バベル ーボーカロイドと歌う世界ー

犬井るい

序章 ボーカロイドは魔術を歌う

エンカウント 少女と歌姫

 あの鼓膜を直接引っかかれたようなブレーキ音と、人間が人間の形を無くす鈍い音は一生忘れないだろう。

 血の池の中で動かなくなった両親を見て、まだ少し顔にあどけなさが残る少女は自分の頭がおかしくなったのかと思った。人間がこんな風に死ぬのはおかしい。珍しい音を聞いたなんて感想を抱いた自分もどうかしている。

 もっとも、狂っていたのはこの世界そのものだった。




 終業のチャイムが聞こえ、庵野絵里ははっと目を覚ました。話し足りなそうな古典の教師が退室し、ショートホームルームも終わると、絵里は大きく伸びをした。

「お~~~わったぁーー」

「絵里、古典ずっと寝てたでしょ」

 隣の席から厳しい声がかかる。

「あ、バレてた?」

「先生も気づいてたけどスルーしてただけだよ」

「うわ~」

 頭を抱えながら、ちらりと横目で隣の席を見る。美香は険しい顔で睨み返してきた。その前の席へ視線を移すと、悪い顔をした由美子がいた。

「げっへっへ、絵里さんや、英語の課題が明日提出でしたなあ」

「おお由美子さん、お主もワルよのう」

 悪い顔の女子高生二人が英語と古典のノート交換する。美香はやれやれと首を振っていた。いつもと言えばいつもの、三人のやり取りだった。

「こんなん写すだけだしさ、このあとカラオケ行かない?」

 由美子が提案すると、険しい顔をしていた美香もぱっと顔を輝かせた。

「しょうがないなぁ……私も、くらうPの新曲歌いたい。もう配信されてるよね」

「セルドさんの練習したいんだ。デュエットだから美香ちん高い方歌ってよ」

「無茶言うな! 歌ってみろタグついてるやつでしょうが!」

 盛り上がる二人に遠慮して、絵里はそっと椅子を引いた。

「ごめん、今日はちょっと用事が」

「用事じゃ、しょうがないわね」

「絵里ちんまた明日~」

「ほんと、ごめんね。また誘ってね!」

 絵里は作った笑顔で別れを告げる。きっと二人は、カラオケの誘いに乗らないと気づいている。それでも、また誘ってと言うから誘ってくれている。ありがたさと申し訳なさが混ざって、絵里の胃を重くさせた。


 もやもやした思いは、電車を降りてからも晴れなかった。改札を抜けて、最寄り駅から家まで徒歩十分。来てもいないメッセージを確認するためになんとなくスマホを取り出した。

「あ……そうだ」

 わざとらしく声を出して、スマホを操作し、画面に表れたのは動画投稿サイトだった。動画にコメントがついて流れるシステムが人気を得て、もはや流行を超えてカルチャーの発信地となった巨大サイトだ。たくさんのコンテンツが集積する場所だけど、やはりボーカロイドを抜きには語れない。

 ボーカロイド製品・キャラクターは多数あるけど、中でもダントツの人気を誇るのは、青葉べるだ。電子の歌姫と呼ばれ、時に元気に時にしっとりと、あるいはちょっとセクシーな曲も歌う彼女は最高にカワイイ。PV付きの曲で、長い銀髪をなびかせ細い体から突き抜けるような歌声を放つ姿を見ると、本当にどこかに青葉べるがいるんじゃないかとすら、絵里は思う。

 ボーカロイドで楽曲を制作する人は通称ボカロPと呼ばれ、絵里もボカロPの一人だった。たいして熱意があるわけでもない。一作目、二作目は、ありきたりなコード展開と、友だちが大事とか今を大切にとかそういう歌詞の普通のポップソング。凡庸の一言に尽きる曲は、自分でも満足しなかったし、動画サイトでも評価されなかった。

