スネイルバイン
如月 朔
スネイルバイン
「ねえ、蝸牛ってどうやって死んでいくのか知ってる?」
彼女の言葉はいつも唐突で、まるでどこから発せられるのか捉え所がなかった。
「さあ、見たことないよ」
薄暗い部屋は雨漏りでもしているのか、遠くで水の滴る音がする。じめじめとした室内で、隣の部屋へと続く扉を見つめながら僕は彼女の問いかけに答えた。
「だんだんと弱って動かなくなっていって、いつか殻の中から出て来なくなるの。そしてやがて干からびる」
彼女は窓の外を見たまま答えた。
考えてみれば当然のことだと僕は思った。蝸牛が死ぬ前だからといって家を捨てて蛞蝓になるわけはない。
「そうなんだ」
特に驚くべき事実もなかったので、僕の反応もそれ相応のものとなった。
雨はまだ降り続いている。決して大振りではないけれど、しとしとと降る雨は絶え間なく窓ガラスを濡らしていた。
僕は窓枠に捉えられた彼女の横顔を見つめる。
十五歳の少女とは思えないほど大人びた彼女の横顔は、他人を決して受け入れぬような冷たさを孕んでいた。
「今日も持ってる?」
彼女は窓の外へ視線を向けたまま僕に向けてぽつりと言った。
「何を?」
「カメラ。あなたはどうしていつもカメラを持ち歩いているの?」
「それは……写真を撮るのが好きなんだ」
彼女の質問に僕はこれ以上ないくらいにつまらない返答をする。
「そう」
彼女は僕の顔を見ることもなく、より簡素な言葉を発しただけだった。
それきり僕らの会話は途絶えた。
僕から質問しても彼女が答えることはない。目が合うことさえもない。恐らく彼女の目には初めから僕など映ってはいない。
僕は彼女の家を出るとすぐに振り返った。先程まで景色を眺めていた窓際にもう彼女はいなかった。手を振ってくれるなどと期待していたわけではないが、僕は毎回振り返らずにはいられなかった。
足下に生える緑が雨に濡れて重くなった葉を地面の上に横たえている。ぬかるんだ地面に僕の足が少し沈むのと同時に緑が地面に少し埋もれる。
そして、帰り道には毎回同じことを考えてしまうのだ。
あの部屋にはもとから誰もいなかったのではないか……
まるで全てが僕の夢だったのではないかと思ってしまうほど、それくらい忽然と彼女の痕跡は消えている。
僕はふと思い出したようにカメラをシャツの内側に入れて庇いながら、梅雨の雨の中を家へと急いだ。
「またそんなにずぶ濡れで帰ってきて、一体どこに行ってたのよ?」
母は僕を見るなりそう言った。
「友達と空き地で遊んでたんだ」
「何もこんな雨の中で遊ばなくたっていいでしょうに。早くお風呂に入って、着替えなさい」
「わかったよ。ねえお母さん、蝸牛ってどうやって死ぬか知ってる?」
「知らないわよ。お母さん虫好きじゃないもの。早くお風呂に行きなさい」
タオルに空気を溜めて水に沈める。小さい頃、父に教わって以来、湯船に浸かる度、飽きずにやっている。
今はいない父は僕に色々な物を与えてくれた。このタオルの遊び。大量の本。同級生が持っていないような本格的なカメラ。大切な物を失う喪失感。
――「お父さんは死んじゃうけど、いなくなるわけじゃないぞ。ずっと変わらずお前の傍にいられるようになるんだ。だから悲しいことじゃない」
父はそう言って病院のベッドに横たわったまま僕の頭を撫でた。
そしてみんなで写真を撮ろうと言った。
「写真は一生変わらないものだ。そこに存在したことの証明だ」――
不意に父のことを思い出して切なくなった。それでも、少しずつタオルから漏れ出してくる空気を見ると妙に気持ちが落ち着いた。
そして、彼女の言葉を頭の中で反芻する。
彼女の言葉はいつも唐突で、すぐに言葉の意味を理解出来たことは少ない。だけど、何か大切な意味を持っているような気がする。それは漠然とした予感のようなものでしかないし、これまで重要な意味を見出せたことは一度もないのだけれど、彼女の言葉にはどこか真に迫るものを感じる。そんな不思議な言葉だった。
