10月31日【本当の何か】
やがて着いたのは、ボロボロに壊れた空き家に見える家だった。
「ただいま」
梓はその家に入っていく。リーリュはセシルと目を交わした。
お互いの目が何を物語ったか。
「早く入れよ。今にも崩れ落ちそうな家だけど、とりあえずは大丈夫だ」
「お邪魔します」
家の中には質素なテーブルが一つと、四つの椅子のみがあった。
隣にもう一つ家が続いているようだ。カチャカチャと聞こえる音はカップのぶつかる音だろうから、そこは台所なのだろう。この見た目、家具の無さ。相当大変な目に遭っている、とリーリュは結論づけた。
そんなことはどうでもいいけど。
「遠いところわざわざご
「いえ、お構いなく」
カップを持って台所から出てきた女性は美しかった。こんな劣悪な環境でも強く生きている。
アスファルトに咲く花。直感的にその表現が出てきた。彼女は花としての可憐さと、アスファルトに咲く強さを兼ね合わせた花だった。
しかし……。丁寧な態度、というより低姿勢。普段からそうせざるを得ないからか、もはや意識せずにしているように見える。
「決して勘違いしていただきたくないのですが、私たちは不幸ではありません。ただ他人に
彼女が後ろに強大な力を背負っている錯覚に陥る。
「……ええ、とても幸せそうです」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
セシルは彼女の笑みに僅かな陰りがあるのを見て取った。
自分がその陰りを取りされればと思う。
その時、隣に座るリーリュがカップを落としたのが分かった。届かないと知っていても、反射で手を伸ばしかける。空を切った。
しかしそのカップが落ちることはない。セシルが息を飲む。
梓の母親の手が、カップの取っ手をしっかりと掴んでいた。それを横目で
そこで会話は成立したのだとセシルは悟る。なんとなく疎外感がある。
「お気づきになられていましたか」
同じく梓の母親も笑っていた。
「あなたもお気づきになられていたのですね。最初から」
「お互い様でしょう」
取り残されるは梓とセシル。
「結論から言うと、梓は吸血鬼の
「……は?」
間抜けな声を漏らす。そんなセシルの頭を軽く叩くリーリュ。
セシルが驚くのも仕方ないことなのだ。
分かっていない梓のためにリーリュが説明する。淡々として。
ここで出た吸血鬼の例で説明すると。
四世とは、即ち吸血鬼と人間が結婚した代から見た場合の、
つまり―四世とは種族そのもの、人間ではないということ。
「……俺は、人間じゃないんだな?」
「物分かりの良い子は好きだよ」
「じゃあ琉夏さんたちは何なんだ? こんなこと知ってるってことは、やっぱり人間じゃないんだろ?」
梓は物分かりの良い子であった。紛れもなく、それは吸血鬼の特徴で。
きっと、梓もどこかで薄々感じていたのではないだろうか。自分は皆と違うと。天才といったものなんかじゃなく、単純に他人とは違っていると。
おそらく梓は高校生だ。リーリュの勘でしかないが。けれど、その姿は中学生に見える。吸血鬼に限らず、魔界の種族は見た目の成長が遅いのだ。それに、先ほど母親が見せたあの反射神経、動体視カ。ここにたどり着くまでの道で梓が見せた高い運動能力。そして……リーリュが痛いほどに感じている異常な気。まさに吸血鬼のそれであった。
「俺たちは、魔界のちょっと偉い人さ」
実際はとてもとてもとても偉い人だけれど、そんな情報、冷めてしまった恋人同士と一緒だ。
「一応吸血鬼だね。僕も君も」
セシルが屈託なく笑ってみせると、いつの間にか強ばっていた梓の肩から力が抜けた。シルの笑顔は相変わらずどんな武器より恐ろしいな……。
「今までずっと黙っていてごめんね。いつか絶対に話さなきゃいけない日が来るのは知っていたのに。先延ばしにしても意味ないのにね。……いつしか私は、梓はまだ幼いと自分に言い聞かせていました。『人間じゃない』なんて残酷すぎて、到底私には言い出せなかった……」
