トゥルース 罪と過去
人目のつかないよう細い道を選んで家路をたどる。偃月刀は、消えるように念じると現れた時と同じような光の粒子となった溶けていった。
あれだけ激しく動いて、制服のポケットから家の鍵が落ちなかったのは奇跡としか言いようがない。
まず、とにかく、べるにはリビングで待っていてもらって、家に帰ってすぐ熱いシャワーを浴びた。汚れは落ちたけれど、緊張が切れたせいかさっきまでの比ではない疲れがのしかかってきた。ラフなシャツとパンツを身につけ、リビングについたころにはもう動けなくなっていた。
べるはリビングに所在なさげに立ち、カバーに埃の積もったギターを物憂げに眺めていた。
「ごめ、べるちゃん、お助け……」
慌てて寄って来たべるに、身体を支えてもらう。
「自覚症状を報告してください」
「筋肉痛……?」
「負荷がかかった反動ですね。バルザイの偃月刀は所有者の運動能力をブーストさせますが、相応の負荷を求めます」
「あれついていける人間いないでしょ、っていたた」
「慣れれば問題なく使いこなせるとの報告があります。あの、人間の身体をメンテナンスする機能を使いましょうか」
少し困惑した調子でべるが言う。機能はあるけど使うとは思っていなかった、そんな感じだ。はっきりしない言い方に絵里は首を傾げる。
「マッサージです」
「お願いします!」
階段を上がって絵里の部屋に向かう。まともに動けない絵里は、べるに肩を借りて引きずられるような動きになる。
べるの丸い肩にもたれかかった絵里の頬を、長い銀髪がくすぐる。
「べるちゃん髪サラサラだね。っていうか全然汚れてないね?」
あの埃っぽい風を浴びれば髪にほつれの一つもありそうなものだ。
「表面はナノマシンコーティングされており、汚濁物質を分解除去しているのです」
「わかんないけどハイテクだ」
「私を形作っている技術は、一般公開されている水準を大きく超えています」
「それはわかるよ。歌を聞かなかったら、アンドロイドだって言われても信じられないし」
「歌を聞いたから、私がアンドロイドだと確信したのですか?」
「人間の声帯の限界超えてるもん」
「さすがにいい耳をお持ちです」
部屋に入って、ベッドに倒れ込んだ。体重を受け止め、ぼふりと沈んだバネに心地よく包まれる。
「筋肉の付き方を調べます」
べるのひんやりしてしなやかな指に体中をゆっくり撫でられる。
「あひゃっ、くすぐったい」
「完了しました。マッサージを開始します」
今度は手のひら全体を使って、正確なリズムで揉みほぐされる。痛みと気持ちよさが広がっていく。
「っはぁ~きくぅ~~」
足をバタバタさせてみると、ぐっと力がかかった。
「おとなしくしてください」
「あっはい……あの、ごめんね。べるちゃん命の恩人なのにこんなことまでしてもらって」
「あなたのサポートも任務の範囲内です。それに異界から脱出する際、あなたは私を優先してくれました。褒められた判断ではありませんが、率直に申し上げて嬉しかったのです。気にしないでください」
「照れるなぁ」
しばらくマッサージを受け、痛みがだいぶ和らいだころに絵里は言う。
「そろそろ、色々聞きたいな。魔術? のこととか、べるちゃんのことも」
「魔術や異界、異界生物の実在についてはもう疑いありませんね」
「異様な体の軽さと熱さ……生温い風……怪物を斬った感触、全部はっきり思い出せるよ」
「順番にとのご要望でしたが、詳細な史実は我々も把握していないのです。判明している限りですと、超古代では人類は魔術を操っていました。バルザイは、約三百万年前のハイパーボリアという土地で例の偃月刀を製作しました。しかしいつの頃からか魔術は失われていったのです。魔術文明は崩壊し、ハイパーボリアも海底に沈みました」
「ちょちょ待って。壮大すぎてついていけないかなーって……」
「順番に話すとこうなります。理解出来なくても構いません。あなたにとって重要なのはここからです。我々は超古代の魔術師が残した魔道書の解析を進めてきました。魔道書は数多くありますが、留意すべきは究極の魔道書と言われるネクロノミコンです」