お風呂を出ると僕はいつものように本を開いた。幼稚園に通っている頃から続けている日課だった。
本ならどんなものでも読む。小説、漫画や絵本、週刊誌から学術書まで。母は僕を活字中毒ではないかと心配したが、自分ではそんなことないだろうと思う。
父が亡くなって間もない頃は妙な義務感に駆られて読んでいることもあったように思うが、今は違う。本を読んで新しい知識を身に付けることで彼女に少しでも近付きたかった。彼女の言葉の本質に、核心に幾らかでも迫りたかった。
風が出てきたのだろうか、雨粒が窓を打つ軽快な音が室内に谺している。
この雨は一体いつまで降り続くのだろう、僕はぼんやりと思った。
「ただ歳を取り続けるだけなら、私たちは死なないんだって。細胞や臓器の機能不全が歳を取ると起こりやすくなるだけで……もしかすると、ただいつまでも歳を取り続ける世界がいつの日か来るかもしれないんだって」
彼女がこんなことを言ったのは、小雨は煙るものの、梅雨にしては空の比較的明るい日のことだった。
「そうなったらすごいね。永遠の命を手に入れられるんだね」
僕は素直に驚いた。寿命は当たり前に存在するものだと思っていたから。
「永遠の命ってことではないけど、手に負えないほど臓器が損傷したりしない限りは死ななくなるかもしれないわね」
彼女は一体どこでこんな知識を手に入れているのだろう。このかび臭い殺風景な部屋に本やパソコンなどは見当たらない。それに僕は彼女の両親にもあったことはなかった。
以前、彼女に両親のことを尋ねたことはあったが、やはりその時も彼女は返事をしなかった。僕から彼女への質問に対しての返答はほとんど期待できない。学校のこと、友人のこと、将来のこと……一切の質問は黙殺されてきた。だから僕はこの先に続く現象に少しだけ驚いた。
「永遠に生きられたら何がしたい?」
僕はあまり深く考えることなく、思い付いた言葉をただ口に出した。
その言葉に彼女はゆっくりとこちらを見た。彼女に正面から見つめられるのは初めてだったかもしれない。
作り物めいた表情は僅かな生気さえも感じさせない。はっきりとこちらを見据えているようでいながら、実際には僕の後ろの壁に焦点が合っているような気もした。
僕は座ったまま少しだけ身体を後ろに反らせて彼女の視線から距離を置いた。後ろについた手が床に触れてひんやりと冷たい。
「永遠に生きることに一体どんな意味があるの? そんな途方も無い時間の過ごし方なんて私には見付けられそうもないわ」
淡々とした口調で告げると彼女はまた窓の外へ視線を戻した。
今日はもう彼女の口から言葉が発せられることはないだろう。
そんな時、僕は不意にある思いに取り憑かれた。
……彼女に触れてみたい。
僕は赤ん坊がするように手の平と膝をついて、ゆっくりと彼女に近付いた。手を伸ばせば触れられる、そんな距離で僕は彼女を観察する。
長い睫毛が窓から差し込むささやかな光を浴びて、頬の少し高くなった部分へと細い影を落とす。
柔らかそうな黒い髪が肩を中心に綺麗に身体の前後へと分かれている。
ベッドの上で身体を支える手はしなやかに伸び、その最果てに位置する小指の爪は砂浜に打ち上げられた小さな貝殻のように儚く僕の目には映った。
僕が間近に迫っても彼女は微動だにしなかった。
カメラを構える。彼女の睫毛の影を、肩を境に分かれる黒髪を、小さな小さな小指の爪を……僕はネガに焼き付けた。
僕がどれだけ近くでシャッターを切っても彼女は身動ぎ一つしない。瞬きさえもしていないのではないかと思った。
「満足?」
豁然と発せられた声に僕は身体を硬直させた。彼女は挑発的で、しかしどこか虚ろな瞳だけをこちらに向けた。
「その写真をどうするの?」
「どうするって何もしないよ。現像してアルバムに入れるんだ。写真を撮られるの嫌だった? 嫌なら消すよ?」
