明治の京都と「導きの栞」

第1景 眠れなかった夜と大人の付き合い


 大阪から京都までは、夜船となった。

 エクスは一睡もできなかった。

 確かにコウスケ爺さんは船の中で高いびきをかいていたが、そのせいではない。

 狭い船でレイナがぴったりと身を寄せて、静かに寝息を立てていたからである。

 蔵の立ち並ぶ伏見の川辺についた時は、エクスは目を真っ赤にしていた。

「ちゃんと寝てなきゃダメじゃない!」

 子供じゃないんだからと頭から叱られて、エクスは心も身体も疲れ切ったようにぐったりとうなだれた。

 どちらかといえば、子供でないからこそ眠れなかったのであるが……。

 コウスケ爺さんは、かっかと高笑いする。

「まあええわい、若い頃はそういうもんや」

 こうして、レイナとコウスケ爺さんは若いお荷物を引きずるようにして、陸路を洛中へと向かったのだった。


 京都の町中に入って、まず向かったのは京都駅だった。

 大きな荷物を提げて駅を出たり入ったりする人々の中に探す姿は、もちろんタオとシェインである。

 前日に来たのだからいつまでも駅に留まっているはずはないのだが、それでも最初に頼るべきはここしかなかった。

 コウスケ爺さんは手をかざして、人混みの中に兄妹の姿を探す。

 エクスもレイナも、ただきょろきょろするしかなかった。

 しばらく探して諦めたコウスケ爺さんは、帯屋を探すと言い出した。

「何、場所はお互い分かってんのや、ええと、京都柳馬場押小路虎石町西……」

「おや、またお会いしましたね」

 背中から声をかけてきた者に真っ先に振り向いたのは、レイナだった。

「……ロキ!」

 エクスも背中の剣に手をかけようとしたが、空を掴むしかない。

 剣はかついだ袋の中である。

 再会を喜んだのはコウスケ爺さんだけだった。

「世間は狭いなあ、そうや、こんな背えの高い男と、こお髷を結んだ娘が陸蒸気でこっちへ来るっちゅうたんやが」

 ロキはうっすらと笑うばかりである。

「さあ、存じません」

 そこでコウスケ爺さんは話題を変えた。

「せやったらな、柳馬場押小路ちゅうとこ知ってるか?」

「ええ、それでしたら」

 こともなげに答えるロキに、爺さんはさらに食いついた。

「虎石町の西側っちゅうとこあるか?」

「よろしければ東側もご案内いたしますが」

 茶化すロキに、コウスケ老はちょっと不機嫌になった。

「聞かれたことだけ答えたらええのや、そこに帯屋の長右衛門……」

 老人の顔色などうかがうことなく、ロキは長くなりそうな話を遮った。

「いわゆるお半長、ですね」

 コウスケ爺さんは、皮の厚い手で額をバシッと叩く。

「異人さんまで知っとんのかいな、一生の不覚!」

「では、ご案内いたしましょう」

 まるで舞台での演技のように大仰な一礼をしたロキは、京都駅から遠く北へと伸びる烏丸通へ向かって手を差し伸べた。

 そこで、今まで黙っていたレイナが静かに制止した。

「ちょっと待って」

「何か?」

 訝しげに眉をひそめるロキに、レイナは穏やかに尋ねた。

「親切ですね」

 心外だ、とでもいうように目を丸くしてみせたロキは、おどけて答えた。

「私はいつだって」

 エクスはロキに詰め寄った。

 剣を抜くことができたら、喉元につきつけていただろう。

「何を企んでるんだ?」

 コウスケ爺さんが、困ったように間に入って引き分けた。

 もちろん、事情など知りはしない。

 悪者にされるのは突っかかったエクスのほうだった。

「ああ、またケンカ……ここは大人の付き合いやさかいに、子どもは首いツッコんだらあかん」

 それは年の功ともいうべき仲裁だったが、少年らしい敏感さで危機を察したエクスにとっては、冷たいあしらい方でもあった。

 ロキはすかさずコウスケ爺さんに恭しく頭を下げ、年長者への礼を取った。

「では、参りましょう」

 大人2人が、駅から烏丸通へ向かう人混みの中へ紛れていく。

 それを呆然と見ていたエクスとレイナは、それぞれ我に返って後を追った。


第2景 明治10年の白き薔薇


 遅かった。

 風呂敷包を手に田舎を出てきたと言ったふうの、麦藁帽を目深にかぶった男がレイナの前に立ちはだかった。

 手にした剃刀が、顔の正面に振り下ろされる。

 とっさに、エクスが身体を丸めて腹に頭突きを食らわした。

 身体のバランスを崩したヴィランの上に倒れ込んだまま、エクスは尋ねた。

「あ……大丈夫ですか?」

 言葉では慌てているが、形相は必死だ。

 ヴィランが手にした剃刀を奪い取る。

 自分の身体の陰に隠して、相手の腹に突き立てた。

 ふらふらと立ち上がったときには、そこにはかすりの着物と麦藁帽子、風呂敷包しか残っていない。

 レイナは杖を手に、手ぬぐいをかぶった着物姿の女と対峙していた。

 高々と結い上げた髪に挿した簪に、女の手がかかっている。

 もちろん、レイナの杖のリーチが勝っている。

 だが、相手はヴィランである。

 その手が一閃すると、簪はレイナに向けて飛んだ。

 杖が簪を弾く。

 女の指がレイナに迫った。

 その先には、鋭い琴爪が付いている。

 だが、すれ違ったレイナが一瞬早かった。

 杖が女の鳩尾みぞおち辺りをえぐる。

 手ぬぐいと着物がその場に落ちた。

 道行く人が、それを怪訝そうに見て一瞬だけ立ち止まっていく。

 皆、忙しいのだ。

 だが、その日常を生きる「想区」の人たちの中から生み出されるのがヴィランだ。