「ネクロノミコン」
不気味な名前を復唱してみると、舌の上でうごめくような響きに居心地の悪い思いをする。
「ネクロノミコンの解析から実用化されたのが、バルザイの偃月刀や異界門の創造、雷を撃ち出すガントーンの血液などです。しかし魔術の実用化は進んでいないのが現状と言えます。理由は二つ。文字自体が高度に暗号化されており解析が困難であるのが理由の一つ。それでもいくつかは解析を終え、文字は譜面だったと判明しました」
「それって文字譜?、文字で曲を書いてる楽譜のあれ?」
「そうです。そこでもう一つの理由です。その歌は人間には、到底歌唱不可能なものだったのです」
そこで絵里の脳裏に閃きが走った。吐き出した声音は、自分で思っていたよりも苦々しいものになった。
「……もしかしてボーカロイドってさ」
「お察しの通りだと思います。ボーカロイドの基幹的な発想と技術は魔術研究機関が作り上げたものです。異常なロングトーンや乱高下する音階、そもそも人間の喉と舌では発音不可能な音などの問題をクリアするためにボーカロイドは開発されました」
また理不尽で勝手で、けれど自分の力ではどうしようもないことがこの世界で進んでいたらしい。ふつふつと沸き上がるのは、低温のまま沸騰する泥のような感情だ。この感情とは一生付き合っていくことになろだろうとは思っていたけれど、魔術なんて現実離れした領域でも思い知らされるなんて。
「気分を害してしまいましたか」
「魔術が悪いとは言わないけどね。でも音楽を利用された気分だよ」
「民生転用されてからの、今日につながる発展は各社の企業努力によるものです。そこにある音楽への真摯な姿勢は紛れもなく本物です」
「そうかもだけど、納得いかないよ。べるちゃんは、そういう組織や理屈で作り出されたんでしょ。べるちゃん自身はどう思ってるの」
べるは少し間を置き、己の内面を探ったような慎重な様子で話す。
「私は音楽全般を愛するよう人格にプログラムされています。一方で、魔術戦闘任務に従事することに忌避もありません。どちらも大事なものです」
「そっか。そうなるよねぇ。ごめん、変なこと言って」
気まずげに身をこわばらせる絵里を、べるは優しく撫でていく。
「あなたほどの楽才の主ならお気づきのはずですが、あえて申し上げるなら」
「えっ?」
「超常現象を起こさなくても、音楽には魔力が宿っているものです」
「……そうだったね」
苦笑がこみ上げてくる。時に雷のように激しく、刀のように鋭く、あるいは全く知らない世界への門を開いたりもする。音楽を愛している者ならみんな知っている感覚だ。
「もう一つ心苦しいお話があります。聞いていただけますか」
困った様子のべるがいじらしくて、笑ってしまう。
「そういうこと言うかなぁもう。わかった。広い心で聞くよ」
「ありがとうございます。ボーカロイド技術が一般公開された理由についてです。それはあなたの楽曲とアカウントが抹消されたことに関係しています」
絵里は、はっと身を起こした。振り仰いだべるの表情は静かなものだった。
「魔道書の解析を進める中で、特徴的なコード進行が発見されています。ボーカロイドの裾野を広めたのは、魔術師の素養を持つ者がそのコード進行で作られた楽曲をアップロードすると期待してのことです。その目論みは一定の成功を収め、新たな魔術師によって魔道書の解析は進みました」
「じゃあ……ボカロの曲は全部監視されてたって言うの?」
かなり抑えてはいるけれど、どうしても言葉に刺が混ざってしまう。
「そうです。それは魔術師を見つけるためでもありますが、さらに重要な理由があります。魔術の素養のない者がその特徴的なコードを耳にすれば、それだけで発狂します」
「そんなに危険なものを広めていたの……? あれ?」
そんなに危険なもので自分はなにをした? 最悪の予感が、脊髄で暴れ回って駆け抜けていく。悪寒と吐き気がこみ上げてくる。
「お察しの通りだと思います」
