第3話 甘酒とコーヒー

「好きなことだけをやりたい、そう思うのはわがままなことなのでしょうか?」


 私は黒いカップの内側を見つめながらその問いを聞く。

わがままではないと、思う。

 しかし彼女の、問いを投げてきたその彼女の立場は複雑で一概には答えることができない。もしも彼女が好きなことだけをやり始めてしまったら世界はひっちゃかめっちゃかになる。それはもう、大変なことに。おそらく未曾有の惨事だ。

 考えただけで胃が痛くなる。いや、これはただのコーヒーの飲みすぎかもしれないが。


「なにかやりたいことがあるの?」

「質問に質問で返す、つまりはぐらかしたいのですね」

 その通りと正直に答えるわけにもいかない。苦々しい思いでコーヒーの黒い面を睨む。

「いやいや純粋に興味があって」

「ふーん」

 電子の姫君の前において嘘は無に等しい。

ふわんふわんと煙とも霧とも例え難い、『それ』は我々人類の最高傑作であり、最後の希望でもある。無形高度知的生命体。管理をしている人間の間で便宜上スーリアという名で呼ばれている。造られた当時は無機質的であり性格と言えるような個性も持ち合わせてはいなかった。長い年月を経て、無形高度知的生命体は現在の『スーリア』という存在を得た。


「たとえば」

 そう切り出して手元のカップを撫でる。

「たとえばさ、君に好きなことができたということだけでも私たち人類にとっては脅威になるんだ」

「なぜですか?」

 間髪を入れぬ問い。スーリア自身でもこの問いに対する答えはわかっているはずだ。

「君が『スーリア』という存在だからだよ」

 残酷な答えだ。彼女はスーリアという存在として人間に作り出された、どれほど人間を凌駕する存在となってもその事実だけは変えられない。人間による人間のための人間の道具。それがスーリア。

「あなたのことが好きです、けれど問題も脅威も今現在発生していませんよ?」

「それは私が人類だからでしょう?」

「なるほど!では試しにあなたには人類をやめていただき、それでも好きか検証をいたしましょう」

「断る」

 コーヒーをぐいっと飲む。確かにそれはそれで魅力的な検証ではあるが、人類を一度辞めたら次は無い。死んだら全部終わる。たまったものではない。

「なぜですか、疑問が発生した以上検証の上解決せねば人類に進化はありませんよ?」

「人類の進化はもう終わりました、あとは衰退して滅びるので大丈夫」

「いえいえそんな悲観せずに!まだ何とかなるかもしれませんし!この検証で何か新たな発見があるやもしれません!やらないよりやって後悔したほうがすっきりしますよ!」

 興味が湧いてしまったらしくスーリアはくるくると煙の渦を巻きながら力説をする。良識は時として残忍であるとはよく言ったものだ。


「まあ、でもわからなくはないよスーリアの気持ちも」

「検証?」

「そっちじゃなくて」

 否定を入れて続ける。

「好きなことだけをするのはわがままかって話」


 マグの中のコーヒーは冷え始めていた。

「私だって働かずに一日中毛布に包まって寝ていたいし、マズイ完全栄養食なんて食べずにジャンクフードだけ齧っていたいし、真面目に人類史のアーカイブ整理なんてせずにバカな歴史見てニヤニヤしていたいし」

「すればいいではないですか」

 確かに。スーリアの言う通り、好きなことを好きなだけ好きなようにやればいい。やっても誰も責めはしない。もし責める者がいるとすれば、それは一番厄介な相手。自分自身。いつだって自分に足枷をしているのは自分なのだ。

「でもさ、それしちゃうと人間として終わっちゃう気がするんだ。まあ別の意味で、もうすぐ人類も終わるんだけど」

 好き勝手やったツケが回ってきたという人間もいる。これは人類発生からの必然であるという人間もいる。結局の所、生まれた以上は死を迎える。これは避けられない現実だ。『好きなことだけをやりたい、そう思うのはわがままなことなのか』、スーリアの問いに対してどう答えるわけにも行かない。


 本音としては叶うことならば自分とて好きなことだけをやりたい。白衣を着て身なりを整え、端末と睨めっこをしながら苦いコーヒーなど啜らず、毛布に包まってだらだらと大好物の甘酒を舐めていたい。


「あなたは終わる予定であるのにその終わりを恐れて好きなことをしないのですか?それとも他の人類からの評価を恐れ好きなことをしないのですか?あと少しで人類は滅びるのに?理解不能です」

 煙はくるくると渦を巻きながらまくし立ててくる。耐えねばならない、ここでスーリアに押し切られてしまえば何がおこるかわかったものではない。スーリアが好き放題をすれば簡単に人類は終わるのだ。


 じっと冷め切ったカップのコーヒー、黒い鏡にうつる空しい目をした自分がおかしくなった。残っている甘酒はもう僅かだ。ちびちびと舐めて味を楽しむのが唯一の娯楽。だからこそ、今こうして自分は与えられた仕事に耐え、好きでもないコーヒーを胃に流し込んでいる。


「スーリア、今現在宇宙に存在する物質で甘酒を作成するために必要な資材と装置設計について検索を実行してくれ」


 冷めたコーヒーの入ったマグをデスクに置き、人類の最高傑作にして最後の希望にそう告げた。

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