 だから、昨晩投稿した三作目は方向性を変えた。人間の声自体、楽器の一種だし、だったら人間には真似できない歌い方でボーカロイドのスペックを引き出してみたいと思った。まず歌詞とメロディーとハーモニーを放棄して、リズムは変拍子の連続で構成した。不協和音で塗りたくるように音を埋めて、その上を青葉べるのボーカルが低音から高音まで引き裂いていくようなイメージだ。カオス極まる実験作だけどわりと満足のいく出来だった。

 投稿したばかりの、キャッチーさのかけらもない曲の再生数が伸びているとは思えないけど、なんとなく出したスマホの収まりがつかなかった。IDとパスワードを入力してログインする。

 アカウント無期限停止処分

「……えっ?」

 大きな声を出して絵里は立ち止まる。迷惑そうな顔をした通行人が、スマホを見つめる女子高生を追い抜いていく。駅前はちょっとした広場になっていて、コンビニや小規模なショッピングモールがあり、人通りが多い。絵里は道の端に寄って、改めて画面を見てもなにも変わってはいなかった。アカウント無期限停止処分。アカウントを無期限に停止する処分を下されたということだ。意味はわかるけどわからない。

 昨日は問題なく使えていた。したことと言えば、新曲を投稿したぐらいだ。検索バーに曲名を入力してエンターボタン。【青葉べる】999 GRAVITY【オリジナル】――0件。

「なんなのもう」

 熱意のないお遊びだし、曲が消されたことはわりとどうでもいい。ただ理由がない。理不尽な扱いをされたことに、腹が立った。


 なにかのエラーやバグの可能性も考え、家に帰ってパソコンからもう一度確認することにした絵里は歩き出し、靴裏が伝える不自然な感触に足が止まった。柔らかくぬめっとしている。苔、だと思う。確信が持てないのは、その苔らしきものが緑色ではなく、見たこともない毒々しい赤紫色にうっすら発光していたからだ。

 苔はひび割れた地面にはびこり、朽ちた建物の壁をまだらに覆っていた。建物の配置などは、見慣れた通学路のものだ。広場、コンビニ、ショッピングモール……多かったはずの人通りは絶えていた。見渡す限り生物はいない。

 もし謎の苔に侵略され、滅亡した世界ならがあるならこんな感じかもしれない。しれないけども、じゃあ常に不気味に変化し続ける空の色はなんなのか。

「歩きスマホには注意しましょう。わけのわからない世界に行ってしまう危険があります……」

 冗談でも言っておかないと、気が変になりそうだった。けれどあまりに震える声を自覚してしまい逆効果だった。スマホをみても、当然のように圏外だ。

「ホント、わけわかんないよね……」

 十七歳の少女には似つかわしくない疲れた声だった。だが少女は、大きく息を吸って、決然とした眼差しで前を見据えた。

「とりあえず探検だね」

 元気よく言って、ずんずん進む。だがその足はすぐに止まる。

 コンビニだった建物の影から、ぬうっと人型のなにかが現れたからだ。それは全身真っ黒で、角、翼、尻尾があった。顔はなく、のっぺらぼうだった。その怪物の顔が動き、絵里の方を向いて止まった。目はないのに目が合ったと確信したし、翼と尻尾を小さく打ち震わせた様子に、おぞましく嗜虐的な気配を感じた。

 きびすを返して逃げ出す前に、広場のあちこちから同種の怪物が集まってきてたのが見えたけど、振り返って確認する勇気はなかった。

「なんなの!?」

 真っ直ぐ走って駅へ逃げ込む。改札機のドアを飛び越え階段を駆け上り待合室に滑り込んでドアをぴしゃりと閉めた。小さくなって座り込む。

 心臓は激しく跳ね、歯の根が合わずに音を立てる。音を出したら気づかれると、口にハンカチを突っ込んで体を抱きしめて震えを抑える。


 自分の心臓の音を聞きながら、動けない。どこかへ去ってくれるという甘い期待は、下からの巨大な騒音に砕かれた。改札機を破壊して侵入してきた音だ。あの怪物はこちらを探して、追いかけてきている。ここにいても見つかるのを待つだけだ。