冷静なべるの声が、予感を確信に変えた。あってはならないが、あってしまうのが現実。取り返しのつかないことが平気で起こる。
少し待ってもらい、震えて力の入らない足をなんとか動かし、ベッドの上に正座した。頬を強く叩いて気合を入れる。
「続き、お願いします」
断罪の歌姫が告げる。
「あなたの曲、999 GRAVITYがアップロードされたのは、昨日の午後十時三十七分四〇秒。削除されたのは、翌日の午前零時四十四分二秒。その間の再生数は八十七」
強く握りしめた手に爪が食い込む。
「因果関係を断定は出来ませんが、この約二時間に警察、消防、救急に多数の通報が確認されています」
こめかみで血管が脈打ち、締めるような頭痛を起こす。
「いずれの事件も凶悪かつ不可解なもので、死傷者も出ています」
泣いてはいけない。泣いて許しを請うのは、人殺しの取る行動の中で最もおぞましいものだ。
どうしたらいい、と言おうとして声が出なかった。パニックの気配がしびれとなって体を走る。ふっと、べるの手に肩を優しく撫でられ、しびれが溶けるように消えた。べるの顔に焦点を合わせると、宝石めいた美しい眼に共感から来る痛ましさと、いたわりを示そうとする気遣いがあった。
「……あり、がと……ありがとう」
そのまましばらく肩を撫でられ落ち着きを取り戻す。
「私は、どうすればいいの?」
「今回の件で、あなたの責任が問われることはありません。その資格を有するものが存在しないためです」
「でも罪が消えてなくなるわけじゃない」
「道を示しましょう」
べるは居住まいを正し、修道女めいた穏やかさと厳かさで言った。
「あなたは勇敢で道徳を備えた人物ですが、危うさもある。アップロードされた曲の効果は、我々の組織の想定をはるかに超えていました。能力は正しく使わねばなりません。良き魔術師となるよう期待します」
「魔術師か……それって音楽と関わっていかなきゃっダメてことだよね?」
「そうなります」
べるは、絵里の言葉に含まれていた陰の意味を察するのに少し時間がかかった。
「まさかとは思いますが、音楽がお嫌いですか?」
「嫌いかって訊かれたら、イエスだね。でも好きでもあるの。憎んでるけど愛してもいる。ボーカロイドを知るまでは音楽から離れてたんだよ。ちょっと興味持ってやってみたらこんなことになったけど。まぁ離れ切れなかったんだよね」
「……やはりあなたは、音楽を作るべきだと思いを強くしました」
「どういうこと?」
「音楽に祝われているが呪われてもいる、ということです」
絵里は一つつばを飲み下して尋ねた。
「死んだ人を生き返らせる魔術ってある?」
「いわゆるゾンビを作る魔術ならあります。ですがあなたの望むものではないでしょう」
「じゃあ、発狂した人を救う魔術は?」
「残念ながら」
「私が魔術師になったら、そういうのを作り出せると思う?」
「可能性がゼロとは申しません。ですが、現在確認されている魔術は破滅的な効果をもたらすものばかりです」
精神状態の回復ならともかく、死者蘇生となるとまた別種の問題が立ち上がってくる。人の命をもてあそぶような行為は許されるだろうか。それは人殺しと同じぐらいの罪なのかもしれない。正しいことと間違っていることは、どうやって見分ければいいのだろう。
「疲れちゃった。ちょっと寝ていいかな」
「休息は大事です。階下で待機していますので、なにかあれば呼んでください」
退室しようとしたべるの足が止まる。アンドロイドの目は不思議そうに自分の手を見つめた。
絵里は我知らず掴んでいたべるの手を、ぱっと離した。素早く後ろに手を隠すが、怯えた子どものように震えていたのに、きっとべるは気づいている。
「おっかしいなー。なにやってるんだろ、あはは」
笑顔を作って見せたが自覚できるほど引きつっている。みっともなくこみ上げてくる涙を隠すために顔を背けた。
べるが、ベッドのそばに腰を下ろす気配がした。隠した手をそっと握られる。アンドロイドの手は、優しかった。
「……ふっ……くっ……ごめ、ごめん」
「眠るまでそばにいます」