「別に」
「もう少し撮ってもいい?」
彼女は答えなかった。
僕はレンズ越しに彼女を見る。表情は先程までと変わらない。予め定められたポーズをとっているような、そんな悠然とした態度だった。
角度を変えて数枚の写真を撮ると、僕はカメラをしまった。
そして、何故彼女に近付いたのかを思い出す。いや、正確には写真を撮ることで抑えられていた感情が再び湧き起こってきたと言った方が適当だろう。
僕はおずおずと手を伸ばす。正面から触れる勇気はなかった。斜め後ろから、彼女がどんな景色を見ているのか確かめるような振りをしながら……。
彼女の頬にそっと僕の手が触れる。柔らかさと同時に壁に触れた時と同じような冷たさも感じた。
彼女に何の反応もないことを確認すると僕は手を引いた。
そのまま逃げるようにして彼女の家を後にした。
いつものように窓を振り返ることはなかった。
部屋に戻って夜が来ても、僕はなかなか眠ることが出来なかった。
右手の人差し指に残った彼女の感触を確かめる。そしてカメラのメモリーから彼女の写真を引き出す。
薄暗い部屋の中で撮影された彼女の姿はどれもマネキンのように固まり、動きに乏しかった。僕にカメラの腕がないと言ってしまえばそれまでだが、それらの写真はある意味では彼女の真実を克明に写し取っているように思えた。
一方で、肌理までも確認出来るような各部のアップは何故か妙に生々しい肉感を持っており、その矛盾は僕に得体の知れない興奮を湧き起こさせた。
母親に見付からないように僕は布団を被る。
殻の中に閉じ籠もって僕は自分だけの世界を構築する。その世界の中で彼女は僕の期待する通りの振る舞いをした。
艶やかな髪にそっと触れる。少し赤みを帯びた白い頬に指を這わせる。それをくすぐったそうに身をよじって避ける彼女の表情。僕の想像の中だけで描かれる彼女の笑顔。それは現実ではおよそ見ることの叶わない表情だった。
無機質な横顔をじっくりと観察することで導き出された仮説に過ぎない。
彼女の言葉、写真、そして仮説。僕の世界には彼女を構築するに十分なだけの材料が揃っていた。
暗い布団の中で僕は彼女と対話を続けた。
一定のリズムを伴って雨は僕の部屋の窓を叩く。
「ある種類のヤドカリとイソギンチャクって共生関係にあるんだって」
「共生関係って?」
耳慣れない言葉に僕は聞き返した。
「たまに殻や鋏にイソギンチャクを付けているヤドカリがいるの。ヤドカリはイソギンチャクを外敵から身を守るために利用して、イソギンチャクは移動や吸着する場所が少ない環境で生きていくためにヤドカリを利用する。そんな相互の協力関係のことよ」
「なるほど。お互いがいることでより良い生活を送ることが出来ているんだね」
彼女は僕の言葉に軽く頷くと、指先で髪に触れた。
俄かに昨夜の空想が僕の脳裡を過る。僕は空想を振り払うように言葉を続けた。
「でも、ヤドカリは大きくなると殻を捨てるよね? そしたらイソギンチャクはどうなっちゃうの?」
「新しい貝に器用に移し替えるそうよ」
「じゃあヤドカリとイソギンチャクはいつまでも一緒にいるんだね」
「そうね。どちらかが死ぬまでは……」
ふつりと言葉を切ると、彼女はいつものように窓外に視線を向けた。
窓の外に見える紫陽花の上で蝸牛が角を出して空を仰いでいる。誰もが鬱々とした気持ちになるようなどんよりとした空が重くのしかかってくるように見えた。
僕はカメラを構える。窓枠を額縁に据えるような画角から彼女の無機質な横顔をファインダーに収める。左腕を窓枠に乗せた姿が優雅だった。
「また少し写真を撮ってもいい?」
僕の言葉は部屋の空気をわずかに振動させたに過ぎなかった。彼女はゆっくりと瞬きをしてそのまま反応することはなかった。
