第一話:流転する風景、日焼する景色。

 おかしい。何もかもが。

 それなのに、周りは皆、まるで今現在が当然かのように振舞っている。

 教室で普通に食事を行える。教室で授業に参加出来る。保健室通学をすることも無い。

 いじめも無くなった。両親が逮捕された。教師が左遷された。いじめっ子も少年院へ送致された。

 あの一件からだった。

 転校はしたが、これといって、いじめられることも、いじめっ子から呼び出されることも、売春をさせられることも無くなった。


 フルダと名乗る、高校生くらいの方と会うことも無くなった。

 それでも私は、彼が見せた光景を、忘れることは無いだろう。




 ――――数日前のことだ。


『そのですね……”フルダマナセ”という方はいらっしゃらないんですよ。電話番号も使用されているものではなく、また、一般的に個人で使われるものではありませんでした。一応当局でも調べてはいますが、出頭された様子も無く、丁度監視カメラも故障していたようでして、人相も把握できていませんので……特定は難しいかと思います。また、何かありましたらご連絡いたします』

「わかりました、ありがとうございます。もしフルダさんが見つかったら、改めてこちらからお礼申し上げたいと思います。よろしくお願いします」

『承知いたしました。では、また後日、よろしくお願いいたします』

「はい。失礼いたします」


 フルダマナセは存在しない人物。電話番号も使用されていないもの。憶えているのも背恰好程度で、顔に関しても帽子を深くかぶっていたからか、よくわからなかった。唯一言えるのは、なにか、冷めた雰囲気をまとった人だったということだろうか。

 それほどまでに私は、彼に救われたというのに、彼について曖昧な印象を抱いていただけだったのだ。なんとまあ、浅はかな人間なのだろうか。それに、私がいじめられるようになった事態だって、自分でどうにかすることだってできたはずなのだ。彼のような善人に助けてもらう必要も、無かったはずなのだ。私一人に手を貸したせいで、本当に困っている人を、彼が助けられる可能性だって潰されたのだ。その上私は、せっかくの機会だった彼との話をする機会も、自分が逃げ出すことによって逃してしまった。


 どうしようもない人間だ。いや、人間にすらなれていないのかもしれない。人間というのはもっと、聡明で、明朗で、溌剌とした、生活の基準や循環を自分で作り出し、守っていく生物のことではないのだろうか。それに比べれば、私はどれほど、他人に依存した道程を曳き続けてきたのだろうか。

 そもそも、こういった思考が私の問題点なのではないのだろうか。こうして物事を陰鬱で、鬱屈な結末に至るように考えるから、こんなことになっているのではなかろうか。本来なら、もっと上昇志向をもって物事を考えたほうが、努力もできるはずなのだろう。こうして、はずだはずだと言い続けてごまかし続けているから、本当の自分を忘れ、他人に依存するようになったのではないだろうか。

 全く持って、私という生物は、度し難いものだ。自分自身で理解ができないのだから、これこそ度し難いと思う。こんなことを、包み隠さず相談すれば、私は少しでも、両親から少しでも教えを乞えばあるいは。友人ならば、多少傷ついてでも助けを欲すればあるいは。先生ならば、迷惑がられてでも、本当に苦しいのだと言えばあるいは。




 ――――そんなのは。


(……全部、手遅れだ)


 もう手遅れなのだ。今、私はこうなっている。私にとってありえない現実が、今こうして目の前にあるのだ。それなのに、手遅れになった過去を後悔してどうするというのだろう。今しかない今を、過去の懺悔のために費やしてどうするというのだろう。今から未来を積み上げていくために、過去を取り除く機会だというのに、どうして私はそうまでして思考を悲観的にしていくのだろう。

 単に、忘れられないからだ。私がそれを忘れては、私のためにならないと思っているからだ。


「山園! 山園ー! やーまーぞーのっ! ヘイッ! お前の先輩こと、渡辺幸太郎大先輩だぞ! こっちを見ろ!」

「……あの、うるさいです。あと痛いです。イヤホンしてるからって、あんまり背中たたかないでください。部活でも行ったらどうですか、サッカーバカ」


 地下鉄のホームだというのに、場を弁えずに騒ぎ、まるでゴリラのドラミングのように、私のバンバンと背中を叩くこの猿は、一応私の先輩――といっても、転校により私が1年生になっただけなのだが――であって、文化委員長にして体育会系の、昨今では珍しい根性バカだ。


