浸透する黒色、拡散する灰色。
夜風は未だに冬の残滓を纏い、肌寒さを感じさせる。しかし昼の春風は暖かく、あらゆる生命が萌える、駘蕩とした季節となった。……ロマンチストな表現をすれば、そういった表現になるのかもしれない。しかしまあ、僕にそういった、悠長な表現はあまりに似合わないだろう。
なんせ、今年で百周年記念を迎える伝統を持つ高坂原高校の二年生にして、八十年の伝統を持つ広報部の次期部長を任されてしまっている僕は、三年生が引退した瞬間に部員の数が、僕と約二名と幽霊部員一名となってしまう現状を、どうにかして改善しなければならないからだ。
目標こそ見えれど、過程と手段は非常に曖昧である。今年の新入生を何とか確保して、幽霊部員にすることもなく、伝統ある広報部を導ける人材を確保しなければならないのだ。明確に迫る危機に対して、しっかりとした対抗策を講じることができていないのだ。
「……どうしたものかね」
入学式からわずか三日が過ぎたが、最初は八人程度だった入部希望者は、減りに減って三人となった。もし、今年の広報部の活動が目に見えて低迷すれば、来年の活動費、学校新聞の発行部数の削減は免れないだろう。それどころか、下手をすれば広報部そのものが廃部になるかもしれないのだ。
そんなどうしようもない現状に対して、半ば諦めの混じった焦燥の言葉を、ため息交じりに呟く。最近はそうして、広報部のことばかりを憂いているせいか、無理なことを承知でも、彼女のことを考えてしまう。
(こんな時砂城さんが居たら。……その時は、彼女は昔と同じように、僕を助けてくれるのだろうか)
今は遠くの街にいるという、昔なじみ。猫じゃらしのようだった一つ結びの髪は、どれほど伸びたのだろうか。今も昔のように、誰かを守って、傷ついているのではないだろうか。今でも思い浮かぶその姿は小学生の頃のままで、女の子に守られていた自分を思い起こしてしまう。
……そうして、弱い自分と一緒に、彼女を思い出す。再び会うことなど、無いだろうと知っているのに。それでも僕は、心の隅に、彼女の影を落としこんでいる。
――――沈みかけの夕日の光を反射して、鈍く輝くアルミサッシとシェードカーテン。そこから漏れ出す光を塞ぎ、彼は荷物を持って部室を後にする。
そんな広報部に差す幾筋かの光明は、少なく、細く、薄いものだった。
梶芳町アーケード街の、すえよし屋のコロッケの匂い。彼と彼女は、昔からこの匂いが好きだった。
「まーた買い食いして、ホントあそこのコロッケ好きだよねえ。あ、うま。やっぱうまいわ、これ。マジうまい」
「……なんだかんだ姉貴も食うだろうに、何を言ってるんだか」
一応全部は食わないように言っておいたのだが、彼女は手も口も止めるつもりは全くなく、一つ食べてはまた一つと手を伸ばし、コロッケの入った紙袋を軽くさせてゆく。これを予見しておいてもう一袋買ってはいたが、気休め程度だろう。
そんな、何気ない日常。春先だがアーケード街はぬくい程度の暖かさで、人の集まりもまばらで、雑踏の音もいつもより小さい。もうそろそろ夜に入るからか、時折路地を吹き抜ける風は冷たく、家路に急ぐべきかとも思うほどだ。
そのことを彼女も思っていたのか、構って欲しいのか、わざわざ大きな声で口にする。
「いやあ、今年は寒いねえ。1月にも雪が降ったし、やっぱり温暖化の影響なのかねえ」
「さあ、知らないけど」
若干返事をするのが面倒くさくなり、適当に相槌を打って済ませようとする。しかし何が気にくわないのか、彼女はむっとして、先ほどよりも声を張る。
「今、面倒くさいと思ったなコノヤロー。というか適当な反応だった的な? もうちょっと構えよこのヤロー、だからモテないんだぞ」
「モテないは余計だし、僕は姉貴みたいに口うるさくなって嫌われたくないから」
「え、私って口うるさいかに? 私うるさくないと思うんだけんどー的な」
「個人的には、偏見含めて、大分うるさいというか、うざいと思うよ。まず、そうやって自覚ないところとかもそうだけど、今の彼氏さんにとっちゃかなりうざいんじゃないかな。まあ、姉貴が好きっていう変人だし、そこが好きなのかもしれないけど。けれども、やっぱり、少し頭の弱い女子高生くらいにはうるさい。やかましい。かしましい。不思議ちゃんの気も少しあるかも」
「……マジで?」
「マジで」
そんな言い合いが終わると二人は黙り、時折彼女は「うるさくないと思うけどなあ」だとか「頭弱いかなあ」等とこぼしながら、首をかしげて歩いている。
そうして歩いていると、彼の胸ポケットに入れていたスマートフォンから呼び出し音が鳴り、彼は母親かと思い、荷物を姉に預けてスマートフォンを取り出し……そしてしばし、立ち止まった。