 まだ大丈夫。怪物は結構大きかった印象がある。階段を上がってくれば、気配が伝わるはずだ。ハンカチを戻して息を整え、足に少しずつ力を込めていく。中腰になって顔を上げる。黒一色の、のっぺらぼうが割れたガラス窓から覗き込んでいた。

 一瞬で体が冷たくなった。

 怪物に翼があることを忘れていた。飛べば足音も立たない。人型の生き物に翼があるということが、絵里の常識から離れすぎていた。

 怪物が、長い鉤爪のついた黒い腕をこちらへ向けた。死ぬ。こんなおかしな世界で怪物に殺されて、死ぬ? そんな理不尽認めない。

「わあああああ!」

 立ち上がりざま、スクールバッグで思い切りのっぺらぼうの顔を殴りつけた。怪物はびくともせず、嘲るように小さく体を揺らしただけだった。

 もう一回、と絵里が構えを取った時、音楽が聞こえてきた。激しいビートと高速のギターリフ。人間の限界を超えたように高音と低音を跳ね回る女性の声。雷のような曲だ、と絵里が思った瞬間、眼前を紫電がほとばしり怪物を吹っ飛ばした。

「雷? ……ほんとに?」

 ちりちりと産毛が逆立つ感覚は嘘じゃなかった。おそるおそる待合室から出る。怪物は煙を上げて倒れていた。元から全身真っ黒だから判別できないけど、人間だったら黒焦げになるぐらいのエネルギーを受けたのだろう。

「庵野絵里さんですね」

 聞き覚えのある、キュートな声だ。今のシャウトも彼女の声だった。絵里は振り返り、今日一番驚いた。おかしな世界に来たことより、怪物と遭遇したことよりも衝撃を受けた。

 長い銀髪は風になびき、宝石のように綺麗なアメジスト色の瞳には絵里が映っていた。電子の歌姫と呼ばれる彼女の美しく整った顔は、毎日のように見ている。ほっそりしたスタイルのよい体で華麗に踊るのだって何度も見ている。だけどそれは画面の中でだ。

 でも彼女は、現実に、目の前に、いる。

「青葉べる……ちゃん?」

「はい。確認します。あなたは庵野絵里さんですね」

「う、うん。でもなんで私の名前……」

「任務上、必要な知識はインストールされています」

「任務? 本当に本物の青葉べるちゃん? ってその言い方も変だけど」

「私はHigher Phenomenon Laboratory所属、プロジェクトバベルのボーカロイドセクションで開発された魔術戦闘用アンドロイドシリーズの一機です。あなたが想定している青葉べるとは似て非なるものです」

 魔術はさっきの雷だろうか。アンドロイドというのは、人間によく似せたロボットのことだと絵里は記憶している。だけど、今の科学技術でこんなに滑らかに動いて話すものを作れただろうか。

「なんとなくわかるけど、さっぱりわかんないよ。順番に! 説明して!」

「了解しました。ただし安全を確保したからになります」


 べるが目線を上げる。駅のホームの割れた天井から、さっきの怪物が二体、翼をはためかせ侵入してきていた。さらに階段を上がってくるものが三体。

 一気に五体。にじり寄ってくる敵の気配に、絵里は後ずさる。

「魔術? ……で、助けてくれる……?」

「はい。しかし、非戦闘員を抱えての戦闘は困難と判断。自衛していただきます」

 どうやって、と問う前に曲が流れだした。唸る重低音と荘重な弦楽の分厚く荒れる音が響く。音の嵐のただ中、べるの声はとても人間の言語とは思えない理解不能の歌を紡いでいく。

 べるの掲げる手の上に光の粒子が弾けては集い、ついに一振りの刀として結実した。刀身はゆるく反り、青ざめた三日月めいた冴え冴えとした輝きを宿している。あの音の嵐から生まれた刀なのだから、多くの修羅場をくぐってきた魔刀なのだろう。絵里は、美しき暴力の化身を前にごくりとつばを飲んだ。

