Snitchman's_Companion.

@Ne-M_ABS

序説:そして誰かがいなくなった。

雪の湖を発つ、白鶺鴒の痕跡。

 大きな変化は、人の心を大きく惑わせる。それは骨折やインフルエンザのようなもので、急に起こり、急に止む。骨折であれば、ギプスで腕を固定し、骨の再形成を補助する。インフルエンザであれば、抗ウイルス剤や抗生物質を投与し、少しでも早く快復へと向かうように工夫する。しかしその被害と損失は消えず、ずっと体に残り続ける。そうして、その人物へ経験と知識を与えるのだ。地震があれば、地震で崩れない家を作るように。台風があれば、台風で飛ばされない家を作るように。

 しかし、緩やかな変化というものは、人の心で反響し、やがて馴染み、心そのものを染めてゆく。それは長年のシミであり、にきびであり、かさぶたであり、さかむけである。些細なことでは有るが、しかしそれは長らく、その人物の生活に影響を与えるものだ。例えば、わき腹あたりに小豆程度のシミがあるとして、それを治療によって取り除くという処置をとる人は少ないだろう。同様に、ちいさな擦り傷でできたかさぶたを、皮膚科医院に行ってまで取り除くという人も少ないだろう。屋根裏の白アリによる侵食に気づかないように。床裏の湿気による腐食に気づかないように。

 もちろんこれらは自分本位の考えであり、常識という言葉を笠に着たような語りをするのもちゃんちゃらおかしな話ではあるのだが、しかしそれを否定できる人も少ないだろう。




 話は変わって、情報の視覚化と価値化が始まったのは、2010年代前半からである。その当時の時点で情報端末の普及率が全世界で95%を超え、その内一年間でインターネットへ一ヶ月以上接続していた端末の数は、実に80%。インターネットという第二の世界、情報の世界という曖昧な物に形が作られ始めたのはこの頃からである。

 2020年代には、すでに既存の技術として確立されていた仮想現実バーチャルリアリティー技術や拡張現実オーグメンテッドリアリティー技術が公共施設での実用段階までに普及しており、その両方を複合した複合現実ミクスドリアリティー技術もまた、急速に成長を始めていた。特に日本ではそれが顕著で、巨大な実験都市とも呼ばれる青天目府青天目市では、巨大なネットワーク型メトロ「Ne-M:ABS」こと「えびす」には、乗換案内や掲示板においても拡張現実技術が用いられており、東京オリンピックに合わせて訪れた外国人観光客にも、非常に良いとの評価を得ている。一部の技術はニューヨーク、モスクワ、ロンドン、ベルリン等、東西の大国や欧州でも運用が始まっており、それぞれ好調な滑り出しを見せている。

 情報の視覚化と価値化という言葉を説明すると、運動エネルギーや位置エネルギーにして例えるとして、目に見ることのできない運動エネルギーを線や点といった形で見えるようにすることであり、現時点での位置エネルギーの量や質を数値として推し量ること、といった表現が最も近しいだろう。

 例えば、平均的な身体機能を持つ成人男性が、コンクリートブロックを軽く素手で殴るとして、その時の運動エネルギーはどれほどの量であり、それがコンクリートブロックに衝突した際に、運動エネルギーはどれほど作用したのか、どれほど損失したのか。また、コンクリートブロックを殴ったことによる拳の痛みや、コンクリートブロックの損害など、こういったことを明確に表示することを、情報の視覚化と価値化という。




 勿論、厳密な定義づけをするのであれば、違うのかもしれない。勿論、ただそれだけの説明で、自分の思想を表現できるわけでもないだろう。しかしそういった解釈をしているのは、ひとえに、これが自分の考えであるからだ。








 埃を被った青白い液晶ディスプレイ。

 彼女は白い息を吐きながら、グローブ越しに埃を払い、ディスプレイの電源をつけ、画面に浮かんだ文字を目で読み上げる。


『Hello,"Snitchman".Please_connect_PDA./こんにちは、"スニッチマン"。情報端末を接続してください。』


 英語と並列された日本語。彼女はその指示に従い、USBポートへ無線端末を挿入し、スマートフォンでアプリを起動した。……数秒程して、スマートフォンの画面がブルーバックし、液晶ディスプレイは煙を出して暗転する。その直後、スマートフォンからは字幕と共に音声が発せられ、自然、彼女はそちらへと目を向けた。


『端末内履歴から主用言語を抽出、言語設定が完了。使用言語を日本語へと完全移行します』


 機械的な音声ガイド。同期して表示される字幕。

 その音声と字幕は、彼女に確認を取ることもなく、ただ淡々と説明を続ける。


『以降の手続きでは操作履歴が送信されます。周囲状況を確認の上、音量及び画面の明るさにご注意ください。録音機や盗聴器など、不審な情報端末が感知された場合、システムを強制的にシャットダウンします。確認ができた場合は、電源ボタンを5秒間押し続け、表示された案内に従い端末を再起動してください』