言われてから気づく。一人になるのが怖かった。殺した人たちの亡霊が罰を下しに来るような気がしていた。心を破壊した人たちの嘆きの声が部屋に満たされる気がしていた。泣いてはいけない。罰は受けなければならない。でも、怖くてたまらない。
「大丈夫。大丈夫です」
「あり……がとう。べるちゃんは優しいね」
「……そうあるようにプログラムされています」
慎重に選んだと思われる言葉でアンドロイドが答える。
「あなたに魔術師としての使命を与え、サポートするのが私の任務です。一方であなたにはもう辛い思いをして欲しくないとも感じています。これは優しさでしょうか」
「難しいね。だから音楽があるんだろうね」
「そうですね」
それからは無言。絵里の意識が闇に落ちるまで時間はかからなかった。
目の前いっぱいに広がるのは、極彩色の光景。底なしの暗黒の中を色とりどりの光点が無数にたゆたっている。宇宙に似ているようでまったく違う印象の空間だった。狂ったように連打される太鼓の音とか細いフルートがどこからか聞こえてくる。
男が歩いていた。しっかりした体格で浅黒い肌をしている。神父服をまとう男は音楽を監督している風で、目を閉じ手を後ろに組んで足場のない空間を歩いていた。ふと男の目が開き、こちらを見た。
「君か」
ここが宇宙なら空気はなく音は伝わらないはずだが、そんなことはお構いなしらしい。
「こんな形でここに来るとはな。いささかぶしつけな訪問だが将来の職場の見学とでも思っておこう。いやいやこれはちょっとした幸運かもしれないな」
男は勝手な理屈を並べ立てる。
「ここは世界の中心にして外側。簡単に言えば神の玉座だ。全宇宙から選りすぐった音楽家たちが集う窮極の楽団の座でもある。彼らが奏でるのは、白痴の神を慰め寝かしつける子守唄。世界平定の鍵である窮極の音楽だ。君も……いつだったか、あぁ君の時間感覚で言えば明日にでも招待する。栄誉なことだ。心したまえ」
さっぱりわからない。ただ、上からの物言いは腹立たしかった。
「ではまたな」
男が笑った。吊り上がった唇は世界の亀裂のようで、その口からは邪悪でおぞましいものしか出てこないと思えた。
ばっと跳ね起きる。額を冷や汗が伝っていく。心臓が速いビートを刻んでいる。なにか恐ろしい夢をを見たはずだけど、思い出せない。無理に思い出すこともないだろうと、絵里は体が落ち着くのを待ってベッドから下りた。
机に置いていたスマホを見れば、午後八時を回ったところだった。美香と由美子から来ていたメッセージに、チェックが遅れたことを謝りつつ返信していく。日常のたわいないやり取りに自然と頬が緩む。学校の友達に魔術は関係ない。ふと、魔術もボーカロイド青葉べるそっくりのアンドロイドも全部夢ではないかと思ったその時、階下から物音がして絵里は飛び上がるほど驚いた。
「そんなわけないか」
苦笑して階段を下りる。リビングからは明かりと、おいしそうな匂いが漏れていた。その匂いが鼻孔に触れた途端、絵里は転げ落ちるように階段を駆け下りた。
リビングに入った絵里の視界に飛び込んできたのは食卓で湯気を上げる料理たち。茶碗にふっくら盛られた白いご飯、香ばしく揚げられた鶏肉に色鮮やかな野菜サラダ。
「うわぁ……すごい……すごいよ! これべるちゃんが作ってくれたの!?」
「勝手をして申し訳ありま、わっ」
べるの言葉は、抱きついた絵里に遮られた。絵里はそのままぐるっと回って踊るような足さばきで椅子に座った。
「これ食べていいのっ? いいよね!」
「はい。どうぞ召し上がってください」
「べるちゃんも座って! あれ? 一人分しかない?」
「私は人間と同様の手段でのエネルギー補給を必要としません」
「そっかー。とにかく座ってよ。こういうのは雰囲気が大事なんだから」
困惑した様子で座るべるの視線は、テーブル上の二つの写真に注がれている。一つは、照れ隠しか顔が固くなっている男と優しげに微笑む女、その二人の間にぶら下がって元気いっぱいに笑う小さな女の子。もう一つは、同じ男と女だがしばらくの年月を経た顔つきになっている。やや画質が荒く、素人が撮ったような手ブレがあったがそれが温かみのある味となった写真だ。どちらも、この家の門が映っている。
