plan.12

     *



 土曜日、朝早くから――とはいっても平日よりは少し遅いが――家を出ようとするオレに、母さんが理由を尋ねたけれど「部活」と返したら普通に「行ってらっしゃい」と手を振られた。

 だからどうしたと言うわけではないけれど、オレがどう決意しようが世界はそんなとこ知った事じゃないと言わんばかりに、変わり映えしないなとかそう言う感じ。

 我ながらセンチメンタルになっているのかもしれない。


 決して軽い足取りではないが、昨日学校に行く時よりはマシか。

 前回の部活から今日の部活までの間である昨日と言う日は、何の変哲もない金曜日。井原に会う事はないが、朝には会う。

 朝とこんなにも気まずい雰囲気になった事は今までなくて、結局一日会話をすることなく終わってしまった。


 それに比べて今日は、朝とも会わずに済みそうだ。朝が嫌いになったわけじゃない、むしろ以前のように話したくはあるけれど、どんな結果になっても自分の気持ちにけじめをつけてから、ちゃんと話をしたい。朝ならきっと分かってくれるから。


 休日の学校には人が居ない、と言う事はない。部活は普通にあるし、職員室には数人の先生は先生がいる。

 朝でなければグランドや体育館に至っては、平日よりも賑わっていると言ってもいいだろう。

 校舎内も部活動が盛んにおこなわれている特別教室棟には人が居る。


 今日は早いから、ちらほら明かりがあるだけだけれど、人に会わないならその方が良いので、音楽室に向かう足を速める。

 もう少しで音楽室と言うところで時計を確認したら、先輩に指定された時間よりも少し早いくら位だった。

 でも先輩が来ていなかったら入れないなと心配ではあったが、杞憂だったようで視界に入った音楽室の電気はついている。


 緊張を和らげる意味も込めて大きく深呼吸をしてから、扉を開けて「おはようございます」とあいさつをした。

 しかし中はもぬけの殻。先輩の荷物も無い。

 鍵をかけ忘れたのだろうかとも思ったが、見回りの先生はいるだろうし、電気が付いていれば見落とすと言う事もあるまい。


 だとしたら準備室か。

 藍先輩が使うドラムは、常に準備室に置いてあるし、何かしているのだろうと準備室のドアを何気なく開ける。

 案の定、電気がついていたので「おはようございます」と声を掛けてから、周囲を見回してみたのだけれど、人の姿は見当たらない。


「あ、おはよう。お邪魔してます」


 だが聞き覚えのない女の人の声が返って来た。予想外の出来事に、思わず声がした方を見る。あったのは簡易更衣室。

 つまり今あそこには、女の人が入っていると言う事になるわけか。

 更衣室に入る理由は着替える為だろう。つまり、ラッキースケベのチャンス、と簡単に考えてもいいものか。


 聞き覚えがないから、今の軽音部の人間ではない。声の感じから、先生と言う事も無いだろう。

 軽音部関係の人なら大丈夫だろうが、不審者と言う可能性も捨てきれない。

 初めての状況で変に頭が働いている中、件の人物が更衣室のカーテンから姿を現した。


 制服を着ていないので、この学校の学生ではない。身長はオレよりも低いだろうが、初春先輩よりは高いように思う。

 心配そうにこちらを見る目はぱっちりとしていて、華奢な体に整った顔立ちは、下手なアイドルよりも可愛いと思う。


「えっと、大丈夫? 驚かせちゃった?」



「ユメ……先輩ですか?」


 中途半端に知っている相手で呼び方に迷ったが、結局先輩を付ける。藍先輩や優希先輩のような例ではないため、名前で呼ぶのは馴れ馴れしいかもしれないけれど、オレはこの人の苗字を知らない。