「どうしたん?」
そんな、何時もの調子で問い掛ける姉に、彼は生唾を飲んだ後、ゆっくり答える。
「えっと、なんか、ハッキングされたかもしれない」
「マジで。超ウケるんだけど、画面スクショしておくってよ」
軽い調子の姉に対し、彼はいたって冷静に、周りを見回す。
「前もあったんだよねえ、こういう……の」
そして、何かを見つけたかと思うと彼は駆け、路地裏へと逃げ込んだ影を追う。
「ちょっと、待ってよ! どこ行くの!?」
彼女はそう叫び呼び止めようとはしたが、彼は応じず……彼女は、人通りの少ない大通りの中で、ただ立ち尽くすしかなかった。
――――こういう”いたずら”が増えたのは、三年生の卒業式が過ぎてからだ。
最初の時は、さっきと同じ目に遭った時、目の前の中学生がこちらをちらちらと見ていたので怪しいと思い、すれ違いざまにタブレットの画面を覗き込んだら、僕のスマートフォンを遠隔操作していたらしく、SNSアプリを荒らしまわっていた。その時はすぐに彼を捕まえて問い質し、結局彼の保護者や担任の先生までに話を通すこととなった。結局アカウントは、IDからパスワードに至るまですべて変更し、スマートフォンも機種を変更した。しかし、ハッキングへと至った経緯や手法はわからず、その時は和解という形で話を進めてしまった。それが今、こうしてアダとなってかえってきている。そう思うのは、その時と全く同じような画面になっているからだ。
黒い背景に、白い文字で”RS:INSTAll_Now.CHM”と、表示されたスマートフォン。RSとCHMという単語の意味は分からないが、真ん中の部分はインストール中という表示だろうことが想定される。だからこそ、その時も悪意のあるものでないかと思い、行動したのだ。
(けど結局、その時も、自分で調べても何もヒットしなかった――――)
RSもCHMも、何一つそれらしきものは見つからなかった。その後彼は遠い地へ引っ越したらしく、聞き出すこともできないでいた。その後も似たようなことが続き、大抵は挙動不審で、情報端末を持っていたため、特定は簡単だった。
しかし、何一つとして情報は得られず、中には図書館にあるパソコンからハッキングを受けたこともあった。そして、それらを操作していた彼らも、そんなプログラムが起動していたことを知らなかったのだ。
(――――だからこそ、あいつは特殊だ)
今逃げている人物は、こちらが気付いたと同時に逃走を始めた。つまり、意図してプログラムを起動した可能性が高いというわけだ。であれば、そいつに訊けば何かがわかるかもしれない。少なくともその可能性は高いのだ。
そう思いながら、細い路地に置かれた複数の室外機を踏み台にし、目の前を走り抜ける人物を追いかける。背恰好は自分よりも大きいが鈍重で、片膝を引きずっている。
勿論そんな状態で逃げ切れるはずもなく、その人物……体型からするに男は、彼に捕まえられ、壁へ押さえつけられた。
「っ、ようやく捕まえたぞ。まず、なぜ逃げたか話してもらおうか」
そうして半ば、脅すように問い掛けると、――紙袋でも破裂したような、ポップコーンでも弾けたような、軽く乾いた音が響いた。同時に彼は、金槌で数回殴られたような痛みと衝撃を覚え、すぐさま男から離れて、壁にもたれかかり、脇腹を抑えた。
(くそっ、痛ェ……っ。一体、何が。いや、それより、意識が――――)
男は逃走する。しかしそれを彼は追わず、ただ苦痛に歪んだ顔をして、紅い汁のにじむ学生服を押さえ続け、白い息を漏らし、夜のまどろみの中に一緒に沈もうとしている意識を保って、スマートフォンのコマンドを押し続けた。
スマートフォンの画面には、”do_you_Need_SoMe_Help?{{:3}}”と表示されており、彼の親指の裏には"yeS"というだけがコマンドだけが、青く表示されていた。
1
それきりだった。彼はその後、誰かに助けられ、誰かに治された。その後は後遺症も見られず、運がよかったと言えばそれまでではあるが、無事に事が済んだのである。勿論、それを彼の姉も見ていた、聞いていた。つまりは、知らぬはずがないのである。あの日に何があったのか、彼がどうしてこんな目に遭ったのかを。
しかし、それきりなのだ。”彼女の弟”が、まるで”自らの弟”ではなくなったような錯覚に陥るのは。まるで自らの家族ではなくなったような不安を感じるのは。まるで目の前に、自らの知る彼がいないような感覚に苛まれるのは。
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