 歌い終えた歌姫が、うやうやしく刀を差し出す。絵里はぎょっと身を引くが、べるが目で強く促し、しぶしぶ手を伸ばした。

「バルザイの偃月刀です。刺激が強いですが、耐えてください」

「刺激って?」

 言いながら絵里は、おそるおそる刀の柄を握った。

 炎が血管を駆け巡り神経を燃焼させ、体を生まれ変わらせていくような感覚。地獄の戦場の記憶に脳を浸され、すぐまた別の血みどろの記憶に浸けられ、それを何度も繰り返された。

「古代の魔術戦士バルザイは、果てしない強さを求めました。己の戦闘記憶と技術を愛刀に封じ込め所有者に与える代わりに、新たな戦闘の記録を得る。とこしえに進化し続ける武器として、己の存在を定義し直したのです」

 頭と体が燃えているように熱い。

「うぇっ、はっ。こりゃあ、すごい、刺激だね……」

「あなたは人類史上有数の武芸者の技を得ました。ですが、心構えまではそうもいかないでしょう。自衛と、私の魔術が完成するまでの時間の確保だけを考えてください」

 べるは数歩下がり、両手をゆるく広げて歌唱の構えを取った。気味の悪い赤紫色の苔に覆われ荒廃した世界でも、歌姫である彼女が立てばそこはステージになる。

「お姫様を守るナイトの役ね。そういうの、嫌いじゃない!」

 偃月刀を空が切る。さっきまでの絵里なら重くて持ち上げられないであろう刀も、今は指揮棒のように軽い。激しい熱も引いて、体も程よく温まっている。


 曲が流れだした。それを合図に、絵里は駈け出す。

 一番手は空中から急降下攻撃を仕掛けてきた。やわな人間の肉体を引き裂こうと、長い鉤爪を振りかぶる。

 恐怖はある。鉤爪に一撫でされるだけで簡単に死んでしまうと思う。でもそれよりも体が自然に動くに任せた。

 絵里は力強く踏み切って跳躍。空中で鉤爪をくぐり、怪物の胸に偃月刀を突き立て一息に振り抜く。不快な声で断末魔の叫びを上げ、怪物から透明な血液がこぼれた。

 重力に捕まるより速く絵里の手が怪物の尻尾を掴んだ。ひらりと身を翻し、力尽きた怪物の背に着地すると、そこを足場としてさらに跳躍。空中で様子をうかがっていたもう一体へと急襲をかけた。

 異様に身軽な絵里に、怪物はうろたえた。その機を逃さず、大上段からつるべ落としの一撃。黒い身体から透明な飛沫が上がる。

 刀を振った勢いのまま空中で回転し、絵里が猫めいた柔軟さで危なげなく地に降りる。直後、絶命した怪物が重い音を立て落着した。

「あ、結構いける」

 頭の冷静な部分が人間の限界を超えた動きをしてしまったと訴えているが、体がとても自然に動いたせいで全く違和感がなかった。


 仲間が討たれた様を見た地上にいる三体は、慎重に絵里を囲み同時に襲いかかってきた。

 絵里は一瞬だけ間を置き攻撃を引きつけてから、右側の怪物の手首を切断した。怪物の鉤爪が、左側の相手へと跳ねる。

 悶える左右の怪物の間を抜け、正面の一体へと肉薄。心臓を狙ってくる鉤爪をかわし、右斜め下から斬り上げの一閃。そのまま左の相手の首も刎ねる。残りは鉤爪を失った一体。

 絵里の頭上に影が落ちた。考えるより先に横に飛ぶ。直後、豪風巻いて振り下ろされた尻尾が、コンクリートと苔を粉砕して飛び散らせた。さらに振り回される尻尾から転がって逃れる。