 それは、カオステラーを倒した後にレイナが「調律」を行うまで止まらない。

 レイナの「調律」によってカオステラーがストーリーテラーに戻ったとき、倒されたヴィランは元の「想区」の住人に戻る。

 その、元の日常に帰すべき人々が今、駅前の喧騒の中からヴィランとなって無数に湧き出していた。

 この人数と、たった2人で、ろくな武器もなしに戦うことは不可能だ。

 レイナは、懐から1冊の本を取り出した。

 開いても、そこには何も書いてない。

 これがレイナの「空白の書」だった。

 そこに1枚の栞が挟まれた瞬間、本から光がほとばしる。

 レイナはつぶやいた。

「お願い、助けて。ジョルジュ・サンド!」

 愛と情熱の女流作家の名前を口にしたとき、どこからか凛然たる声が聞こえた。

Ouiウィ,mademoiselleマドモアゼル,Rose est blancheロゼ・エ・ブランシュ!」

 レイナとエクスの身体を燃えるオーラが包んだ。

 これが、ジョルジュ・サンドの秘力「薔薇は白いロゼ・エ・ブランシュ」だ。

 深い愛の力で、仲間たちに絶大な防御力を与えることができる。

 ヴィランを全員倒すことは不可能だった。

 それならば、いったん、囲みを突破するしかない。

 エクスもそれを察したのか、烏丸通へ向かって駆けだしていた。

 レイナも後を追う。

 ヴィランたちの群れはオーラに弾き飛ばされ、またはすり抜けられて、エクスにもレイナにも触れることができない。

 だが、2人の狙いはそれぞれ違ったようだった。

 駅の辺りから抜け出せる直前で、エクスは立ち止まったのだ。

「どうして……」

「先に行って、レイナ」

 レイナはそれ以上聞かなかった。

 烏丸通を北へと走る。

 残されたエクスに、さまざまな服装のヴィランが迫る。

 警官、旅行者、学生、軍人……。

 エクスの手には、レイナが取り出したのと同じような本が1冊ある。

 同じような栞が挟まれ、光を放った。

「頼む、ファントム!」

 テノールの高らかな歌声が、エクスの身体を震わせる。

 その瞬間、どう見てもアルトまでがやっとの少年が消えた。

 背中の剣を包んでいたはずの袋が、一陣の風に舞い上がる。

 ヴィランの群れが、次々に一刀両断されていった。

 これが、「ファントム・レクイエム・アリア」だ。

 オペラ座に住まう孤独な怪人の独唱は聞く者の感覚を麻痺させる。

 その心の隙は、一瞬の斬撃を見舞うには充分だ。

 この日、京都駅に散らばる無数の衣服は、府警に未解決の怪事件として語り継がれるだろう。


第3景 浄瑠璃と「調律の巫女」

 

 ヴィランを蹴散らしたエクスは、烏丸通を上がって間もないところでへたり込んでいるレイナに追いつくことができた。

 エクスが助け起こすと、レイナは泣きながらしがみついてきた。

 すれ違う明治の日本人が、ある者は顏をしかめ、ある者は顏だけ背けて目でちらちら眺めていく。

「行こう、レイナ」

「ええ……」

 人目があるのに気づいたのか、2人は路地に入って歩き出した。

 しばらく歩いて、ようやく落ち着いたのか、エクスはレイナに尋ねた。

「……で、柳の馬場押小路虎石町西ってどこ?」

「知らない」

 レイナの欠点は、食い意地のほかにもう一つあった。

 果てしなく、方向音痴なのである。

 2人は、迷路のような京都の路地の上に広がる青空を眺めた。


 路地を直角にいくつも曲がった先の小さな家で、エクスとレイナは立ち止まった。

 不思議な弦楽器の音が、歌声と共に聞こえてきたのである。

「柳の馬場を押小路……」

 それがどちらも途切れたかと思うと、歌声は愚痴に変わった。

「お師匠はん、わてここ嫌や」

 若い女性の声を、年配らしい女性がたしなめた。

「ここはあんさんがやりたい言わはったんでっせ」

 若い方は愚図り続ける。

「『帯屋』やりたい言うただけでんねん」

 年配の方は折れたようだった。

「どこだんねん?」

「婆が嫁いじめするとこなら」

 はあ、とため息ついて、お師匠さんは弟子を促した。

「やってみなはれ」

 弟子は張り切って歌いだす。

「親じゃわやい、チェえ、あんまりじゃわいなあ」

 そこへ、エクスは遠慮がちに入り込んだ。

「あの……」

 弟子のほうが手を止めて嬌声を上げた。

「まあ、異人はんやわあ」

 レイナはギターのような楽器を指さした。

「これは……」 

 弟子はレイナのプラチナブロンドに感激したようである。

「まあ、お人形はんみたいやわあ」

 お師匠さんは落ち着いたものだった。

「これは三味線言いましてな、浄瑠璃いう、まあ、人形芝居の語りで……」

 そこでエクスは尋ねた。

「チョウベエとかオハンとか……」

 それは聞こえた歌の一節からの連想であったが、お弟子の関心は引いたようであった。

「へえ、お半長を異人さんも」

 エクスはきょとんとした。

「異人さんも?」

 それは、他に尋ねた者があったということだ。

 お弟子さんは、はしゃいで答えた。

「ちょっと前に、こ~んな恰幅のええ男と、ちっちゃい可愛らしい娘さんが」

 レイナはちょっと考えて、エクスの顔を見た。

「タオとシェインが?」

 それを人の名前だと察したのだろう、お師匠さんは初めて驚いた顔をした。

「まあ、大陸からも」

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