 ともかく不審者ではなく、軽音部関係者の方だったようで安心した。


 ユメ先輩は頷いてから「一年生?」と首を傾げる。

 初春先輩は見た目にも幼い感じがして、年下かと思う事はあるけれど、ユメ先輩は年齢不詳と言う感じ。

 年上だと言われたらそんな感じもするし、年下だと言われたら信じるだろう。


「一年生です」


「じゃあ、君が和気君だね。話には聞いてるよ。初代ドリムに喧嘩売った子だよね」


 井原には初代ドリムの話をする時には気を付けろと言われたけれど、目の前でクスクス笑っているユメ先輩を見ていると、そこまで気にしなくていい気がする。

 と、言うかなんでユメ先輩が此処に居るんだろうか。


「はい、その和気碧人です。ところで、何で先輩はここで何してたんですか?」


「桜ちゃんに持ってきてほしいものがあるって言われてね。持って来たんだよ。

 そのついでに音楽室探索……かな。ほとんど変わってないんだけどね」


 そう言ってユメ先輩は手に持っていた青と白のチェック柄の紙袋を軽く上げる。卒業したのはこの前だとは言え、卒業後の学校に来るのが新鮮な気持ちになるのは分からなくはない。


 相手の正体も目的も分かったので、安心と共に浅く息を吐く。

 それにしても、このまま誰かが来るまで、ユメ先輩と二人っきりと言う事になるのか。

 相手は話題の有名人。忠海先輩や初春先輩と違ってバンドの顔のような人だから、オレでも知っていたし、流石に少し緊張する。


 気が付いたら先輩が椅子の準備をしている。ハの字のようにやや向かい合わせで、二つ。


「何してるんですか?」


「立っていると疲れるかなって。誰か来るまで話し相手になってくれないかな?」


「オレでよければいいですけど」


 小首をかしげる先輩を見て、ちょっとだけ朝の気持ちが分かったかもしれない。

 先輩に促されるように椅子に座って、もう一つの椅子に先輩が座るのだけれど、どこを見て良いのか分からない。参考にと思ったけれど、朝と話す時にどこを見ていたのかも思い出せない。