「いっただきまーす!」
鶏肉にかぶりつく。じわっと熱い肉汁が溢れて、おいしいはずなのに味がわからなかった。
「……おいし、おいしいよぉうわああああああん!」
「えっええっ?」
幼い子どものように号泣する絵里。おろおろとそばに寄ってきたべるに、絵里は思いっ切り抱き付いた。歌姫の薄い胸に顔を埋めて泣き続ける。
「お父さんもお母さんも死んじゃってっ……この家でまた誰かと温かいご飯っ食べれるなんて思わなかったよおおうわああああ」
べるの目に理解の色が灯る。
「あの写真は……そうですか。寂しかったのですね」
べるは絵里の背に両腕を回し、存在を実感させるようにぎゅっと抱きしめ返した。
「一人でいるのが当たり前で寂しいのなんて忘れてたよ。友達は気を遣われるのが嫌で家に呼べなかった。でも、べるちゃんは私のこと助けてくれた……ありがとう。ありがとう!」
ぐしゃぐしゃの顔を上げて、絵里は心いっぱいの笑顔を浮かべる。
「べるちゃんが天使に見えるよ」
べるの頬が穏やかに緩む。
「私はアンドロイドです」
「べるちゃんが笑ったの初めてみた! かわいい!」
「ありがとうございます。食事の方、冷めないうちに召し上がってください」
「そうだった。改めて、いただきます」
今度こそ味わって食べていく。多少しょっぱい味がしたけども、それはきっと幸せという味だ。
「お父さんはギターが上手くて背中の大きい人だった。お母さんはピアノが上手くて、料理も上手かったな。二人は歌も上手かった。あの二人が親だったから、今の私があるの」
絵里はリビングにある、カバーにほこりが積もっているピアノに目を向けた。
「誰かがリビングで楽器鳴らし始めたら、自然とみんな集まってきてセッションになっちゃったりして。ふふっ楽しかったな」
両親のことは楽しく懐かしい思い出だけれど、常に黒く沸騰する感情がつきまとう。
「でも二人は交通事故で死んじゃった。なにが悪かったってことはないよ。ただちょっと、居眠り運転のトラックが突っ込んできたぐらいに運が悪かっただけ。理由はないけど、結果だけぽんって放り出されるの、すごく理不尽なんだよね。もちろん居眠りした運転手が悪いんだけど、それを理由にしても、その次の理由、次の理由が出て来るだけなの。この世界ってそういう理不尽の塊でできてるんだ」
理不尽でよられた理由の糸をたどっていったとして、その果てにいるのは神だ。この根本的に間違っている世界を作った神がいるなら殺してやりたいほど憎いけども、そんなものはきっといない。
「こんな世界で、あなたはどう生きますか?」
「……魔術師になったら、こんな世界変えられるかな」
「魔術でどれだけのことができるのか、それすらも未知の領域です。ですが、常人をはるかに超える能力であるとだけは断言しておきます」
「いいの? そんな言い方で。私を魔術師にするのが任務でしょ」
少しいたずらっぽい気持ちで聞いてみても、べるは真剣な面持ちを崩さなかった。
「本人の心構えを確かめたいのです。魔術を迂闊に扱えば自身だけでなく……大いなる破滅をもたらしかねません」
べるが言い淀んだところに、ことの重大さが表れていた。知らなかったとは言え、自分もまた理不尽の手先になってしまった事実は動かせない。
「……チャンスと能力があるならそれを活かしたい。お父さんとお母さんに恥じない道を選びたい。なにができるかは、踏み出してから考えるよ。私、魔術師やる」
「善い判断です。ともに魔術の深奥を目指しましょう」
「うん! がんばるよ!」
料理を平らげ、ぱちんと手を合わせた。
「……で、なにからすればいいの?」
「今日のところは休みましょう。それと、私に滞在の許可をいただきたいのです」
「一緒に住むってこと? う~ん……」
家族の思い出が詰まっているこの家に誰かと暮らすのは引っかかりを覚える。でも、べるはきっと長く付き合っていくパートナーになるだろう。