 周囲を見回し、彼女は外を確認する。

 ……今いる掘っ立て小屋の周りには、一つ二つ農具があるくらいで、それすらも腰ほどはあるススキに覆われ、そもそも外は台風のような吹雪で、一歩先すら見えていない。その場に唯一あった液晶ディスプレイもすでに壊れたらしく、今手元を照らしているのは、再起動中のスマートフォンと、消えかけの発炎筒だけだった。


『再起動が完了しました。DIHサーバーよりデータをダウンロード。更新プログラムのインストールを保留、PNSの有効化を行います。よろしければ、電源ボタンを二回押してください』


 そのような指示を受けた時、彼女は何か、ややためらいがちに、しかし勇んだように、電源ボタンを二回押し、指示を待ち……そうして画面に映された文字を見て、彼女はリュックにあった発煙筒を取り出し点火し、やや吹雪の収まり始めた外へ転がす。

 そうして瞼を閉じ、彼女はまるで眠るようにその場へ臥したのだった。


『_>PROJECT:NINTH_SCAM+ER.START_UP』

『ようこそ、砂城結城。貴方の入隊を、歓迎いたしします。』








 囲まれた状況。手元にある武器はテイザーガンが一発分と警棒が一本。

 後ろには1メートル程の位置に一人。金属バットを構えて、こちらの動きをうかがっている。前方には手前に一人と奥に二人。奥の方の片方は武装をしておらず、ひざを負傷し動きはないが、残りの二人は臨戦態勢であり、折りたたみナイフを所持。また、既に意識を失っている学生が、壁にもたれかかってぐったりとしている。

 それでもなお、客観的に見ても不利な状況。まず間違いなく、表面上であれば戦力差がありすぎるこの状況。


 それでもなお、凛とした童顔を持つ少女は、顔色一つ変えず――――


 ――――白い息を、まっすぐな線のように、ふっと吐き、後を曳く。


 それを肩で断ち切り、地面を蹴り、前へ跳ぶ。


 ウェストポーチから出ていた警棒のストラップを手首へ通し引き抜く。


 慌てて繰り出されたであろうこぶし。それを、身体を捻り腰を落とし避け、その勢いで軽く膝裏を狩る。


 バランスの崩れた上半身を狙い、顎と眉間を打ち据える。警棒を一度空中へ放して逆手へと持ち替え、男が倒れたところで喉を穿つ。


 一人目の始末が終わると同時にホルスターからテイザーガンを抜き、後ろにいたもう一人へ腰だめで発射。


 電流が流れ、慣性に任せて崩れ落ちる体を見送った直後、その間に迫っていたもう一人に、転がっていた金属バットを投げ飛ばし、腹部に命中させる。


 そうして、再び転がり落ちた金属バットを拾い上げて、腹を押さえて悶絶する男の脛を思い切り打つ。


 骨が折れる音が響き、男は泡を吹いていたが、それを気にせず彼女は金属バットを軽く放り捨てる。


 そうして彼女は、真正面へ向き直ってゆっくりと進み、茫然とした表情を浮かべて腰を抜かす男の顎に、警棒を軽く振り抜いた。







 小雪の降る街。先日の大雪に比べれば小さくはあったが、それでもなお寒さは肌を刺し、息を白く染めている。彼女にとって冬と雪は馴染み深い季節と気候ではあったが、それでも変わりなく、寒いものは寒く、スマートフォンを持っている左手が冷えたためか、コートのポケットで温めていた右手に持ち替えて通話を続ける。


「いや、また冷えてきましたよ。南の方ですから、昼はまあまあ暖かいですが…………はい、大丈夫ですよ、お腹の調子も悪くないし。……まあ、いくら二月とはいえ、夜にもなるとまだ寒いですから、少ししもやけになりそうなくらいで……あはは、心配性ですね本当に。そんなに心配しなくても大丈夫ですってば。…………はい、気を付けます。先輩も気を付けてくださいね。そっちだとインフルエンザが流行ってるらしいですし…………はい、おやすみなさい。私もなるべく、早めに帰って……あれ、もしもし。もしもし?」

(……相変わらず、電話切るの早いなあ。これじゃ彼女さんとの付き合いが続くわけもないよ)


 そう、心の中でそうぼやき、久路ヒサミチ鴒子リョウコはちらりと空を仰いで、すぐにマフラーに顔を少し沈めた。


「…………うー、寒い寒い……」


 そうして、彼女は夜の街をすり抜けて行く。

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