 仕方がないので、相手の目を見ると、先輩はニコッと笑った。


「一年生はまだ正式入部ってわけじゃないんだっけ?」


「そうですね。試験があって、って言うのは先輩も同じだったんじゃないですか?」


「んー、あれは何て言うのかな。たぶん、和気君たちの試験とは違うと思うんだけど」


 三十分でほぼ完ぺきに歌ったと言う話だったっけ。確かにオレ達とはレベルが違う。

 ただ現状でレベルが違うのは分かりきっている事なので、あまり悔しくはない。

 先輩は自分の事が話すのが嫌なのか、「それよりも」と焦ったように話を転換する。コロコロ変わる表情が何だか、可愛らしい。先輩に言って良いのかはわからないけど。


「和気君はどう? 軽音楽部でやっていけそう? 桜ちゃんはまだしも、鼓ちゃんは優しいと思うんだけど」


「先輩方は良くしてくれていますよ。でも、上手くやっていけるかって言われると、どうなんでしょう。同級生に妙に突っかかって来る奴がいますし。

 あと……。いえ、何でもないです」


 自分が歌いたいように歌えないのが嫌だ、と言おうと思ったけれど、すでに卒業した先輩に言っても仕方がない。

 首を振って話す事を止めたオレの顔を、先輩が覗き込んでくる。


「どうせわたしは卒業しているだから、何を言ってくれてもいいんだよ。

 話したくないなら話さなくてもいいんだけど、何か思う所はあるんだよね」


 先輩はそれだけ言うと離れて行ってしまう。何処か勿体ない。

 でも先輩の言う通りの面もあるか。

 先輩にとってはどうでも言い話しだろうから、こちらとしても気負わずに話せる。


「普通に歌うのが嫌なんですよね。でも、普通に歌うように言われてしまって。

 試験は通らないといけないし、納得したつもりだったんですけど……」


「やっぱり女声で歌いたい?」


「知っていたんですね」


「ある程度の話は聞いてるからね。それに初代ドリムを相手に大きな事をいうんだから、想像もつくし。

 和気君は女声で歌いたいの? それとも、ただ女声を使いたいだけ?」


 こちらを窺うように見るユメ先輩が、痛い所を突いてくる。

 以前井原にも似たような質問をされたけれど、その時にはオレが下手だと言う事で話がついた。でも今は技術の話ではなく動機の問題。


「……使いたかっただけです」


 正直に答えたくはなかった。きっとこの答えは、本気で歌っているユメ先輩に失礼になるから。

 でも、ユメ先輩は答えを知ったうえで尋ねてきたのではないか、と言う気もする。

 良くて呆れる、悪くて軽蔑されると思ったのだけれど、オレの予想に反してユメ先輩はうんうんと二度頷くだけだった。


「声を生かせる部活は、他にも演劇部や放送部、声楽部って言うのもあるよね。

 その中で軽音楽部を選んだ理由って何かな?」


「一番目立つと思ったからです。ユメ先輩は何で歌うんですか?」


 続く質問も答えがはっきりしているのに、答え難いもので、せめてもの抵抗に答え部分を早口で言ってから、話題を先輩の事にすり替える。

 先輩にしてみれば急な出来事だったのか、大きな目をさらに大きくして、パチパチと瞬かせる。

 それからすぐに微笑むと「楽しいからだよ」と迷いのない声が返って来た。


 会話の流れを全く考えていなかったため、先輩の返答に曖昧な事しか言えなかったのだけれど、代わりに先輩が話を続ける。


「和気君はこの曲歌っていて楽しいって思った曲とか、歌ってみたいって思った曲とかって、ないかな?」


「……考えたことも無かったです」


 オレの歌に対する姿勢はこの程度なのだ、と先輩は言いたいのだろうか。いや、これは勝手にオレがそう感じているだけか。

 先輩の意図はどうであれ、歌の対するモチベーションの違いを痛感する。

 自分の声が沈んでいて、どうしようもなく落ち込んでいるのが分かった。


「先輩はそういう曲ってあるんですか?」


「今まで歌った事のある曲は全部かな。歌える曲は全部って言ってもいいかもね。

 曲ごとに違った良さがあって、それぞれに思い入れがあって、なかなか優劣もつけられないんだよ」


 先輩の言葉は、オレを鼓舞するわけでもなく、説得するわけでもなく、ただ本当の事を口にしているようだった。

 驕らず、気取らず、ただただ自然体。どうしてそんな事が言えるのか、オレには分からなかった。でも一つ、どうしても尋ねてみたいことが出来た。


「先輩の中で一番思い入れのある曲って何ですか?」


 先輩に一番だと言わしめる曲があるのだとしたら、何かを見つけられる気がした。

 だけれど、先輩は困ったように笑い、目を閉じて考え始めた。

 先ほどの話でいけば、一番は存在しないと返ってくるのだろうか。


「やっぱり、どれが一番って決める事は、わたしには出来ないけど、特別って意味だと一曲だけあるよ」


「何て曲なんですか?」


 思わぬ答えに、前のめりになって尋ねる。しかし、ユメ先輩は優しい表情で、ゆっくりと首を横に振った。


「たぶんタイトルを言っても探せないよ。この曲を歌ったのはたった一回だけだから」


 だから特別と言う事なのだろうか。探せないとなるとオレにはどうする事も出来ないと肩を落とし、視線が落ちる。


「ねえ、歌っていいかな?」


 突然の申し出に頭をあげる。だけど、すぐに応えることが出来なかった。

 ユメ先輩の言葉が、オレ以外の誰かに向けられていたような気がしたから。

 だが、ここにはオレと先輩しかいないのだから、気のせいだろう。慌てて「お願いします」と返す。


 こちらをじっと見ていた先輩は、柔らかく目を細める。

 しんとした部屋の中、規則正しかった先輩の息遣いが、急に大きく長くなる。

 まるで曲の始まりを示すかのように一度だけ、吐いて、吸ってから先輩は歌い出した。

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