少しだけ、声に涙が混じる。気丈に気高く凜と咲いている花でも、時には容赦ない雨風に負けそうになるのだ。人間がどれだけ強くなったって、せいぜい魔界の凶暴な植物たちと張り合うくらいであり、決して小人族の力に届くことはない。
彼女は頑丈な鎧を着用している。でも、中身の彼女はそのままなのだ。
「言い出せなくて当然です。貴女は母親なのですから。親が子を想う。その気持ちを恥じることはありません」
サラッとこういう『紳士的』なことを言ってのけるのがセシルという男だ。かつて幾人もの女性が惑わされ、勘違いした言動。しかしこれを素でやっているのだから、なんだか遣り切れない思いに駆られる。
「白さん、うちのお母さん美人だけど、俺の目の前で口説かないでよ」
ほらやっぱり、とリーリュは呆れた表情だ。
「ちがっ、いやいやいや、そっ、そんなつもりじゃないですからね!?」
「本当に? 実はそういう気持ちがないでもないわけじゃないんでしょ」
「そーだそーだ! 何回俺が白の尻拭いさせられたと思ってるの」
明らかにからかう調子の梓に乗っかって、リーリュも
リーリュはひどく真剣な表情だ。これを何も知らない他人が見ればこうなる。
「……え、まさか」
「ちげーよ!!」
珍しくセシルは口調を乱した。そしてリーリュをキッと睨みつける。
セシルには作り物の表情だとバレているのを知ってか知らずか、その
「ごめんごめん。でもさ、尻拭いは本当だし……って、待って梓も睨んでくるのやめて! ちょっと待って、なんで一触即発なの!? 語弊が生じてるって!」
今にもセシルに殴りかからんといった様子の梓。
今にもリーリュを殴り飛ばしそうなセシル。
どちらも話なんか聞いていない。そんな二人を、梓の母親は口元に手を当てて可愛らしく笑っている。何とも言い難い図だ。
一触即発の空気は崩れ、梓が殴りかかる。梓がセシルに辿り着く一瞬前に、リーリュが腕を引っ張った。
「話聞け!」
リーリュの怒号が狭い家に響く。家全体が恐れをなしたように震えた気がした。梓もどこか驚いているようだ。怒りで理性を失った目に、少しだけ怯えが混じる。
「君がお母さんを傷つけられたくないのは分かる。よく分かるよ。だってそれは、俺がこいつを傷つけられたくないのと一緒だからね」
落ち着き払って言い聞かせると、徐々に梓の理性が帰ってきた。
「語弊があるんだよ。白はトラブルメーカーって言ってもおかしくないくらいに数々の女性問題を抱えてきた。ぶっちゃけ、多分今この瞬間も抱えてる。でも、それは白の人の好さが連れてくる、本当は抱えなくてもいい問題なんだ。優しすぎるが故に誤解を招く。分かるよね?」
セシル自身がとても鈍いという情報は伏せておく。彼の沽券に関わるだろう。
軽口ばかり叩いているリーリュの、いつもじゃ見られない
それが梓の心に訴えかけたのか、梓は頷いた。
「分かった。俺、お母さんのことになると神経質になって。ごめん」
「いや、いいよ。俺も白が傷つけられそうになった時、一度だけ本気で激昂して相手殺しかけたことあるし」
いつもの貼り付けたような笑顔が、その真意を隠す。
「冗談にもほどがあるよ、琉夏さん」
「あはは、バレた?」
「隠れてない」
「まぁまぁ、とりあえずお茶飲みましょう?」
ずっと黙っていた母親がパンと手を打った。絶妙なタイミングだ。
「そして、お茶を飲みながら今後のお話。ですよね?」
「そうですね。……今後のお話です」
リーリュは目を伏せた。
セシルも彼の辛い気持ちを共有する。
人間と吸血鬼の混血の美人。
四世の若い男子。
彼らの未来を思うと、心が悲鳴をあげるのだ。
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