化は残留しているようだ。おかしくなっているというより、馴染んできている。
「絵里」
べるが叫び、白銀の輝きがきれいな放物線を描いて絵里の前に突き立った。
絵里はバルザイの偃月刀の柄を握る。体がかっと熱くなり、感覚が研ぎ澄まされるのを自覚する。超古代で活躍した魔術戦士バルザイの想念がこもった偃月刀。道具は使ってこそのものだ。なんとなくこの武器も喜んでいる気がする。今ならもっとこの道具の力を引き出せる。
「反撃開始だよ!」
絵里は体を低く沈め、突撃の構えを取った。
疾走で起こした土煙すら追い付かせず瞬時に間合いを詰めた絵里は、水平に偃月刀を振るう。両断された怪物の体が青い血煙をひいて宙に舞った。返す刃で一閃。肉片が地に落ちるより早くさらなる数の肉片が飛んだ。
剣舞は止まらない。触手を向けられれば頭部ごと断ち割り、短い槍を突き出されても持ち主ごと斬り伏せる。飛びかかってくるカエルもどきの腹部を貫き前進。後ろにいた個体の頭蓋まで貫通させてから振り抜くと、巻き込まれた触手や前足がちぎれ飛んだ。
もっと速く、強く。絵里は偃月刀を左手だけで握ると、左側面の敵を一息に薙ぎ払う。右後方から降下攻撃の気配を察すると、絵里は背面で偃月刀を右手に持ち替えた。振り上げた偃月刀が垂直に怪物を二分し、そのまま前方の敵にも同様の運命を辿らせる。槍の刺突は体を回してかわし、再び背面で偃月刀の持ち手を変える。怪物たちの予想よりも半呼吸分速く、腕一本分リーチの伸びた偃月刀が驚き硬直する肉体を斬り倒していく。
回転斬りの終点で絵里は上昇。足下では多数の槍が交錯し、擦れた穂先が、獲物を逃した獣の牙が噛み合うような音を立てた。絵里は空中で、少しだけ方向性を加えて偃月刀を落とした。偃月刀は、吸い込まれるように絵里の右足裏に収まる。体重をかけ踏み下ろした切っ先は、怪物の頭頂から胴体を抜け進んでいく。地面に刺さって動きが止まってしまう前に、絵里の右足が霞む。キックで跳ね上がった偃月刀は、青い血煙を散らしながら絵里の手に舞い戻った。着地と同時に、大上段からの斬撃を繰り出す。二つになった怪物の体は、あまりの衝撃に左右それぞれに吹っ飛んでいって、仲間たちを押し倒した。
怪物たちの大群が校庭を埋める津波とするなら、絵里は血と肉の雨を降らせる刃の嵐だった。天災と天災の激突めいた構図に、校庭は地獄と化していた。
地獄の騒音の中でも、べるの歌声ははっきり聞こえる。錯綜する通奏低音と、メロディーが絡み合いより合わさって伸びていき、爆発寸前だ。
「そろそろかな」
振り返ると、べるが小さくうなずいて見せた。絵里は刃を振るって屍の道を拓き、後退する。走りだした絵里に怪物たちは追いつけず、十分な距離が開いた。
歌がクライマックスを迎え、歌姫が腕を高く振り上げた。動作に呼応するように、爆音立てて極大の火柱が噴出する。怪物たちの中心部で発生した火柱は、天を焼くほどに高く伸び頂上部で炸裂。火山が噴火したように灼熱の濁流が走り、怪物をあっという間に飲み込んでいった。
「すっごぉ……」
十分な距離があるはずなのに、押し寄せる熱が絵里の肌をなぶっていった。濁流が引いたあとには、焼け焦げた大地に、骨まで炭化し灰の山となった怪物の残骸が広がっているだけだった。
「終わった……?」
絵里が呆けた顔で呆けた声を出すが、べるの表情は緊張したままだ。むしろ、一層緊張の度合いを高め、周囲を警戒している。
唐突に聞こえたのは、拍手の音だった。神経を逆撫でするような嫌らしい音色の拍手。二人は弾かれたように振り返る。
一人の男がゆっくりと歩いてくる。背が高くしっかりした体つきをしている。黒く長い髪は肩の辺りで乱雑に跳ね、浅黒い肌で精悍な顔からは野性的な雰囲気が漂う。だが同時に強い理性も感じさせた。それは、神父服をまとっているせいでもあり、静謐な眼差しで穏やかな微笑みを浮かべているせいでもあった。獣性を秘めた宗教家といった風体の男だった。
男はただ歩いてくるだけなのに、絵里は無意識に後ずさっていた。存在するだけで、周囲に暴力的な影響をまき散らしている。体は冷たくなり、鋭敏になったうなじを、そろりと汗が伝い落ちていった。
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