「ははは、今日は喉が痛いから休んだ! なんでだろうな!」

「そうやってバカでかい声で騒いでるからだと思いますよ」

「なるほど! そりゃあ治療法がねえな!」

「はあ、そうですか。バカ特有の理屈ですね」

「お前さっきからバカバカ言いすぎだろ! これでも先輩だぞ俺は!」

「はあ、そうですか」

「まともに答えろや! って喉いてえ!」


 さっき自分が言ったことを忘れる程のバカなのだろうか。そんなことにも気づかないような、痛快すぎるほどの破天荒なのだろうか。いずれにせよ、表だって言うことは無いが、ある種見習いたいとも思えるような人だ。

 転入してきたとき、この人が声をかけてくれて、本当に助かったと思う。感謝の言葉の一つでも、言うべきなのだろう。


「まあ、そんだけ罵倒できりゃいっか! 最初あった時は、『どんだけ根暗だよ!』とか思ったけど、気楽に話してくれてるようで何よりだし! でも多少は口に気を付けろよな、先輩だぞ俺は!」

「あ、すみません、一応先輩でした」

「一応ってか事実だろが! これでも先輩だぞ俺は、もっとへりくだってもいいんだぜ!」

「……ふっ」

「あ、おい! 鼻で笑いやがったな! 先輩だぞ俺は、大先輩だぞ俺は!」


 それも、この生意気な態度と、160センチメートルに届かない低身長さがどうにかなり、私が本当に敬意をもって接することができるようになれば、だろうが。


「やめろ、腕を置くな! 身長が縮む!」

「じゃあ持ち上げますか」


 そう言って、頸部に手を当て、じわじわと持ち上げる。


「やめ、やめお! 首っ、首っ、もげえうあお! せんあいあおおえあ―ッ!」


 それでも、こういった経験ができるというのは、非常に嬉しいことだ。


「なに笑ってんだお前!? まさかサドか! サドなおかおあえはがががぎぎぎぎ!」

「サドじゃないですよ! 変な事騒がないでください!」


 ……そう、思いたい。







 今は、充実している。そこそこにだが、それでもそこそこにはなったのだ。家に帰っても誰もいないし、ご飯も自分で作るしかないが、それでも、好きな音楽を聴きながら、家でゆっくりと過ごしたり、好きな料理を作ったりと、自分で自分の管理ができるのだと、実感できる時間が、今はある。


 梶芳町郊外のマンションのワンルーム。ここは、フルダさんが私にくれたらしい、新しい居場所だ。彼が餞別にと用意したものは余りにも多すぎたが、それでも、それを受け取らずに生活できるほどの手段や方法は、私の手には無かった。

 五百万円の小切手と、毎月ごとに十万円が振り込まれる銀行口座。転居届、転入手続き等、各種行政手続き。万が一のための顧問弁護士や、生活に対する彼独自の安全保障。そして、彼が残したメモが、私には渡された。


『ささやかではありますが、あなたへの餞別です。遠慮なくお使いください。また、余計なお世話かもしれませんが、もしも私と会いたいのなら、”特別密告調査局”へご連絡ください。規則の為細かい住所等は伝えられませんが、赤いロデオの電飾のある建物が目印です。このことについては、口外無用です。どうか、良き日々を。』


 差出人名の書かれていないA4プリント。文書ソフトで作られたような文章と、余り過ぎている余白。たったこれだけで彼を見つける事なんてできるわけもなく、特別密告調査局というのも調べては見たが、どんな検索エンジンでも、望ましい結果が出ることは無かった。


 では諦めるのかと言われれば、そんなことは無いと返す他ない。手掛かりは少ないが、こんなことで諦めるのであれば、それこそ私の根性は無いようなものだろう。仮に紙切れのような根性だったとしても、数年間は、いじめに耐えたのだ。ひねくれた、軟弱な根性だろうが、それでも、多少は役に立つはずだ。


 そうすれば。


(きっと、あの人の所へ……)


 ……辿り着く、だろうか。

 確証は無い。根拠無き自信の下の推理など、希望に過ぎない。それでも、少しくらい希望を信じてみたいと思う。それくらいは、私だって欲を張りたい。今だって恵まれている。フルダさんが私を生かしてくれている。それでも、彼に対して何もしないというのは、きっと駄目だ。きっと彼も、私と会うために、『密告倶楽部』という鍵を残して、私に機会を与えたのだ。

 断定に過ぎないが、とにかくそれだけ、私は彼に会いたい。


(そうして会って、まずはお礼を言って、それから……いや、それよりも、まずはフルダさんに会わないと、話にならないか)


 思考ばかりが先走る。ただ、こうして先のことを考える事、未来に対する心構えができるというのは幸せだ。それは今、余裕があるからできることだ。


(まあ、まずは、今を生きるためのご飯を作らないと)


 何事も、準備や管理を怠れば、その分、結果は望ましく無いものになる。


 ……さて、今日は、どんな献立にしたものか。

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