無言でシャッターを切る。自動で点滅したフラッシュが室内を一瞬明るく照らした。決して室内灯の点けられることがないこの部屋で、普段光が届くことのない部屋の隅にまで瞬間的に光が届く。そしてまたすぐに、一度は寝床を追い出された闇が部屋の隅に陣取った。
彼女はわずかに不機嫌そうな表情を作った。初めて見る表情だった。想像以外で初めて彼女の生を感じた瞬間でもあった。
形の良い唇、滑らかな肘、寝間着の裾から無防備に晒された太もも。僕は夢中で撮影し続けた。
雨の音が強くなって僕ははっとした。外を見ると雨は紫陽花の葉を大きく揺らして、その勢いの強さをはっきりと誇示していた。
先程まで葉先で角を出していた蝸牛はその緩やかな歩みを止めることなくどこかへ消えてしまった。普段ならばはっきりと残るその足跡も大粒の雨がたちまち消し去ってしまったのだろう。
厚い雲に覆われて、さらには時間の経過も重なって、外は先程までにも増して暗くなっている。当然それに伴って二人のいる部屋も暗くなった。
こんなに暗くなるまでこの部屋にいたことはなかった。
一体どれくらいの時間、無心に彼女の写真を撮り続けていたのだろう。その間、彼女は全く言葉を発することなくただ黙って座っていた。
「ずいぶん暗くなっちゃったね」
僕は彼女に言った。
こくりと頷く。
「雨がすごいね」
また一つ頷く。
「帰れそうもないな」
僕は一人ごちるように小さく呟く。
雨は一層強く部屋の窓を打った。次の瞬間、フラッシュの明滅を思わせる強烈な閃光と、耳をつんざくような轟音が響いた。
彼女が飛び退くように窓から離れる。部屋の隅、光の届かぬ場所にその身を潜めた。
「大丈夫?」
彼女は震えていた。右手は膝を抱え、左手は強かにシーツを握り締めていた。
顔を隠して蹲る彼女の傍らに僕は近付いた。彼女の雰囲気を損なうことのない涼やかな香りが僕の鼻腔をくすぐった。
僕は荒く呼吸を続ける彼女の背中を優しくさすった。それは昨日触れた頬よりも温かく感じた。
「雷が苦手なの?」
彼女は膝を抱えていた右手で私の洋服の裾を強く掴んだ。血の気が引いて白くなったその手に僕は自らの手を重ねた。
近くで雷鳴が轟くたびに彼女はその華奢な身体を震わせる。
背中をさすりながら極めて自然な振る舞いで、僕は彼女の隣に腰を下ろした。肩が触れ合う程の距離で、彼女のベッドの上に……。
心臓は確かに自分を励まそうと激しく鼓動する。心臓の一音毎に僕の脳裡には昨夜の空想がスライドショーのようにフラッシュバックする。
昨日僕の中に存在した彼女と、今僕の隣にいる彼女が徐々にリンクしていく。もはや空想などではなく、彼女は確かに僕の手の届く範囲に存在する。
忘れた頃に鳴り響く雷鳴。
彼女の身体が再び硬直する。
左手に力を込めて僕は彼女を強く抱き寄せた。
伏した顔を無理矢理に引き上げる。乱れた前髪と恐怖で微かに充血した瞳。
僕はその瞳に溜まった雫を払おうとゆっくり右手を伸ばす。
突然抱き寄せられたことに驚いたのか、ただ茫然としたまま僕の奥を見つめる彼女。
僕の指先が彼女の眼球にわずかに触れた瞬間、彼女はすっと瞼を閉じた。
「私はこの家から出られないの」
彼女は目を閉じたまま言った。
彼女の眼球に触れた右手は頬を滑って顎を固定する。
そっと唇を重ねる。右手を喉元に当てながら彼女の柔らかな下唇を軽く噛む。
「目が見えないの?」
「光は多少感じるわ」
彼女が自身プライベートに関わる質問に答えたのは初めてだった。
「じゃあ、僕の顔は……?」
「一度も見たことがないわ」
そうか、僕は喉元に当てた手に少し力を込める。彼女は大きく咳き込んだ。しかし、それでも彼女が抵抗することはなかった。
激しい雨音と雷鳴が、時折彼女が立てる呻き声をかき消す。
僕は昨日、自室の布団の中でそうしたように、彼女を扱った。
人形のようにただ虚空を見つめる彼女の瞳から一条の涙が頬に伝う。その軌跡は蝸牛の足跡のように彼女の頬に残った。