 立ち上がろうとする絵里へ、怪物は素早く接近し尻尾と、加えて翼も使った同時攻撃を敢行した。

 慌ててさらに転がり逃げる。残りが自分だけになって必死になってるらしい。でもこんな修羅場も、この手にした偃月刀なら超えてきたはずだ。刀を握った手がじわりと温度を上げ、熱は全身へと拡がっていく。

 立ち上がった絵里は、埃まみれの苔まみれだ。頬についた汚れを乱暴に拭う。相手は正面。姿勢を低くし、失った鉤爪の代わりに頭の角で突き刺すつもりだ。臆せず、こちらも正面から。絵里は脚をやや開いて腰を落とす。刀は担ぐように構えた。

 動いたのは同時だった。

 間合いは刹那に消失し、黒い角が胸に刺さる寸前、絵里は刀を斬り下ろした。冴え冴えとした剣光が、地上に見事な三日月を描く。怪物の身体は一刀で両断され、突進の勢いのまま滑っていき、止まった。二つに分かたれた身体から透明な血だまりが広がっていった。

「ふう……あれ? 終わり?」

 確認するようにべるを見ると、歌姫はあ然とした顔をしていた。いつの間にか歌は止まっている。魔術が完成する前に決着がついてしまったらしい。

「魔術戦闘の経験があるのですか?」

「まっさか。あるわけないよ。こんなに上手くいって、自分でもびっくりしてるんだから」

「あなたは類まれなセンスをお持ちのようです」

「使い道謎な才能だけど……」

「音楽の素養があっても、魔への適性がなければ魔術師としては存立しえません。必要な才能です」

「音楽と魔術? 待って待って。だから順番に説明――」

 絵里は言い終えることができなかった。体が浮き上がるほど巨大な振動に襲われたからだ。

「地震!?」

「振動の持続がなければ地震とは言えません。加えて、音の発生源を明確に感知しました」

 べるは振り返り、絵里もその視線の先を追う。駅の二階から伸びる線路の先には、荒廃した町並みが見えた。吹き込む生温い風に、なんとなくさっきまでと違う匂いが混じっている気がした。

 いきなり風が猛烈に強まり、肌がびりびりと震えた。線路が影に覆われ、転瞬、超巨大な物体が落ちてきて、駅のホームの半ばまでを粉砕、貫通、圧縮して突き立った。

 振動の余波だけで、絵里は塵のように吹き飛ばされた。壁に背中を強打しても止まらず、ピンボールめいて跳ねた体は階段を数段転げ落ちたところでようやく止まった。酷く痛み、すくみそうになる体を叱咤する。ここで気を抜けば、数秒後にはぺしゃんこになるだろう。顔を上げる。

 駅のホームに屹立している物体は有機的なうねりを持ち、表面は固く乾燥した皮膚に覆われている。超巨大物体ははるか高みでゆるく湾曲して、さらに巨大な肉体に接続している。どうやらこれは生物の脚らしい。

「……恐竜?」

「現在確認されているあらゆる恐竜よりも巨大なことは確かです」

 べるが、手を差し伸べながら言う。アンドロイドの少しひんやりしている手に引かれて立ち上がった。

「あれ、倒せる……?」

「危険です。撤退しましょう」

「ですよねー!」

 べるの手を握ったまま階段から飛び降りる。絵里は踊り場へ軽やかに着地したが、握った手に引っ張られた形のべるは面食らった顔でよろめいた。偃月刀でブーストされた身体能力は、魔術戦闘用アンドロイドにとっても刺激が強かったようだ。

「私がリードするから、手握っててね」

「了解しました。では異界脱出用魔術の詠唱を開始します」

 返事の前に、さらなる激震が駅舎を揺るがせた。粉塵とともに崩れてきた天井を斬り払うことで、守るという無言の返事とする。手をきゅっと握って、踊り場から跳躍した。背後から爆音と爆風が一緒くたになった衝撃波に煽られ、ほとんど空中を飛ぶようにして改札口を超えて、一気に駅の外へ出た。