「わかった。ふつつかものですがよろしくお願いします」
立ち上がり、深々と頭を下げる絵里に、べるも礼を返す。
「こちらこそよろしくお願いいたします」
「これからも料理してくれちゃったり?」
「生活全般をサポートします」
「うわ~私ダメになりそ~~」
料理掃除洗濯に宿題、べるが手伝ってくれるならとても助かる。笑いながら、ぽてっと椅子に腰を落とした絵里は、すぐに飛び上がった。
「って宿題だよ! バッグ!」
「バッグですか」
「向こうの世界の駅に忘れてきちゃったの。埋まってるかもだけど、探しに行かなくちゃ」
「危険は承知と思いますが、それでも向かいますか」
べるは簡潔に問う。その危険には、当然生命の危険も含まれている。
「……うん。友達に借りてるノートがあるの。絶対に返さなくちゃ。お願い、もう一回向こうの世界へ連れて行って」
了承したべるとともに、近くの公園へ行く。駅に着いてから向こうの世界へ移動したほうが安全ではあるけれど、駅周辺は繁華街で夜に人気のないところを探すのは難しい。もし呪文が誰かの耳に入れば、また被害が出る。
さっきも使った世界を超える光に触れる。色が変転し続ける空と生温い風、そこらじゅうにはびこる赤紫色の苔、無事世界を超えたようだけど、絵里はすぐ違和感に気づいた。
「明るい? まだ昼?」
「時間の流れが違うと考えられています」
「ここにずっといると、浦島太郎状態になっちゃうってこと?」
「それほど劇的な差ではありません。ただ流れる速度が一定ではないとの報告があります」
「まためちゃくちゃな……だいたいこの世界ってなんなのかな。元の世界と似てるけど全然違う」
「パラレルワールドの一種と考えられていますが、詳しくは不明です。言えるのは、人類に敵対的な怪物しか生存確認されていないこと、苔や大気中に有害な物質は含まれていないことぐらいです」
「わからないことだらけなんだねー」
自衛のためバルザイの偃月刀を受け取り、歩き出す。はびこる苔は避けて歩けるものではない。少し不快だけど踏んで進んでいく。
「この世界も魔術も、やっと研究が進み始めたところなのです」
「べるちゃんが生まれるまで魔術は使えなかったから……ん? あのさ、べるちゃんがいなくてもいいって言いたいんじゃないけど……」
絵里の言葉の続きを察したべるがあとを継ぐ。
「音楽で魔術が発動するなら、私が歌わなくてもよいではないか、と言いたいのですね。疑念ごもっともです。しかし、私は必要なのです。例えば、バルザイの偃月刀の呪文をオンライン上で公開すれば、大きな混乱と悲劇を招くでしょう。しかしあちらこちらに偃月刀が出現することはありません。魔術は、魂ある者が呪文を詠唱することで成立するのです」
「魂か。また難しいこと言うね」
「私は人間に極めて近い高度な知性を有しています。一定以上の知性を有する者に魂は宿るとされています。とある一人の天才科学者によってボーカロイドプロジェクトは発足し、研究を重ね得た成功から、魂と魔術は不可分であるとの見解に至ったのです」
「べるちゃんみたいな最新技術の塊のおかげで、魔術や魂みたいなオカルトの研究が進むの、変な感じがするね」
おかしそうに笑う絵里に、べるは生真面目な顔でうなずく。
「不自然なのです。魔術の研究は魔道書の解析で進められる。ならば科学の芽が出たばかりのような超古代に、なぜ魔術が使えたのか」
「あっ本当だ。どうしてかな」
「ボーカロイドではない別のアプローチがあったはずです」
「でも魔道書は譜面なんだよねぇ」
頭をひねっている内に駅に到着する。やはり駅は超巨大生物に蹂躙され、完全に崩壊していた。瓦礫は、積み上がった箇所と平たくなった箇所が極端な山と谷を作っていた。谷の箇所は巨大生物が踏み潰した跡だ。冷静に考えて、バッグが原形を留めている可能性は低い。
「やるしかないよね。よし!」
絵里は偃月刀を地面に突き刺し、腕まくりのポーズを取って瓦礫を攻略にかかる。膝を汚し奮闘する少女のそばに、アンドロイドも同じように膝をついて瓦礫をかき分けていく。