目が覚めると僕はもう一度布団を被る。そして母親に気取られないようにひっそりとカメラのメモリーを回顧する。一体何度この作業を繰り返しただろう……
確固とした質感を伴って彼女が僕の前に現れる。
またいつものように彼女が唐突な言葉を発する。
「砂漠での死亡原因で最も多いものは溺死なんだそうよ」
「へぇ」
僕はいつも通り彼女に相槌を打つ。
「砂漠で溺死するなんて、日本で餓死するよりも難しそうに聞こえるけどね」
僕は軽口を叩いた。彼女はそれに答えない。
彼女のことを思い浮かべる時、天気は決まって雨だった。
パタパタパタッ。窓を強く雨が打つ。
繰り返されるリズムが僕をさらに深く空想の世界へと導く。
激しい雨は深く潜行する僕の足跡を消してゆく。
彼女との対話は続く。
「なあ、あの空き地にあるボロ屋敷で、昔、女の子の死体が見つかったらしいぜ」
好奇心に瞳を輝かせながら少年は言う。
「それ、私もお母さんから聞いたことある。もうだいぶ前のことだけど、精神がおかしくなった男の子も一緒に見つかったって聞いたわよ。どんな人がいるかわからないから、屋敷には近寄らないようにってお母さんに言われたわ」
「男の子も一緒に? それは初めて聞いたな。女の子には乱暴された形跡があったらしいから、最初は他殺が疑われたみたいなんだけど、実際の死因が餓死だったことが分かって、身元不明の遺体が発見されましたってないがしろに処理されたって聞いたぜ。近くで母親の死体も見つかって、自然死だったから事件性はないだろうって捜査もおざなりに済まされたって噂だけど……でももし、死体と一緒に男の子が見付かったんだとしたら話は違ってくるな」
「うん。もし他殺だとしたら犯人は捕まってないわけでしょ? なんだか恐いね」
「何か痕跡が残ってるかもしれない。今度こっそり屋敷の中に入ってみようぜ。みんなで入れば平気だよ」
「嫌よ。気味が悪い」
少女は足早に空き地の前を通り過ぎてゆく。
「なんだよ、度胸ないなぁ」
少年は少女を追いかけながら言った。
突然、少女が少年の目の前でピタリと足を止めた。
「どうしたんだよ。急に」
「いや、あの窓から人がのぞいてて目が合ったの」
一軒の建て売り住宅の二階を指差しながら少女が言った。
「それがどうしたのさ? 住んでる人がいれば窓から外を見ることだってあるだろ」
「なんかボサボサの髪をした、ものすごく気味の悪い人だったから。こっちを見て何かブツブツ呟いてるみたいだったし」
少女は指先で長い髪を弄びながら、整った顔を強張らせた。
「気のせいじゃないのか。そういや、あの家、近所だけど家から人が出て来る所を見たことないな」
「もう、早く行こうよ」
夏だというのに、寒そうに肩をさすりながら歩く少女の真っ白な顔を赤い西日が照らしていた。
僕は布団から這い出す。そしてふと気付いた。
「雨が止んでる?」
カメラを置いて閉め切ったカーテンに手をかける。カーテンを引くと、途端に差し込む西日に思わず目を伏せた。目が慣れると僕は眼下の景色に目を疑った。
「どうして? あの家から出られないって言ってたじゃないか」
考えるよりも早く階段を下りた。
「あなた部屋から出られたの?」
母親の言葉を無視して玄関を開け、歩道へ駆け出す。
すでに彼女の姿は見えなかった。
僕は覚束ない足取りで空き地へ向かった。少し彼女の家の様子が違って見えた。
彼女の部屋の窓に向かって緑色の蔦が伸びていた。蔦には薄紫色の花が付いていた。蝸牛のような花弁を持つ変わった花だった。その花に顔を寄せると、彼女のように涼やかな香りがした。その香りに誘われて僕は特徴的な花弁を指でなぞった。
男は再び、彼女の部屋へと続く階段にゆっくりと足をかけた。
スネイルバイン 如月 朔 @yazukazuya
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