 駅舎が崩落していく気配は、超巨大生物の前進で上書きされ、白煙とコンクリートの破片がめちゃくちゃに吹き荒れる。嵐の中でも、絵里の耳にべるの歌ははっきり聞こえた。つないだ手がびりびり震えているのは、べるの体自体で音、つまり伴奏を奏でているからだろう。

 全力疾走しながら、ふと誘惑にかられ振り返った。絵里の視界に収まったのはもうもうと上がる粉塵をまとった、超巨大生物の脚だけだった。全力で走っていて、距離が近いわけじゃない。距離が離れれば相対的に見える範囲は広がるのに、脚しか見えない。

 引きつった顔をぎこちなく顔を前に戻す。その時、視界の上端を黒い影がかすめた。滑らかに宙を旋回してくる影の正体はさっきの怪物だ。怪物は鉤爪を突き出し、絵里の頭を引き裂くのにちょうど良い高さで突っ込んでくる。

 スライディング気味に鉤爪をくぐり、体を跳ね上げざまの一撃を怪物の胴に叩きこむ。きりもみして吹っ飛んでいく怪物。そして次の敵の気配、というほどのものは、この騒々しい状況下で感じ取れるはずがなかったからもうほとんど直感で、べるを引っ張り寄せて、くるりとダンスでもするように位置を入れ替えた。

 べるの小さな頭をつかもうとしていた怪物の首を刎ね飛ばし、さらに旋回。

 その時、背後から引き寄せるような風というよりもはや気流にバランスを崩された。振り返って確認したりしないが、超巨大生物が脚を上げたのだろう。あの大きさだと、それだけで大破壊と気流が起こる。

 ふっと、べるの歌が止み数歩ほど先の空間が、ぐにゃりと歪んで光を放つ。

「光に触れてください。それで元の世界に戻れます」

 光まであと数歩のところで、これまでで最大の激震が二人を襲った。体が浮き、踏み出した足が宙をかく。絵里は上半身をひねり、べるを前へと押し出した。手を離し、驚いた顔のべるが振り返るがそのまま光に吸い込まれていく。

 そして、光と絵里の間に新たに怪物が舞い降りた。怪物が目の前を塞ぐ寸前、すでに光が弱まっているのが見えていた。一秒だって構ってられない。まだ揺れる大地になんとか転倒せず着地し、体のバネを総動員して跳ねる。

 鉤爪を繰り出した腕を足場にしてさらに上へ。怪物の頭上を飛び越えてそのまま降下攻撃。バルザイの偃月刀が怪物の胸を深々と貫いた。怪物の背中を蹴ってバックジャンプ。後ろ向きのままで光へと飛び込んだ。


 わっ、と馴染み深い騒音が耳に入ってきたかと思うと、絵里は背中をしたたかに打ち付けていた。

「ったたた」

「怪我はありませんか」

「戻って……これた?」

 絵里はきょろきょろと辺りを見回す。怪物はおらず、荒廃した環境でもない。絵里のよく知っている、見慣れた駅前広場だ。

 べるが屈んで手を差し出し、絵里はそれを握り返した自分の手を見てぞっとした。泥に埃、苔で汚れきっている。正常な世界に戻ってくると、その汚れも際立って見えた。握った手とは逆の手には、刀まで持っている。完全に不審者だった。

 小さな女の子が、べるちゃん! とこちらを指さした。母親らしき人が促し、足早に去っていく。 

「ここを離れます。魔術の存在は秘匿義務が課されています」

「と、とりあえず、家に来てくれる。ちゃんと話も聞きたいし」

「善策と判断します」

 立ち上がった絵里は気休めでも制服の泥を払って、なにか物足りなさを感じた。

「……あ! バッグ向こうの世界に置いてきちゃった」

 バッグには借りた古典のノートも入っている。あんなところに放置する訳にはいかないだろう。疲労と心労に絵里はがっくり肩を落とした。

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