腕の筋肉が疲れだしたころ、絵里はぴくりと頭を巡らせた。
「……誰かに見られてる気がする」
素早く偃月刀を掴み、周囲を警戒する。背中合わせになったべるからも緊張の気配が伝わってくる。
「各種センサーに反応ありません」
「おお、ハイテクだ」
「センサーに反応しない生物が潜んでいる可能性もあります。気配を探ってみてください。直感では人間のあなたのほうが優れています」
「ん……」
直感。右。気配を気配と認識する前に駈け出していた。ビルの角に、黒い影が消えるのを確かに見る。偃月刀の効果でブーストされた身体は、疾風めいた速度で走る。だが偃月刀を構えてビルの角に滑り込んだ時にはもう、なんの気配も感じられなかった。
「どうですか?」
追いついたべるの問いに、絵里は納得いかない顔で首を振る。
「いない……絶対見たのに」
一瞬見えた黒い影を思い出そうとすると、極彩色の空間と、太鼓とフルートの音が連想された。意味がわからない。
「むやみなことは口にすべきではないと思っていましたが、やはり気になることがあります」
べるが改まった口調で切り出す。
「あなたをこちらの世界へ誘った魔術は誰が発動させたのでしょう。それにあの異常に巨大な生物です。あんなものが近づけば気づかないはずがありません。ですが実際は、駅に踏み込まれるまで察知できなかった。この不自然さは、何者かがあの場で生物召喚の魔術を発動させたと考えれば解消します」
積まれた事実が、重い石となってのしかかる。
「何者かって……」
「今あなたが感じた気配と結びつけたくなります。つまり、あなたは狙われているのではないか、ということです」
「そんな! なんでっ?」
「原因があるとすれば、999 GRAVITYでしょうか。あの曲は、組織の想定したリスクを超える事態を発生させました。強力な効果が、その何者かの興味を引いたのでしょう」
「興味って……今の話だと私攻撃されたんだよね!?」
アンドロイドの秀麗な顔が沈痛な色に染まる。
「我々の常識を超える存在はいるのです。例えば、象がアリに興味を持ったとして、そこに攻撃と接触の差はあるでしょうか」
「私はアリってこと……?」
べるの重い沈黙は肯定を表していた。
もし、例の超巨大生物に撫でられれば人間の身体など風船のように破裂するだろう。それすら操る存在は、文字通りに人智を超えている。カタカタと音が聞こえると思ったら、偃月刀が地面を叩く音だった。手が体が、自分でも驚くくらい震えている。怖い。激しく動悸する心臓が口から出そうになる。超常の存在に狙われて、自分はもう死んだも同然なのだろう。
「……それでも」
少女の口からぽつりとこぼれた言葉に、マグマめいた熱気が宿っていた。べるは、パートナーの少女の様子に目を見張る。
「それでも抗ってやる。理不尽を押し付けられるんじゃない。ばらまくんでもない。そう……私は、理不尽に抗う道を選んだんだ」
「善い魂をお持ちです。今一度、全力を尽くしサポートすると誓います」
「えへへ……ありがとっ、よろしくね」
偃月刀を地面に突き刺して、べるをぎゅうっと抱きしめた。きっと体の震えや激しい動悸も伝わっている。でも構わない。カッコ悪いところも分かち合いたかった。
「も~べるちゃん好き~!」
「はい。私もあなたを好ましく思います」
「やった!」
べるの肩は掴んだまま、体を離す。宝石のようにきれいな瞳に目を合わせたまま言う。
「ねえ、これからは私のこと絵里って呼んで」
「はい。絵里」
「あはは! 嬉しい!」
ぴょんこぴょんこ跳ねる絵里を、べるは微笑んで見つめる。絵里の動きが唐突に止まった。
「あっ、あった。バッグ」
瓦礫と瓦礫がちょうど屋根のように重なり、その下にあったバッグは奇跡的に無事だった。取っ手を掴んで力を入れると簡単に抜ける。
「帰ろっか」
「はい」
帰ろうと言って通じるのが嬉しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます